告白と苦しみの秋

……寒くね?

台風が過ぎた直後だからなのか、一気に秋めいてきたのか、はたまた両方なのか。

つい数日前まで暑いが口癖のようなものだったのに。

季節の移り変わりはこんなにも早かったのかと実感させられる。

「で、何番目に走る?」

「なにがだよ」

突然の問いかけに、思わず強めの言葉が出る。

「部活動対抗リレー」

しっかりしてくれよと笑う部長。ごめんごめんと笑いながら答える俺。

和気あいあいとしたこの感じが温かくて好きだ。

「一番とラストは嫌だ」

「じゃあジャンケンだな」

「まじかよ」

三人くらいだと思ったのに、最初はグーの合図で拳を出したのはまさかの全員。

本日二回目のまじかよを必死で飲み込んで、パーを出す。

負けた。しかもまさかの一人負け。

「そういえばお前、ジャンケン弱かったよな」

どんまいと肩に手を置くけど、堪えきれていない笑みがしっかりとこの目に映る。

「俺今の蒼と初めて会ったら仲良くしてないかもだわ」

「ひっど」

「お互い様だろ」

くだらない話をしながらも蒼は勝ち切った。

ジャンケン王だ。これこそが本物のジャンケン王。

これなら俺をバカにしたくなる気持ちも分からんでもないし、ああいう反応にもなるわ。

妙に納得させられる。

ジャンケンの深さを感じた。池のように見えて実は海でした、みたいな感じだ。浅く見えてじつは深かった。ジャンケン。

「じゃあ俺は鴻基からバトン受け取るんだな」

話し合いの結果、俺は一番走者になった。

話し合いと言うよりかは、負けたから余り物を押し付けられた感じだけど。

蒼は二番目で俺からバトンを受け取る。

最初で最後の部活動対抗リレー。

一番世話になっている友人に託すことができるのも奇跡に近い。

「頼んだぞ一番手」

「おう」

コツンと弽をぶつけ合う。

自分の中で気合いのスイッチが押された音がしたような気がした。


袴を着て弓を持って、日差しの強い運動場に立つ。

似合わなさすぎだろ。太陽の真下に弓道部の組み合わせ。ハンバーグにチョコレートをかけるくらい合わない。

なんか今日、暑いし。

この前は寒かったのに今日は真夏日とか、何がどうなってるんだ。十月中旬だぞ。秋だろ。

雲ひとつない空を見上げながら、ジリジリと照りつける太陽にテレパシーを送るも効果なし。

よーい、パンッ!

スターターピストルの音と共に、一斉に走り出す。

と思っていた。

左隣は演劇部。赤ずきんの格好をして、スキップしてる。籠がバトン替わりなんだろう。

右隣は男子バスケ部。ドリブルをしている。一応走ってはいるけど、全力ではなさそうだ。

俺は今の今まで完全に忘れていた。

部活動対抗リレーがレクリレーだということを。

やらかした。二、三歩スタートダッシュをして気がついた。気づくのが早かったのは不幸中の幸いだろうか。

慌てて執り弓の姿勢をとってすり足でゆっくり歩く。これしか思いつかなかった。プチパニック状態の頭をフル回転させた結果がこれだ。

足を進めていくと、半周先の蒼が見えてきた。

蒼の右隣で楓桜が爆笑していた。

「鴻基、すっごい面白かったよ。最高」

残り一メートルも無くなったところで楓桜がケラケラ笑いながら言う。

「うるせ」

今までで一番長い半周を歩き切り、楓桜に言い返しながら蒼にバトン替わりの弓を手渡した。

「頑張れよ、すり足半周」

「おう。サンキュー、スタートダッシュくん」

ふざけて言ってきている。楽しそうだけどこれはちょっと、ありがとうとは言えなかった。

「まじ恥ずかしいからやめて」

「ごめんごめん」

弓を倒して歩く。あぁ、合わないなって、客観的に見てもしっかり感じた。

「楓桜も頑張れ」

「言われなくても頑張りますー」

頬をプクっと膨らませて、リスみたいだ。

後ろを振り向くとドリブルをして何故か身体ごとクルクル回りながら近づいてくるバスケ部。

「じゃあ、行くわ」

「うん。お疲れ様」

別れたと同時に楓桜にパスが回った。バトンタッチだ。

見事にボールをキャッチしてドリブルをして順調に進んでいく。

マネージャーのくせに上手い。スムーズに進んで、次の選手にパスをした。

そういえば前、ドリブルだけは得意と言っていたのを思い出した。体力測定は後ろから数える方が早いのに、これだけはって。

こんなにいつも通りだと、こんなにも普通に運動している姿を見ると、病気だってことを忘れてしまう。

あの日以来不安そうな顔は見せないし、むしろ自然体で楽しそうだ。不思議なことに。

何も変わらない。あの頃と。なんでなんだろう。

俺がもし楓桜の立場だったら、体育祭なんてどうでもいいとか、なんで俺なんだとか、そんなことばかり考えるだろう。自暴自棄になってもおかしくないと思う。

それに比べて楓桜は、あの夏の日に比べると弱々しさなんて感じさせない。

もしかして、奇跡的な回復をしているのか。そうか、そういうことか。

運動場のど真ん中、暑さも忘れて楓桜はいつ治るかな、なんて叶うはずもない理想で頭の中は埋め尽くされていた。


ナースステーションにいる男性看護師を目で追う。パソコンとにらめっこしたり、電話対応をしたり。忙しそうだ。

俺は今、楓桜の付き添いで総合病院に来ている。今日は定期検診らしい。

「鴻基、お待たせ」

「全然だよ。……どうだった?」

良くなってるって!私の生命力凄いでしょ?

そんな明るい返事を期待していた。

「カフェ行かない?ほら、お腹すいたし」

はぐらかすように言うと、置いてくよ、と言わんばかりに先を歩く。

「ちょ、……まあいいか」

どちらにせよ、タイミングというものがあるわけで、今じゃないってことだろう。

楓桜の後を追って外に出ると、ビュッと冷たい風が頬を撫でる。

冬の足音が聞こえた気がした。

「もうすぐだね」

「そうだな。あっちも寒いんだろうな」

最近の楓桜は修学旅行が楽しみなようで、一日に一度は修学旅行の話題が出てくる。

もう二週間後に迫っている高校生活最大に楽しい行事は毎日をいつも以上に彩ってくれているように感じる。

「手袋とか持っていく?」

「一応持っていこうかな。あっちの寒暖差とか分かんないし」

「そうなんだよねー。流石鴻基先輩。ありがとうございます」

「ん」

どこのカフェに向かっているのかさえ分からないまま、話しながらしばらく歩く。

どこまで行くんだ、カフェなんてどこも同じだろ、なんて思い始めたとき、楓桜がここ、と足を止めた。

周りに比べたら比較的高めだ。

値段ではなくて、建物の高さが。

着いたのはカフェではなく、カラオケだった。

「カラオケだぞ、ここ」

「いいの。ここパンケーキとかあるし」

そういう問題か?いいけど、全然。

レジで手続きを済ませて指定された部屋に入るやいなや食べ物を次々と注文していく。

「なんか歌う?」

「俺はいいよ。楓桜は?」

「私もいいや。聞いて、今日の結果」

意を決したようにこっちをまっすぐ見て言う。

「うん」

俺が頷くと楓桜もゆっくりと頷いた。

「これ、見て」

一息吐いた楓桜は、髪に手をかけた。

俺は息を飲んだ。楓桜の言動が想像の斜め上だった。

「失礼します。ベリーパンケーキがおひとつ、ポテトセットがおひとつ……」

店員がしたであろうノックの音も、机に次々と並べられていく沢山の食べ物の内容も頭に入ってこない。

最近テレビで観たばかりなのだ。

楓桜は悪化していないんだと思って安心したばかりだったのに。

「びっくりしたよね。ごめん」

沈黙を破ったのは楓桜だった。

「それ、染めたんだろ?」

そんなわけない。そんなはずないのに、頷いてくれることを期待してしまう。

当然、首を横に振るのに。振ったのに。

信じたくない。

楓桜の身体を蝕む春夢病は目に見える形で進行していた。

髪が所々桜色に染まっていたのだ。

いつも見ている、ずっと変わらなかった綺麗な黒髪はウィッグで、桜色の髪を隠していた。全然気付かなかった。気付けなかった。

「ほら、でも凄く綺麗じゃない?」

場を明るくしようとしているのは声で分かった。いつもより高めの、よそ行きの声だ。

でも震えている声が、辛さを、目を逸らすことのできない現実を表している。

「綺麗だ。綺麗だよ。でも、それは……」

「うん、病気が進行してる証拠。知らないと思ってた」

「テレビで見たんだ。特集で、たまたま。まだ、楓桜はまだ、進行してないって思ってた」

知っている。分かっている。

こいつは、俺の幼馴染は、楓桜は。

強がるのが得意なのだ。心配をかけないように、一人でこっそり泣くような人だ。

今、この事実を教えてくれたことでさえ珍しい。

わざわざ病院に付き添わせたことも、桜色に染まりかけている髪を見せてくれるのも、楓桜の中で何かがあったからだろう。

「封筒、持ってきたのって鴻基だったよね」

封筒……?封筒なんて渡したか?

考えていることが表情に出ていたのか、補足するように言葉を並べる。

「ほら、桜色の。学校から届けてくれたやつ」

そんなことあったか?

記憶を辿っていくも、全然思い出せない。

体育祭、夏祭り、海、夏休み……。

あぁ、思い出した。楓桜が笑っていなかったあの日だ。

「うん、うんうん、あったわ。でもそれは先生からの伝言だろ?」

確か、楓桜の大好きな日野川先生からの。

「……そうだったら良かったんだけどね。違うんだ」

「え、じゃあ、え、なんだよ、あれ」

先生は嘘をついていたのか。じゃああれは、春夢病に関するものなのか?診断書みたいなものなのか?

「私、冬から入院するの」

「え、いつまで?」

俺が聞くと、楓桜は俯いて、暗い声で言った。

「……死ぬまで」

心に鉛が降ってきたみたいな、そんな感覚がした。

言葉にできないほどショックだった。

結局、封筒のことは詳しく聞けなかった。


春夢病 封筒 桜色

で調べてみた。

学生は学校から、社会人は国の機関から受け取るらしい。

期限内に本人に渡すことが条件となっていたから、あの日俺の手を通したのは本当に期限ギリギリだったのだろう。

そんなやむを得ない理由以外は責任をもって、先生から本人に極秘で渡すのが一般的。

封筒の内容は、入院する期限、試薬、病院、担当医が主な記載内容。

春夢病は専用病棟に入るのが基本で、その病棟はもちろん一人部屋。テレビや冷蔵庫はもちろん、風呂、トイレだけじゃなく、新しいソファにテーブルもある、まるで一人暮らしみたいな一室が与えられるらしい。

そういう面から、入院する病院から間取り図が同封されていることもあるそうだ。

持ち込み物については基本自由。

他の病気の場合とは違って楽しい入院生活を送ることができる、とは書いてある。二年前の、春夢病患者のブログの一部だった。

この人も楓桜と同じで冬から春までを病院で過ごしていた。

軽く目を通していくと、初夏から秋の人は家で死を迎えることができて羨ましい、自分も死ぬ直前まで好きな所へ出掛けて、好きなものを食べて、好きなことをしたかったと書かれていた。

楓桜もやっぱり、そう思っているんだろうな。

他にも、調べていくと季節の区切りは天気予報や気象統計に用いられるのと同じだということ。

冬からの入院は十二月からということ。

病気はノンレム睡眠のときにどんどん進行する。脳の情報整理の力が鈍っていくだけで、身体に目に見える異常はないこと。

病気が進行するにつれ、長い間覚えている情報に関しては忘れることはないけど、新しい情報は次の日になったら何も覚えていられないこと。

きっと、さっきのブログを書いていた人も、忘れてしまうから、忘れたくないから、日記のように書き記していたのかもしれない。

大切なことを忘れてしまうことは、怖いから。

『明日、暇?』

楓桜が覚えていられるうちに。忘れられる前に。どうしても伝えたいことがある。

気付いたら、楓桜にメールを送っていた。


お菓子とカイロ、トランプ。

修学旅行の為に買い集めた荷物をエコバッグにまとめて、俺の家に向かって歩く。

自由行動を二人で回ることになったから、計画を立てようということになったのだ。

「ごめんね、この前」

この前。俺がメールを送った日。

その日は先約があったみたいで、結局一週間経った今日になった。

「いいよ。いきなりだったし」

あの日、暇だよなんて返信が来ていたら、行き当たりばったりな告白をするところだったし。

むしろ準備期間をくれてありがとうとまで思っている。

「あ!今日から新作出てるじゃん。買って帰って計画立てながら飲もうよ」

指差す先には、この秋ここにオープンした有名チェーン店。スターコーヒー。

お値段は少し高めだけど、女子高生がよく勉強しているイメージがある。

毎月の新作は、俺も楽しみにしている。

「そうするか。それにしても、学校の帰り道からじゃここも地味に遠いな」

新しく出来たここ以外に、ついさっきまで買い物をしていたショッピングモールに二店舗入っている。

でもそこは学校の正反対で、帰り道のここも当たり前だけど正反対だ。

「ね。学校近くにも一店舗欲しいなー」

「わかる。帰りに寄りたいよな」

「うん」

でもあったらあったでしょっちゅう寄りそうだから、このままでもいいような気もする。

「さっき行ってこればよかったな」

「あー、確かに。あるもんね、あそこも」

そんな話をしながら、紙袋に入れてもらった新作のラズベリーチーズケーキフラペチーノを片手に俺の家へと向かう。

「あ、おばさんいるんだっけ。お土産どうしよう」

家の前に着いて、そんなことを言い始める。

いつもズカズカと俺を迎えに来るくせに。

「今日は高校時代の友達と遊んでくるって。だから誰もいないよ」

父さんは一年くらい前から単身赴任で東京へ行っているし。

「そっか。じゃあ、お邪魔しまーす」

俺が鍵を開けると、自分の家かのように靴を脱ぎ、手洗いうがいをしに行く。

それでもちゃんと靴を揃えているところに楓桜らしさを感じた。

「鴻基ー!はーやーくー!溶けちゃうよー」

「はいはい」

少し遅れてリビングに入ると、ソファの右端といういつもの場所で、一足先にフラペチーノを飲んでいた。

「美味い?」

「それはもう、ものすごく。流石スタコさんって感じ」

幸せそうな笑顔を俺に向けて、ストローをクルクルと回す。

その笑顔の元になる味が早く知りたくて、俺も少しクリームが溶けた自分のを飲む。

「めっちゃ美味いじゃん。なにこれ」

甘酸っぱいラズベリーの味と濃厚なチーズケーキの味、クリームの上にかかっているホワイトチョコレート。

全部が合わさって、ものは冷たいのにどこか冬らしい味に仕上がっていた。

「そういえばさ、なんか話したいことあったんだよねみたいなこと言ってなかったっけ」

そんなこと忘れているかと思った。

『明日、暇?』

『ごめん、明日は友達と遊ぶの』

この先約を知らせるメールの後には続きがあった。

『そっか、楽しんでな』

『ありがと』

『鴻基なんかあった?』

『いや、ちょっと楓桜に直接話したいことあって。また土日暇だったら教えて』

そう送ってしまったのだ。

暇だったからさー、とか、そんな感じでも良かったよなって、送ってから思った。

送り直そうと思ったら、既に既読が付いて、すぐに返信も来た。

『来週日曜暇だよ!』

それで、今こうして一緒にいるわけだ。

健気に一週間何も聞かずに過ごしてくれた楓桜に感謝している。

俺だったら次の日会ったら、話したいことって何?とか聞いちゃいそうだ。

「ねー何?この一週間、グッと堪えて聞かないでいたんだから教えてよ!」

そうだよな、知りたいよな。ここまで焦らされたなら尚更。

意を決して、片手に持っていたフラペチーノを机の上に置いた。

言うなら、今しかない。

「俺さ、楓桜の笑顔を守れる人になりたいってずっと思ってた。この関係が、そのためには一番だって、思ってた」

「うん」

楓桜もフラペチーノを置いて、まっすぐに俺の方を見て頷いた。

「でも、いつかは伝えたいって思ってた。楓桜が結婚して、なんでも笑い飛ばせるような、年寄りになってからでもいいかなって」

でも、そんな未来、来ないってもう分かっているから。来てくれるのが一番だけど、そんな都合のいい話、今の医療では無理だ。

「それまで、ずっと仲良い幼馴染で居たいって思ってた。だけどごめん。俺の勝手な我儘、聞いてくれる?」

「わかった。聞かせて?鴻基の我儘」

そう、俺の手を包み込むように握った。

多分もう、俺が何を話すのか見当はついているんだろう。自分でもここまで長くて慎重な、分かりやすい前置きは聞いたことがない。

いざ言う寸前となると緊張が走る。

ドクドクと鳴り響く心臓がうるさい。

ふぅー、とバレない程度に深呼吸をして、覚悟を決めた。

「楓桜、好きだ。俺と付き合ってください」

言った。言ったぞ。

なんて返ってくる?今、何を思っている?

俺の目から、目線が逸れた。

「嘘。……嘘、だよね?」

目は逸らしたまま、少し潤んだ声で言った。

「本気。……ごめん」

嫌だったのか、はたまた嬉しいのか。

逸らされた表情からは全然分からない。

「なんで謝るの?私、嫌で泣いてるんじゃないよ」

また、まっすぐ俺のほうへと向き直ったその顔は、涙と笑顔でいっぱいだった。

「嬉しくて泣いてるんだよ。嬉し泣きだよ?」

ポロポロと目から雫を零しながら、握った俺の手を恋人繋ぎにして、笑った。

「私も、鴻基のこと好きだよ。本当はこの気持ち、墓場まで持っていくつもりだった。伝えて関係崩れるの嫌だし、伝えたところで、両想いだったとしても苦しめるって分かってるから」

震えた声で話し続ける。俺と繋いだ楓桜の手に、少し力が入ったような気がした。

「でも鴻基が想い伝えてくれたから。残りの人生、鴻基と悔いなく生きたいって思えた」

泣きながら話す楓桜を見て、俺もつられて涙を流していた。頬を伝う涙は、ほんのり温かかった。

だから、と俺の頬を流れる涙を拭うように、片手を俺の頬へと添えた。

「私を、鴻基の彼女にしてください」

幸せに満ちた、まっすぐな言葉。明るい声色。

俺も真似するように楓桜の頬に手を添えて答えた。

「はい。もちろん」

目を合わせて涙目で笑いあったあと、俺たちは自然とキスを交わした。

俺にとっても楓桜にとっても、これがファーストキスだった。


ドンドンと扉が叩かれる音と、スマホの着信音で目が覚めた。すぐに切れた電話を無視して扉を開けると、焦った顔の先生が立っていた。

「槙原さんが仁海くん呼んできてって暴れてて」

そう言われたのは、修学旅行二日目の早朝。

先生のあとに続いて女子の部屋の階まで走ると、取り乱している楓桜が廊下で泣いていた。

「鴻基、鴻基っ……!」

え、何?喧嘩?

なんにせよ、楓桜がこんなに取り乱すなんて珍しい。

「どうした?なんかあったか?」

まるで小さい子と話すように、屈んで目線を合わせて聞いてみる。

本当に女子同士の喧嘩だったらどうしよう。

それかあれか?昨日の旅行先で忘れ物してきたとか?

……流石にそれだけでここまでにはならないか。

じゃあ、まさか……。いや、まさかな。

寝起きすぐで、何となく思い出しただけ。

そのときはまだ、そう思っていた。まだまだ先のことだと思っていた。

「ここどこ?ねぇ、なんで鴻基は隣の家にいないの!?」

俺に近づいて、強く強く抱き締められる。

背中に回された手は震えていた。

でも俺は、何も言えずにただ抱きしめ返すことしか出来なかった。

楓桜の背中をゆっくりさするのとは反対に、頭の中で起きてすぐとは思えないほどの回転力で今起きていることを整理する。

朝起きたら修学旅行に来ていることを忘れていた。見知らぬ場所でパニックになった。

楓桜に起きていたこと。それは恐れていた、そのまさかだった。

さっきふと思い出したあのまさかが、とうとう現実になってしまったのだ。

「ねぇ鴻基?」

不安そうな表情、声。

今俺に出来ることは、なんだろう。

「ここは広島。昨日から修学旅行で、昨日は兵庫に行ったんだよ」

脳内をフル回転させた結果、とりあえず落ち着いて、表面上だけでも無理矢理落ち着けて答えた。

俺がパニックになったら、きっと楓桜はもっとパニックになる。

それは経験せずともなんとなく分かっていた。

「……あれ、鴻基と神戸旅行じゃなかったっけ?」

神戸散策をしたことは覚えているらしい。

一気に全部忘れる訳じゃなくて、徐々に症状が酷くなっていくみたいだ。

「同級生と神戸だよ。ほら、制服あるだろ?八時までに着替えて荷物全部持って二階の宴会場集合だぞ」

俺も部屋に戻らないと時間が来てしまう。

「……そうだったっけ。分かった、じゃあまた後でね」

部屋に戻るまで見届けて、ほぼ競歩の状態で部屋に戻る。

しおりの内容は覚えているんだろうか。

配られてから何度も読み返していたし、覚えていてもおかしくは無い。

とりあえず急いで制服に着替えてギリギリで宴会場に着いた。

指定された場所に荷物を置いて中に入ると、友達と話している楓桜の姿があった。

ひとまず安心だ。来ていなかったら走って呼びに行くつもりだった。

「結局何があったんだよ」

部屋で時計代わりにスマホをちらっと見た時に『悪いけど先行く』とメールを残して、先に朝食の席に着いていた二泊三日同部屋の蒼。

もちろん朝から扉が叩かれた音も、スマホの着信音が鳴り響いていたのも聞いていた。

「んー、ちょっとね」

「ふーん。まぁいいや。てか腹減った」

取り行こうぜ、と席を立つ蒼のあとに続いて、バイキングの皿を持つ。

ポテトサラダにウインナー、スクランブルエッグにフルーツヨーグルト。あと、ホテルお手製ロールパン。

朝だし、また昼に沢山食べるんだろうから少し少なめに抑える。

そんな俺とは対照的に、蒼はカレーライスを持ってきていた。別の皿にはフライドポテトと鳥の唐揚げ、生野菜のサラダ。

朝からもこんなに食べるのか。新発見だ。

「そんだけで足りるのかよ」

「十分だよ。蒼が沢山食べるだけだろ」

「まあね」

でも朝からカレーに揚げ物。

見ているだけで胃がもたれそうだ。

全員でいただきますをしたあと、一斉にフォークや箸が皿にぶつかる音がする。

まるでテストで始め!と言われた直後のように。

「今日は平和学習だよな」

「うん。そのあとは宮島で自由行動」

もみじ饅頭が美味いらしい。

広島と言えばもみじ饅頭。お土産はもみじ饅頭でいいからねー、と家を出る前に言われたのを思い出した。

危ない危ない。忘れるところだった。

「食べた人からバスへ移動してください」

蒼と話しながら食べ進めていくと、学年主任が話すのがマイク越しに聞こえてくる。

ぞろぞろとみんなが出て行くのに続いて、食器はそのままにバスへと向かう。

「仁海、ちょっといいか」

……え、何?

担任に呼び止められて振り向くと、担任の隣に楓桜が立っていた。

またあとで、と蒼と別れて二人の元へ向かう。

俺なんかしたっけ。思い当たる節はない。

修学旅行に来て朝から怒られるとか、想像もしたくない。

「俺何かしましたか……?」

思わず一歩下がってしまう。

先生が口を開くのがスローモーションに見える。俺、何言われるんだろう。

「いや、違う。少し提案があって呼んだんだ」

提案かよ、まじかよ最悪……え?

「提案ですか!?」

想像の遥か上を行く言葉に思わず声が大きくなる。

「今日の部屋割りを槙原と仁海で一部屋に変更しようと思う」

「はっ!?」

楓桜と俺で一部屋に変えるってことは、楓桜と同じ部屋になるってことで。

それに異性と同じ部屋は禁止、異性の泊まる階へは行かないというのは暗黙の了解のはずだ。

新幹線に乗る前の点呼のときにも男女共に釘刺されたし。

そんなに言っていたのに、同室にしようって?

どういう風の吹き回し?

「槙原からお願いされて先生方にも相談したんだ。結論から言うと、許可は降りた。あとは仁海の意思次第だ」

俺の理解出来ませんみたいな顔を見てなのか、説明してくれた。でもそれでも、なんで?が勝つ。

「また明日も、今日と同じことが起きるかもしれない。まだ周りには病気ってバレたくなくてお願いしたの」

……いやいやいや、それもそれで不自然だろ。

「先生も迷ったんだ。でも、こんな言い方したくないけど槙原にとって最後の旅行になるかもしれないだろ?学校側も出来るだけ願いを叶えてあげたいって思ったんだよ」

「……そういうことなら……。楓桜と同じ部屋でお願いします」

半ば折れた感じになってしまった。

「分かった。じゃあ他の先生方にも伝えておくな」

先生はそう言うと俺たちの背中を、遅れるなよー、と言葉の圧で押すように宴会場から追い出した。

「無理強いしちゃった?」

二人で歩くバスまでの道。心配そうに聞いてくる。

「そういう訳じゃなくて、色々びっくりしただけだよ」

「ならよかった」

ホッとした表情をして俺の一歩先を歩く。

「昨日のこと、今でも覚えてないのか?」

先生にお願いしたと聞いたときから、徐々に色々思い出しているんじゃないかって少し期待している自分がいる。

「……うん。ごめんね」

「いや、ごめん」

「一昨日のことはいつも通り覚えてるのにね、昨日のことは……鴻基といた時のことは覚えてるんだけど……」

辛そうに話すその姿は見ていられなかった。


「ここの真上で、原爆が爆発したんです」

バスガイドさんが言った。

ゾワっとした。あのキノコ雲がこの真上で、と思うだけで喉がヒュッと鳴る。

平和記念公園を回り、説明されていく度に心が痛む。何度も何度も授業で聞いて、テレビで毎年特集をやっているにも関わらず、この場に立つと比べ物にならない恐怖と現実感でいっぱいになる。

ボロボロになった原爆ドーム。

溶けた服、焼け野原になった広島。

目に見える全てのものが戦争の悲惨さを物語っていた。

それが今も世界のどこかで起こっていることを示す火を見ていると心臓をぎゅっと強く握られている気持ちになった。

それはバスと船で移動している間も治まらない。

戦争なんて無くなればいい。

船で向かった先の宮島にいる鹿を見ていると、どこもこの鹿たちみたいに平和だったらいいのにと強く思った。

「鴻基ー、行こうよ」

「え、……あ、あぁ」

楓桜に声をかけられて周りを見渡すと、クラスごとに並んだ列はきっちりはまったパズルのピースが崩されていくようにバラバラに散らばっていた。

自由行動の時間だ。

「どうしたの?体調悪い?」

心配されるほど、今の俺は浮かない顔をしているみたいだ。

「平和記念公園のことが頭から離れなくてさ」

「……そっか、そうだよね。残酷だったよね」

苦しそうな顔をするのは、きっと俺と同じ理由だろう。

「お土産だけ、買っていこう?もみじ饅頭買わないと」

「でも楓桜、昼飯は?」

「あんまりお腹すいてない。夜ホテルでご飯だし、お昼抜いてもいいかなって」

行こう、って手を引いてくれる。

楓桜と歩いて着いたのは、厳島神社だった。

海に浮かんでいるように見える鳥居は綺麗なオレンジがかった赤色をしていた。

「おみくじ引こ!おみくじ!」

楓桜は昔からこういうのが好きだ。

筒を振って棒を取り出す。

中吉だった。

願望、努力すれば叶う。

勉学、無駄なことを考えずに集中すると吉。

健康、バランスの良い食事を。

恋愛、年下がよい。

……なるほど。難しいこと言うな。

信じるか信じないかはあなた次第っていうし、いいことだけ信じればいいか。

「楓桜どうだった?」

「大吉。やばくない?」

嬉しそうにニコニコしながら内容を読んでいる。

願望、勉学、健康、恋愛。

楓桜はどこを一番重視して見るんだろう。

一分、二分、三分と時間は過ぎていくのに、おみくじを見る楓桜の視線は止まったままだ。

「どうかした?」

「え、あ、読み込んでた。ごめん、行こっか」

楓桜は引いたばかりの大吉のおみくじを、ぐちゃっと音を立てながらポケットに入れて、こっちを見ずに歩きだした。

強がっているのが、話し方で分かった。

ホテルに着いたら、夕食が終わって自由時間になったら聞いてみよう。

今聞いても答えはきっと、大丈夫とかなんでもないよで済まされてしまう。

それは十七年間一緒にいて痛いほど分かっている。

だから今は、楓桜の強がりに気付かないようにして、一瞬でも記憶に残すことが出来るように過ごしたいって思ったんだ。


本当に同じ部屋に荷物が運び込まれていた。

夕食を食べたあと、担任から部屋ごとにカードキーを渡されて楓桜と二人で部屋に入った。

「お土産さん行く?お風呂入る?」

「楓桜は?」

「疲れたからお風呂入りたい」

なんだか少し懐かしい気持ちになる。

小さい頃はお互いの家でお泊まり会はしょっちゅうだったし、去年も楓桜は泊まりに来た。

一人寂しいから今日泊めて、といきなりお泊まりセットを持って家に来たのだ。

そのときと同じような会話をしていて、懐かしさとともに可笑しさも感じた。

お互いお風呂から上がって布団に潜り込む。

聞くなら、今だ。

「あのさ」

「なに?」

その声は寝る前とは思えないほどハッキリとしていた。

いつもは布団に入るとふわふわとした口調になるのに。

「おみくじのとき、どうした?」

おみくじの一点を見つめて動かなかったこと。

いつもなら俺を待たせて財布に入れる楓桜がポケットにぐちゃぐちゃにいれたこと。

そのどれもが不自然で、それはきっと理由があるはずだ。

「……願望、なんて書いてあったと思う?」

少しの沈黙の後、楓桜が言った。

「努力すれば叶う、とか?」

何も思いつかなかった俺は、自分のおみくじに書いてあった内容をそのまま返した。

「違う。早めの行動で叶うんだって」

「そっか」

「健康もね、しっかり休めば治るって」

そうだったらどれだけ良かったんだろう。

そうだったら、幸せなのに。

「どれだけ休んでも、治るわけないのに。治療法もないのに」

細い声で話しているのが、苦しくて仕方ない。

一番辛いのは楓桜なのに、俺は何も言ってあげることが出来ない。

こんな自分が嫌になる。

「ごめん。何も言えなくてごめん」

俺が言うと、楓桜は自分の布団から出て俺の布団に潜り込んできた。

「どうした?」

「……鴻基、私寝るのが怖い」

差し出された手は、朝みたいに震えていた。

その手を引いて強く抱きしめた。

「俺がいるから。何かあっても俺が楓桜のこと抱きしめるから」

今俺が言えるのは、これだけ。

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