第4話

 俺はいつものように、海を眺める。あれから数日が経ったが、毎日のように来ていたあの少年は、一度も来なかった。心にぽっかりと、穴が開いてしまったようだ。俺は多分、寂しいんだ。少年に会えなくなって。

 お金はもう手元にない。昨日、俺は最後の晩餐をした。美味しかった。

 頑張る気力なんて、もう残っていない。借金を返せる気もしないし、またここから仕事を探すのも辛い。

 俺は今朝、ウミを公園に捨てた。ものすごく辛かったけれど、ウミを俺の家に残すわけにはいかなかった。


「優しい人に拾ってもらうんだよ」


 と、俺は最後にウミの頭を撫でた。何度も謝った。短い時間だったけれど、俺はウミと暮らせて、幸せだった。荒んでいた俺の心を、癒やしてくれた。ウミを連れてきてくれた少年には感謝だ。

 今日は快晴だ。涼しい風が心地よい。もう、この景色を見るのは最後だろう。もう、思い残すことはない。あの少年、今どうしているかな。別れの言葉を言えていないのは、ちょっと寂しかったが、それでいいんだ。

 今度こそ、終わりにするんだ。

 俺は両手を広げ、目をつむった。


「お前と一緒に過ごせて、楽しかったぜ、少年」


 最後に少年と出会えて、俺はよかった。俺の人生は、少年のおかげで、少しだけ彩った。

 俺は足を踏み出していく。

 もうすぐ、楽になれるんだ……

 そんな時だった。


「おじさん」


 あのときと同じように、俺は声をかけられた。


「ねえ、おじさん。そんなところにいたら、危ないよ」


 俺は振り返った。そこには、あの少年が立っていた。彼の腕の中には、ウミの姿があった。


「やあ、久しぶりだな」

「崖っぷちに近づいたら危ないって、習わなかったの?」


 少年はまっすぐな瞳で俺を見る。


「ちょっと海を眺めていたら、つい見とれちゃってさ。気づいたら崖っぷちに近づき過ぎていたよ。いやあ、危なかった」


 と、適当に言い訳をする。さすがに、少年の前で飛び降りるわけにはいかないと思い、崖っぷちから離れた。


「嘘だ」


 少年は言った。


「嘘?」


 俺はドキッとした。


「僕、知ってるよ。おじさんがいつも、虚ろな目で海を眺めていたことを。ずっとわかってたよ。おじさんが、死のうとしていること」


 俺は頭をかいた。


「最初に出会ったときだって、本当は死のうとしていたんでしょ? 僕はずっと、遠くからおじさんのことを見ていた。最初は興味本位だったけど、だんだんおじさんの様子がおかしくなって」


 誰も、俺のことなんて見ていないと思っていた。少年は、俺が思っているよりもずっと、俺のことをよく見ていた。


「おじさんのこと、僕じゃ救えなかった? ウミだけじゃダメだった? 新しい家族ができれば、おじさんも生きようとしてくれるんじゃないかと思ったのに。遊園地じゃダメだった? 僕はすごく楽しかった。おじさんを楽しませたかった。おじさんが死んじゃわないように、僕は毎日おじさんに会いに行った。おじさんといろんな約束をした。つまらない学校をサボって、家を抜け出しておじさんに会いに行くことが、僕の唯一の楽しみだったのに」


 少年がしたことは、全部俺のためだったんだ。俺は今まで、それらは全部、少年のわがままだと思っていた。でも、それは違う。少年は、俺を、この世界につなぎ止めてくれていたんだ。


「少年は、なんで今日ここに来たんだい?」

「ウミが公園に捨てられているのを見つけたんだ。おじさんが何かよくないことをしようとしているんじゃないかって思って」


 ああ、だから少年は、ウミを抱えているのか。本当に、察しが良いな、この少年は。


「僕ね、あれからちゃんと学校に行ってるんだよ。今日ウミを見つけたのは、学校に行く途中だったんだ。ウミが悲しそうに鳴いていたから、僕はランドセルを放り投げて、急いでここまでやってきたんだ」


 少年はウミを地面に下ろした。


「あとね、遊園地の帰り、おじさんがお母さんに色々言ってくれたでしょ? あの後からお母さん、少しだけ優しくなったんだよ。仕事の日を減らして、僕の話を聞いてくれるようになったんだよ」


 そっか。それならよかった、俺の言ったことは、無駄ではなかった。

 俺は少年の頭を撫でた。少年は、よく頑張っていると思う。俺とは違って。本当に情けない。


「僕はおじさんに生きていて欲しい。おじさんが死んじゃったら、悲しいもん」


 そう言って、少年は泣きながら俺に抱きついた。彼の涙と鼻水で、俺の服が濡れる。


「わかった、わかったから。離れてくれよ」

「嫌だ。絶対に離れない」


 少年はさらに強く抱きついてきた。ウミは俺の足に体をなすりつけてくる。


「もう、困った奴らだな……」


 俺はため息をついた。

 俺が死んだら、悲しむ人がいてくれる。ああ、なんて俺は、幸せ者なんだろう。


「俺、お前に助けられてばっかりだな」

「僕も助けられたから、お互い様だよ」


 俺は少年とウミを、ぎゅっと抱きしめた。


「おじさん、ずっと、僕たちのそばにいて。僕たちには、おじさんが必要なんだ」

「大丈夫。もうどこにも行かないよ」


 俺は言った。


「約束だからね」

「ああ、約束だ」


 その後、ウミが「にゃー」と鳴いた。

 もう少し、頑張ってみるか。こんなにも、俺のことを思ってくれる奴らがいるのだから。とりあえず、バイトを始めてお金を貯めながら、新しい職場を探そう。

 今なら何だってできる気がする。

 せっかくなら、新しいことを始めよう。

 死のうとしていた人生だ。もう何も、怖がることはないさ。

 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おじさんと少年 秋月未希 @aki_kiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ