あばばばば
芥川龍之介/カクヨム近代文学館
ずっと以前から、──あるいはあの海軍の学校へ赴任した当日だったかも知れない。彼はふとこの店へマッチを一つ買いにはいった。店には小さい飾り窓があり、窓の中には大将旗を掲げた
「これをお持ちなさい。あいにくマッチを切らしましたから」
お持ちなさいというのは煙草に添えるいちばん小型のマッチである。
「
「なに、かまいません。お持ちなさい」
「いや、まあ朝日をくれ給え」
「お持ちなさい。これでよろしけりゃ、──いらぬ物をお買いになるには及ばないです」
眇の男の言うことは親切ずくなのには違いない。が、その声や顔色はいかにも無愛想を極めている。すなおに貰うのはいまいましい。といって店を飛び出すのは多少相手にきのどくである。保吉はやむを得ず勘定台の上へ一銭の銅貨を一枚出した。
「じゃそのマッチを二つくれ給え」
「二つでも三つでもお持ちなさい。ですが代はいりません」
そこへ幸い戸口に下げた金線サイダアのポスタアの
「
保吉は内心
保吉は
けれども
「朝日を二つくれ給え」
「はい」
女の返事は
「朝日を、──こりゃ朝日じゃない」
「あら、ほんとうに、──どうもすみません」
猫──いや、女は赤い顔をした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみている。それも当世のお嬢さんではない。五、六年来
すると奥から出て来たのは例の眇の主人である。主人は三笠を一目見ると、たいてい
「マッチは?」
女の目もまた猫とすれば、喉を鳴らしそうに
「どうもすみません」
すまないのは何も朝日を出さずに三笠を出したばかりではない。保吉は二人を見比べながら、彼自身もいつか微笑したのを感じた。
女はその後いつ来てみても、勘定台の後ろに坐っている。もっとも今では最初のように西洋髪などには結っていない。ちゃんと赤い
ある残暑の厳しい午後、保吉は学校の帰りがけにこの店へココアを買いにはいった。女はきょうも勘定台の後ろに
「ただいまあるのはこればかりですが」
小僧の渡したのは Fry である。保吉は店を見渡した。すると果物の缶詰めの間に西洋の尼さんの商標をつけた Droste も一缶まじっている。
「あすこに Droste もあるじゃないか?」
小僧はちょいとそちらを見たきり、やはり漠然とした顔をしている。
「ええ、あれもココアです」
「じゃこればかりじゃないじゃないか?」
「ええ、でもまあこれだけなんです。──お上さん、ココアはこれだけですね?」
保吉は女をふり返った。心もち目を細めた女は美しい緑色の顔をしている。もっともこれは不思議ではない。全然欄間の色硝子を透かした午後の日の光の作用である。女は雑誌を
「はあ、それだけだったと思うけれども」
「実は、この Fry のココアの中には時々虫が湧いているんだが、──」
保吉はまじめに話しかけた。しかし実際虫の湧いたココアに出合った覚えのある訣ではない。ただなんでもこう言いさえすれば、Van Houten の有無を確かめさせる上に効能のあることを信じたからである。
「それもずいぶん大きいやつがあるもんだからね。ちょうどこの小指くらいある、……」
女はいささか驚いたように勘定台の上へ半身をのばした。
「そっちにもまだありゃしないかい? ああ、その後ろの戸棚の中にも」
「赤いのばかりです。ここにあるのも」
「じゃこっちには?」
女は
「虫の湧いたやつを飲ませると、子供などは腹を痛めるしね。(彼はある避暑地の貸し間にたった一人暮らしている)。いや、子供ばかりじゃない。家内も一度ひどい目に
保吉はふと口をとざした。女は前掛けに手を
「どうも見えないようでございますが」
女の目はおどおどしている。口もとも無理に微笑している。ことに
「じゃしかたがない。Droste を一つくれ給え」
保吉は苦笑を浮かべたまま、ポケットのばら銭を探り出した。
その後も彼はこの女とたびたび同じような交渉を重ねた。が、悪魔に乗り移られた記憶はしあわせとほかには持っていない。いや、一度などはふとしたはずみに天使の来たのを感じたことさえある。
ある秋も深まった午後、保吉は煙草を買ったついでにこの店の電話を借用した。主人は日の当たった店の前に空気ポンプを動かしながら、自転車の修繕に取りかかっている。小僧もきょうは使いに出たらしい。女は相変わらず勘定台の前に受け取りか何か整理している。こういう店の光景はいつ見ても悪いものではない。どこか
しかし電話はいつになっても、容易に先方へ通じないらしい。のみならず交換手もどうしたのか、一、二度「何番へ?」を繰り返したのちは全然沈黙を守っている。保吉は何度もベルを鳴らした。が、受話器は彼の耳へぶつぶつ言う音を伝えるだけである。こうなればもう De Hooghe などを思い出している場合ではない。保吉はまずポケットからSpargoの「社会主義早わかり」を出した。幸い電話には見台のように
さんざん交換手と
「さっきね、あなた、ゼンマイ
「ゼンマイ珈琲?」
主人の声は細君にも客に対するような無愛想である。
「玄米珈琲の聞き違えだろう」
「ゲンマイ珈琲? ああ、玄米から
保吉は二人の後ろ姿を眺めた。同時にまた天使の来ているのを感じた。天使はハムのぶら下がった天井のあたりを飛揚したまま、なんにも知らぬ二人の上へ祝福を授けているのに違いない。もっとも燻製の
「おい、君、この鯡をくれ給え」
女はたちまち振り返った。振り返ったのはちょうどゼンマイの八百屋にあることを察した時である。女はもちろんその話を聞かれたと思ったのに違いない。猫に似た顔は目を挙げたかと思うと見る見る
「は、鯡を?」
女は小声に問い返した。
「ええ、鯡を」
保吉も前後にこの時だけははなはだ殊勝に返事をした。
こういう出来事のあったのち、二月ばかりたったころであろう、確か翌年の正月のことである。女はどこへどうしたのか、ばったり姿を隠してしまった。それも三日や五日ではない。いつ買い物にはいってみても、古いストオヴを据えた店には例の眇の主人が一人、
そのうちに冬ざれた
すると二月の末のある夜、学校のイギリス語講演会をやっと切り上げた保吉は生暖い南風に吹かれながら、格別買い物をする気もなしにふとこの店の前を通りかかった。店には電灯のともった中に西洋酒の
「あばばばばばば、ばあ!」
女は店の前を歩き歩き、おもしろそうに赤子をあやしている。それが赤子を
「あばばばばばば、ばあ!」
保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑い出した。女はもう「あの女」ではない。度胸のいい母の一人である。一たび子のためになったが最後、古来いかなる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化はもちろん女のためにはあらゆる祝福を与えてもいい。しかし娘じみた細君の代りにずうずうしい母を
(大正十二年十一月)
あばばばば 芥川龍之介/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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