セカンド・ポリス
藤光
Second police
警察に残された時間は少ない。被害者の父親の我慢は限界にきているようだった。事件の発生からはもう数ヶ月が経過している。あれは茹だるような暑さに汗が止まらなかった夜の出来事だった。いま戸外で
「まだなんですか」
まだヤツは逮捕されないのかと、英賀をはじめとしたN警察署の刑事はここ数週間父親から問い詰められどおしになっている。
「いま詰めの捜査を行なっているところです。もう少し、もう少し待ってください」
英賀の部下、若い
「こっちはもう何ヶ月も待っているんだ。みんな知ってるんだぞ事件が『死紋』の連中の仕業だって。こうしている今も、ヤツらはろくでもないことをしてるに違いないんだ。ああ、オレはもう。冬がきて……娘の体調も悪化している。国へ帰りたい」
「お気持ちは分かります。娘さんのことも……必ず、来週までには犯人逮捕の目処をつけますので……」
「来週? いまにすぐにではなくて? ……もう、どうしてこんなに警察は頼りならないんだ。やっぱり、SJに頼めばよかった。犯人はアイツだ、
「落ち着いて、そんなことを言ってはいけません」
それから30分、激昂する父親の気持ちをなだめて、落ち着けて、英賀たちはその小さくみすぼらしいアパートの玄関を出た。「警察には任せられん。もういい!」という罵倒に「お邪魔しました、失礼します」と返す。事件捜査のためには被害者の協力が不可欠だ。いま被害者に事件から降りられれば、この半年間の捜査が無駄になってしまう。ため息とともに吐いた言葉が凍りつきそうな夜だった。
「『まだなんですか』か。そりゃ、ぼくの気持ちもそうですよ」
「うん……」
「まだなんですかね、班長。犯人は割れているんだ――。いつ、やつを逮捕するんですか。ぼくは被害者の女の子が気の毒で気の毒で……。女の子の親父さんだってなにか思い詰めているようだし」
「
「でも、嫌な感じですよ……こう、なにかよくないことが起こりそうな」
被害者のアパートからN署へ戻る自動車の中で、被害者を渡会に立場を変えて同じようなやりとりが続いた。事件捜査は大詰めを迎えて行き詰まっていた。時間がかかりすぎている。焦っているのは渡会だけではない。英賀は不安に心臓を鷲掴みにされていた。あの父親のいうSJとはなんだろう? 「SJに頼む」とはどういう意味だ? するとなにが起こるんだろう。
そうなる前に犯人の――長門田大吾の身柄を押さえなくては。
夏、静かな地方都市であるN市である事件は起きた。市内の中学校に通う女子生徒が行方不明となり、三日後、隣町との境にある山中で発見されたという事件だ。保護された当時、被害者の女子生徒は、両手両足骨折という重傷で、複数人から何度も性的暴行を受けた痕跡がみられた。
センセーショナルな事件だったが、報道の扱いは意外に小さく、全国的にはほとんどニュースにならなかった。それは地方都市の事件ということに加え、事件の被害者が外国籍、すなわち国に不法残留状態にある外国人だったからだ。その上、従来からここに住む市民と新たに流入してきた外国籍をもつ市民との間で、さまざな軋轢が生じてきたN市では、更に不穏な噂が流れていた。
この事件は、最近N市の裏社会で幅を効かすようなった半グレ集団「
火のないところに煙は立たない――という。警察が捜査を進めると、あっけないほど早くその噂は裏付けられた。長門田大吾は完全に
しかし、犯人の特定が終わっても、警察上層部から犯人逮捕の指示は現場に下りてこなかった。一ヶ月経ち、二ヶ月が過ぎるうち、長門田大吾の早期逮捕に向けて焦りを深めるN警察署の刑事たちは、被害者とその関係者周辺の聞き取り捜査を進める中で、SJという符牒を聞くようになっていた。SJ……なんらかの組織を示す符牒のようだが、警察はその正体について掴めないでいた。
「捜査会議の結果は、明後日の長門田逮捕……今度こそ間違いありませんね」
「……そうだ」
被害者の父親と会った翌日、この事件を担当する刑事・英賀は、薄暗い廊下の端で、会議を終えたばかりの刑事課長を捕まえることができた。
「それがどうしたというんだ」
課長の返事は上の空で、目を合わせようともしない。とても信用できるような人ではない――と英賀は歯噛みした。
「長門田大吾逮捕に向けて、英賀班の4名と町田班からの応援2名を準備させます。その他、『死紋』のメンバーの逮捕には……」
「英賀班長」
「はい」
「なにもそんなに、慌てて犯人逮捕の準備を進める必要はないんじゃないか?」
「どういう意味ですか」
嫌な予感がした。刑事課長は以前からこの件に関しては熱心でない。英賀は自分の気持ちが冷えて固くなっていくのを感じた。
「いやなに、犯人の逮捕はこれまで何度も本部からの指示で延期になっている。その事情を考えれば……わかるだろう?」
「分かりません」
「……被害者は不法滞在の外国人だ。われわれ日本人から仕事を奪う好ましからざる輩だよ。強制退去させるのが、一番だ。どうしてそんなヤツらのためにわざわざ警察力を使って犯人を捜査しなければならん? 事件を不法滞在外国人に対する当然の報いと考える市民も多い」
彼らへの報いだって? 事件後の被害者の状態を考えれば、反吐がこみ上げてくるような言い草だ。引き裂かれた衣服、赤黒く腫れ上がった顔、泥だらけの身体を抱いて震える手。まだ中学生の彼女にどんな罪があったというのか。
「……『死紋』は、ほかにもさんざん不法行為を働いてきた半グレ集団で、ずる賢い反社組織だ。この件でやっと尻尾を掴んだんです。それをいま放すわけにはいかんでしょう」
「もうひつの問題がそれだ。旧車愛好会『死紋』は半グレ集団だという噂があるが……」
「噂ではありません。事実です!」
課長は英賀の反論を黙殺した。
「会員には現N市長である長門田栄作氏の息子さんが含まれている」
長門田大吾は単なる会員ではない。「死紋」創設時からのメンバーであり、現在の代表者だ。
「長門田市長は全国市長会の副会長を務め、次の衆議院議員選挙への出馬も取り沙汰されるH県でも指折りの実力者だ。現在、三期目を目指して市長選挙を戦っている。『死紋』の捜査は時期が悪い」
「市長選挙に影響があるからですか」
なにを当たり前のことを聞くという目だった。
「公正な選挙は民主主義の根幹だ。警察は公正な選挙を守りこそすれ、妨害するようなことはできんよ」
「長門田が市長であり続けること自体が不公正です」
「ぼくがしているのは候補者の品性の話ではなく、選挙制度の話だよ」
「わかってますよ……そのくらい」
「とにかく、長門田大吾の逮捕については現態勢のまま保留だ。決して逮捕しないわけではないが、直ちにというわけでもない……わかるね、英賀班長」
よく分かる。選挙を理由に先延べ、先延べされるうちに逮捕そのものが、うやむやにされてしまう。県警上層部にはH県内に大きな勢力をもつ長門田市長と事を構えるつもりがないということだ。しかし、この捜査方針に渡会ら若い刑事たちが納得するかどうか。
「本当ですか」
「また長門田の逮捕は、日延べですか」
「課長のおっしゃることとはいえ、納得できません」
案の定、英賀班の若い班員たちは上層部の方針に反発した。
「犯人逮捕より、市長の選挙活動が優先だなんて――被害者に言えるわけがないじゃないですか。課長は現場のことをなにもわかっていない」
「まだ、やつを、長門田大吾を野放しにしておくんですか」
「お前たちの気持ちはわかるが――選挙が終わるまで、選挙が終わるまでの辛抱だ」
英賀には、一週間後に迫った市長選挙の投票が一区切りという希望があった。長門田大吾の父、長門田栄作はその強引な政治手法が批判を浴び、市長選挙で苦戦しているという情報が入っていた。父親が市長選挙に落選すれば――。
「必ず、長門田逮捕の機会はやってくる。それまでの辛抱だ」
英賀はそう言って部下たちをなだめ、事件着手は日延べとなった。
その二日後、長門田の家へ家宅捜索に入り、犯人を逮捕するはずだった夜。風呂を済ませた英賀は遅い夕食をとっていた。
――本来なら今ごろは、逮捕した長門田を本署で取り調べでいるはずだったんだ。
泥だらけの女子中学生、激昂する父親、考えだすと無念の思いが募ってくる。
――逮捕したかった。
ビールでも飲んで嫌なことは忘れようと冷蔵庫の扉を開いたそのときだった。携帯電話が鳴った。宿直勤務についている部下の渡会からだった。
「もしもし」
『班長? 渡会です。お休み中のところすみません。すぐに本署へ集まってください」
「事件か?」
『発砲事件です。被害者は重体です』
「どこで!? だれが撃たれた!」
携帯電話の向こうで、渡会が一瞬言い淀んだ。
『それが……、撃たれたのは長門田なんです』
「長門田! 長門田大吾が撃たれたのか!? すぐ行く、すぐに行くから待っていろ!」
英賀は、すでに寝室に入っていた妻に、事件で職場へゆく――とだけ言い残すと、いつもの背広に着替え、真っ暗な街へ飛び出していった。
――長門田が撃たれた? そんなバカことが!
N警察署へ向かう車の中で、何度もそう繰り返し呟いた。そんなことがあってたまるか。もう少し、ほんの少しで逮捕することができたんだ。そうすればやつを罪に問うことができるんだ。だれの仕業知らんが、それを殺されてたまるものか。死ぬんじゃないぞ、長門田!
しかし、英賀がN警察署に到着するほんの数分前に、長門田は搬送先の病院で息を引き取っていた。女子中学生暴行事件の犯人は、永遠に英賀たちの手が届かないところへ行ってしまっていた。
英賀は、渡会を伴って長門田殺害事件の犯人捜索におおわらわとなっている警察署から現場である長門田の自宅に向かった。
「なにがあった?」
「複数の犯人が長門田の自宅に押し入って、長門田大吾を銃撃したようです。玄関ドアの鍵を銃で撃ち壊す荒っぽい手口です」
「いったい何者が」
「それは、現場で説明します」
「?」
まもなく到着した長門田大吾の自宅は大勢のテレビカメラと制服警察官に取り囲まれていた。真夜中にもかかわらず、報道のライトでしらじらと照らされているのは三階建ての大きな家である。現場保存の警察官や鑑識の捜査員をかき分けて屋内へ入ると、襲撃現場は一階の20畳はありそうなリビングだった。巨大な壁掛けテレビとソファセット、毛足の長い絨毯が血で赤く染まっていた。そして、サイドボードの並ぶ広い壁には奇妙な旗が――。
「なんだこれは?」
「犯人が残したものです」
白地に赤で絡み合った文字のようなものがデザインされている。一見すると、いびつな形をした日の丸だ。
「アルファベットの『S』と『J』が絡まるようにデザインされています」
「『S』と『J』? S Jか!」
それは暴行事件の被害者の父親が口走った言葉だった。
――S Jに頼めばよかった。
「Second Japan」
「なんだって?」
「セカンドジャパン――の頭文字だったんです。『セカンドジャパン』はインターネット空間に存在する複数のコミュニティから成る仮想国家です。その成員はこの国に住む不法滞在外国人だと言われています」
「仮想国家?」
「成員は税金を徴収される代わりに、その額に見合った行政サービスを受けることができるんです。教育、医療、福祉、警察……」
「警察だと?」
渡会は持っているスマートフォンを指し示すと、ある映像を呼び出した。インターネットのコミュニティサイトにアップされている動画のようだ。そのサムネイルには『Second Japan』の文字が見える。
動画の再生がはじまると、『S J』をデザインした旗が現れた。ずうっと画面が引いてゆき、目隠しをされて後ろ手に縛られた男が床に座らされている映像に変わった。撮影されたのはこの部屋で、縛られているのは、長門田大吾だった。
揃いの黒い制服に身を包み、手に銃を持った複数の警察官が、入れ替わり立ち替わり、長門田大吾に何ごとが質問を浴びせかける。外国語でその意味は分からない。長門田もなにが起こっているのか分からないのだろう。さかんに「助けてくれ」「殺さないでくれ」と周囲に頭を下げては哀願している。リーダー格の男が何やら宣告するかのように、声を高く叫んだ。と、同時に手に持っていた銃を発砲した。一発、二発、三発……、五発すべてが長門田の体に撃ち込まれて――動画は終わった。
「裁判の真似ごとです。中学生暴行事件の犯人として長門田は『死刑』を宣告され、即刻『処刑』されたようです」
☆
この事件は、S J――セカンドジャパンが、その警察権を行使した最初の事例として、長く記憶されることとなる。
暴行事件の容疑者が何者かに殺害され、その様子がインターネット上で公開されるという前代未聞の事件は、H県の警察力を総動員した捜査にも関わらず解決することなく、犯人はいまだ捕まっていない。数百にも上るインターネットコミュニティサイトの関係先が捜索され、数十人が取り調べを受けたが犯人グループを突き止めることはできなかった。それどころか、セカンドジャパンを名乗るコミュニティサイトは事件後に益々その数を増やし、そのすべてを捜査することなど、物理的に不可能
となりつつあった。
ところで、この事件の被害者である長門田大吾の父親、長門田栄作氏はこの事件を受けて、来日外国人の排斥を強く主張、息子を亡くしたことに同情票が集まったこともあって市長選挙に圧勝。市長として三期目の市政を任されることになった。
ことの発端となった暴行事件の被害者親子がどうなったのか。事件を担当する英賀刑事が事件翌日に被害者を訪ねたところ、アパートはもぬけの殻となっていたということである。その後、親子の姿を見た者はなく、セカンドジャパンが親子を保護したのではないかと長く噂された。しかし、それも噂だけでセカンドジャパンの存在を示すものは、なにもなかった。
ただ、憎悪と後悔と猜疑心だけが残った。
セカンド・ポリス 藤光 @gigan_280614
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