おじさんと少年

秋月未希

第1話

 俺は崖の上から、海を眺めていた。

 死んだ両親が抱えていた借金を返さなければならないというのに、働いていた会社は倒産し、現在無職。それをきっかけに、八年付き合っていた彼女とも破局。

 すべてにおいてやる気をなくし、生きる希望も見いだせなくなった。そして貯めていた金も、あまり残っていない。


「あー、これからどうなっちゃうんだろう」


 波がザブンザブンと激しく音を立てている。今日は風が強いなと感じながら、両手を広げる。

 このまま一緒に、俺の体と心も吹き飛ばしてくれたら良いのに。

 そんなことを思いながら、俺は目をつむった。

 足は自然と、海に向かっていた。このままずっと歩いて行ったら、海に落っこちて、鼻と口に海水が大量に流れ込んできて、息ができなくなって、溺れ死ぬんだ。

 苦しいだろうか。でも、このまま生きていても、仕方がない。

 怖さよりも、自由になれる、楽になれる嬉しさの方が勝っていた。

 一体どうして、俺の人生はこんなにもめちゃくちゃになってしまったのだろう。

 もう、いっか。終わりにしよう。

 早く、解放されたい……

 そんな時だった。


「おじさん」


 最初は、それが俺に向けられている言葉だとはわからなかった。


「おじさんってば」


 二度目の声で、俺は振り向いた。

 そこには、少年が立っていた。俺は、「おじさん」とは誰のことだろうとあたりを見渡すが、ここには俺とこの少年しかいない。


「おじさんって、俺のこと?」


 俺は自分を指さして尋ねた。

「他に誰がいるの?」と、少年はキョトンとする。


「俺のこと、おじさんに見えるの?」


 少年はうなずく。


「お兄さん、じゃなくて?」

「どこからどう見ても、おじさんだよ」


 俺は今年で二十九歳だ。まだまだ若いと思っていた。でも、小さい子どもから見れば、俺はおじさんなのだと、地味にショックを受けた。まあ、髪もボサボサで、ひげも剃っていないから、老けて見えるのかもしれない。そう思われるのも、仕方がないか。


「ねえ、おじさん。そんなところにいたら、危ないよ」

「え?」


 俺は自分の足下を見た。俺の足は、崖っぷちから五センチほどのところにあった。あと一歩踏み出していれば、海へと真っ逆さまだった。

 俺はそこから慌てて離れる。さすがに少年の前で落ちるわけにはいかない。


「崖っぷちに近づいたら危ないって、習わなかったの?」


 純粋な目でそう言われると、なんだか少し恥ずかしくなった。


「ちょっと海を眺めていたら、つい見とれちゃってさ。気づいたら崖っぷちに近づきすぎていたよ。いやあ、危なかった」


 と適当に言い訳をした。


「そんなことより、どうしてこんな時間に少年がいるんだい? 見たところ、小学生だろ? 何年生かは知らんが、学校はどうしたんだ?」


 今はちょうど昼だ。普通なら子どもたちは昼休みで、校庭で走り回っている時間だ。


「僕は四年生だよ」


 少年は答える。


「学校は、行きたくないからサボった」


 これは困った。俺はフケのすごい頭を掻いた。この年でサボりを身につけてしまっては、将来どうなることか。


「どうして学校に行きたくないんだい?」


 俺は尋ねた。少年は、少し考えてから答える。


「楽しくないから」

「それだけ?」


 俺は驚く。そりゃあ、学校は勉強ばかりで、楽しい場所ではないことはわからなくもない。しかし、友達と遊んだり話したりするのは、楽しいはずだ。


「だって、みんな僕に意地悪するんだもん。学校に行って、いいことなんて一つもない」


 可哀想に、と俺は少年の頭をなでた。だからといって、俺にできることはないし、するつもりもない。


「ほら、学校に行きたくないんだったら、家に帰りな。お母さんも心配してるだろ」

「帰っても誰もいない。それに、ちゃんと学校には、お母さんに電話してもらったから大丈夫」


 それならいいけど、と俺はため息をついた。それにしても、どうせ仮病とかを使って休んでいるくせに、こんなに好き勝手に出歩いていいのだろうか。


「今からどうするんだい?」

「おじさんと遊ぶ」


 勘弁してくれよ。


「あのね、俺はそんなに暇じゃないんだ」

「嘘だ。だっておじさん、よくここに来て、ずっと海を眺めているもん。僕、知ってる」


 俺は再びため息をついた。俺がいつもここに来て、時間を潰していることを見られていたとは。ていうか、この少年はどれだけ学校をサボっているのだろう。親は心配ではないのだろうか。

 まあ、いっか。考えてもしょうがない。俺には関係のないことだ。


「じゃ、そういうことだから、俺は帰るよ。じゃあな」


 と、俺はポケットに手を突っ込んで、歩き出す。すると少年が、後ろで言った。


「僕、明日もここに来るからね。多分、毎日来るから。おじさんも来てね」


 毎日来るのかよ。とりあえず適当に、「はいはい」と返事をしておく。


「約束だからね」


 そう言われると、本当に行かないと罪悪感に苛

まれそうだから嫌だ。ダルいなと思いながらも、「わかった」と答えて家に帰る俺であった。

 死に損なったのか、生きながらえたのか。幸か不幸か。

 まあいいか。死ぬチャンスなんて、この先もいくらでもあるだろう。

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