第閑話 夜明けの水路 そしてはじまり続く日々

 暁闇。


 夜明けにはまだ今しばらくの時を要する。

 月も沈み、天に星はあれどあたりは深く静かな暗闇に包まれている時間。

 世界で最も明るい夜を誇る王都グレンカイナも眠りにつき、夜半までは昼の如く街を照らし出していた燈火や魔法の光も今は落ちている。


 水路に湛えられた水は薙ぎ、まるで乾留液タールのように黒々として見える。

 よく見るとわずかなうねりがあるのが、何か巨大な生物の一部のように思えなくもない。

 王都グレンカイナを生物とするならば、水路はその血管とも言えるのであながちはずれた感想でもないかもしれない。


 人影はない。

 野良の小動物たちの気配もない。


 夏待ち月の虫達もその声を潜め、外壁の向こう側からの遠吠えなども聞こえない。

 僅かな雑踏の気配が逆に強く静かさを感じさせる、昼の穏やかな静寂しじまとは違う深閑。


 ――真なる闇と無音。


 見慣れた街角の輪郭であるはずなのに、それらが黒い影で塗りつぶされたシルエットは、そこがまるで違う街であるかのように錯覚させる。

 観測するべき人が居ないがゆえに、本当にこの時間の街や水路は、住みなれた人々の知るとは違う世界になっているのかもしれない。


 人も、動物も、虫も。

 魔物でさえ寝静まっているはずの暁闇刻。


 なのに人影がひとつ。


 酔っ払いや不審者のような頼りない、あるいは不審な足取りではない。

 時間帯を慮ってか足音をさせない静かな歩の運びではあるが、しっかりと意志を感じさせるものである。


 暗闇ゆえにはっきりとは見えないが、女性のシルエット。


 闇を見通せる目を持つものから見れば、 若く艶めかしい褐色の肌、手脚の長い細身の体、艶のある白金色プラチナブロンドのストレートの髪、蒼く澄んだ瞳が確認できるはずだ。

 なによりもその顔が、男であれば誰でも思わず生唾を飲み込んでしまうくらいに艶っぽく美しいことに目を奪われるだろうが。


 その人影はウルヴァ嬢――『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の新人、ルクシュナの源氏名――だ。


 支配人マネージャーの『ユニーク魔法』によって、ウルヴァ嬢の魅力が最大限に引き出された上で維持されているといっても、その身に纏う色香は数ヶ月前とは比べ物にならない。

 まだウルヴァ嬢が『踊り子』――ルクシュナ嬢であった頃を知るものにとっては、よく似た別人かと思うくらいに一目見た印象も、身に纏う空気もまるで変わってしまっている。


 整ってはいるが可愛さも漂わせていた顔は美しさと陰りを伴った妖艶さを際立たせ、瑞々しいが健康的な印象が強かった踊り子として鍛えられた体はほんのわずかに緩み、その代わりにむせ返るような色香を放っている。


 ――女の子踊り子だったルクシュナ嬢の体は、今はもうウルヴァ嬢として娼婦のカタチになっている。


 ウルヴァ嬢の『初魅せ』はつつがなく終わり、今はもう高級娼館『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の人気嬢の一人として、毎夜その体を売っているのだ。


 一月ほど前に新人としては大掛かりに売り出され、『初魅せ』でオルリィン侯爵家の嫡男カインを御贔屓筋にしてしまったことで、色艶を売る業界で『ウルヴァ嬢』はちょっとした有名人となっている。


胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』のお客様スケベヤロー共たちにとっては、王都グレンカイナにおいて五大酒場と称される中でも最大の酒場『黄金の豊饒アルム・フェルティリタテム』の元看板踊り子としてのほうが通りがいいだろう。


 ――『黄金の豊饒アルム・フェルティリタテム』の看板踊り子が『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の嬢になった。


 その噂は『初魅せ』で大貴族を御贔屓にしてしまったことと合わせて『夜街』を駆け巡り、金に不自由していない、いわゆるお客様たちの興味を引くには充分なものだった。


 いかに『初魅せ』で大貴族様を御贔屓筋にしたとはいえ、他のお客様をまったく取らないというわけにも行かない。

 大貴族を御贔屓筋にしたとはいっても、ウルヴァ嬢が新人であることも間違いない。


 値付けこそ『花弁持ち』クラスのものがされているとはいえ、毎夜『魅せ席』に座ってお客様を取らねばならないのは、娼婦であれば当たり前のことだ。


 有名酒場の看板踊り子から、高級娼館の娼婦となってからほぼ一ヶ月が経過している。


 ウルヴァ嬢は『大陸の性都』と呼ばれる王都グレンカイナにおけるトップ娼館『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の新人嬢としては、これ以上ないくらい順調な滑り出しをしているといえる。


 大貴族をご贔屓様筆頭とし、その事実とそれに基づく強気な値付けによって、ウルヴァ嬢を指名する客筋はかなり上等なものといっても大げさではない。


 高級娼館である『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』においても、すでに中堅どころの嬢たちの御贔屓筋となんら遜色なくなっている。

『娼婦』としては駆け出しにも関わらず、すでに一夜売りが当然となっているし、予約も入りだして、僅かひと月で『魅せ席』に付くことも少なくなってきているほどなのだ。

 

 だが『娼婦』として最高の滑り出しが、一人の『女の子』にとって幸せなことかどうかはまた別の話だ。

 

 ――それでも。


 何よりも優先するべき『大切なモノ』を持つルクシュナ嬢にとっては、幸せとはとても言えなくとも、己の望んだとおりの状況であることは間違いない。


 こうなれるようにしてくれた支配人マネージャーや、『娼婦』としてのすべてを仕込んでくれた先輩である高級娼婦クルティザンヌ、ルナマリア、リスティア、ローラの三人には本当に感謝している。


 だからこそ、正気を保っていられるのかもしれない。


 新品サラだった女の子が、たった一ヶ月の間に二桁にのぼる男にその身を自由にされるという事実は、普通の感覚では理解できるものではない。


 だが泣いて放り出して、止めるわけにはいかない。

 そんなつもりもない。


 ルクシュナ嬢は自分がどうなろうと、絶対に譲れないものがあるからこそ娼婦に――ウルヴァ嬢になることを選んだのだ。


 ――それに今止めたとしても、


 そんな思いも確かにありはする。


 ウルヴァ嬢は確かに、自分の一番『大切なモノ』を失わない代わりに、取り返しのつかない色々なものを失い、諦めたのだ。


黄金の豊饒アルム・フェルティリタテム』の看板踊り子『ルクシュナ嬢』。

 その名前も失ったものの一つだろう。


 その想いがこんな時間に、こんな場所へ一人で来ることをさせているものか。


 ウルヴァ嬢が静かな、だがしっかりとした足取りで辿り着いたのは王都グレンカイナの中心を流れる大水路、その脇の広大な曳舟路トウパスだ。


 まだ夜は明けない。

 暗い闇の中、いまだ明仄あけほのにはいましばらくの刻を要する。


 そこでウルヴァ嬢は瞳を伏せ、身動みじろぎもせずに黙って立っている。


 これ以上前には進めない。

 進めば水路に落ちることになるからだ。


 だが引き返すこともしない。


 馬や牛、驢馬ロバが船を引くための曳舟路トウパスであるからには柵などは当然存在しない。

 時に酔っ払いが深夜に曳舟路トウパスから水路に落ちて、翌朝浮いて発見されることなどそう珍しいことでもない。


 ウルヴァ嬢の事情を知るものであれば、あるいは身を投げるのではないかと危惧しても仕方のない状況であるかもしれない。


 だがこの時間に人の気配はなく、水路ぎりぎりに立つウルヴァ嬢を心配して声をかける者は誰もいない。


 どれくらいそうやって静かに立っていたものか。


 東の空がわずかに茜色に染まる。

 

  ――夜明けが始まる。

 

 それと同時にウルヴァ嬢は、その身に刻み込まれた『舞』を始めた。

 ゆっくりと、だが確実に自分がこれまでの人生で最も真剣に打ち込んできた『舞』を、一から確かめるように身体を躍らせる。


 緩やかな動きから華やかな、大きな動きに変わるタイミングで東の空に陽が射し始める。

 

 だが巨大な外壁に覆われた王都グレンカイナにはまだ日の光は届かない。

 ただしそれは王都グレンカイナが普通の街であればの話だ。


 日が昇ると同時に東側の外壁上に巨大な魔法による大鏡が複数発生し、あたかも太陽がいくつもあるかのように昇り始めた日の光を城壁の内部へと反射して届かせる。

 軍事大国グレン、その王都グレンカイナのもつ『夜の貌』とはまた違った、難攻不落の要塞としての貌。

 軍事大国の首都たるグレンカイナにおいて、すべてのものは『戦うため』の意味を持っている。

 それは城壁も水路も街路も変わらない。


 だがそれらの力の一端は、平時には王都民たちの暮らしをより良くするために利用されている。


 その光をまるでスポットライトのように浴びて舞うウルヴァ嬢は、『踊り子』であるとか『娼婦』であるとかは一切合切関係なく、一人の女として美しい。


 東雲から完全に陽が昇りきるまで続く長い踊りで、そのしなやかな体には汗が浮き、激しい舞の動きに合わせて陽の光を反射して水晶の欠片の如く散る。


 真剣な表情で、ちょっとやそっとの体力では持たないであろう長い舞を終え、ウルヴァ嬢は膝を付き、その場に跪く。


 まるで踊り子が舞台ステージで『舞』を終えたときのように。


「…………」


 流れるのは汗か、あるいは涙か。

 昇りきった日の光を反射する濡れた顔にどこかすっきりした表情を浮かべる。

 誰かの名を口にしたようだが、それが聞こたのは発したウルヴァ嬢の耳にだけだろう。


 相変わらず大水路と曳舟路トウパスの周りに人影はないが、完全に夜は明け、夏待ち月の強い陽光の中で王都グレンカイナの一日が始まろうとしている。


 いや、ウルヴァ嬢以外の人影が二つ在る。


 いつからそこにいたものか、曳舟路トウパスに繋がる脇道から、先の『舞』を賞賛する拍手をゆっくりとしながら、ウルヴァ嬢が所属する『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』、その支配人マネージャーが現れる。

 

 背後についてきているのは、つい最近『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』にやってきた支配人マネージャーの弟娣子といわれている、リンだ。


「朝からちょっと、他所よそでは見られねえものを拝ませてもらったよ」


 ややバツの悪そうな表情で、支配人マネージャーがウルヴァ嬢のほうへとゆっくり歩を進める。

 その兄弟子の表情の理由がわからず、不思議そうに見上げながら、それでも何も言わずにリンがついていく。


 当然のことだが、ウルヴァ嬢にリンの正体――魔獣である『銀狼』――の姿は見えてはいない。

 小さな美しい少女が、支配人マネージャーにくっついて歩いているようにしか見えていない。


支配人マネージャー!?」


 予想外の人物が己の『舞』を見物していた事実に、驚きの表情を浮かべるウルヴァ嬢。

 別に気配を読む術に長けているわけではない。

 この時間のことでもあり、だれもいないと思っていたのだろうから当たり前の反応といえるだろう。 


「あー、その、なんだ。……泣くのかと思ったよ」


 バツの悪そうな表情をしたまま、支配人マネージャーがいまここにいる理由を述べる。

 暁闇刻に『胡蝶の夢』を出るウルヴァ嬢を見かけて、心配して付いてきたということだ。

 

「御心配をかけてしまいましたか?」


 それをすぐに理解して、ウルヴァ嬢は飛びっきりの笑顔を浮かべる。

 あんな時間にこの場所へ来たのは、支配人マネージャーが心配するような理由ではなかったことを端的に示す、晴れやかな表情である。


 だがたったひと月とはいえ、ウルヴァ嬢はもう『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の一員である。

 すべてが闇のヴェールに覆い隠された中で、本当はどんな表情をしていたのかは支配人マネージャーにもわかりはしない。

 女の子であればまだしも、女の素顔は男にはわからないものなのだ。


「まあ、な。……あんな時間に一人で抜け出されるとさすがにな」


 一部の存在だけが知る、最近支配人マネージャーの日課となっているリンの早朝散歩。

 それに出かける途中でここへ向かうウルヴァ嬢を偶然見つけ、心配してついてきたのだと説明する。


 ――嘘である。


 まだ『花弁付き』ではないが、すでに人気嬢の一人となっているウルヴァ嬢は『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の建物の中に部屋を与えられている。

 基本的には『「二枚花弁ドゥオ・フォリュムフロリス」』以上が『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の建物内に部屋を与えられる条件となっているが、それは嬢の店への貢献度として、『二枚花弁』で区切っているというだけに過ぎない。

 そのレベル、あるいはそれ以上に稼ぐ嬢であれば『花弁付き』となる前であっても問題なく部屋は与えられる。

 わりとわかりやすく実力主義な『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』なのである。娼館であるからには当たり前なのだが。


 その与えられた部屋から嬢があんな時間に出てゆくとなれば、その情報はすぐさま支配人マネージャーの元に届けられる。


 トラブル続きの状況だととてもそうは思えないが、『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の店員スタッフ達は基本的に優秀であり、所有者オーナーが一切骨惜しみせずに築き上げた建物は下手をすればこの国の王宮よりも多彩な機能を備えているのだ。


 当然、ウルヴァ嬢は知らぬことではあるのだが。


 けっこう支配人マネージャーとしては、本気で心配してついてきたのである。


 支配人マネージャーはリンの散歩のていを取って誤魔化しているつもりではある。

 だが、弟娣子殿の正体が魔獣であることを知らないウルヴァ嬢にしてみれば、美少女をともなってこんな時間に散歩している支配人マネージャーはさぞ奇異に映ることだろうが、本人はそんなことには気づけていない。


 そういう事を失念するほどには、慌てるにたる事態だったのだろう。


 ただウルヴァ嬢は支配人マネージャーの表情と態度から、自分を本当に心配してくれていたのだということを理解して、優しく微笑む。


「いっぱい泣きましたよ? きっとまた泣く日もあると思います。その時は甘えさせてもらっていいですか?」


 百戦錬磨とはまだいかないが、高級娼館の娼婦としてきちんと女の魅力を使って見せる。

 悪戯っぽく笑って、支配人マネージャーに甘えてもいいかと確認するウルヴァ嬢は一人前のだ。


「お? おう……」


 そうなると太刀打ちできないのも、支配人マネージャーのいつものことだといえる。

 あっさりと言質を取られて、あとで誰かにお叱りを受けるのもまたいつものことか。


「でも、ただ泣いていてもなんにもならないじゃないですか。だから『踊り子』の自分も忘れたくなくて、ここで練習をしようかなって思って。……いけませんでしたか?」


 そう言って、微笑わらう。


「んなこたねえよ。……いや、あぶねえから練習場所はちょっと考えるか」


 ウルヴァ嬢の言葉と、その表情を少し眩しそうに見ながら支配人マネージャーが答える。

 

「ここじゃ、ダメなんですか?」


 不思議そうにウルヴァ嬢が小首をかしげると、長く結われたストレートの白金色プラチナブロンドが朝の光を反射しながら揺れる。

 

胡蝶の夢うち店員スタッフの仕事が増えるからな。の要らない場所を探すよ」


「私に、護衛?」


 どうやらピンと来ないようだ。


 娼婦であること、自分はそうやって願いを叶えることを受け入れてはいても、自分が『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の人気嬢であることの意味がまだよくわかっていないのだ。


「まだ『花弁なし』とはいえウルヴァ嬢はもう胡蝶の夢うちの人気嬢の一人だからな。自覚持ってくれ自覚。胡蝶の夢うちのお客様はまあ心配ないだろうが、王都の治安はいいといっても馬鹿はいる。まあ大丈夫だろ、で取り返しのつかねえことになるのは勘弁願いたい」


 その意味を支配人マネージャーがウルヴァ嬢へと正しく伝える。

 その辺りは支配人マネージャーとしても譲れぬ部分ではあるのだ。


 支配人マネージャーのその言葉に、ウルヴァ嬢は少しだけ寂しげに笑う。

 言葉はない。


「……そんな顔をしてくれるな」


 苦笑い、というには少々苦味が強すぎる表情で支配人マネージャーも笑う。


 ウルヴァ嬢が支配人マネージャーの言う『危険』を理解したうえで、、と思ってしまったことを理解している。

 

「ごめんなさい!」

 

 はっとしたウルヴァ嬢が、思わず赤面しながら勢いよく謝る。


 支配人マネージャーが『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の嬢たちをものすごく大事にしてくれていることを、もう働き出したウルヴァ嬢はよく理解している。


「娼婦であるからにゃあしょうがねえ」などといいつつ、自分たちを蔑んだり馬鹿にしたりする人たちにはわりと容赦のないこともよく知っている。


 その支配人マネージャーなりに大事にされている自分たちが、『娼婦』である自分自身を蔑んだり、憐れんだりすることに一番無力感を感じてしまうのだということも。

   

「いや、あやまることじゃねえよ」


 辛かろうがなんだろうが、自分で望んでウルヴァ嬢は今の立ち位置に立っている。

 何を犠牲にしてでも一番大事なものを優先したのは自分だし、それを叶え、支えてくれているのは今目の前で寂しそうな表情をしている支配人マネージャーだ。


 ――支配人この人には、私の本当の気持ちはわからない。


 当たり前のことをウルヴァ嬢は思う。


 男だからとか女だからではない。

 己の体を売るということは、それをしたことがある者でなければわからない。


 ――だけどこの人は全力で私たちの味方でいてくれる。


 体を売るのはつらい。

 たまに叫びたくなったり、泣いたりすることを止めることもできない。


 だけどそれを理由に、真摯に自分たちに接してくれる支配人マネージャーにさっきみたいな表情をさせるのは嫌だな、とウルヴァ嬢は素直に思った。


 ――女の沽券に関わります。


 選択の余地はなく、どうしようもなく娼婦としての人生の幕は切って落とされ、もう取り返しはつかない。

 お日様の下で生きる人たちには眉を顰められ、決して褒められる立場ではなくなってしまった。

 もう二度とそうなる前の、普通の女の子としての生活を取り戻すことはできない。


 毎朝ここで舞ってはみても、夜の帳が下りればお客様を取らねばならないし、支配人マネージャーの『ユニーク魔法』をその度にかけてもらったとしても、己がと思うことを止められはしない。


 かけてもらう女性の立場から言えば奇跡のような支配人マネージャーの『ユニーク魔法』は、あるいはウルヴァ嬢の体は一月前とほとんど何も変わらず、健康で清潔に保ってくれているのかもしれない。


 だがお客様に抱かれるたびに心に積もっていくモノだけはどうしようもない。

 に自分がどんな声を出し、どんな反応をしたのかの記憶は、消えることはなくただただ積み重なってゆく。


 自分が誰かと恋に落ちるなんて、とても考えられない。


 ――だからどうだっていうんだろう。


 つらくないフリをする必要はないと思う。

 言質も取ったことだし、どうしようもなくなったときは支配人マネージャーにぶつけさせてもらえばいい。


 だけどつらいつらいと泣いていてもなにも始まらないと思ったからこそ、自分はいまここへ来て舞ったのではなかったのか。

 

 自分の味方、仲間に対してまでも『つらい自分』を振りかざすのはなんだか情けなく思った。

 だからさっき、思わず赤面したのだ。


「大丈夫です支配人マネージャー! 今は笑えます! 舞ったりもできます!」


 どういったらいいかわからないので、慌ててなんだか意味のわからない言葉になってしまった。

 それで一段と頬の熱が高くなる。

 あわあわと、どうしていいかわからなくなりそうになって――


「――そうか」


 少し安心したように笑う支配人マネージャーの顔を見て、なんだか別の意味で頬が熱くなりそうになってしまう。


 ――な、なんで私が支配人マネージャーに寂しそうな顔をさせたくなくなってるんですか?!


 本来の役どころであれば自分が慰めてもらって、支配人マネージャーの腕の中で涙を零す状況であってもいいところだ。

 それが支配人マネージャーの安心したような表情を見てほっとするなんて、役どころが違いますと抗議したくなる。


 だが自分の心に嘘はつけない。

 そう思ってしまったものはしょうがないのだ。

 我ながら、女はけっこう強いものなのだと感心してしまう。


「リン」


「はい」


 支配人マネージャーが、静かに脇に控える弟娣子に声をかける。

 弟娣子殿は即答だ。


「朝の散歩コース変更な」


「はいっ!」


 なぜか嬉しそうに、その美しく静かな表情には似つかわしくなく元気に返事する弟娣子が、ちょっと面白いと思うウルヴァ嬢。


 綺麗な髪なのに一本だけピンと立った毛がぶんぶん揺れているのはどういった仕組みなのだろう。


 まるで犬が尻尾を振っているみたい、と思わず笑う。


 どうやら明日からもここで舞っていいということらしいが、支配人マネージャーは毎朝弟娣子をつれてここを散歩コースにするつもりなのだろうか。


 それでは本当に犬の散歩のようだ。

 あれだけの美少女を犬扱いとなれば、さすがにちょっと酷いと思う。


 だけど当の本人であるリンが嬉しそうであれば、それはそれでいいのかもしれない。


「おーはーよー」


「おはようございます、支配人マネージャー


「いい朝じゃな」


 突然、さも当たり前のように、支配人マネージャーが現れた脇道から、ローラ、リスティア、ルナマリアが現れる。


 ウルヴァ嬢にとっては娼婦としての師匠でもある三人は、確かに自分に一通り教えてくれているときに自分たちは常に支配人マネージャーと一緒なのだと言ってはいた。

胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の仲間の嬢たちに、それが冗談ではないことを聞いてもいた。


 だがこんな時間の散歩にも、あたりまえのように付いてくるレベルだとはさすがに思っていなかった。


 多分自分は今、呆れ顔をしているんだろうとウルヴァ嬢は思う。


 だけど『高級娼婦クルティザンヌ』、中でもこの王都でも五人しか存在しない『五枚花弁クインケ・フォリュムフロリス』となりながらも、まるで普通の街娘のように支配人マネージャーに恋しているとびっきりの三人を見ていると、なんだか嬉しくなってしまったのも確かだ。


 ――私は娼婦。だからなんだって言うんですか。


 三人が現れた瞬間からやいのやいのと騒いでいる支配人マネージャーと三人のとびっきりいい女、それを見て尻尾のようにアホ毛を振っている美少女をみて、素直にそう思えた。


 ――泣いたってなにも変わらないなら、笑ってた方がいいですよね。


 そう思ったので、思ったとおりに笑った。


「お、そうじゃ。 私らにウルヴァの『舞』を教えてくれんか?」


「あ、いいですね。支配人マネージャー見蕩れてましたもんね?」


「私の全裸には冷たい視線なのになー。いいなー。覚えたいよね」


「いやお前らな? ウルヴァ嬢にとって舞ってな、もっとこうなんてえか、ほら……」


 思わず笑ったウルヴァ嬢に、ルナマリア、リスティア、ローラの三人がいつもの調子で舞を教えてくれと頼みだす。

 支配人マネージャーの視線を奪えるものであれば身につけたいという、ごく当たり前の女の子らしい理由であることは明白だ。


 弟娣子リンなどはすでに、見様見真似で踊りだしている。

 妙に上手でちょっとびっくりするが、それ以上に可愛らしい。


 一方支配人マネージャーは元『踊り子』であったウルヴァ嬢に遠慮してなのか、なにやら難しいことを考えているようだ。


 ――やっぱり男の人って、こういうところ理屈っぽいですよね。


 そう思うと、自然と笑みが強くなる。


「ただのストレス発散ですよ?」


 悪戯っぽく告げるウルヴァ嬢の言葉に、曰く言いがたい表情を見せる支配人マネージャー

 この人のこういう表情なら、いくらでも見たいとウルヴァ嬢は思った。


 そんな表情を見せた支配人マネージャーを、ルナマリア、リスティア、ローラたちと一緒にからかいながら、ウルヴァ嬢はいつのまにか本当に心から笑っている。

 リンはその脇で舞に夢中だ。


 いつの間にやら夜は完全に明け、水路には夏待ち月の眩しい陽光が乱反射をはじめている。

 まるで乾留液タールのようだった水は、今は無数の宝石を敷き詰めたように輝いている。


 本質的にはまるで何も変わっていないのに。

 照らしてくれる光と共にあれば、ただただ美しく輝くのだ。


 ――私だって、そうですね。


 ルナマリア、リスティア、ローラはウルヴァ嬢から見ても、ものすごく綺麗だ。

 その理由が本人の在り方だけではなく、傍に居る誰かさんのおかげだというのであれば、自分だってそうなれるとウルヴァ嬢は思う。


 ウルヴァ嬢の『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』での日々はこうしてはじまり、続いてゆく。


 その日々をいつか、笑って語れる時が来るまで。





 後日談。


 この日からはじまった夜明けの水路での、『胡蝶の夢パピリオ・ソムニウム』の嬢たちによる早朝の舞は徐々に大規模となり、いつしか他の娼館のみならず夜街で働く女たちの多くを巻き込んだものとなる。


 後に王都グレンカイナの名物となる『暁の大舞踏』は、こんな他愛もない、ある夜明けの一幕から始まったことを知る者は少ない。


 またそのことに一番喜んだのは、ルクシュナ嬢に『舞』を教えた師匠だったことは、誰も知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界娼館の支配人 ~夜噺百花~ Sin Guilty @SinGuilty

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ