春の夢と、舞い散る君

桜詩

夏と春

夏も近づく八十八夜。

そんな歌を色んな所で耳にするようになった。スーパーとか、テレビとか。

現に今やっている、ニュースのお茶特集でも流れている。

「ねぇまだ?」

リポーターが茶畑で話を聞いている中、俺の後ろから半ギレで話しかけてくるのは、母親でもなければ姉でも妹でもなく、彼女でもない。隣の家の幼馴染だ。

「もう行ける」

ガタン、と椅子を鳴らしながら立ち上がる。

机に片手をついた少しの振動でコップの中の水が小さく揺れた。

「楓桜ちゃんがいてくれるとうちの子も遅刻しなくて済んでありがたいわ」

「私はおばさんに朝から会えるの、嬉しいな」

女子トークと言うのだろうか。数十秒ほど会話を交わして、行ってきますお邪魔しましたと俺を置いて素早く玄関を出た。

もうすぐ夏が来るね、と自分の上に広がる青い空を見上げながら言う彼女は、幼稚園から高校までずっと一緒だ。夏よりも春が好きな、色素が薄めの彼女の名前は槙原楓桜。十七歳、高校二年。

俺と同い年で、学校どころかクラスも奇跡的に、というかもう仕込まれているんじゃないかと思うほど分かれたことがない。

槙原、という苗字を見つけて少し上へと遡ると絶対に仁海鴻基、と俺の名前も書かれている。

これが俗に言う腐れ縁と言うやつなのだろうか。それなら多分、来年も同じクラスになるのだろう。

「今年はお花見しそびれたなって思ってたら夢の中でお花見できたんだよね」

不意にそんなことを言い始める。

「へぇ。よかったじゃん」

特に何とも思わなかった俺はそうかそうかと頷きを返す。

春の夢を見た、と言うあたり、やっぱり楓桜だなと感心する部分はあるが。五月の初めにお花見は少し不思議だった。それほど悔いとして心に残っていたのだろうか。

「つまんなさそうに聞くねー、相変わらず」

そんな事言われても。つまらないわけじゃない。ただ、なんとも思わなかった。それだけ。

暑くもなく寒くもない通学路を何気ない話をしながら歩く。

あの先生優しいとか、今日部活何時までとか。他愛もない話から少し必要性のありそうな話まで。

のんびり、温かみのある時間が流れていく。

この関係は大人になっても変わらないって、信じて疑わなかった。


「明日からテスト週間だ。来年は受験生だから真面目に勉強しろよ」

部活のことばかり考えていた俺にとって、その言葉は鬱陶しい以外の何物でもなかった。

さようなら、と声を揃えて頭を下げたら、教室を出ていく波に乗って部活へと向かう。

白と黒の袴に身を包むと背筋が伸びる。

あぁ、勉強するときもこれくらい背筋が伸びて集中できたらいいのに。

それは自分のさじ加減だとは分かってはいるものの、やっぱり無理なものは無理。嫌いなものは嫌いなのだ。

弓道は難しい。正直結構メンタル削られるし、集中力も筋力も、必要なものは沢山ある。

でも楽しい。やるのも、観るのも。

的に中った時の、パンッという優しく強く響く音。放たれた矢がヒュンっと風を切る音。

正座をして目を瞑る、自分の内面を見つめる黙想。

どれも意味があって、好きな時間だ。

ただ勉強となると話は別。だからやっぱり、部活を無くして勉強ばかりをしなければいけないテスト週間は大嫌いなんだ。

「挨拶するよー」

準備をしながら色々考えを巡らせていると、部長の声が聞こえた。みんなが道場内に集まり、男女別の列になって神棚の前に正座する。

「姿勢を正してください。黙想」

目を瞑り、少し下を向く。

さっきまで聞こえていた、部活をせずに帰る人達の楽しげな声も、今は聞こえない。

自分を見つめて、和の心に落ち着きを感じている。

「やめ」

静寂な中、ハッキリと聞こえたその声に、目を開いて前を見る。

少しスッキリした。

やっぱりこの時間は俺には必要不可欠だ。

そんな中立ち上がった顧問に、何故か嫌な予感がした。ここまではいつも通りなのに。

「担任の先生から話はあったと思いますが、明日からテスト週間です。大会を控えているので赤点は部活停止にならないからと油断しないように」

うわ、と思わず口から出そうになったのを必死で飲み込んだ。

やっぱり。嫌な予感はしっかり的中した。

弓道部の顧問なだけあって生徒の心を悪い意味で射抜くのが得意なようだ。

誰が好きで部活に来てまで勉強の話を聞くのだろう。

分かっている。先生だからこういう話をするのも仕方ないし当たり前だということは頭ではちゃんと分かっている。

でもやっぱり、集中力が必要なスポーツなんだからその話は帰りに持ち越して欲しかった。

「お願いします」

俺の考えを遮るように挨拶をする部長。

それに続いて、お願いしますと頭を下げる。

いつもとは違う憂鬱な気分で部活がスタートした。


だめだ、全然。

中らない。的に集中すればするほど中らない。

少しむしゃくしゃしながら、頭をリセットさせるために校内の自販機にサイダーを買いに行く。

「あ、鴻基」

財布片手に自販機の前に立っているのは楓桜だった。

「休憩中?」

「うん。水筒のお茶なくなっちゃった」

どれにしようかなーと悩んでいる横で、サイダーと抹茶ラテを買って、手渡した。

最近よく飲んでいた。気がする。

「え!いいの?」

「楓桜のことだし十分二十分悩んでもおかしくないだろ。それでよかった?」

買ってから、あの記憶が間違いで実は苦手だったらこれどうしようか、と頭をよぎった。

「うん。最近これハマってるの」

嬉しそうに受け取る姿に、ホッとするのと、ドキッと心臓が跳ねる。

最近……いや、思い返せば中学の頃くらいから俺の心臓はおかしい。ギュッと締め付けられたり、ドキドキと早鐘を打ったり。

でもそれは楓桜に関することだけ。

分かっている。これが楓桜に対する恋心だということは。

でも幼馴染という肩書きがあるからしっかりアクションを起こすこともできないし、なによりこの関係が、このなんでも話せる楓桜との関係が悪くなることが嫌なのだ。

「楓桜!そろそろ休憩終わるよ」

少しの沈黙。心地いい沈黙。それを破ったのは、白と青のユニフォームの見知らぬ男。

「ごめん今行く!じゃあまた帰りね」

俺に手を振ってパタパタと体育館の方へと走っていく姿に、胸がぎゅっと締め付けられた。

ポニーテールを揺らす彼女を、俺は初めて見たかもしれない。

モヤッとする自分の黒い部分が嫌になって、弓道場の方へと歩きながら、プシュッという二酸化炭素の抜ける音を聞いてサイダーを一気に喉へと流し込んだ。

しょっちゅう飲んでいるはずなのに、いつもより炭酸が強く、苦味を感じる。

まるで今の自分の恋心のようだ。

遠くでチャイムが聞こえる。部活の時間もあと少しだ。

今日が終わったら二週間、ここに来ることができないし、きちんと練習しておかないと。

一度大きな伸びをして、的と向き合った。


「わかんない。なに、古今著聞集って。橘成季とかなに?」

"小式部内侍が大江山の歌のこと"

これを聞けば、"古今著聞集"と"橘成季"が出てくるようにと先生も言っていたのに。

俺の家のリビングで唸り声を上げている楓桜。

「よくそんなんで前日まで放っておいたな」

「苦手な教科だから後回しにしてただけだし」

いやいや。今のどこに威張れる要素があった?

「その様子だと課題も終わってないんだろ?」

俺が言うと、ふ、と鼻で笑った。

「課題は全部終わってるんだな、これが」

胸を張って自信満々で答える。でも課題が終わっているならさっきの問題くらい理解出来ていてもいいと思うんだけど。

「なんで課題ができてこの問題がわかんないんだよ」

「課題は教科書見ながらやったもん。……あ、課題プリント丸覚えすれば赤点回避できるんじゃない?」

閃いた!とでも言うように目を輝かせる。

ずる賢いとはこのことか。

でもまぁ、あながち間違いではない気もする。

「じゃあそこは解決な」

「うん。死ぬ気で覚える。で、鴻基はどこがわかんないの?」

生物を苦手とする俺。あの教科のどこが楽しいのか全くもって分からない。

「血液とか」

「え、嘘、そこ?」

こんな所でつまづいているのか、と驚いたように言うけど。それはお前も同じだぞ、楓桜。

「どこまで分かる?」

どこまでって、案外難しい質問だ。言葉が詰まることがよくある質問ランキング十位までに入る気がする。

「赤血球とか白血球とか」

「うわ、基本の基本じゃん。それが何の役割持ってるか分かる?」

「……全然分かりません」

俺の口から自然と敬語が口から出るほど、楓桜は呆れた様子で言った。

「仕方ないなぁ」

教科書を開いて、椅子を俺の近くに寄せた。

ふわっと鼻をかすめる甘いシャンプーの香り。下ろした髪を耳にかける仕草。

慣れているはずなのに、何度もドキドキしてしまう。

雪のように白い肌に映える紅い唇。

鼻筋の通った鼻。

くっきりとした二重で涙袋もしっかりあって、茶色っぽい瞳の綺麗な目。

やっぱり可愛いくせに綺麗だ。

「……鴻基、聞いてた?」

睨むように俺を見るその瞳でさえ綺麗。

……じゃなくて。

「ごめん、もう一度お願いできますか?」

「はぁ……。もう一回だけだからね」

溜息をつきながらも、綺麗にまとめられた自分のノートを見せながら丁寧に教えてくれた。


「なんか最近身体の中と実際の季節感ズレてるんだよね」

帰り道、暑さに負けてコンビニでアイスを食べている時彼女はいきなりそう言った。

「というと?」

「もうすぐ本格的な夏なのに春の夢ばっかり見るっていうか、春の夢しか見ないというか。そろそろ夏っぽい夢もみたい」

「え」

春夢病。その三文字が頭をよぎる。

この病気にかかると春の夢ばかりみるという、一見別に病気とは思わないようなもの。

脳が異常を起こして、春の夢しかみられなくなるこの病はだいたい初夏頃発症する人が多く、翌年の桜が散る頃に、桜が散るように儚く美しく息を引き取るらしい。本当に、眠るように。

いや、でも楓桜に限ってそんなこと、あるはずない。

春が好きな楓桜。桜が好きな楓桜。薄いピンク色が好きな楓桜。

だから春の夢ばかり見るに違いない。

右隣を見ると、夏の夢を見るためなのか、線香花火、りんご飴、浴衣……と呑気に夏らしい事を呟いていた。

「夏っぽいことするか」

独り言のように、でも楓桜に届くように。今年の夏も、俺と過ごす時間を一日でも多く取って欲しいという願いを込めて。

「私、お祭り行きたいな」

「今年は誰と行くの?」

確か去年は、二日前くらいに誘ったらバスケ部のマネージャー数人で行くからと断られた。楓桜と二人で楽しむ予定は崩れ去り、俺は同じ部活で一番親しい蒼と、男二人で行くことになった。まぁ、普通に楽しかったけど。

でも今年はまだ一ヶ月前。流石にまだ誰とも約束はしていないだろう。

「今年は……」

え、嘘だろ?もう予定入ってるのか?

「今年は鴻基と行きたいなって、思ってるよ」

一瞬口篭り、そう言った。

頭の中で何回もその言葉がリピートされる。

今年は鴻基と行きたいなって、思ってるよ。

嬉しすぎて、空を飛べそうだ。

「じゃあ行くか、二人で」

平然を装って、好きという気持ちが伝わらないように。

「うん。約束」

俺たちは小指を絡めて、久しぶりに指切りをした。幼い頃は同じくらいの手の大きさだったのが、今は少し自分のが大きくて。

愛おしい、と思った。あぁ、好きだな。

「ねぇ、鴻基」

「ん?」

「……いや、なんでもない」

こんなに言いにくそうな楓桜は見たことがない。

でも深掘りしようか、どうしようかと悩んでいるうちにお互いの家の前に着いていた。

「じゃあまた明日ね」

そう手を振る楓桜に手を振り返すと、優しく微笑んで家に入って行った。

ガチャン、と扉の閉まる音がして、やっぱり聞いておけば良かったと少し後悔した。


七月ももう半分が過ぎた。あと少しで夏休みという今日、楓桜は学校を休んだ。

「仁海、これ槙原に渡しておいてくれ」

先生に手渡されたのは、バスケ部の予定表。あと、宛名の無い桜色の封筒。

先生が桜色の封筒って、おかしい。男の先生だから尚更だ。

「これって」

「あぁ、それか。……日野川先生からの伝言だ」

なるほど。楓桜の大好きな日野川先生からならしっくりくる。

少し間が空いたのは気になるけど。

「渡しておきます」

受け取ったものをクリアファイルに挟んで、一人の帰路に着く。こんなに長く感じたのは初めてだ。

今まで、お互いがお互いの帰りの時間を待っていたし、何よりお互い、学校を休んだことがなかった。だから何を考えてこの道を歩けばいいのか分からない。

寂しさとつまらなさで周りを見ると、思い出が沢山溢れていた。

美味しいアイスココアが売っている自販機。

楓桜と二人、幼い頃から通っている公園。

その場で絞ってくれるソフトクリームが売っているコンビニ。

楽しい思い出が詰まった帰り道が、今日は一人だ。

あの笑顔とあの声で、髪をなびかせながらすぐ隣を歩くその姿が恋しい。一日いないだけで寂しい。

ただ楓桜が隣にいないだけなのに。

あぁ、どんだけ俺、楓桜のこと好きなんだよ。

「あら、鴻基くん」

「え、あ、おばさん。こんばんは」

驚いた。いつの間にここまで来ていたのか。

楓桜のことを考えていると時間が経つのが早い。

思い出だけで一喜一憂して歩いていたと考えると少し……いや結構恥ずかしいし変なやつだけど。

「鴻基……。おかえり」

おばさんの車の後部座席から降りたのは、いつもみたいに嬉しそうに笑うのではなく、作り笑顔を貼り付けた楓桜だった。

「どうしたの、そんな顔して」

沈黙を破ったのは楓桜だった。

それはこっちのセリフだよって言いたいけど、そんなことを言える雰囲気ではない。

「いや、別に……」

こんなことしか言えない。自分がどんな顔をしているのかすら、分からないのに。

「ほんとに?なんか、心配事がありそうな顔してるけど」

無理しないでねって、手を振ってスタスタと家の中へと入ってしまった。

どうしたんだろう。本当に。

「ごめんね、今日は許してあげて」

「それは、全然。……あの、何かあったんですか?」

意を決して聞いてみる。おばさんならきっと教えてくれるって信じていた。

「あぁ……。本人に聞いてもらってもいいかしら。鴻基くんには自分で言うって口止めされたのよ」

「そう、ですか……」

楓桜らしいと言えば、楓桜らしい。

でもまだ、しばらくは教えて貰えないのだろう。

大事なことはギリギリまで言わない主義なのだ。あの子は。

親にもあまり話さないんだから、仕方ない。もう少し待っててあげよう。

「ごめんね。心配してくれてありがとう」

あの子のこと、よろしくねと一言添えて、玄関のドアノブに手をかけるおばさん。

「あ、あのっ」

「ん?」

「これ、先生から楓桜にです」

忘れるところだった。

プリントと封筒の挟まったクリアファイルをリュックから取り出して手渡す。

「ありがとう。助かったわ。……来ちゃったのね」

「来ちゃったって……」

透明なクリアファイルの一番上の、桜色の封筒。やっぱりこの封筒には何か意味があるんじゃないか。

「なんでもないの、こっちの話。鴻基くん、明日は楓桜も学校行くと思うから、よろしくね」

はぐらかされてしまった。まただ。

楓桜が休んだことに関係があるのだろうか。

そうだとしたら、病気、とか……。

いやいや、まさかな。

だとしたら……留学とか?

ありそうでないな、うん。

英語もできないもんな、あいつ。

どれだけ考えても、結局何もかも、楓桜が重い口を開くまで真実は闇の中だ。

分からないことをずっとひとりで考えても無駄なのだから。とりあえずこのことは忘れることにした。


俺たちは今、潮の香りに包まれている。

夏休み補習最終日の今日、制服のまま電車とバスを乗り継いで海まで来た。

事の発端は、楓桜の一言。

「ねぇ、今から海行こう」

ここからやっと本格的な夏休みが始まる幸福感に包まれていた俺の席まで来て、そう言った。

俺は自分が思ったよりもフットワークが軽かった。

楓桜だからというのもあるんだろうけど、突然今から海に行きましょうって言われて二つ返事でオーケーした自分に驚いた。

八月の上旬。人はもちろん多い。

そんな中、石階段に横並びで腰掛けて潮風に吹かれながらただ何も話さず青い海を眺める。

波の音が涼しげで、暑さを少し和らげてくれている気がする。

「鴻基はさ、死にたいって思ったことある?」

心地のいい沈黙を破ったのは、予想もしないような内容だった。

「ないと言われれば、嘘になる」

隣を見ると、今にも壊れそうな表情で海を見つめている。

聞くなら今かもしれない。

でも開いた口からは二酸化炭素が漏れるだけで、頭の中の考えは声にならない。

「私ね、春が好きなの」

「うん。知ってるよ」

「桜がね、大好きなんだ」

そう言う楓桜の声は震えていた。

「鴻基と見る春の景色、歳をとってもずっと、毎年一回は二人で見たいって思ってたのにな……」

「……うん」

「鴻基、ごめんね」

______私、病気だった。

カナヅチで頭を一発殴られたような気分になった。

え、嘘だよね?ドッキリでしょ?

そう聞きたいけど、しゃくりあげて、ボロボロと大粒の涙を流しながら、ごめんね、と何度も謝る楓桜が嘘を言うはずがない。

「なんの、とか、聞いてもいい?」

正直、聞かなくても予想はついてる。

そうじゃないと、なんの病気かも分からずにここまで大きくダメージを受けることはないと思う。

絶対治るから待っててねとか、そういう言葉がこのあとに続くって信じられるなら、ここまで絶望を感じなかったのかもしれない。

けど、だけど。

楓桜の病名は、ほとんど確実に……。

「春夢病……かかっちゃった」

楓桜は左手で俺の制服のカッターシャツを弱々しく握って、予想通りの病名を口にした。

やっぱり、と思う自分と、なんで楓桜がって思う自分がいた。

わんわん泣く楓桜の肩を自分の方へ寄せ、俺も泣いた。

真夏の海がオレンジ色に染まるまで、二人で肩を寄せあって泣いた。

俺たちを不思議そうに眺める人が居てもお構い無しに泣いた。

大切な幼馴染が、大好きな片想いの相手が。来年の今頃にはもう空へと旅立っていてこの世にはいない。

そんな辛くて悲しい事実に、涙が溢れて止まらなかった。


暑い。この一言に尽きる夏の夜。

「おまたせ」

その声と共に姿を現したのはもちろん楓桜。

「全然待ってないよ。行くか」

俺の言葉を合図に、下駄をカラコロと鳴らしながら神社へ向かう。

そう、今日は祭り。

八月の終わりなのに、八月の終わりだからこそなのかもしれないけど、この地区はいつもこの時期に祭りがある。大体七月下旬とか八月上旬がメジャーだと思う。

慣れてはいるけど、珍しいと感じるのは毎年恒例だ。

二人で浴衣に身を包み、歩く。

傍から見たらカップルに見えたりするのだろうか。

「暑いね」

「そうだね」

どことなく空いている距離。

もちろん避けているわけではない。

でも何故か、今まで通り話すという簡単なことが、難問のように難しく感じる。

いつものテンションで話していいのだろうか。

どういう話をすればいいんだろうか。

いつも通り話して、ポロッと病気の話が口から飛び出たらどうしたらいいんだろう。

本人から聞いたし、別に何ら問題もないんだろうけど、やっぱりそれが一番怖い。

知らぬ間に楓桜を傷つけていたら。

病気のことなんて忘れて楽しみたいだろうし。

あーー、ダメだ。

考えれば考えるほど会話の内容が無くなっていく。

「何食べる?」

一番安心な質問。定番で、長年の関係を持つ俺らからしたら少しつまらないような質問。

「んー、焼きそばとたこ焼きは外せない」

あぁ、楓桜らしい。

「あといちご飴とラムネとかもいいよね」

食べ物の話になるとキラキラと目を輝かせる。

意外とこの質問は正解だったのかもしれない。

「俺唐揚げ食べたい」

「え、ずるい!一口ちょうだい」

「えー、どうしようかなー」

段々といつものペースに戻ってくる。

なんだ、いけるじゃん。

楽しみな心と反比例して最初は少し重かった足取りも、今は驚くほど軽い。

神社に近づくにつれ、わいわいとした賑わいと祭りに来たと感じさせる音楽が耳に入る。

「いいねー、夏だねぇ」

ふふっと嬉しそうに笑いながら、耳をすませる仕草をする。

可愛い。

春から少し伸びて、アレンジするのにちょうどいい長さの黒髪は、ここぞとばかりに綺麗にまとめあげられている。

水色の生地に紫や薄ピンクの花が散る楓桜の浴衣はどこか涼しげだ。

綺麗で可愛い、清いという言葉がピッタリの浴衣は、楓桜によく似合っている。

「ん?どうしたの?」

「うぉっ。いや、何でもないよ」

いきなりこっちを向くから、うぉ、とか言っちゃったし。いいんだけど、別に。

「ほんとかな」

「ほんとだよ」

「ふーん、ならいいけど」

他愛もない話、あっという間にすぎる時間。

鳥居をくぐったと思ったら手には焼きそば、ポテト、ベビーカステラ。隣にはたこ焼きをはふはふと頬張る好きな人。

花火を一番眺めがいいところで見るために、屋台巡りは早めに切り上げて見晴らしのいい傾斜になっている芝生に腰を下ろす。

「夏休み終わったらさ、テスト三昧だね」

何を思ったのか、いたずらに笑って言う。

「おいおい、今くらい忘れさせてくれよ」

「そのあとは最後の修学旅行」

「……うん」

「楽しみだね、修学旅行」

泣くのかと思った。このまま春までのイベントを辿って、ひと粒、またひと粒と涙をこぼすのかと思った。

「そうだね。楽しみだね」

「どこ行くんだっけ」

「確か……」

頭をフル回転させて、先輩から聞いた行き先を思い出す。

「確か」

口を開いたとき、ドォン!と大きい音がした。

視界が明るくなった。火薬の匂いがした。

見上げると、空には鮮やかな花が咲き誇っていた。

「綺麗……」

夜空に咲く花を見上げる楓桜の目は、潤んでいるように見えた。

瞬きをした瞬間、ツーっと頬を流れる涙を見て見ぬふりをした。

触れてはいけない気がした。

理由は聞かずとも分かっていた。

トリを飾る大きな冠菊の花火とともに、楓桜にとって最後の夏が終わろうとしていた。

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