二
大正七年の秋であった。当年の明子は鎌倉の別荘へおもむく途中、一面識のある青年の小説家と、偶然汽車の中でいっしょになった。青年はその時編棚の上に、鎌倉の知人へ贈るべき菊の花束を載せておいた。すると当年の明子──今のH老夫人は、菊の花を見るたびに思い出す話があると言って、詳しく彼に鹿鳴館の舞踏会の思い出を話して聞かせた。青年はこの人自身の口からこういう思い出を聞くことに、多大の興味を感ぜずにはいられなかった。
その話が終わった時、青年はH老夫人に何気なくこういう質問をした。
「奥様はそのフランスの海軍将校の名をご存知ではございませんか」
するとH老夫人は思いがけない返事をした。
「存じておりますとも、Julien Viaudとおっしゃる方でございました」
「ではLotiだったのでございますね。あの『お菊夫人』を書いたピエル・ロティだったのでございますね」
青年は愉快な興奮を感じた。が、H老夫人は不思議そうに青年の顔を見ながら何度もこうつぶやくばかりであった。
「いえ、ロティとおっしゃる方ではございませんよ。ジュリアン・ヴィオとおっしゃる方でございますよ」
(大正八年十二月)
舞踏会 芥川龍之介/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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