FLASHBACK
クニシマ
回想
竜之さんは私の青春に君臨する俳優であり、私の人生そのものといって差し支えない存在である。私が彼を知ったのは小学五年生の夏だった。当時流行っていた映画『時間への祈り』を姉が観たがり、家族全員で隣町の映画館へ行ったのだ。少しばかり理解に苦しむ部分もあったが面白い話だった。それに端役で出ていたのが、デビューから間もない二十三歳の竜之さんであった。物憂げな微笑みの似合う端正な顔に、細身ながら締まった体つき、やや上ずったような独特の声。そのすべてに少年の私は強烈な憧れを抱いた。どうしようもなく、ただ、格好いい人だと、それだけ感じた。
以来、私の心は常に竜之さんと共にあった。その容貌ゆえに、彼にはやはり女のファンが多くついていたが、私のような男も決して少なくはなかった。彼が人気絶頂だった三十代半ばの頃、どこぞの街中でファンに見つかってもみくちゃにされ、抜け出したときには帽子と上着、それから眼鏡までもがなくなっていたということがあったそうだが、その場にいたのはほとんどが男だったらしい。当時やっていたラジオ番組の中で、お気に入りの上着だったんだけどなあ、と残念そうに語っていた優しい声音をよく覚えている。気にするべきはそこじゃあないだろうと呆れながら、きっとこういう人だから私は彼を愛さずにはいられないのだと思ったのだった。
竜之さんの訃報を聞いてからちょうど一週間となる日、私は場末の小さな映画館を訪れていた。追悼として彼の出演作品を何本か上映しているということだったので、仕事帰りに立ち寄ってみたのだ。
館内に客の気配はほぼない。暮れかかった空から差す光が、入り口の扉に嵌まったガラスを経てロビーの床を照らしている。壁にずらりと貼られたポスターの中の数枚に竜之さんの姿があった。彼の代名詞ともいえる作品『伝来』はもちろんのこととして、なんと世間にはさほど知られていないが名作である『善き時よ!』までもが上映されているらしい。これをかけようと決めたのは相当な竜之さんのファンだろうと察される。
居並ぶ彼の表情ひとつひとつを眺めながらゆっくり歩いていると、『溜息の影』のポスターの前で若い男がひとり立ち止まっているのを見つけた。二十代後半くらいだろうか、長髪を無造作に首の後ろでくくった彼は、大写しになった竜之さんの横顔をしげしげと見つめている。私は思わず声をかけた。
「あの、これ、ご覧になるんですか」
男はこちらを振り向き、わずかに笑って応える。
「ああ……どうしようかと思ってまして。面白いですか、これ?」
私は勢い込んで頷いた。
「ええ、面白いですよ。私は大好きです。竜之さん……主演のね、佐橋竜之さんが、格好いいんですよ」
「へえ、そうなんですか」
男の目に興味ありげな色が浮かんだのを見て、ついつい口が動く。
「これはですね、竜之さんが三十になるかならないかぐらいの頃の作品なんですけども、この当時の彼はちょうどあなたみたいに髪を伸ばしてまして、これがまあよく似合ってたんですよ。苦労の多い人でしたから、白髪頭になるのもだいぶ早かったんですけどね、でも昔は本当に綺麗な黒髪で。まあ、あんまりね、『伝来』だとか『州々の生存者たち』やなんかと比べたら、そこまで有名じゃあないでしょうけど、その辺りの作品に勝るとも劣らないくらいに素晴らしいと、私としては思いますね」
そこまで言ってから、まくし立てるようになってしまったことに気がついて恥じ入った。しかし男は戸惑う様子もなく微笑んでいる。
「なるほど。お詳しいんですね」
「いや、詳しいというほどのことは……」
観てみようかな、と男がつぶやくのを聞いて、私は思わず「ぜひ。なんなら奢りますよ」とチケットカウンターの方角を指し示した。
「えっ、いいんですか」
「ええ、もう、むしろ奢らせてください。若い人に竜之さんを知ってもらえるのが嬉しいんです」
そういうものですか、と不思議そうな顔をする男をよそに、私はさっさとカウンターへ向かい『溜息の影』のチケットを二枚買った。
三番スクリーンに私たち以外の人影はない。中央の席に陣取り、上映が始まるのを待つ。しばらく適当な雑談をしているうちに照明は落とされ、配給会社のロゴマークがスクリーンに映し出された。
当時気鋭の新人だった
冒頭、自らの死を知って愕然とする表情がまず美しく、かすかに汗ばんだ首筋に髪の数本がまとわりつくさまは恐ろしいまでに色っぽい。震える声で恋人の名を呼ぶその口元の小さなほくろが目を惹く。
場面は移り変わり、幸せであった頃のふたりが楽しげに笑い合う光景が映った。窓から東京タワーが見える部屋の中、並んでソファに腰かけた彼らは旅行雑誌を開いてあれこれと喋っている。今年の夏は海へ行こうということで話がまとまり、ふたりは肩を寄せ合って音楽を聴き始めた。
『……ねえ、コウジさん。』
その呼びかけに、コウジは優しい目をして『なに?』と応える。ナナコは『笑わないでね』と小首をかしげてみせた。今や大女優である伊町美優子だが、この頃の演技には年相応の無邪気さが垣間見える。
『笑わないよ。どうしたの?』
『あのね。幸せね、わたしたち。世界でいちばん。』
『うん。そうだね。一番だ。……でも、ちょっと、こわくてさ、ボク。』
『どうして?』
『幸せすぎて。……なんてね、ハハ、情けないな。』
『ふふ、ううん、ほんとにね。幸せすぎて……。ねえ、コウジさん、あのね、いなくなったりしないでね。浮気なんか、絶対、絶対しないでね。』
『まさか。そんなこと、するわけないよ……。』
そんな日々を思い返しながら、コウジはもはや抱きしめることも叶わない恋人の傍で膝をつく。ふたりの視線が噛み合うことは決してないが、どちらの頬にも同じほど透きとおった涙が伝っていた。
季節は移ろい、ナナコの前には彼女に恋をする男が現れる。男はだんだんとナナコの悲痛を癒していき、やがてふたりの間には確かな愛が芽生えた。そしてクリスマスの夜、男は東京タワーの根元でナナコにプロポーズをし、彼女もそれを受けようとするが、その瞬間ふいに懐かしい匂いを嗅いだような気がして思わず振り向く。
『コウジさん? ……いるの?』
しかしその目は何もない空中をさまようばかりだ。コウジはそっと微笑してつぶやいた。
『……まさか。』
夜風に吹かれた髪がその表情を隠したとき、彼の姿は灰が散るようにしてかき消え、後には泣き崩れるナナコと彼女を抱きしめる男だけが残された。
エンドロールが終わり、照明がすべて灯るまで、私たちは座席に深く腰を下ろしたままでいた。
「いやあ、よかったです。ありがとうございました」
「ああ、本当ですか。いやこちらこそよかったです。ありがとうございます」
ロビーに出ていきながら、男は何気ない様子で髪をほどいた。それが今しがたスクリーンに映っていた竜之さんと似ているように見えたので、私は彼が髪を結び直そうとするのを止めて言った。
「その格好、竜之さんみたいですね」
彼はきょとんとした顔になり「そうですか?」と言いながら指先で髪の毛をつまむ。
「はい。よく似てらっしゃって、ご親戚か何かみたいですよ」
「はは、まさか。……あ、今、ちょっと似てましたかね。まさか、ってね」
「ええ、ええ」私は何度も頷いた。「そっくりでした。そっくりでしたよ……」
それから何とはなしに連れ立って映画館を出た。外はすっかり日も落ちて、暗い空に月が浮かんでいる。男は足を止め、まっすぐに私のほうを向いて軽く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。それじゃあ、さよなら。」
うっすらと笑みをたたえた唇の端にごく小さなほくろがあると、そのときになってふと気がついた。夜の街を縫う風に触れ、長い髪がわずかになびいている。ぞっとするほどに、その姿は映画の中の竜之さんとまるで同じだった。けれども彼は消え去らず、そのまま私に背を向けて、ゆっくりと遠ざかっていく。私はそれが無性に嬉しく、ただその場に立ち尽くし、いつまでも彼を見送っていた。
FLASHBACK クニシマ @yt66
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