スサノオ立志伝 ――少年期3・エビス――

明日乃たまご

第1話

 スサノオの対馬への旅は順調だった。ただ、日焼けに苦しんだ。上陸すると水夫のツクリに連れられて森の中の池で塩を洗い流して肌を癒した。


 スサノオが身体を冷やして戻ると、船乗りたちは鰐浦わにうらの浜辺でたき火を囲み、ここまでの旅の無事を祝う宴会の準備をしていた。


 対馬を訪れる旅人は多いが、島ゆえに孤立する危機感は定着していて、旅人に対するもてなしは並でない。宴会には村の女性たちが加わった。彼女らは酒や食べ物を振る舞い、船乗りたちに媚びた。


 彼女たちが媚びるのは、大陸の珍しい土産をねだるためだけではない。村内では近親結婚が繰り返されて血が濃くなっている。それによる健康被害を防ぐために旅人の子種を得ようというのだ。そうした行動は本能的な行動で、日本には旅人を荒脛巾アラハバキ神として祀る土地もある。脛巾ハバキは、旅や戦いのおりにすねを守るために付けたわらや布で作った防具だ。それが旅を象徴し、遠くからやってくる人物をおきゃく(お客)と呼ぶようになるのは後年のこと……。


 子供のスサノオには何もわからない。大人たちがすることを横目で眺めながら、焼いた魚や貝の美味さに夢中になった。


「海の女神は女を嫌うはず。あの女たちはどこから来たと思う?」


 ナギが村の女性を指してマウラに訊いた。


「昔から住んでいたのだろう」


「海からでもわいたのか?」


「まさか」


「どこから来たにしても、海の女神は女を殺さなかったということだ」


「ほう。そういうことになるか……」


 マウラは、しばらく考えてから、「なるほど、愉快だ」と大きな声で笑った。


 おおらかな笑い声に吸い寄せられるように、マウラの隣に村の女性が座る。


「大きな男だねぇ。頼もしい。今晩、私に精をくださいな」


 女性は悪気なく、思うことを口にした。


「女を抱くと、海の女神に祟られる」


 マウラは女性を傷つけないように、冗談めかして断った。


「出港前に海で禊をすれば大丈夫ですよ」


 女性がマウラにしなだれかかり、胸の硬い筋肉に手を添える。


「お前には夫もいるのだろう」


 その返事で、マウラには女性を抱く気がないと、誰にもわかった。いや、スサノオにはわからなかった。


「もう。ケチくさいねぇ」


 彼女は立ちあがるとナギとナミの間に割って入る。変な人だ。スサノオは思った。


「あなたは船乗りではなさそうね」


 ナギの肩に両手を置いて、品定めでもするように見つめた。


「私は鍛冶屋だ」


「カジヤ? なんでもいいけど、長旅でしょ。ここいらで精を吐き出して行きなさいな」


 鍛冶屋を知らない女性はナギのごつごつした手を取り、自分の胸に押し当てる。


 アッ!……スサノオは、ツクリの胸の柔らかさを思い出した。森の中の池で身体を洗うときに触れたのだ。


「お前にも夫がいるのだろう?」


 ナギがマウラと同じことを言って、女性から逃げようとした。


「夫は漁師だったけれど、昨年、嵐で帰らぬ人になったのよ」


 彼女はシクシクと泣き真似をして見せ、ナギを困らせる。


「すまぬが、ほれ、あんたの隣にいる女が私の妻なのだ。子供もいる」


「妻?」


 彼女はナミの方に向き直った。子供たちはその隣にいて、ご馳走を手にして空に天狗を探している。スサノオも慌てて星に目をやった。


「この国では、男は何人でも妻をもてる。夫が別の妻と寝ても、嫉妬しないわよね?」


 彼女の言葉を理解できなかったナミが夫に眼を向けて助けを求めた。しかし、ナギはマウラに倭国の状況を真剣に尋ねているところだった。


「もう一度、話して、もらえますか?」


 ナミがたどたどしく頼む。


「あなた、言葉がわからないのね?」


「ええ。学んで、いる……、ところです」


 村の女性はうなずくと、ゆっくりと話しはじめる。


「私の名前は、タラシ。オキノ・タラシ、わかる?」


「ええ。あなたの名前は、オキノ・タラシ。私は、ナミ。イザ村のナミ」


「そう。イザのナミというのね。今晩、あなたの夫を借りたいの。いいかしら?」


 父さんを借りる?……スサノオは首をひねった。


 タラシに頼まれたナミが決めかねてナギに目をやる。ナギはマウラと楽しそうに語らっていた。


「いいわ」


 ナミが、タラシに向かって大きくうなずいた。


 宴会が終わると人々は、思い思いの場所に散る。村の住居に帰る者もいれば、船に戻る者もいた。そのまま砂浜で寝る者も多い。


 ナギは、ナミの許しを得たと言うタラシに、半ば強引に腕を引かれてタラシの家に行った。


 ツクリも自分が生まれた家に帰った。


 スサノオは、ナミと2人の姉と焚火の火を見守りながら浜に残った。


「父さんはどこにいったの?」


 姉のエビスが訊いたが、ナミは「朝になったら帰って来るわよ」と答えるだけだった。


 季節は夏で、たき火で暖を取る必要はなかったが、それを消して暗闇に包まれるのは怖かった。焚火の煙は毒虫を遠ざける効果もある。パチパチと静かな音を立てて燃える赤い火は、心のうちにまで染み入るものだ。


 スサノオは母親の手を握り、あっという間に眠りに落ちた。


§


 ナミは、夫を貸して良かったのだろうか、と自問しながら子供たちが眠りにつくのを見守った。


 最後に寝たのは次女のツクヨミだった。


「良い夢を見るのよ」


 寝息を立てる子供たちにささやいて目を上げると、焚火の向こう側にトリイの顔があった。


 船に乗ってからのトリイは話すことなく、泣くことなく、走ることもなかった。ゆっくりと動き、虚ろな眼を細めて、常にぼんやりとしていた。


 そんなトリイの顔が炎の向こう側にあると、悪霊に見つめられているような気がして震えが走った。


 ナミは、自分たちはとんでもない場所に向かっているのではないかと思った。スサ村が戦いの渦に巻き込まれるのは時代の流れだから仕方がないことだと理解していたが、自分が迂闊うかつにも梅林で漢の兵士に犯されたために、夫の判断を誤らせたのではないか、と思うのだ。その夫を今は見知らぬ女性に預けたのは、そのことに対する罪悪感か、自己嫌悪か……。


「どんどん、悪い方向に向かっている……」


 ナミはつぶやいた。


「心細いか?」


 ナミの心を見透かすようなマウラの声がした。


 声の方に目をやると、地べたで横になり肘枕をしているマウラと視線があう。


「ええ。少し」


 ナミは、目を伏せた。


「それならワシに抱かれるか? 一時は寂しさも忘れることが出来るぞ」


 紅い火が映るマウラの瞳は、メスを求める野獣のようにみえた。


 ナミの身がすくむ。


「冗談だ」


 マウラが声を上げて笑った。


「異国に行くのだ。心細いのは当然だろう。しかし、何だ……。倭国は田舎で貧しいが、人心の穏やかなところだ。荒くれ者もいるにはいるが、漢ほどじゃない。気楽に構えるといい」


 マウラに教えられても、ナミの不安は消えなかった。とはいえ、数日に及ぶ船酔いで体力が落ちていた。睡魔に誘われほどなく眠りに落ちた。


§


 翌朝、船乗りも客たちも、それぞれの船に集まった。スサノオは先頭を争って天磐船に乗り、ワクワクしながら出港を待った。


「昨夜、女を抱いたものは全裸になれ。海の水に頭まで入ってみそぎせよ」


 船頭のハバラの命令で、数名の男たちが海に潜った。両手を合わせて頭まで水に潜り、海の神に穢れたことを謝罪して旅の安全を祈願するのだ。


 タラシと一夜を共にしたナギも海に入った。使用人のミカヅチの姿もある。


 スサノオと姉たちは、船の上から彼らの儀式を見守った。


「おはようございます」


 ナギ達が船に乗ると、ナミと子供たちは礼儀正しく迎えた。ただ、ナミの表情は硬い。


 鰐浦を出た天磐船は、島を右手に見ながら南下し、その夜は国の中心でもある豊玉浦とよたまうらで過ごした。


 豊玉浦では儀式を行う。朝、海に向かって酒と魚を捧げて海の女神に航海の安全を祈願した。そこには見知らぬ船乗りたちも並んでいた。


「ワシは天泡船あまのあわふねの船頭でシオツノフツという。航海の途中で帆柱が折れて修理をしていたのだ。明日から、同道させてもらう」


 シオツノフツは船団に加わる礼だと言って、鉄剣をハバラに渡した。


 船上でハバラとシオツノフツとのやり取りを見ていたツクリが顔をしかめた。


「ツクリ、面白くない事でもあるのか?」


 スサノオは、まるで友達に口をきくようだった。


「ああ。天泡船あまのあわふねはミナカタという王の船だ。ワシの一族とは商売敵のようなものだ。噂では海賊まがいのあくどいことをやっていると聞く」


「ツクリ、気にするな。同じ海の民ではないか」


 マウラがやってきてツクリの背中を力いっぱいに叩いて笑った。


 3艘に増えた船団は海岸沿いを南下し、次の停泊地、巌原浦いづはらうらに入る。そこで食料などを積み込み、渡海の準備をおこなった。


 出港の朝、いつものように前の晩に女を抱いた男たちが禊をする。そんな大人たちをスサノオは声を上げてからかった。その時にはスサノオも、彼らが何をしてきたのか理解していた。


「嫌な予感がする……」


 そうハバラに声をかけたのは、旅の途中は口をきかないはずのトリイだった。


「一体、どうした?」


「よくはわからない。ただの予感だ。背筋がぞくぞくする」


 トリイの只ならない様子に驚いたハバラは、シオツノフツらを呼んで相談を持った。


「出港を見合わせてはどうか? トリイは信頼のおける持衰じさいなのだ。彼が危ぶむ以上、出港を見合わせるべきだ」


 ハバラは2人の船頭に進言した。それをシオツノフツが笑った。


「信頼がおけるとは笑わせる。口をきいてしまった持衰など、信用が置けるはずなかろう。われの荷は、タケミナカタ様に届けるもの。これ以上、遅れてはまずいのだ」


「しかし……」ハバラはマウラを呼んで相談した。急ぐ船頭たちを先にやって、1人残ってはどうか、と。


「難しいところだな……」


 マウラが言うのをスサノオは隣で聞いていた。彼といると、何かと楽しい。


「……単独で海を渡るのが危険なことだということぐらい、ハバラもわかっているだろう。この辺りには海賊も多い。嵐に巻き込まれることもあるだろう。万が一にも船が沈んだ場合のことを考えれば、仲間の船が近くにいるのはとても心強いことだ」


「マウラがそう言うのでは仕方がない」


 ハバラは船を出す決心をした。


 巌原浦を出港した3艘の船は穏やかな海を南に向かって進む。その60キロほど先に一岐国いきこくがある。


 波は穏やかだが、潮の流れは急だった。力がなければ、船は北へ流される。風がないので、船は漕ぎ手の力だけが頼りだった。そのスピードたるや亀の歩み……。


「気持ちが悪い……」


 船が沖に出て半日が過ぎた頃、ツクリが厚い雲が垂れ込めた空を見上げた。


「ツクリもそう思うか。ワシもなんだか身体が軽く、力が入らない」


 舵を握るマウラが応じた。


「嵐が来るな……」


「わかっていても、ここまで来ては前に行こうが対馬に戻ろうが、条件は同じだ」


「やはり、進むのだろうな……」


「それしかあるまい」


 2人はハバラの顔を見てから、後ろを追ってくる2艘の船を確認した。


「あいつらは乗り切れるか?」


「他人の心配をしている場合か」


 マウラが手の空いている水夫を集め、嵐に備えて荷物をしっかり固定するように指示した。


「嵐が来るのか?」


 スサノオは海の嵐がどんなものか知らない。イザ村を襲った大風を想像するだけだ。


「海に投げ出されないように、縄で腰を船に縛り付けておけ」


 ツクリがナギの家族と使用人分の縄を渡した。


「これが命綱というのだな」


 子供ながらに、スサノオは縄の重要性を理解していた。


「それにしても、なんと心細い綱だ」


 スサノオはそれを持って、家族と使用人たちに配り歩く。


「こんなもので大丈夫なの?」


 エビスとツクヨミは不安げな顔をスサノオに向けた。


「姉さんは海の神様なんだ。大丈夫さ」


 エビスという名は仁川の船頭が海の神の名だと言ってつけてくれたものなのだ。


 スサノオがにっこり笑うと、姉たちの気持が安らいだ。

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