僕は果ての海辺を歩く

待居 折

その日の午後

 ほんの少しの風と、寄せては返す静かな波。

 散歩の様に、波打ち際を歩いた。

 …嘘だ。あまりに必死な形相だったらすれ違う人に驚かれてしまうから、散歩のふりを決め込んでいた。


「あんたもかい」


 急に声をかけられて、僕は思わず固まった。その様子がよほどおかしかったのか、老人は「ふふっ」と笑った。


「探しに来たんだろう?噂の貝殻を」


 動揺が隠せないまま口を突いた。


「なんで…どうしてそれが?」


「分かるよ。あの貝を求めに来た人はね、皆同じ目をしてる」


 海辺で出会うにしては、老人のシャツとスラックスは小綺麗だった。


「うちに来なさい。どうせ他に行く宛てもないんだろうし」




 海にほど近い小さな小屋に、老人は僕を案内してくれた。


「ささ、狭いところだけど。適当に座って」


 言われるまま、腰を下ろした。必要最低限の家財道具しかない中、古めかしいアイロンだけが目に付いた。


「どうぞ」


「…ありがとうございます」


 出されたコーヒーの香りに、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。


「君は…誰を?」


 老人の問いかけにも、今ならきちんと答えられる。


「恋人です。…結婚の予定も」


「それはそれは…まぁ…こんな事を私が言ったところで何だが、辛い目に遭ったね」


「お爺さんはどなたを?」


 その返答で分かった。大切な人を失くしてしまった者の喪失感は、誰に何を言われたところで何の足しにもならない。

 この老人も、大切にしていた誰かを失ってしまったのだ。でなければ、あんな返事にはならない。


「妻だよ。四十年、連れ添ってくれていた」


「そうでしたか…」


 僕には何も言えなかった。知っているからだ。

 ひとつとして、この世の中に同じ形の悲しさなどない事を。つまり、他人の悲しさを完全に理解出来る人などいない事を。


「…もう、長いんですか?」


「ここへ来てから…九年だね。九年と半年」


 小さな卓上カレンダーを見ながら、老人は答えた。


「随分いらっしゃるんですね」


 僕の一言に、老人はまた「ふふっ」と声を漏らした。


「暮らしてみれば、それほど長くも感じないものだよ。それに…私たちには希望がある。そうだろう?」




 希望。老人はそう言った。

 失くしてしまった大切な人。そのの声を聴ける貝殻が打ちあがる海がある―。

 大好きだった彼女を失い、それでも会いたくて、でもどうしようもない僕が縋ったたったひとつの情報。それがこの場所だった。

 ここは遠かった。仕事を辞めて貯金を切り崩し、船と飛行機を何度か乗り継いで、やっと辿り着けた。

 そうまでして彼女の声を聴きたいのかと自問自答した事もあった。

 その答えがこれだ。今、僕はその海に来ている。

 

「妻はね、」


 老人が静かにカップを置いた。


「私のこざっぱりとした着こなしが好きでね。良く褒められたものだったよ」


 柔らかな微笑みを前に、納得した。


「だから、今もアイロンを」


「妻の声を聴く時に、おかしな恰好をしてるわけにはいかないだろう?向こうでがっかりさせたくないからね」


 老人は、三度みたび声を上げて笑った。つられて僕も笑いながら、もっともだと思った。




 目を覚ますと、大体、老人はいなかった。そんな時、僕はコーヒーを淹れ、パンを焼く。香ばしい香りが小屋の中を満たす頃、老人は浜辺の散策を終えて戻ってくる。


「おはよう、いつも済まないね」


「いえ、僕の方こそお世話になってますから」


「お世話している覚えはないんだけどなぁ」


 決まって同じようなやり取りの後、二人で朝食を済ませる。何を話すでもない、でも心地良い静けさに、たまに穏やかな波の音が混じる。

 そこからは僕の順番だ。昼になるまで、貝殻を探しながら海辺を歩く。

 空はいつでも薄い青。波はずっと凪いでいる。海風はたまに吹くけどきつくない。この世の色んな音を忘れてきたような浜辺を、視線を少し先の下に向けて、ただ歩き続ける。

 白髪交じりの女性、子供を連れた父親、兄と妹の幼い兄弟…時折、同じように視線を落として歩く人とすれ違う。

 その誰もが目的は一緒だと思うと不思議な親近感を覚えたりもして、すれ違う時に軽く会釈するようにもなった。

 太陽を目安に小屋に戻って、老人と昼食にする。午後からはまたどちらともなく海に出向き、残った方は小屋で静かに時間を潰すか、夕食の魚を釣る為、小屋のすぐそばの岩場に出かける。

 戻ってきたら交代。陽が暮れるまでまた海辺を歩く。夕食を終えたら風呂に入り、早々にベッドで横になる。


 僕の毎日は、殆ど変わらずこんな風に過ぎていった。誰かに介入される事も、何かに心を乱される事もないこの日々に、僕は少なからず満足していた。

 なにより、静かに積み重なる毎日の先に、彼女の声を聴ける可能性があると考えただけで、かさついた心が潤いで満たされていくのを感じられた。

 それでも、どうしてもやりきれない思いがふつふつと湧いてきてしまう夜もある。失ってしまった悲しみが蘇って、眠れない日もある。

 そんな時、老人は決まって僕の相手をしてくれた。僕が話したい時には黙って耳を傾け、何も話したくない時にも、ただ黙ってコーヒーを淹れてくれた。


「どうしてここまでしてくれるんですか?」


「どうして…か」


 僕の問いに口をつぐんだ老人は、静かにカップを置いて手を組んだ。


「君と私の事情は、きっと全く形が違うものだと思う。…でもね、私が味わった悲しみは、君のそれと…寸分たがわず同じとまではいかないけど、限りなく似ているはずなんだ。だから、寄り添いたいんだよ。私も昔、そうしてもらった」




 何年か経ったある日。

 戻ってきた老人の様子が、明らかにおかしかった。いつもは僕なんかより血色が良いのに、紙みたいに白い顔で黙って帰って来ると、夕食も口にしないまま横になってしまった。

 その日を境に、老人は目に見えて弱っていった。海にも行かなくなって、食事の量が減った代わりに、ベッドにいる時間が増えてきた。


「弱っていますね…もうそれほど長くないでしょう」


 医者はこういう場面に慣れている。でも、その宣告は僕にとっては充分に残酷だった。


「どうしようもないんですか?お金ならあるんです」


 本当は、もう言うほど残っていない。でも、なんとかして欲しかった。


「難しいね」


 医者の返事は短かった。


「なにより、本人に生きようって気持ちがないんだから」


 なぜだろうと考えるまでもなかった。僕がここに来てから、ずっと心の片隅で恐れている、ひとつの可能性。


「…見つけたんですね、あの日」


 枕元に座って話しかけた。老人は目を開けない。


「そして…聞きたくない言葉を聞いてしまったんですね」


 二人で過ごした毎日の、その全てがずっと幸せに彩られていたわけじゃなかった。思いの丈をぶつけて言い争う事もあれば、ベッドで泣いてしまうような夜もあった。何日もろくに口をきかなかった時だってある。

 彼女を失くした僕には、そんな毎日さえも大切な思い出だ。今でも色鮮やかに、はっきりと思い出せる。

 でも、相手が僕と同じだったとは限らない。同じ思いであって欲しいと思いながらも、実際はそうとも限らないだろう事に、僕は薄々感づいていた。

 思い返せば、彼女の言いたい事や伝えたい事柄を、分かったつもりで分かっていなかった…そんな小さな喧嘩が、どれほどあっただろうか。

 どうやらその心配は的中してしまったようだった。横たわる老人は黙ったまま、否定も肯定もしない。でもそれが、僕にとっては分かりやすい答えだった。

 これからも貝殻を探す僕に、自分の一言で希望を失わせるわけにはいかない。かと言って、嘘をついて取り繕うほどの余裕も残されていない。

 目をつむる老人の沈黙は僕に、この先起こり得る事の全部を語った。


 ほどなくして、僕は独りになった。

 恩人が二度と目を開けなくなった日、僕は彼女を失ってから初めて泣いた。

 



 それから何年が経ったか、もう良く覚えてはいない。

 僕は、老人から譲り受けた小屋に手直しを加えながら、今も住み続けていた。勿論、貝殻を探すのも諦めていない。

 

 …正直に言うと、あの老人が亡くなった時、僕は岐路に立たされた。このまま彼女の影を追い続けるか、全てを止めてしまうか。

 このまま貝殻を探し、万が一見つけたとして、長い時間を費やした結果が望まない言葉だったとしたなら、僕の心は耐えきれるだろうか。老人のようにたちどころに壊れてしまわないとも限らない。怖くて眠れないまま、何日も何日も悩んだ。

 そんな僕の前にあの日現れたのは、砂浜にへたり込んで泣き続ける若い女性だった。


「…君も、貝殻を?」


 返事はなかった。ただ、海に向かって大声で泣いていた。放っておくわけにもいかず、僕は傍に立ったまま、一緒に彼方を眺めていた。


「すいませんでした…せっかく声をかけていただいたのに…」


 しばらく後、まだ少ししゃくり上げながら、女性は僕に頭を下げた。


「気にしなくて良いよ。ここに来る人は同じものを抱えてるから」


 そう言うと、彼女は泣きはらした目を僕に向けた。


「じゃあ、貴方も?」


「ここを訪れる人は、みんなそうだよ。僕は…結婚の約束をしていた彼女を。君は?」


 僕の問いに答える前に、彼女はまたその場に崩れ落ちた。泣き喚く声が辺りに響く。僕はまた、黙って彼女が泣き止むのを待った。


「…何度も何度も…すいません…」


「僕は大丈夫。それより、君は大丈夫かい?」


 出会ってから、彼女の話し声よりも泣き声ばかり聞いていた。だから、単純に心配だった。


「大丈夫…じゃ…ないのかな、うん…大丈夫ではないですね…これだけ泣いてるんだもの」


 自分を確かめるように、彼女はうつむきながら繰り返した。


「仕方ない事だよ。気にしたらいけない」


 なだめるように言うと、彼女は涙をいっぱい溜めた眼を僕に向けた。


「愛した人の、せめて声だけでも聴きたくてここまで来たんです…でも、ここに辿り着いてみたら、私…本当にあの人を失ってしまったんだ、もう会えないんだって突き付けられた気がしてしまって…」


 そこからの彼女は、また言葉にならなかった。

 そして泣き声をまた耳にしながら、僕はもうずっと忘れていた事を思い出させてもらった。




 笑顔が見たい。なんなら、笑ってなくても良い。怒っていても、むくれていても、あの顔が見たい。

 ぬくもりを感じたい。ちょっとでも寒いとすぐに押し付けてくる、あの冷え性の肌を感じたい。

 髪に触れたい。コンプレックスがあるから、僕が触るのはあんまり良い顔しないけど、それでも構わない。

 一緒に出掛けたい。外に出る事自体好きじゃなかったけど、あの映画の続編が始まってるから。

 願い望む事なら、数えきれない。でも、そのどれもがもう叶う事はない。

 たったひとつを除いては。

 そう。僕には失った彼女の声を―何を言われるかは別として―まだ聴ける可能性が残されている。

 この日をきっかけに、うじうじと迷う事はなくなった。




「ただいまー、戻りました」


 出会った頃は毎日泣いていた彼女も、涙を見せない日が増えて随分経った。


「おかえり。じゃあ、行ってくるよ。釣りは無理しなくて良いから」


「…すいません、本当に…」


 見るからにばつが悪そうな顔を横目に、小屋の外へ出た。

 昼下がりの浜辺は、いつもどおりの穏やかな時間が流れている。岩場で羽根を休めるウミネコを眺めながら、浜辺を歩いた。

 ほんの少しの、わずかな可能性。僕はあの日からの人生を、それに賭けている。

 何も知らない人からしたら、およそ正気とは思えない生き方かもしれない。そんな事は、もうとっくの前に分かってる。僕だって、普通じゃない自覚だってある。

 でも、こうするしかなかった。

 あの日から一歩も進めなくなった人間が前に進む為には、

 とめどなく流れ出す心にぽっかり空いた穴を埋める為には、

 過去から一度…たった一度だけで構わない、何かが欲しかった。

 思い出じゃない、何かが。




 今、僕の眼の前には砂から顔を出した貝殻がある。

 それは透明で、これまで見たことのあるどの貝とも違う形をしていた。これがずっと探し求めていた貝殻だと、直感が僕に告げている。こぼれた涙が頬を伝った。

 どんな事を言われたって構わない。

 あの声を、もう一度聴けるのなら。

 躊躇いはなかった。貝殻を拾い上げて砂を払うと、僕は震える手でゆっくりそれを耳に当てた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕は果ての海辺を歩く 待居 折 @mazzan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ