第3話
今日の少年は、珍しくリュックサックを背負っていた。
「ねえ、おじさん。僕、ここ行きたい」
ウミと一緒に暮らし始めてから数日が経った頃。そう言って少年が見せてきたものは、新しくできた遊園地のチラシだった。
「嫌だね。そういうのは、お父さんやお母さんに連れて行ってもらいな」
「ダメって言われた。だから、おじさんに連れて行ってもらいたいの」
「いや、俺、金ないし。それに、俺がおまえを連れ回したら、色々と問題があるだろ」
断る口実を探して言ったが、少年は聞く耳を持たない。
すると、少年はリュックサックを下ろし、中から豚の貯金箱を取り出す。
「僕とおじさんの分のチケット代はあるよ。ずっとお小遣いを貯めていたんだ」
そんなに行きたいのか。全く、少年の両親は何をやっているのだろう。仕事で忙しいのはわかるが、もう少しこの少年にかまってあげても良いのではないか?
「ね、いいでしょ? お願い、おじさん」
少年はお得意の上目遣いで頼んでくる。俺はため息をついた。
「わかった。なら明日でいいか? どうせお前、学校サボるんだろ?」
「うん!」
少年は、「もちろんだ」と言うように頷いた。一体いつまで行かないつもりなのだろう。まあ、俺の知ったことではないが。
「じゃあ、九時にいつもの場所な。楽しみだからって、絶対うちまでは来んなよ」
「わかってる! やったー! おじさん大好き!」
少年は嬉しそうに飛び跳ねた。
次の日、俺は全財産を持って、崖に向かった。まだ九時前だというのに、少年は一丁前に帽子をかぶり、リュックサックを背負ってそこに立っていた。
「おじさん!」と手を振っているので、俺も振り返す。
「それじゃあ、行くか。自分の分の交通費とチケット代は、自分で出せよ。俺の分はちゃんと自分で払うから」
「いいの? おじさん、貧乏なのに……」
「いいんだ。俺のことは気にしなくて」
貧乏どころか、もうすぐ一文無しだ。さすがに、こんな小さな子どもに俺の分のお金まで出してもらうのは、気が引けた。
俺たちは電車に乗って、遊園地まで向かった。
「わー、すごい! 僕、電車に乗るの初めて!」
少年は無邪気にはしゃいでいる。
「今日のこと、本当に親に言ってないのか?」
今回は遠出だ。少年に万が一のことがあったら、俺の責任になる。
「言ってないよ。言えるわけない。前、おじさんのことをお母さんに話したんだ。そしたら、そんな怪しい人と話すなって言われた。おじさん、全然怪しくなんかないのに」
少年は文句を言う。それが親の、普通の反応だよな。見ず知らずの人と息子が親しくしていたら、それは心配になる。
でも、少年はそれだけ俺を信頼してくれているってことだよな。
「二人とも、仕事ばっかりだから、僕のことなんて興味ない。なんで学校に行かないのかって、最初の方は聞いてくれていたけど、今はもう、また休むのねって感じで、ただ淡々と学校に電話するだけだよ。そしてそのまま、僕を残して仕事へ行く。帰ってきても、疲れているのか、すぐ怒るし、ずっとイライラしてるから、全然相手をしてくれないんだよね」
少年は窓に額をくっつけた。
可哀想だな、と俺は思った。学校でも意地悪されて、家でもひとりぼっちで。同情する。
「でも今は、おじさんがいるから楽しいよ。ウミもいるし」
少年はこちらを向いて、にっこりと微笑んだ。
そう言ってくれるのは、素直に嬉しい。
「今日は俺が、甘いものおごってやるよ」
俺は張り切ってそう言った。
遊園地についた。遊園地に来るのは久しぶりだ。学生の時以来行っていない。
楽しげな音楽や、色とりどりのオブジェクト。たくさんのアトラクション。それらは、忘れていた少年の頃の気持ちをよみがえらせてくれた。
少年はものすごく興奮していて、はしゃいだ様子であたりを見て回る。
「おじさん、見て!」
少年はクマの着ぐるみを指さして言った。
「ねえ、写真撮ろうよ!」
少年はリュックサックの中から、カメラを取り出した。
「それ、お前の?」
「うん。お父さんのおさがりだよ」
それは、使い古されたカメラだった。少年はそれを大事そうに抱えている。
「貸して」
記念にクマの着ぐるみと少年を撮ってやろうと、俺は手を差し出した。しかし、少年は首を振った。
「違う! おじさんも一緒に写るの!」
「俺も良いのか?」と驚いたが、少年は早々と近くにいた人にカメラをお願いする。俺とクマの着ぐるみと少年の写真を撮ってもらった。
少年は撮ってくれた人にお礼を言うと、満足そうに写真を眺めていた。
「どうだ? かっこよく写ってるか?」
「うん、僕はね。あと、クマはかわいい」
俺は不細工だって言いたいのか、このガキは。
俺たちはその後、メリーゴーランドに乗って、ジェットコースターに乗って、お化け屋敷に入って、昼ご飯を食べた後、また別のものに乗って。とにかく遊び尽くした。何もかもを忘れて楽しんだ。
「ほら、クレープだ」
俺は店で買ってきたクレープのうちの一つを少年に渡す。
「ありがとう、おじさん」
俺たちはベンチに座って、クレープを食べ始める。甘いものは久しぶりだ。ずっとデザートを買えるほど、お金に余裕がなかったから。今日は奮発した。全財産を使い果たす気で来た。
「おじさん、楽しかった?」
少年が尋ねてきたので、俺は「もちろんだ」と答えた。
「僕も楽しかったよ。今までで、一番楽しかった」
少年は笑顔で言った。そう言ってもらえるのなら、今日連れてきた甲斐があったな、と思う。
「僕、お家に帰りたくないな……」
少年は、赤みがかった空を見ながら呟いた。
「俺もだよ。現実に戻りたくない……」
もうお金は手元にある分だけだ。ここを出てしまえば、俺は……
幸せだった。今日、少年とここに来ることができて。俺は感謝している。
名残惜しさを胸に、俺たちは遊園地を後にした。
「また来ようね、おじさん」
「ああ、またいつかな」
俺に次は、きっともう無い。約束、守れそうにないな。
「ごめんな、少年」と、心の中で謝った。
電車に揺られながら、俺たちは帰った。
暗くなる前には、少年の家に着いた。両親は帰りが遅いので、ばれることはないと少年は言った。
しかし、そんな時だった。
「はやと!」
少年の家の前に、女の人が立っていた。
「お、お母さん……」
少年は気まずそうに言った。そして、俺の後ろに隠れる。予想外のことだった。今日はたまたま、早く帰ってきていたのだ。
少年のお母さんは、俺にズカズカと歩み寄ってくる。
「どちら様ですか? 私の息子は、随分あなたに懐いているようですが、どういうつもりなんです? こんな不潔そうな見ず知らずの人を、信用できるはずがありません」と、俺は怒られる。
「すみません」
俺は謝った。
なんとなく、こうなる気はしていた。
「もう二度と、この子と会わないでください。次息子と関わったら、警察に言いますからね」
お母さんはそう吐き捨てると、少年の腕を無理矢理つかんで、家の中引っ張り込む。少年は、どこか助けを求めるような目をしていた。
「あの」
気づけば俺は、声をかけていた。
「なんですか?」と、お母さんはイライラしながら振り向く。
言わなければ。俺が、言わなければ。
「もう少し、息子さんに向き合ってあげたらどうですか? 彼が可哀想です。仕事も大変かと思いますが、もう少し優しく接してあげるべきです。そうしないと、彼は学校でも家でも、居場所をなくしてしまいます」
俺がそう言うと、お母さんは俺を睨んで吐き捨てた。
「あなたに、何がわかるんですか」
お母さんは、少年と家の中に入ってしまった。
俺にできることは、これだけだ。ごめんな、少年。
もうこれ以上、少年には会えない。
俺はため息をついて、その場を去った。
そういえば、あの少年の名前、「はやと」って言うんだな。初めて知った。
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