ねこやまんがいた

中嶋雷太

ねこやまんがいた

 「ねこやまん」がいつも側にいた。


 最初に出会ったのは、団地の砂遊び場だった。

 あれは年末だっただろうか、木枯らしが冷たい夕暮れだった。

 幼かった僕は、スコップで砂を掘っては懸命に何かを作っていた。トンネルだったか、山だったか。黙々と、同じ動きを繰り返していた。

 母さんは公園のベンチに座り、僕を視界に入れながら、灰色の冬空をぼんやり見つめていた。


 サッと強い風が吹き、公園の木がざわめいた。

 誰かの視線に気づき、僕は顔を上げた。


 「あ」

 そこに、ねこやまんがいた。

 母さんの二倍はある大きい体の、茶トラの猫だったが、二本の脚で立っていた。ぷっくり膨らんだお腹ではち切れそうな白いTシャツの胸には、◯に「ね」の字が描かれていた。そして背中にはマントがひらひらなびいていた。

 その顔をよく見ると、ニンマリ笑顔で、くるりと丸まった髭が伸びていた。「君は誰?」と僕は訊ねたが、ねこやまんはニンマリ笑顔を見せるだけだった。

 もう一度強い風が吹き、砂埃が立ったから僕は目を閉じた。

 砂粒が顔を叩き涙が流れた。瞼を腕で擦り、目をようやく開けると、ねこやまんの姿はもう消えていた。〈あの優しい瞳はなんだったのかな〉と、少しだけ心が温まった僕は立ち上がり、ベンチの母さんへと駆けて行った。


 今から思えば、あの頃の母さんは疲れていたのだと思う。

 母さんと二人きりの生活は楽しかった。

 けれど、朝早くに保育園に僕を預けると、母さんは近所のスーパーで夕方遅くまで働いていた。夜になり母さんが笑顔で僕を迎えに来てくれると、僕は母さんに飛びついた。

 母さんの匂いが大好きだったし、声も大好きだった。

 幼いながら、母さんが疲れているのは分かっていたけれど、僕は甘えん坊だった。


 ある日、団地の狭いベランダから空を見ていたら、ねこやまんが空を飛びながら、僕に手を振ってくれた。もちろん僕は手を振った。


 「ねえ。何をしているの?」と、母さんが声をかけたが、僕は何も応えなかった。ねこやまんのことを、たとえ母さんだったとしても、話してしまうと、ねこやまんは二度と現れないと思っていたからだ。


 ねこやまんは、ふとした時に現れた。

 保育園の卒園式の帰り道の桜の木の陰。

 小学校で初めての給食で緊張していた教室の隅。

 母さんが啜り泣いていた夜の窓辺。

 友達と喧嘩をした帰り道。

 小学校の卒業式の朝の空。

 ねこやまんは、突然現れてはニンマリ顔で僕を見つめていた。


 中学に進学し、勉強とサッカー部の部活で忙しくなると、僕はねこやまんのことをすっかり忘れた。ワイワイガヤガヤと過ごした高校生活、将来が見えないでぐずぐずしていた大学生活…。そして、不動産会社に入社し、毎日を忙しく過ごしていた僕は、保育園児だった頃の記憶を消していた。


 結婚し、子供が生まれ、そして母さんが亡くなった。

 通夜を終えた夜、僕はリビングで一人ウィスキーを傾けていた。妻も娘も数日の疲れでベッドの中だった。

 母さんの意識がまだあった一週間ほど前のこと、母さんは僕と二人っきりの日々を思い出しては、懐かしんでいた。


 「そういえば、あなた、ちょっと変わっていたわよね」

 「僕が?普通の子供だったと思うけれど」

 「そうね。普通の子供だったかもしれないけれど、何もない空に手を振っていたり、菜の花畑にどんどん入っていったり、雨の日の紫陽花に笑顔を見せたり…」

 「え。僕が、そんなことしてたっけ?」

 「していたわよ。保育園の頃は、特に…」

 「そうだったかな…」

 「そうそう。寝言でね、『ねこやまん』とか、わけの分かららないことを口走ったり」

 「ねこやまん?」

 「そう。ねこやまん。とっても嬉しそうにね」

 「ねこやまん…」


 ウィスキー・グラスの氷をからからと揺らしながら、「ねこやまん」と呟いてみると、とても懐かしくてとても温かなものが込み上げてきた。

 「ねこやまん…なんだったか…」

 三杯のウィスキーを楽しむと、僕はシャワーを浴び、ベッドに入るとすぐに眠りに落ちた。


 「おじいちゃん。聞こえる?」

 僕は病室のベッドで寝ていた。

 聴覚だけはしっかりしていたが、ほかの感覚は死んでいた。

 〈ああ。そうか。僕は病気をして、もうダメだとなり…〉

 意識が混濁し半ば夢心地の僕の手を誰かが握り締めた。


 「あなた…」

 老いた妻の涙声だった。


 「あ、あ」

 頑張って声を出すと、僕の手を妻が強く握り返してくれた。


 〈そうだな。こうやって、人は死んでいくんだな〉

 僕は、何もかも諦めていた。

 それは寂しいことでもなく、泣き叫ぶことでもなく、とても静かなものだった。


 「あなた…」

 妻の涙声で、瞼を薄く開けた。

 ぼんやりとだが、妻や娘や孫たちの顔が見えた。

 何かを話したかったが、唇は動かなかった。

 けれど、何かは伝わっているのだろうと思っていた。

 視界がボヤけたりハッキリしたり、意識は徐々に弱っていた。

 唇は動かなかったが、僕は〈ありがとう〉と皆んなに伝えた。

 聞こえるはずもない、〈ありがとう〉だった。


 僕は、もう一度、妻や娘や孫たちの顔をしっかり見ようと頑張った。その時だった。病室の壁にねこやまんの姿があった。

 ニンマリ笑顔で僕のことをいつも見守ってくれたねこやまんは、とても懐かしくてとても温かだった。


 やがて、僕の心臓は、動きを止めた。

 ねこやまんは「頑張ったね!よく生きたね!」と、初めて声をかけてくれた。


                   了

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ねこやまんがいた 中嶋雷太 @RayBunStory1959

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