第2話

 次の日、俺は崖にやってきた。なんだかんだ言って、結局俺はどうもあの少年のことが気になるようだ。

 少年は崖から少し離れたところにあるベンチにちょこんと座って待っていた。


「おい、少年」


 俺が声をかけると、少年はベンチから降りて、俺のところまでやってきた。


「おじさん、遅いよ。待ちくたびれたよ」

「それは、すみませんね。ていうか、時間の約束はしてないだろ」

「罰として、僕のことを肩車して」

「は? 肩車?」


 俺は首をかしげる。なぜ急にそんなことを。


「僕、肩車してもらったことないんだ」

「珍しいな。そういうのは、お父さんとかがやってくれるんじゃないか?」


 俺が尋ねると、少年は首を振った。


「お父さん、出張ばっかりでほとんど家にいない。帰ってきても、ずっと部屋にこもって仕事してる」

「あー、可哀想に。じゃあ、お母さんは」

「お母さんに遊ぼうって言っても、今忙しいから無理って毎回言われる。それに、お母さん、厳しくて怖いから、あんまり好きじゃない」


 要するに、今まであまり親にかまってもらえなかったというわけか。

 気の毒なので、俺は少年を肩車してあげた。

 少年は「うわー」と、歓声を上げる。


「すごい! 背が高い! 海の向こうの方まで見える!」


 少年は興奮して、俺の頭をバシバシと叩く。


「あんまり動くな。落ちるぞ」


 俺はしっかりと少年の足をつかんでおく。


「いいなあ。僕も早く、これくらい大きくなりたいなあ。ねえ、なれるかな?」


「なれるんじゃないか?」と、俺は適当に返事をした。でも、少年はそれで満足そうだった。


「おじさんなんて、すぐに追い越してあげるから」


 少年はそう言いながら、無邪気に微笑む。


「期待しとくよ」


 やがて俺は、少年を地面に下ろした。


「ありがとう、おじさん」

「どういたしまして」


 ちゃんとお礼が言えるやつなんだと、俺は感心した。

 すると少年は、俺の手をつかむ。何をするつもりなのかと困惑して見ていると、少年は自分の手のひらと俺の手のひらを重ね始めた。


「……なにしてるんだ?」

「おじさんの手、大きいね」

「だろ。これが大人の手だ。羨ましいか?」


「うん」と、少年はうなずいた。そして少年は、そのまま小指を俺の小指に絡ませた。


「明日もここへ来てね。約束だから」


 少年は勝手に俺と指切りをし、嘘をついたら針千本を飲ますと言った。なんだよ、この強制的な約束は。

 まあ、いいか。どうせ、することないし。結局俺は、明日もここに来てしまうんだよな、と思いながら、俺は帰っていく少年に手を振った。


 それから、俺たちは毎日のように、あの崖で会っていた。一日中一緒にいる日もあれば、ほんの少しだけ顔を合わせてすぐに帰る日もあった。

 さすがに土日には来ないだろうと勝手に思っていたが、崖に行くと、少年は何食わぬ顔で座っていた。


***


 あるとき、少年は一匹の猫を連れてきた。まだ小さいトラ猫だ。すごく可愛らしい。


「おまえの猫か?」

「違うよ。来る途中の公園に捨てられていたんだ」


 少年は猫を撫でながら言った。猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。


「それで、その子どうするのか?」

「おじさん、飼ってよ」

「は? なんて?」


 俺は思わず聞き返す。


「おじさん、飼って。だって僕のお母さん、猫嫌いだもん。許してくれない」

「そんな、俺だって家で飼えるほど金に余裕はないぞ」


 食べていくだけで精一杯なのに。


「もうすぐ、台風が来るんだってよ。そんな中、この子が外でひとりぼっちでいるなんて、可哀想じゃん」


 そういえば、ニュースで言っていた気がする。確かに、それは可哀想だ。


「お願い、おじさん」


 少年は猫を抱いて、上目遣いでこちらを見てくる。猫までもが、俺をつぶらな瞳で見てくる。そんな目で見られると、断れない。


「わかったよ」と、俺はため息をつく。

「わーい! ありがとう、おじさん!」


 少年は嬉しそうに言った。まあ、こいつが喜んでくれるなら良いか、と思ってしまった。

 俺たちはスーパーマーケットに行って、牛乳と猫缶を買った。ああ、金……と名残惜しく思いながらも、俺は支払いをする。

 その後、俺は自分の家に少年を連れて行った。もちろん、部屋の中には入れていない。家の前までだ。入れたらさすがに、誘拐かなんかの容疑で逮捕されそうで怖かったから。だいたい、こんな見知らぬおじさんに、何の疑いもなくついてくる少年もどうかしていると思う。そもそも、俺の部屋はゴミで散らかっているので、あまり人を入れたくはない。

 俺はお皿を持ってきて、そこに牛乳を注いだ。あと、猫缶も開けて、猫の前に置く。猫はおなかすいていたのか、勢いよく食べ始めた。


「名前は何にするの?」と少年が尋ねてきた。てっきり少年が考えるものだと思っていたから、驚いた。

「おまえが考えろよ」と俺が言うと、少年は考え始めた。しばらくして、少年は口を開く。


「ウミ」

「ウミ? それはなぜ?」


「僕とおじさんが出会ったのは、海の見える場所だったから」


 なかなか洒落ているなと思い、感心する。


「よろしくな、ウミ」


 俺が撫でると、ウミは嬉しそうに俺の手に顔を擦り付けてきた。思っていたよりも、癒やされるな。


 それから数日後、台風がやってきた。今日は外に出ることができない。俺が、住んでいるおんぼろアパートが壊れないかとヒヤヒヤしている一方、ウミは心地よさそうに昼寝をしている。ほんと、呑気だな、猫ってやつは。生まれ変われるのならば、俺は猫になりたいと思った。

 結局、あの日から、何日も経ってしまった。未だに俺は、死ぬことができていない。

 なぜだろう。前までは、毎日毎日死にたくてたまらなかったのに。早く解放されたくて、自由になりたくて。

 でも今は、なんとなく死ぬ気が起きない。借金を抱えた無職なことに変わりはないはずなのだが。金がなくなって、食べるものがなくなって、餓死するくらいなら、自分の手で人生を終わらせたかった。とにかく、少しでも早く楽になりたかった。

 あの少年と出会ってからだ。俺は死ぬのが後ろめたくなった。

 あいつは生意気でわがままで、面倒くさい。だけど、繊細で、優しい。こんな俺にも飽きずにかまってくれる。俺が望んだことではないが。

 なんだかんだ言って、俺はあの少年が嫌いではないんだ。

 死ぬ前に少年に出会えたことは、きっと慈悲深い神様の、せめてもの贈り物なんだ。それならばもっと、金とか食べ物とか仕事とか、もっと実用的なものがよかったな、と俺は思った。


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