誰が為の実像崇拝

クリオネ武史

誰が為の実像崇拝

  1


「国民的アイドルグループ『ドリームラビッツ』のセンター、白石由紀さんが自宅で亡くなっているのを、本日未明に所属事務所の担当マネージャーが発見しました。二十歳でした。白石さんの所属している芸能事務所前から、中継です」


 白石由紀が、死んだ。そのニュースを視覚と聴覚で認知した瞬間に、歯ブラシを忙しなく動かし続けていた右手が止まる。三十分前に開いたばかりの寝ぼけ眼は、瞼の重みを忘れて目の前のテレビに釘付けだった。

 唾液と混ざって水分量を増した歯磨き粉の泡が、下唇をつたって垂れてくる。その泡は無意識に口から溢れ出てくるのだから、まるで毒を盛られたようで、いささか気分が悪かった。年明けの寒さに思わず身体をよじらせる。

 平日の朝だから、どのチャンネルに変えても彼女の訃報がニュースとして報道されている。きっとしばらくはこの話題で持ち切りなのだろう。大人気アイドルが若くして死んだという文面だけで喰いつく獣は多い。マスコミはこうして人の死に群がるのだから、獰猛な野生の肉食動物と何ら変わらないのだ。


 白石由紀が、死んだ。ショック、驚き、悲しみ。どれも私の心情には当てはまらなかった。これはきっと虚無感だ。そういえば、心理についての講義を受けた時に、学んだことがある。家族や恋人、親友などの大切な存在を失った時、人は意外と冷静になるらしい……ということだ。すぐには現実を受け入れられないから、感情に振り回される精神的な暇も余裕もないのだろう。私も今はそれと同じなのかもしれない。

 なんというか「死んじゃったのか」という感覚だ。まだ、他の感情が芽生えてこない。私にとって、彼女は忘れたくても忘れられない存在で。ずっと心の奥に住み着いて。うっすらとしか見えない産毛を撫でるみたいに優しくまとわりついて。私を逃がしてくれない。


 白石由紀が、死んだ。


 私の大好きな由紀ちゃんが、死んだ?


  2


 私、黒川まゆと白石由紀は、中学時代の同級生だった。地元では「大人しい子が多い」と言われているような中学校だったが、その中でも私は特段大人しい子だったと思う。休み時間になれば教室の隅っこで本を読んで、賢いを通り越して馬鹿みたいに勉強ばかりして。優等生なんて呼ばれていたが、友達が作れなかった時点で人間としては劣等生でしかないのだ。周りが好きなアイドルやアニメ、おしゃれの話なんかをしている中、私は一人で本を読む。

 そんなモノクロな日々を極彩色に染めてくれたのが、由紀ちゃんだった。


 忘れもしない、中学一年生の夏。正確には、学活の授業で、夏休み明け最初の席替えの時。乱調子な暑さが過ぎて、肌にじんわりと汗がにじんで気だるさを誘う、そんな季節だった。

 担任の先生(名前は忘れちゃった。私にとって、由紀ちゃん以外はどうでも良いから)が画用紙で手作りしたような真っ白な箱を手にして教卓に立つ。

「みなさん、今日は二学期最初の席替えです! 一人一枚、この箱の中からくじを引いてください! くじに書いてある番号の座席に座ってね」

 先生の指示に従って、出席番号順にくじを引いていく。私もいそいそと教卓の前まで進み、箱に空いた穴に手をいれて薄っぺらい一枚の紙を取り出した。紙を広げると「30」の数字が書かれている。30は……窓際の、一番後ろ。暑さが和らいだ今の時期であれば、日差しが当たる窓際も悪くはないだろう。むしろ当たりの席かもしれない。

 窓の外に目をやると、隣のクラスが活発にサッカーをしている。体育の授業中のようだ。透明な板一枚では、彼らの楽しそうな声をかき消せないようで、私は少しばかり騒々しいと感じた。

 教室は必ず左側に窓がついている。右側から光が差し込むと、ノートをとる時に文字が手の影で隠れてしまうからだ。左利きの人には優しくない設計。図書館で借りた本に書いてあった豆知識だ。私は窓を眺めながら、そんなことを考える。


「あ、私の隣、黒川さんだ! よろしくね黒川さん」

 私の席の右側、つまり窓とは逆方向から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、栗色の髪の少女がいた。化学的に合成された不純物で染められた色ではなくて、生まれながらにして得た艶やかで鮮やかな色。ビー玉を埋め込んだみたいに丸くて透明感のある瞳は、長い睫毛に守られてぱちぱちと開いたり閉じたりを繰り返していた。

「白石……さん?」

「ふふ、もう二学期だけど、こうして話すのは初めてだよね。まゆちゃんって呼んでも良いかな? 私のことも由紀で良いよ! 仲良くしてもらえると嬉しいなぁ」

 クラスメイトに微塵も興味が無かった私は、顔と苗字を一致させるので精いっぱいで、由紀ちゃんが由紀ちゃんだってことを覚えられたのは、この時が初めて。素敵な名前だなと思った。白石由紀なんて、まるで白雪姫みたいだもの。

 私はひとりぼっちなんて、とうに慣れ切ったものだと思っていた。でも、親しく話しかけられただけで「嬉しい」とか「楽しい」とかの感情が手を取り合って、私の心の真ん中でワルツを踊っている。本当は誰かと仲良くしたかったのだと、気づいてしまった。

「あ、りがとう、よ、よろしく、ね、由紀ちゃん……」

 そんな返事が、情けないくらい小さな声で放たれた。


  3


「まゆちゃんって、いつもなんの本を読んでいるの?」

「じゃーん! まゆちゃんがオススメって言っていた本、借りてきちゃった!」

「まゆちゃんのお弁当すごく美味しそうだね!」

「ねぇ、まゆちゃん、分からない問題があるから教えてほしいな……」

「まゆちゃん、もし良かったら一緒に図書室行かない?」


 教室という狭い空間においてのお隣さんとして、私たちは仲良くなった。由紀ちゃんは優しいから、クラスでひとりぼっちだった私を気にかけての行動だったと思う。仲良くなったと言っても、親友とか、いつメンとか、そういう類にはなれなかった。

 由紀ちゃんは私と違って人望があるから、山崎さんと小松さん、それから桜井さんと一緒の四人グループでいつも行動していた。由紀ちゃんは山崎さんたちのことは下の名前で呼び捨てしていたし、休みの日もよく遊んでいるようだった。

 ヤキモチとか嫉妬とか、そういう醜い感情が芽生えないわけなかった。由紀ちゃんが私以外の人と仲良くお話しているのを見ると、胸の奥にある、私を突き動かすいちばん大事な核の部分がモヤモヤっとして、白い煙を吐き出してショートしちゃう。そんな日は読書や勉強どころじゃなくて、学校でも家でも机に突っ伏して寝たフリをしていた。

 モヤモヤを修理するために、山崎さんのノートを捨てたり、小松さんのロッカーの暗証番号をいじくって開けなくしたり、桜井さんの机に彼女の大嫌いな虫の死骸を置いたり、ちょっとしたいたずらはしちゃったな。今思うと無意味で無価値でくだらない攻撃だった。彼女たちに危害を加えても、由紀ちゃんが私だけの物になるわけじゃなかったから。


 由紀ちゃんは世間一般で見ると、普通よりかは可愛い――その程度の子かもしれない。けれど私の目には、彼女はカーネーションみたいに繊細で華やかな存在に見えた。カーネーションの花言葉は「真実の愛」なんだって。私たちにぴったりかもね、なんて思ったりして。

 ひとりぼっちだった私に優しくしてくれた由紀ちゃん。また席替えをして席が離れてしまってからも、たまに向こうから話しかけてくれたりして、私の心は満たされた。私から話しかける勇気が出なかった日は、一瞬のまばたきをも許さず、ただひたすらに由紀ちゃんを目で追いかけていた。由紀ちゃんがどこで誰と何をして過ごし、どんな表情で生きているのか、私は知りたくて仕方なかった。私たちは卒業までそんな関係性が続いたのだ。

 山崎さんたちみたいにはなれなかったけれど、特別とても仲が良かったわけでもないけれど、確かに友情はあったように思う。だって、中学校生活三年間ずっと同じクラスだったという事実だけで、私たちが星の運命に導かれた二人だってことが分かるでしょう? 占いの本で私と由紀ちゃんの相性を占ったら、無垢で深い愛を育てていける関係性だって、書いてあったから。

 由紀ちゃんは私のアイドルだ。私に笑顔を向けてくれて、その笑顔につられて私までもが笑顔になってしまう。由紀ちゃんを輝かしい星だとしたら、私はそれを眺める天体観測者。アイドルとファンって、きっとこんな関係。


  4


 中学校を卒業して、私は近くの高校に進学した。由紀ちゃんはいない。もちろん由紀ちゃんと同じ高校を受験するつもりだったけれど、彼女は進路希望を教えてくれなかった。恥ずかしいから内緒って、誰にも教えてないからごめんねって、人差し指を唇にあてていたずらに笑うだけだった。職員室に押しかけて、白石さんが受験する高校を教えてください、と先生に聞いても当然教えてくれるわけがなかったし。まだ幼い私には由紀ちゃんの内緒とやらを探る方法なんて思いつかなくて、とにかく八方塞がりで、諦めるしかなかったのだ。


 仕方がないから、私は母親に薦められた名門公立校を受験することにした。けれど、由紀ちゃんが卒業後どこに行くのか分からない不安とか、私の知らないところで私の知らない人たちと生きていくんだって嫉妬で、頭がどうにかなってしまいそうで、いや、頭がどうにかなっていた。私の心はまた白い煙を吐き出して、ビリビリって漏電して、苦しい気持ちを蓄積していった。そんな状況で勉強なんて身に入るわけがなくて、神様が私を馬鹿にしたように笑って、結果的に私は高校受験を失敗した。

 こうして私は滑り止めで受けていた私立の高校に通うことになったのだ。家から近くて通いやすいという理由だけで選んだ高校。由紀ちゃんがいない場所に価値なんて無いのに。由紀ちゃんと離れ離れになったことへの悲しみだけが残って、義務感で高校に通って、当然友達なんかできるわけもなくて、つまらない日々を送っていた。

 高校に入るまではスマートフォンもパソコンも持っていなかったから、由紀ちゃんの連絡先は知らない。アルファベットと数字と記号の文字列が無ければ、文明の利器は私と由紀ちゃんを繋げてはくれない。私は由紀ちゃんの住所すら知らなかった。


  5


 高校二年生の夏に、私は、まともになろうと思い始めた。大学受験は高二の夏から、なんて言葉が学年中に響き渡っているものだから、私もその気になれたのだ。相も変わらず孤独な生活を送っていた私は、ひたすら勉強に逃げる日々で、それしか取柄が無かった。両親からも先生からも良い大学に入れるよって言ってもらえて、それが結構、いやかなり、私の中では嬉しかったのだ。私の狂った情緒の中に僅かながらに残っていたまともな部分が、その期待に応えたいと思ってくれた。

 由紀ちゃんが恋しくはあるけれど、このままじゃ私は駄目になる。由紀ちゃんのことはもう忘れて、目の前にある大学受験に専念しよう。私が良い大学に行けば、両親も先生もみんな喜んでくれる。私の存在意義がそこに生まれる。私は頑張りたい。

 そもそも、ずっと由紀ちゃんに縋りついていても、由紀ちゃんが目の前に現れてくれるわけじゃない。諦めた方が精神衛生上良いのだ。由紀ちゃんがどこにいるか見つけるなんて、無謀な夢物語でしかない。現実的に不可能。


 忘れるんだ。高校受験の二の舞になってはいけない。忘れよう。忘れる。由紀ちゃんなんて、もう知らない。私の中から、消えてくれ。いなくなって。お願い。


  6


 無理だった。

 由紀ちゃんを忘れようとしたけど、無理だった。

だって、見つけてしまったから。


 たまたまだった。たまたま、何の気無しに、動画サイトを眺めていただけ。投稿から僅か三日で五百万回再生を超えるミュージックビデオ。動画サイトの人気ランキングで一位になっていたから、クリックしただけ。『ドリームラビッツ』という女性アイドルグループの新曲。

 『ドリームラビッツ』は国民的なアイドルグループで、数年に一度開催されるかなり厳しいオーディションを勝ち抜き、見事プロデューサーに選ばれた特別な女の子だけが、晴れて新メンバーとして加入できるという仕組みだ。全国から無数に応募が殺到するオーディションで、高校受験や大学受験なんて比べ物にならないくらいの倍率の高さを勝ち抜くなんて、私には到底できないことだ。

 その『ドリームラビッツ』の新曲のミュージックビデオの真ん中に、見慣れたどころか、見つめ続けた顔が、何よりも誰よりも愛おしい顔が、あった。私が見間違えるはずがない。混じり気なんて無かったはずの栗色の髪はもっと明るいブラウンに染められて、少し大人びた化粧をして雰囲気は変わってしまっているが、映っているのは間違いなくあの白石由紀だった。

 私は芸能なんかに疎いから、由紀ちゃんが大人気アイドルになっているなんて、今の今まで知らなかった。まして、由紀ちゃんが進学をせずにアイドルグループに所属するなんて、想像の範疇を超えていた。しかも、センターだ。

 調べてみたところ、中学卒業後の加入からたったの一年半でセンターに選ばれるというのは、早々ありえない話だそうだ。百年に一度の逸材とか、カリスマ性の塊だとか、期待の超新星だとか、そんな賛辞が動画のコメント欄を埋め尽くしていた。


 気持ちを無理やり押し殺して、もう忘れようって、まともに生きようって、そうやって決意した後に現れるなんて、なんていじわるなんだ。神様は今もなお、私のことを馬鹿にして、ひたすらに弄んで、笑い者にする気なんだな。


  7


 大学受験も失敗した。由紀ちゃんの活動を追うのに時間を費やす日々を送っていたら、いつの間にか高校の三年間は過ぎ去っていたからだ。母親には泣かれ、父親には怒られた。私は現実から目を背けるように引きこもった。人生がめちゃくちゃになった。


  8


 私は自室に引きこもって、ひたすらインターネットを眺めるのが日課になっていった。いつしか両親も、何も言ってこなくなったのだ。呆れて物も言えないとか、言っても無意味だと諦めているとか、そんなところだろう。

 由紀ちゃんの所属する『ドリームラビッツ』はファンに身近なグループで、渋谷にある専用の劇場で定期的にライブを開催していたり、CDを買うとついてくる特典で握手やハイタッチなどができる交流会も開かれている。

 しかし私は、それには参加しなかった。あくまでも、自宅からインターネットを這いつくばって由紀ちゃんを見つめるだけ。見つめるだけ……なんて、この年になっても、やっていることは中学生の頃となんら変わらないかもしれない。

 今日も由紀ちゃんのSNSには、沢山のコメントが寄せられている。彼女の名前で検索をかければ、ファンの彼女に対する想いの丈を覗き見ることができる。「ゆっきー」なんて愛称で呼ばれていて、老若男女問わず彼女の虜になっているようだ。


ゆうすけ@由紀推し

よし! 由紀ちゃんの写真集予約してきた! 水着のカットもあるのちょっと複雑な気持ちだけど、ファンとして純粋な気持ちで楽しむんやで……本当だぞ(震え声)


MARI

由紀ちゃんマジでビジュ良すぎる 愛してる 宇宙でいちばん可愛い なんのアイシャドウ使ってるんだろ まりも由紀ちゃんとお揃いのコスメ買って由紀ちゃんと同じ顔面を手に入れて最強のオタクになります(?) フォロワーのみんな見守ってくれ


いぬっ子

今日ほんとに会社でやらかしたんだけど、ゆっきーの笑顔を見たら全てどうでも良くなってきた、ありがとう推し、ゆっきーしか勝たんのよな


永遠のゆっきー推し

ゆっきー、あんま可愛くない歌もダンスも下手って叩かれることが多いけど、アイドルって顔やスキルだけじゃないんだよな。結局は愛嬌が大事で、応援したくなるかどうかなんだよ。顔だけ可愛い子、パフォーマンス能力に長けている子なんて沢山いるけど、ゆっきーの純粋さと優しさ、アイドルという職業へのプライドは、マジで唯一無二。


  9


 どいつもこいつも、由紀ちゃんの何を知っていると言うのだ。


 私はあの日、動画サイトという電子の海で由紀ちゃんを偶然見つけた。いや、偶然なんかじゃない。必然であり、運命だったのかもしれない。私と由紀ちゃんは結ばれているから。私にはいじわるな神様がくっついているから。

 そう、あの時、私に「嬉しい」なんて気持ちは、微塵も湧いてこなかった。

 私がやっとの想いで、念願の想いで見つけた由紀ちゃんは、私の知っている由紀ちゃんではなかったからだ。

 以降、アイドルの由紀ちゃんのファンになって追いかけ続けていたわけではない。由紀ちゃんという存在に取り憑かれていたから、身体が勝手に由紀ちゃんを目で追っていただけなのだ。あの頃のように。この醜い感情は、恋心ではないと思う。恋なんて美化されてはいけないと、自分で分かるほど醜いのだから。恋じゃないのだとしたら、一体なんと呼ぶべき感情なのだろうか。執着、依存、そんな言葉で片づけられても仕方ないように思う。


 沢山のファンに囲まれる由紀ちゃんを見るたびに、私の思い出がぼろぼろ崩れ落ちていくみたいで、つらいのだ。由紀ちゃんに貰ったキラキラした気持ちは、誰にも汚されないように、大事に大事に宝箱にしまっておいたの。でもそれは宝箱じゃなくて、パンドラの箱だったのかもしれない。開けてしまったのが、運の尽きだった。


 私に向けたあの笑顔も、優しさも、今ではもう、私だけじゃなくて、不特定多数の、知らない人たちにも向けられている。私だけの特別じゃなくなってしまった。

 由紀ちゃんの可愛さは、私だけが知っていれば良かったのに。由紀ちゃんが私の特別じゃなくなってしまったのと同時に、私も由紀ちゃんにとっての特別じゃなくなってしまったのだ。今ではもう、由紀ちゃんは可愛いと持て囃されて生きるのが当たり前になっているのであろうから。

 だんだんと、どんどんと、由紀ちゃんは人気になっていくのだ。ひとりぼっちで寂しい私を置いていって、ひとりで先に進んでいっちゃう。右を向けば隣に座っていた、とっても身近な教室の由紀ちゃんはもういない。遠い存在になってしまったのだ。私は由紀ちゃんを輝かしい星だと思っていた。それは、由紀ちゃんがお星様みたいに眩しいくらいの存在だったからであって、お星様みたいに遠くにある手の届かない存在だったからじゃないんだよ。私は本当にただの天体観測者になってしまったのかもしれない。

 由紀ちゃんは私だけのアイドルで、私は唯一無二の彼女のファンだったのに、この気持ちは報われない。

あの栗色の髪が好きだった。今ではもう、化学物質に汚染された汚い色だ。あの無垢であどけない顔が好きだった。今ではもう、その辺の頭の悪い女と似たような化粧で汚れている。あの頃の由紀ちゃんはどこへ行ってしまったのだろう? 都会に染まって変わってしまった由紀ちゃんと、ひとりぼっちのままで落ちぶれてしまった私。この対比構図があまりにも滑稽で、虚しくて、笑えてくる。


 いつからだろう、悲しみが怒りに変わったのは。


  10


 中学校から今日まで、本当に長かった。いろんなことがあったなぁ、と思う。好きで大好きで可愛くて優しくて愛おしくて恋しくて大切な由紀ちゃんの訃報が流れる今日という日を、私はどう受け止めれば良いのだろうか。

 ついさっきまでは虚無感があるだとか冷静だとか、強がって自己分析をしていたくせに、時間の経過と共にじわじわと彼女の死を実感し始めて、感情が力強く根を張って芽吹いてくる。

 とりあえず、口の中を不快に満たす歯磨き粉を取り除こう。暖房の効いていない冷たい空気を嫌悪しながら洗面所へ行く。口内をゆすいでいる間も由紀ちゃんの死について話すアナウンサーの声が聞こえていた。


 ニュース番組の報道によると、由紀ちゃんは、自殺だそうだ。他殺でも、病死でも、事故死でもなく、自殺。由紀ちゃん自らの手で人生にピリオドを打ったということ。

 自殺報道ガイドラインなんてものが定められている世の中だから、どんな方法で死んだのかとか、現場の様子とか、そういうセンシティブな部分には触れていなかった。ただ、遺体の傍らに置いてあった遺書によって、自殺の原因はインターネットでの過剰な誹謗中傷だったということが分かったらしい。由紀ちゃんは繊細な子だから、気にしなくても良い言葉に耳を傾けて追い込まれて、最悪の決断をしてしまったのかもしれない。


 そんなことを考えて、私は思わず口角を上げてしまった。

「これでアイドルの白石由紀は死んだ」

 ショック、驚き、悲しみ。どれも違う。虚無感を乗り越えていちばん最初に産声を上げた感情は「喜び」だった。由紀ちゃんは、みんなの偶像なんかじゃない。私だけの実像なのだ。由紀ちゃんのことは大好きだけれど、みんなの物として生きる白石由紀のことは、嫌気がさすほど、大嫌いだ。

 ふと、あの頃のように窓の外に目をやると、雪が降り始めていた。私はきっと今後の人生、雪を見るたびに今日のことを思い出すのだろう。大嫌いな彼女が死んだことを。


「もう書き込む必要もないね」

 私は鼻歌交じりに、パソコンで開いていた匿名掲示板とSNSのページを閉じる。そこにはどれも、異常なまでの「アイドル・白石由紀」への誹謗中傷が書き込まれていた。

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