あなたとの約束

月華リッカ

2020年3月22日 晴れ

桜は満開。花弁が空を舞っている。

青い空を、白い雲を、桃色に染め上げる。

きっと毎年思い出すのだろう。舞い散る今日の桜のことを。


わたし自身の心を落ち着けるためにも早速綴り始めてみよう。


一方では暖かく幸せで、一方では今にも崩れてしまいそう。

ぐちゃぐちゃなこの気持ちが色褪せてしまわないうちに。



いつもの時間、いつもの席。そこに彼女は座っていた。


学校から少し離れた路地にひっそりと佇む古びた喫茶店。

はじめて訪れたのは、高校二年生の初夏。休日の正午頃だったか。

厚い雲におおわれた空から突然の雨。

たまらず逃げるように駆けこんだ。


「ずいぶんと濡れているね。平気かな」

どこからか凛と響く声がする。

「ここの店主は親切だよ。奥にいるから声を掛けるといい。タオルくらい貸してくれるさ」

改めて店を見渡すと、一番遠い壁際の席に女性が座っていた。

学生服を着ているが、同じ学生とは思えないほど透き通った肌と艶やかに輝く長い黒髪。吸い込まれるようだった。

「えっと、あの、ありがとうございます」

「…おや。独り言のつもりだったんだけど聞こえてたんだね」

すごく落ち着いていたから、きっと常連さんなのだと思った。

「あの、ご迷惑をおかけしてすみません」

「気にしないでいいよ。ゆっくりしていくといい。ここは良いお店だ」



これが彼女との出会いだ。

それからは、彼女に会うためだけに喫茶店に足繫く通うようになっていった。

わたしのたった17年の短い人生で、こんなに他人が気になることなんてなかった。

でも、今はどうしようもなく彼女のことばかり考えてしまう。

わたしはまともに恋なんかしたこともないけれど、これが初めての恋だったのかもしれない。

書いてて恥ずかしいけど、きっと一目惚れだったと思う。


いつも本を読んでいる彼女は、少し言葉を交わすと自分の世界に戻る。

じっと集中している姿からも美しさがにじみ出ている。

かと思うと、わたしの話に耳を傾けてくれたり、朗らかにお話をしてくれるときもある。

コロコロ変わる表情にわたしの心は惑わされてばかりだった。


彼女について知っていることはあまりにも少ない。

名前も住んでいるところも知らない。

いつ会っても見慣れない制服を着ている。学校はわからない。

ふと気がつくと彼女はいつも消えるようにいなくなっている。

彼女についてまともに聞けたことなんていくつあっただろう。


「私の趣味? 読書かな。君もよく知っているだろう」

「好きな食べ物? ここのホットサンドは絶品だよ」

「好きな飲み物? コーヒーは好きさ。無糖が一番だね」


「好きな動物? そうだね…。ほら、あの子たちなんか可愛い」

彼女の見ている先には小さな水槽。その中には海月が飼われている。

「可愛いですね」

「そうだよね。水槽の中でぷかぷかしててさ」

「でも。少し窮屈そうですね」

「ふふ。君はやさしいんだね」

微笑みながら彼女は続ける。

「わたしはね。海月みたいなやつなのさ。狭い水槽をただただ漂っているだけの存在」

水の中をぷかぷか漂っている彼女を想像して、あまりに似つかわしくない姿に思わず笑ってしまった。

「あっ、違うんです! これは…」

「あはは。君は面白いね。浮世を漂う私を見つけてくれて、どうもありがとう」


同じようにして秋が過ぎ、冬が過ぎ、わたしたちの心の距離も近づいていった。

今になって思えば、きっと他愛のないやり取りを重ねるなかで、わたしの中の彼女の存在はどんどん大きくなっていった。

そんなわたしだったから、彼女は信頼してくれたんだと思う。


他にたくさん書きたいことがあるけど、また後に取っておきたい。

いま書き記すべきは、春を迎えた今日この日のこと。



いつものようにお店の戸を開けた途端、彼女がずんずんとわたしに向かってきた。

こんなことは初めてだった。驚いているうちにどんどん距離をつめられる。

「ねえ。これから一緒に出かけないかい?」

「え?」

「付き合ってくれたらご褒美もあげるからさ。良いだろう?」

「も、もちろんです!」

突然の願ってもない申し出に舞い上がってしまった。

一緒にお出かけなんて想像もしていなかった。


彼女に促されるままたどり着いた先は、まさかのわたしの学校。

「どうして学校に?なんでですか?」

「ほら、目的地は校庭さ。早く行こう」


ちょうど見ごろを迎えているのか、校庭の隅にたたずむ大きな桜の木も見事に咲き誇っている。その周りにはたくさんの大人。数人の男性がスコップを抱えていた。

その足元にはスーツケースくらいの大きな箱が土にまみれたまま置かれている。


「もしかして、タイムカプセルの掘り起こし?」

「ご名答。さて。ちょっと悪いけど少しだけ眠っててもらえるかな」

「え?」

その瞬間、意識がふっと途切れた。


気が付くとわたしは、桜の木から少し離れたベンチに腰かけていた。

「急に悪かったね。少しだけ体を借りたよ」

「からだをかりた?どういういみですか?」

ぼうっとするまま周囲を見回すと、わたしの隣には見知らぬ紙袋が置かれていた。


「中身を確認してもらえるかい?」

促されるまま袋に手を伸ばすと、何冊もの厚いノートが入っていた。

表紙には"春日井桃華の日記!!"と書かれている。

誰だろう。自己主張が激しい。


表紙からペラペラとめくると、確かに日記だった。日付は十年以上前。

ページに挟まっていたのであろう集合写真が落ちてきた。

卒業式のようだった。見慣れた校舎を背に泣いたり笑ったり、生徒が並んでいる。


見たこともない昔の制服のはずなのに、見覚えがある。

そして、その写真の真ん中あたりには彼女が写っていた。

ぽわぽわしていた頭が急速に冴えていく。


「えと、これはどういうことですか?卒業生だったんですか?」

「実はそうなんだ。先輩って呼んでくれてもかまわないよ?」

彼女はちょっと偉そうに腕を組む。


「どうしてずっと制服を着て…?」

「愛着が湧いてしまってね。可愛いだろう?」

彼女はその場でくるっと一回転してみせる。


「写真と全然変わらないんですね」

「若くしてアンチエイジングに力を入れていたからね」

彼女はテレビCMのように大げさに髪をかきあげる。


「…あなたは一体何者なんですか?」

「あはは、そんな目をしないでくれ。最初から誤魔化すつもりはないよ」


もう茶化すのはおしまいと言わんばかりのトーンで淡々と語り始めた。


高校を卒業してすぐに持病が悪化して命を落としたこと。

未練があったせいか気が付いたら幽霊のような状態になっていたこと。

生前から縁のあった喫茶店に憑りついたこと。


とんでもない話だけど、なぜだかすんなり信じられた。


「あなたの未練って一体なんなんですか?」

「簡単に言うとね、私は生きている間に何も残せなかった。どんな形でもよかった。私という存在をこの世に刻みたかったのさ」

「じゃあ、これからでも手伝います!一緒に、」

言いかけたところで、彼女がさえぎるようにわたしの唇を指でふさいだ。


すると、その瞬間から体が自由に動かなくなった。

金縛りのようなものだったのかもしれない。


「この日記たち、君に託すことにするよ。私のことを知りたがってた君には垂涎ものだろう?」

悪戯っぽい笑みを浮かべながらくすくすと笑っている。

彼女は意識していないのだろうけど、桃色の花吹雪と共に笑う姿がなんとも美しい。


「ただし一つだけ条件がある!実はその日記、最後の1冊を書き始めたところでちょうど卒業してしまったんだ。だからもったいなかったけど土に埋めちゃった。残りのページに君の日記をつけて欲しいんだ」


「わかるかい?日記なんてものは乙女の秘密そのものさ。君が続きを書き込めば、君の秘密もろとも大切に扱ってくれるだろう?私も安心できるってわけさ」


そんなことしなくても大切に扱いますよ、と抗議の視線を送る。


「おっと、そろそろ時間かな。この数か月の間、本当に楽しかったよ。君に会えてよかった」


どうして別れの挨拶みたいなことを言っているのだろう。

彼女の輪郭が徐々におぼろげになっていく。


「もう未練はなくなったのさ」


未練がなくなった?

この世にあなたの存在を刻み込むんじゃないの?

今そう言ってたでしょ?


「今はもう君がいるからね。だって、君は私の虜だろう?」

また悪戯っぽい笑みを浮かべている。

けれど、その笑みもどんどん霞のように薄れていく。


「…最後に。言い忘れてた」


一陣の風が吹く。ふわっと桜が舞い上がる。


「君のこと、けっこう好きだったよ」


途端に軽くなった体から思わず伸ばした手も虚空にすり抜けて、花弁はやがて彼方に消えていく。


これが今日までの不思議な出来事だ。



いつもの時間、いつもの席。

そこにあなたは。もういない。


だけど。

一番遠い壁際のあなたの特等席の隣に座って。

あなたが絶品と言ったホットサンドを食べながら。

あなたが好む無糖のコーヒーを飲みながら。

あなたの日記を読みながら。


約束だから。

これからの日々をわたしは書き記していきます。


でも。一つだけ文句があります。

なんでもっと早く言ってくれなかったんですか。

急にお別れなんてあんまりじゃないですか。

言い逃げなんてずるいです。ずるいです。

私は何もあなたに伝えられなかった。


全部夢だったんじゃないかな?

あなたがいたという確かな証はこの日記だけ。


今日はここまで。





*****

ここが最後のページだよ。

ちょっとしたおまじないをかけておいたんだ。

このメッセージを読んでいるってことは、ノートをちゃんと埋めてくれたんだね。


もしかすると、もう私のことなんか忘れかけているかもしれないね。

でも、わずかであっても、君の中に私の存在が刻まれていると信じてる。

だから、未練はなくなったんだよ。

本当にありがとう。


そして、ごめんなさい。

君を利用するようなことをした。

一方的に私は消えてしまった。

きっとすごく怒って、悲しんだと思う。


自分勝手な私を許してほしい。

だって、君を新たな未練にはしたくなかったから。


桃華

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