久我沈丁の因習観察録 〜トロピカル因習アイランド編〜
丹波林檎
久我沈丁の因習観察録 〜トロピカル因習アイランド編〜
「夏! 太陽! 砂浜! ここが俺たちのエデンの園だ!」
サークル代表の無駄にうるさい声が島唯一の船着場にこだまする。
俺たちの目の前に広がるのは、日本だというのに明らかに南国の植生と思われる大自然。エメラルドグリーンの海、白亜の砂浜、椰子の木、生い茂る森、ギラギラと照りつける太陽。トロピカルアイランドといった趣だ。
K**大学ロックミュージック研究会の総勢100名が地元の漁船にぎゅうぎゅう詰めになりながら揺られること五時間、本当に地獄のような時間だった。爆音でラジカセを鳴らすやつ、船酔いで吐くやつ、どさくさに紛れて乳繰り合い始めるカップル。
その地獄を乗り越えて辿り着いた美しい南の島。エデンの園という表現はぴったりだ。
開放的で、失恋したばかりの俺にも新しい素敵な出会いが待ち受けている予感がある。
そんな南国の陽気に理性が吹き飛んだのか、
「うおー! 砂浜の果てまで誰が一番初めに辿り着くか競争しようぜ!」
「よっしゃ!」
「負けねー」
「ビリのやつは全員にジュース奢りな!」
バカの一人が言い出し、続くバカの何人かが後先考えずに走り始めた。
「何やってるんだか」
「全くだよ。何も知らないで」
「ん?」
俺の独り言に突然隣のやつが同調してきた。見れば、中性的な顔立ちをした美青年がいた。夏の盛りの海には似合わない極度に色白な肌と、涼しげな目元のほくろが印象的だ。ロック研にこんなやつもいたのか。彼はこちらの視線に気づくと、
「僕は
そう言って微笑を浮かべた。男のくせに妙に色気のある表情だった。
しかし、なぜ俺のことを知っているのか。聞こうと口を開きかけると、大声が響いた。
「おぉぉぉおい! あんたらが宿泊の学生さんかぁ!」
声の方を見ると、アロハシャツにサングラスという装いの金髪の男が森から出てきたところだ。首からは花飾りまで下げている。
「そうです。俺が代表っす。三日間、世話になります」
「オラは太陽って言うんだぁ。オラが島の案内とおもてなしをするからなぁ。しかし、今年はこんなにも人が来るとはなぁ。僥倖、僥倖。テンダ様も喜んでくださる」
人好きのする笑顔で太陽さんは言った。
「テンダ様? なんすかそれ」
「島を守ってくださる守り神様だぁ。オラも詳しいことは知らんけんど、子孫繁栄を司るとっても偉い神様なんだぁ」
「神様っすか」
半分バカにしたような口調で代表の男は言ったが、太陽さんはさして気にした様子もなく「そうだぁそうだぁ」と陽気に笑った。
「あんたらが来てくれたんで、今夜は祭りだぁ。テンダ様にこの喜びを捧げるんだぁ」
どうやらこの燦燦島は古くからの信仰が未だ残っているようだ。異文化に触れるというのもいい経験になるだろう。
「それよりー早くホテル行きたいんだけどー。船が最悪だったから早く休みたい」
「おぉ、それがなぁ、ホテルはまだないんだぁ」
「は? ホテルがない? 嘘でしょー」
「まだ?」
「そうだぁ、今夜あんたらに過ごしてもらうホテルは島のみんなでこれから作るんだぁ。それがしきたりなんだぁ」
「今から作るって何言ってんだ!」
「いみふー」
ロック研の面々が口々に文句を言うが、
「いいからぁ、いいからぁ」と太陽さんは笑うだけ。そしてその邪気のない笑顔を見ると、なんだか不思議と「まあいいか」という気になる。
俺は集団から外れて森の奥の方を覗いてみるが、確かにホテルらしき建物は見当たらない。
道の方まで出てあたりを見回していると、突然「ねえ」と後ろから呼びかけられて飛び上がりそうになった。振り返るとさっきの男がいた。
「ユウキくん、この島ではあまり不用意な行動を取らないほうがいいよ」
「何の話だ久我」
「さあね」と久我は笑ってはぐらかす。
「皆のところに戻ろう。島の人に従っているのが一番安全だ。少なくとも今のところはね」
変なところに足を踏み入れると危険だと言いたいのだろうか。毒性の生物がいたり、足を滑らせやすい場所があったりだとか。
「とにかくホテルが出来上がるまではオラが島を案内する。こっちだぁ」
俺達が戻るとちょうど太陽さんがついてこいと身振りで示して歩き始めたところだった。
「ちょっと待ってください」
ロン毛の男が太陽さんを引き止めた。
「うん? どうしたぁ」
「砂浜に走りに行ったやつらがまだ帰ってきてません」
「お前ら勝手に砂浜走ったんかぁ!」
突然怪訝な表情になった太陽さんに「え?」とロン毛。笑顔を絶やさなかった人から笑顔が消えると、言いようのない不安が募る。
「何かヤバかったですか?」
しかし、
「ナははははははははっ」
突然、底の抜けたような笑い方で太陽さんが笑い出したのだ。つられて俺たちも口元が緩んでしまうような笑い方だった。本当に明るい人だ。
「ええっと何が面白かったんすか?」
苦笑いのような表情を浮かべながら代表が聞いた。
「いやあなんでもねぇよぉ。ただぁ、若いっていうのはいいなぁ。まだ夜にもなっとらんというのに自分から砂浜駆けるとは。ゼンサイだぁ、ゼンサイだぁ。まあ安心せぇ、後で会えるからな」
そう言って太陽さんはまた豪快に笑うと、島の奥の方へと歩き始めた。
ロック研の面々は互いに顔を見合わせたが、肩をすくめて太陽さんの後を追った。
*
「ねぇかっこいいお兄さん。私と一緒に遊ばない?」
小麦色に焼けた肌、胸を隠す機能しかない簡素なチューブトップ、腰に巻かれたカラフルな布。頭にはハイビスカスの花飾り。太陽さんに連れられて、気さくで陽気な村長の家、名物酒を飲ませてくれる売店、女性たちが果物を足で踏み潰して料理を作っているところ、小さな子供たちがサッカーをしている広場など、島中を回っていると、いかにも南国風の少女が袖を引っ張って話しかけてきた。
「かっこいいって俺に言ってるのか?」
「そうだよぉ、かっこいいお兄さん。一緒に砂浜でデートしよ、デートぉ」
そう言って上目遣いで誘ってきた。目鼻立ちのしっかりとした快活で可愛いらしい少女だ。少し年が若すぎる気もするが、かっこいいなんて言われて俺も悪い気はしない。素敵な出会いが待ち受けているだろうという予感はどうやらあっていたようだ。普段は参加もせず籍を置いているだけのサークルだったけれど、失恋でやけっぱちになって参加して良かった。
「わかったどこ行く?」
「やったぁ」
少女に連れられてフラフラと脇道へと逸れようとしたが、
「ねえ、僕を置いていくつもりかい?」
振り返ると
中性的な顔立ちのせいで一瞬、どきりとしてしまった。しかしこいつは男だ。俺の心臓よ、なぜ勝手に「どきり」などと言った。そう思ったが、久我の整った顔から目が離せない——待て、本当にこいつは男か? 俺は何をもってこいつを男と判断したのだったか。胸? しかし貧乳という可能性もある。声? 男にしては高くないか? ざらざらとした艶のあるアルト。背筋を撫で上げられるような声色。そのみずみずしい唇は紅を差したように熟れ、はだけた襟から覗く尖った鎖骨には玉の汗が浮かび、チラチラと誘うよう。こいつは本当に男なのか? いや、男であったとして何の問題があるというのだ? 傾きかけた日差しがジリジリと水分を蒸発させる。遠くで鳥が鳴く。俺はごくりと生唾を飲み込み……
「ねぇそこのかっこいいお兄さん、私と一緒に遊ばない?」
振り向くと先ほどの少女がいなくなっていた。あたりを見回すと、彼女は別の男に声をかけていた。男は鼻の下をだらしなく伸ばしながら、ふらふらとした足取りで茂みの方へと連れられていった。
くそっ、島外の男なら誰でも良かったというわけか。
いつの間にか止めてしまっていた息を吐く。
かっこいいだなんて言って物珍しさだけだったのだ。
かくいう俺もバカンスでのアバンチュールを期待したわけではあるけれど、しかし、
「お前のせいでチャンスを逃してしまったじゃないか」
「おや、それはすまないね」
悪びれた様子もなく久我は言うと、襟を正してさっさと皆について歩いていってしまった。「置いていくつもりか」だなんてどの口が言ったんだ。
「全く……」
悪態をつきながら歩き始める。
次に案内されたのは滝だった。
バナナのような果実が実る木の間を抜けた先に、スコールのように叩きつける滝があった。滝の脇にはトーテムポールの一段を抜き取って中をくり抜いたような極彩色の奇妙な祠があった。
「山の悪神マームイマーを封じてる大切な祠だぁ」と太陽さんは滝の音に負けないよう大声で言ったが、次の瞬間、川を飛び越えられるかふざけて競っていたロン毛が勢い余って祠を蹴り壊してしまった。
ロン毛は青ざめて謝ったが、
「ナははははははははっ。壊れたかぁ、まあええよぉええよぉ」と太陽さんは陽気に笑った。
「そういえばこの島っすけど」と代表。
「こんな凄い滝もあって綺麗なのにどうして全然知られてないんすか? もっと観光客呼び込めばいいのに」
「うんにゃ、島の酒を売り出して『とろぴかる
「ああ、観光客が来るとゴミが出たり自然が荒らされたりするって言うっすもんね」
「それもそうだなぁ。でも一番はそんなに大勢来られてもテンダ様も困っちまうからだなぁ」
ハッハッハと笑う太陽さん。
——ドボン
突然、川から音がした。ちょうど壊れた祠があるあたりだ。
「誰か落ちたか?」
「いや、魚一匹いないぞ」
水は底まで見えるくらいに澄んでいたが、確かに何もない。
「そういや、マコトはどこ行った?」
「祠壊したことに凹んで休むとか言ってたけど」
「マームイマーに連れてかれたんかなぁ。ナはははははっ」
太陽さんは笑いながら「気にせんでええ、気にせんでええ。ドンマイだぁドンマイだぁ」と言った。よくわからないが、本当にカラッと笑う人だ。
「ねえ、少なくなっていない?」
「何が?」
「人が」
「そうか?」
「ミサキが見当たらないんだけど」
「どっかその辺で男とイチャついてんじゃね」
「そうかなー。ていうかケンジもいなくない?」
「あいつならさっき、島の女の子とイチャイチャしながら砂浜の方に行ったけど……」
ふと俺も周りの人間を見ると、百人いたはずが半分くらいに減っていないか? ロック研に顔見知りはほとんどいないので誰がいなくなったかまではわからないが、明らかに人口密度が低下している。
きっと、この陽気な島の雰囲気に飲まれてハメを外しているのだろう。さっきから島の女の子たちが男たちを誘惑しているのを見かける。木陰や砂浜で太陽が燦々と降り注ぐ中、一夏の逢瀬を楽しんでいるのだろう。
俺だってその一人となり、傷心を癒すアバンチュールを楽しめたはずだというのに。
隣の久我を睨むが、涼しい顔をしていた。
*
「そろそろ砂浜の方戻るかぁ」
太陽さんに連れられてぞろぞろと戻ると、いつの間にか砂浜には
「もうホテルができてきてるなぁ」
「あれがホテルっすか?」
「そうだぁ、そうだぁ。みてくれは悪いかも知れないけどぉ、ちゃあんと快適に過ごせるからな」
太陽さんがそう言う間にも、島民たちは櫓の周りで作業を進めていた。数人の屈強な男たちが椰子の木を担いできて、それをあっという間に組み上げていく。
少し異様だったのは、砂浜に降りる前に島民たちは足を払ってお辞儀をすることだ。まるで砂浜が神聖な場所であるかのようだ。いや、実際彼らにとってはそうなのかも知れない。
「これはすごいね、ユウキくん。伝統的な工法なんだろうね」
いつの間にか隣にいた
「ほらあそこをご覧よ。椰子の葉を煙で
指差す方を見れば、何人かの女性が椰子の葉を櫓に向かってゆらゆらと振っている。その横では島の子供達が椰子の葉でチャンバラごっこをしていた。お清めに使う道具だというのなら、ひどく罰当たりな使い方のようにも見えるが、周りの大人達は笑って見ていた。どころか、大人達まで加勢してチャンバラごっこに興じている。
森の方から男達が大きな布を担いで出てきて、お辞儀をしてから砂浜に降りると、無骨だった櫓に幾何学模様が刺繍された布を器用に被せていく。いわば巨大なテントのような形だ。
「大体できたし、もう行くかぁ」
太陽さんはそう言って僕らを先導した。
「お辞儀した方がいいんすか」
砂浜に降りる前に太陽さんもお辞儀をしたので、代表が聞いた。
「まぁした方がいいけんど、どっちでもええよぉええよぉ」
「そうすか」と代表はお辞儀せずに砂浜に足を踏み入れたが、メンバーの半分くらいはお辞儀をした。俺と久我も足を払ってお辞儀をしてから太陽さんの後を追った。
「ムンヌンだぁ、連れてきたぞぉ」
「おお太陽。今年は豊作だなぁ。入れぇ入れぇ」
太陽さんは現場監督と思わしき上半身裸の屈強な男と二、三言葉を交わすと、テントの布を捲って俺たちを中に案内した。
むわっとした熱気を感じながら入ると、中は大学の小教室程度の広さで、昼間の漁船を思えばとても広かった。床にはござが敷かれていて、少しごわごわしてはいたが、不快というほどでもない。お香が焚かれているようだ、エキゾチックで不思議な匂いが立ち込めていた。
明かりは松明のようだ。真ん中に炎が揺れていた。煙は天井の真ん中に開いた穴から抜けていく。少し薄暗くなり始めた紺色の空が穴から覗いていた。
「今夜は祭りだからなぁ。始まるまではここにいてくれぇ」
太陽さんはそう言って俺たちをテントにおいて出ていった。
焚かれたお香の、フルーツともアルコールともつかない匂いで、頭がぼうっとする。熱に浮かされたように思考が脈絡を失う。
なんだか気分がいい。
思わず笑顔になる。
ロック研の他の連中も笑っている。
いつの間にか代表がいない気がする。
誰かが持ってきたラジカセで音楽を流し始めた。
当然ロックだ。
誰からともなく踊り始めた。
炎が揺れ、影が踊る。
熱気が充満する。
人が減っている気がする。
お辞儀をしなかった奴らがいない。
音楽に体が自然に揺れる。
膝が勝手にリズムを刻む。
心地いい倦怠感が頭を支配する。
そんなふわふわとした意識の向こうに、ふと、外の島民の声が聞こえてきた。
「今年は本当にムンヌンが多いなぁ」
「本当になぁ、全部で100だろう?」
「娘っ子たちがアンザンキガンの儀のために半分くらい持ってったけどなぁ」
「ハラワタ使っちまったらテンダ様に差し上げられねぇつってんのにかぁ」
(ハラワタ?)
「構わん、構わん。それでも五十はいるんだぁ、十分、十分」
「それもそうかぁ、これでテンダ様も腹一杯になってくださるなぁ」
(腹一杯?)
「んだんだ。むしろ多いくらいだぁ」
「ニエは多い分には問題なかぁ」
(ニエ?)
「皿の上の料理は多けりゃ多いほどええ、祝宴の道理だぁ」
何かがおかしい。
頭を振る。
目を何度もしばたいて、頬を叩いた。
まだ頭の奥が痺れる感覚があるが、さっきよりはマシになった。そしてマシになった頭で周りを見れば、サークルの連中はトリップでもしたかのようなトロンとした目で、のたうち回るかのように踊り続けている。狂った光景だった。心臓がトクトクと脈を打つ音が耳元に聞こえた。
「ここから出せ!」
思わず叫んでいた。
何かがおかしい。このまま従っていたらどんな結末が訪れるともしれない。もしかしたら島民に止められるかもしれない。そうしたら力づくでも逃げ出そう。外にいたのは屈強な男達だったが、隙を付けばなんとかなるはずだ。くそっ、なんでこんなことになってる。
テントの隙間からぬうっと男の顔が現れた。
「お前、出たいって言ったかぁ?」
しまった。こっそりと抜け出せばよかった。後悔したがもう遅い。
「そうだ! 俺をここから出せ!」
「……」
「なんだ! 止める気か!」
「いんや、ただぁ、ムンヌンは絶対に外に出ちゃあいかんって話だからなぁ」
やはり逃さない気かと身構えるが、男はすぐに大声で笑い始めた。
「ワハハハハ。まぁええかぁええかぁ。祭りやしなぁ、籠ってるってのもツマラねぇよなぁ。出な出な」
体格のいいその男に無理やりぐいっと引っ張られてテントの外に出た。
空は薄暗くなっていて、砂浜には無数の篝火が等間隔で並べられていた。布面積の小さな服を着た男女が、祭りの開始を待ちきれなかったのか、くねくねと体を絡ませて踊り始めている。遠くから重低音が強調されたEDMが流れてくる。その様子だけ見ると、まるで新手の野外ダンスホールにも思える。
しかし、俺はとにかくこの場を離れたかった。
「時間までには戻ってこいよぉ」
男が後ろから声をかけてくるのも気にせず、妙に足を取られる砂浜を大股で歩き、なんとか岩場まで辿り着いた。
「おおいユウキくん、どこへ行くんだい」
息をついて振り返ると、線の細いやつが俺の後を追いかけてきていた。久我だった。
「逃げるんだよ!」
「どこへだい?」
「どこでもいい。とにかくここじゃないどこかへだ」
吐き気がする。悪酔いしたように頭がガンガンする。
そんな俺に「まあ待ちなよ」と久我は近づき、背中をさすってきた。
「君が何を恐れているのか知らないけれど、大丈夫だからさ」
「大丈夫って何がだ! 明らかにおかしいじゃないか。テントの奴ら全員目が完全にトリップしてた」
「お香のせいだね、口元と鼻を布で覆えば大丈夫さ。僕はずっとそうしていた」
「それに、いつの間にか人がいなくなってる」
「こんないい島だよ。恋の火遊びをしに抜け出したのさ」
「島の奴ら、ニエがどうとか言っていたんだ。ニエって生贄のことじゃないのか!」
「君はお香に当てられて錯乱状態になってるだけだよ。聞き間違いに決まっているじゃないか。ほら深呼吸をしなよ」
久我は俺の背中をゆっくりと撫でる。それに合わせて深く深呼吸をする。心臓の脈動がようやく落ち着いてきた。
「久我、どうしてお前は俺を止める」
「君と一緒にいたいからと言ったらどうする?」
そう言って久我は、妖艶にとしか表現できない表情で笑った。それは禁断の甘い蜜のようだった。しかし俺の恋愛対象は女性だ。首を横に振る。
「俺を口説こうとしても無駄だぞ」
「いや」
久我は突然、不思議なものを見た少年のような顔になった。
「そんなことはしてないけれど……口説くって何を言っているんだ君は?」
梯子を外された気分だ。
「君が何を勘違いしているか知らないけれど、ともかく僕は君を呼び止めに出てきたんだ。せっかくこんなに面白い島に来たというのに、最後まで祭りに参加せずに逃げ出してしまうのは勿体無いからね」
「面白い……?」
久我は俺の言葉を気にした様子もなく、
「君と一緒じゃなきゃダメなんだ。ほら戻ろう。祭りが本格的に始まる前に」
久我は目を細めて笑うと、手を差し出してきた。
その手を握ってはいけない。未だ本能がけたたましい警告音を発していた。しかし「君と一緒じゃなきゃダメなんだ」その抗い難い誘惑に魅せられて、気づけば俺はその手を握ってしまっていた——俺もこの南国の暑さに頭をやられてしまったのだろう。
*
「祭りの始まりじゃぁ!」
村長の声が合図だった。
テントの布が剥がされ、新鮮な外気が流れ込む。
いつの間にか島民達は松明を片手に俺たちを取り囲んでいて、爆音で流れるEDMに合わせて、激しいダンスを踊っている。あるやつはストリートダンス、また別のやつはヒップホップ、阿波踊りを踊るおばさんがいたかと思うと、ロボットダンスを披露する少年もいる。
そして口々に何か歌を歌っている。バラバラだ。一昔前のレゲエ、方言で歌われる民謡、最新のK-POP、そしてロック研の奴らが持ち込んだラジカセのロック。てんでバラバラの音楽がEDMと混ざり合い、気付けば何か大きなうねりを持った音が聞こえ始める。
ロック研の連中は音のうねりに合わせて体をうねらせる。
口元を押さえた袖の隙間から強烈なフルーツの匂いが入り込む。
「なあ本当に大丈夫なんだよなこれ」
「楽しまなきゃユウキくん」
久我は少年のような笑みを浮かべている。
聞こえてきた音のうねりは、気付けば呪文のようなものになっている。それは誰の声でもない。この場全体が発しているかのようだ。
ビートが徐々に激しくなる。
砂浜に無数の影が踊った。
背筋に悪寒が走った。
昏い海で何かが蠢いている。
篝火の炎が揺れるたび、底知れぬ邪悪さを持った何かが砂浜の下を這いずり回っているような気がした。
何かが迫りくる。
次第に音が高くなりボルテージが上がっていく。
一歩、一歩、どこからともなく何かが背後に。
息が上がる、眩暈がする、誰かが叫んでいる、何かが来る! 何かが……!
そして、EDMがブレイクした——
全くの静けさの中、俺の背後をこの世ならざるものが悠々と通っていくのがはっきりとわかった。
「God Exist」
次の瞬間、永遠の沈黙を破った暴力的なビートに合わせて、ロック研の人間が、一人、また一人と、砂浜に飲み込まれていく。
「Foooooo!」
「テンダ様だぁ!」
「テンダ様だぁ!」
「今年はニエのムンヌンがいっぱいだぁ!」
「今年はニエのムンヌンがいっぱいだぁ!」
島民達が朗らかに笑いながら言う。
右にいたやつが消え、左にいたやつが消え、前にいたやつが消える。
輪から外れてしまった島民が消える。それを見て周りの島民が笑う。
「馬鹿なやつだぁ」
「馬鹿なやつだぁ」
「自分からテンダ様に身を捧げるとはぁ」
「自分からテンダ様に身を捧げるとはぁ」
夏の太陽のようなひたすらに明るい笑い声が無数の音楽の中で反響し続ける。誰が発した声か、俺の頭の中に響く声なのか、四つ打ちのビートか、俺の鼓動か、全てが混濁していく。
「久我……久我っ……!」
手が空中を彷徨う。見える景色全てが、炎に揺れる白昼夢のようだった。
「どういうことなんだ……! 久我……!」
これは悪夢か、地獄か。
「僕はここだよ」
後ろから胸元に手を回され、耳元で囁かれた。そのアルトに息が漏れる。
思いがけないほどの安堵。けれど振り返ると、久我の肩を掴んで揺さぶった。
「お前のせいだ久我。お前が俺をっ!」
久我の肩は握りこめてしまうくらいに薄かった。
「ふふふユウキくん。安心してよ、死ぬ時は一緒にいてあげるから」
そう言って久我はすごく綺麗に笑った。脳が焼き切れそうだった。
ロック研のやつらはもうほとんどいない。残された数人も、虚ろな笑顔を浮かべて夢遊病のように踊り続けている。
「逃げるぞ久我!」
手を引いて全力で走った。
「アハハハハハハ、逃避行だね」
「お前らどこいくんだぁ」
「ナはははははっ逃げる気だぁ」
「二人くらいええよぉええよぉ」
みんなが笑っている。心の底から笑っている。四方八方から笑い声が聞こえる。
笑顔の島民を突き飛ばして輪を抜け、さらさらとした砂が靴の中に入り込むのも構わず、走り続けた。
柔らかな白亜の砂浜に何度も足を取られそうになる。その度に、ついに俺の番かと思う。足元の砂浜はそれの支配下だ。いつ食われるかわからない。
どこに行けばいい。強烈な香の匂いは島中を覆っている。EDMのビートは地から響く。
久我の手を引く左手がベトベトした汗で滑る。
胃から酸っぱいものが込み上げてくる。酸がカラカラになった口内を焼く。
走るしかない、どこまでも。
這うように、倒れるように。
とにかくどこかへ……!
バラバラバラという低音が空から降ってきた。空からもか!
どこにも逃げ場はないのか。
身構えたが、久我が俺の腕を引くと空に向かって大きく手を振り始めた。ついにこいつも完全に狂ったか。
「おーい、こっちだよ」
あまつさえその何かを呼び寄せようとする。
「おいバカ、やめろ。気づかれる!」
必死で久我の服を引っ張るが、次の瞬間カッと白色の光が視界を覆い、思わず目をつぶった。
終わった。
俺はここで死ぬんだ。
死を覚悟してぎゅっと目をつぶる。
しかし、
「ユウキくん。そんなに怖がらなくていい」
久我が穏やかな口調で言った。優しく肩を叩かれる。
恐る恐る薄目を開ける。目の前には久我の妖艶な笑み。
「迎えがきたんだ。ヘリだよ、ヘリ」
久我の言う通り見上げれば、空に現れたのは自衛隊が使うような巨大なヘリコプターだった。
でも、
「迎えって何を言ってるんだ!」
「それはね……」
俺の疑問に答えるように、
『沈丁お嬢様、お迎えに上がりました。ご無事でしょうか』
ヘリから拡声器の声が聞こえてきた。
*
転がるようにして俺たちはヘリに乗り込み、あの陽気で不気味な島から逃げ出したが、狂ったように流れるEDMは空高くここまでも聞こえてくる。
「ユウキくん、危機一髪だったね」
俺と対面で座った久我は興奮したように目を輝かせる。
その様子を眺めながら、俺はヘリのシートに体を沈めた。精も根も尽き果てていた。
ようやくまともに頭が回り始めた。
目の当たりにした惨状をようやく現実として認識し始めた。
「しかしどうして俺たちは襲われなかったんだ……」
連中が次々と砂の中の何かに襲われる中、俺たちだけは襲われなかった。今思うと不思議だ。
俺たちと他のサークルメンバーにどんな違いがあったと言うのか。単に俺たちは運が良かっただけなのか。
「ああ、それはあのテンダ様が子孫繁栄の神様だからだね」
「何の話だ?」
「太陽さんが言っていたじゃないか。テンダ様は子孫繁栄の神様だって。失恋したばかりの人間なんてテンダ様も食わないってわけさ」
「まさかそれで襲われなかったのか……じゃあ久我も失恋を?」
顔だけは驚くほどいいというのに、こいつも振られるなんてことがあるのか。意外だ。しかし、
「いや、僕はそうじゃない」
と久我はかぶりを振った。
「恋愛なんてものには興味なくてね。だから僕は君のそばにいたのさ」
「ん?」
どういうことだ?
だから俺のそばにいた?
「ほら、君のそばにいれば襲われないだろう? それが今回の僕の旅のプランだったわけさ」
唖然とした。
「つまりじゃあお前、俺に付き纏っていたのは俺が失恋したばかりだと知っていたからなのか! それで俺を盾にしようとしていたってわけか……!」
「そうだよ。おかげで無事に帰ってこられた」
あっけらかんと言うが、こいつは本当に……!
と言うか待て、
「プランってどういうことだ」
「燦燦島への旅行プランさ。人を多く誘ってね」
「……つまりなんだ久我。今回のサークル旅行の行き先がこの島になったのはお前のせいなのか?」
「そうだよ。格安で行けるハワイにも負けない南国の島があると言ったら代表が食いついてきてね。お陰様で間近で因習を体験できた」
「……」
絶句した。
「お前はあの島があんな島であると知っていたのか! 知っていてサークルの連中を呼んだのか!」
「そうだよ?」
きょとんとした顔で言い、
「しかし本当に楽しかったねユウキくん」
そう言って無邪気に笑う久我。
「俺はお前が何をしたいのか全くわからない。お前のせいで一体何人の人間が死んだと思ってるんだ。それに、俺やお前だって下手をすれば死んでたんだぞ……」
「何を言っているんだユウキくん。下手をすれば死んでしまうからこそいいんじゃないか。死の危険がないのなら、いかにももっともらしく作られた陳腐なパニック映画でも観てればいい。自ら現地に行って体験することに意義があるんだ。それにね、僕のせいで人が死んだと君は言うけれど、僕があのサークルを誘わなかったとしても、島民たちは別の観光客を招き入れて『テンダ様』に捧げていただろうさ」
「それなら、あの島の人間を法律でしょっぴけばいい。あんな因習があること自体がおかしいんだ」
「それでどうする気だい? 生贄が捧げられなくなったことで『テンダ様』の怒りに触れて、本土にまであの化け物どもが押し寄せることになったら、人類全体に危険が及ぶことになったとしたら、君はその責任を取れるのかい?」
「それは……!」
「あれは必要悪なのさ」
そう言って久我は、いつもの妖艶な笑みを浮かべた。
「政府公認のね」
政府?
「何を……」
俺の言葉を待たず、久我はにっこりと笑った。
「日本にはあの島と同じような因習村が数千あり、日本政府はそれを全て黙認している。怪異から何も知らない一般人を守るためにね」
「……」
「そうさ、この日本そのものが、因習に塗れた極東の因習アイランドだというわけだ」
プロペラが回転するバラバラという音の向こうに、EDMの激しい四つ打ちのビートが聞こえる。それはどこまでいっても俺の頭の中から離れることのない通奏低音のようだった。
「ところでユウキくん。北の大地の山奥に夏でも雪に閉ざされた因習村があるという話を知っているかい? なんでも
俺は一体何に魅入られてしまったのか。
「君も一緒に行ってくれるよね?」
全く邪気のない表情で、久我は艶かしく笑った。
『久我沈丁の因習観察録 〜ブリザード因習マウンテン編〜』へ続く
久我沈丁の因習観察録 〜トロピカル因習アイランド編〜 丹波林檎 @tanbaringo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます