舞踏会
芥川龍之介/カクヨム近代文学館
一
明治十九年十一月三日の夜であった。当時十七歳だった──家の令嬢
明子は
が、鹿鳴館の中へはいると、間もなく彼女はその不安を忘れるような事件に遭遇した。というは階段のちょうど中ほどまで来かかった時、二人は一足先に上って行く
二人が階段を上り切ると、二階の舞踏室の入口には、半白の
舞踏室の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れていた。そうしてまた至る所に、相手を待っている婦人たちのレエスや花や
が、彼女がその仲間へはいるやいなや、見知らないフランスの海軍将校が、どこからか静かに歩み寄った。そうして両腕をたれたまま、ていねいに日本風の会釈をした。明子はかすかながら血の色が、頰に上って来るのを意識した。しかしその会釈が何を意味するかは、問うまでもなく明らかだった。だから彼女は手にしていた扇を預かってもらうべく、隣に立っている水色の舞踏服の令嬢をふり返った。と同時に意外にも、そのフランスの海軍将校は、ちらりと頰に微笑の影を浮かべながら、異様なアクサン(アクセント)を帯びた日本語で、はっきりと彼女にこう言った。
「いっしょに踊ってはくださいませんか」
間もなく明子は、そのフランスの海軍将校と、「美しき青きダニウブ」のヴァルス(ワルツ)を踊っていた。相手の将校は、頰の日に焼けた、眼鼻立ちの鮮やかな、濃い
彼女はその優しい言葉に、恥ずかしそうな微笑を酬いながら、時々彼らが踊っている舞踏室の周囲へ眼を投げた。皇室のご紋章を染め抜いた紫
しかし明子はその間にも、相手のフランスの海軍将校の眼が、彼女の一挙一動に注意しているのを知っていた。それは全くこの日本に慣れない外国人が、いかに彼女の快活な舞踏ぶりに、興味があったかを語るものであった。こんな美しい令嬢も、やはり紙と竹との家の中に、人形のごとく住んでいるのであろうか。そうして細い金属の
が、やがて相手の将校は、この児猫のような令嬢の疲れたらしいのに気がついたとみえて、いたわるように顔を覗きこみながら、
「もっと続けて踊りましょうか」
「ノン・メルシイ」
明子は息をはずませながら、今度ははっきりとこう答えた。
するとそのフランスの海軍将校は、まだヴァルスの歩みを続けながら、前後左右に動いているレエスや花の波を縫って、壁ぎわの花瓶の菊の方へ、悠々と彼女を連れて行った。そうして最後の
その後またポルカやマズュルカを踊ってから、明子はこのフランスの海軍将校と腕を組んで、白と黄とうす紅と三重の菊の籬の間を、階下の広い部屋へ下りて行った。
ここには燕尾服や白い肩がしっきりなく去来する中に、銀やガラスの食器類に
フランスの海軍将校は、明子と食卓の一つへ行って、いっしょにアイスクリイムの
「西洋の女の方はほんとうにお美しゅうございますこと」
海軍将校はこの言葉を聞くと、思いのほか真面目に首を振った。
「日本の女の方も美しいです。ことにあなたなぞは──」
「そんなことはございませんわ」
「いえ、お世辞ではありません。そのまますぐにパリの舞踏会へも出られます。そうしたらみんなが驚くでしょう。ワットオ(十八世紀フランスの画家)の画の中のお姫様のようですから」
明子はワットオを知らなかった。だから海軍将校の言葉が呼び起こした、美しい過去の幻も──
「私も、パリの舞踏会へ参ってみとうございますわ」
「いえ、パリの舞踏会も全くこれと同じことです」
海軍将校はこう言いながら、二人の食卓を
「パリばかりではありません。舞踏会はどこでも同じことです」と半ば
一時間の後、明子とフランスの海軍将校とは、やはり腕を組んだまま、おおぜいの日本人や外国人といっしょに、舞踏室の外にある星月夜の露台にたたずんでいた。
欄干一つ隔てた露台の向こうには、広い庭園を埋めた針葉樹が、ひっそりと枝をかわし合って、その
もちろんこの露台の上からも、絶えずにぎやかな話し声や笑い声が夜気を揺すっていた。まして暗い針葉樹の空に美しい花火が揚がる時には、ほとんど人どよめきにも近い音が、一同の口から
「お国のことを思っていらっしゃるのでしょう」と半ば甘えるように尋ねてみた。
すると海軍将校は相変わらず微笑を含んだ眼で、静かに明子の方へ振り返った。そうして「ノン」と答える代わりに、子供のように首を振ってみせた。
「でも何か考えていらっしゃるようでございますわ」
「なんだか当ててご覧なさい」
その時露台に集まっていた人々の間には、また一しきり風のようなざわめく音が起こり出した。明子と海軍将校とは言い合わせたように話をやめて、庭園の針葉樹を圧している夜空の方へ眼をやった。そこにはちょうど赤と青との花火が、
「私は花火のことを考えていたのです。われわれの
しばらくしてフランスの海軍将校は、優しく明子の顔を見下ろしながら、教えるような調子でこう言った。
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