桜と青空
「卒業証書授与式を終わります」
体育館に響き渡る教頭の声。
拍手をする俺たちの横を通って卒業生が続々と体育館を去っていく。
春が来た。
別れの春がとうとうやってきてしまった。
もう咲き始めている桜を、こんなに憎いと思ったことはない。
「来年は俺らも卒業かぁ」
蒼がどこか感慨深そうに話す。
来年。高校三年生。
俺は何を目指して、何をしているんだろう。
大切な幼馴染で恋人である楓桜が居ない生活で、どんな生き方をしているんだろう。
「早いな、一年って」
ついこの間進級して、楓桜の病気が分かって。
一緒に思い出を沢山作りながら、苦しみも分かち合いながら過ごしてきたこの一年。
すごくすごく短かった。
「な。なんかあっという間だよなー。これからの人生もなんだかんだあっという間に過ぎていくのかな」
遠くを見つめる。
きっと蒼も、俺と同じようなことを思っているのだろう。
桜が咲いた。とうとう、咲いた。
まだ少しだけど、咲き始めている。
それは散るまでのカウントダウンを表しているようなものだ。
満開になると約二週間で散る桜。
満開になると、楓桜の余命があと、たったの二週間になる。
「俺たちが、悲しんでるところ見せたらダメだよな」
どこか少し、覚悟を決めたような顔つき。
それは何に対してだろう。
楓桜が春夢病だということを知る、数少ない人の中の一人である蒼。
きっと調べただろうし、なんなら嫌でもテレビで特集をやっていたりして情報が入ってくる。
友達がその病気だと知ったら、きっとより敏感になるだろう。
「……もうすぐ、だな」
蒼の目が揺れた。
蒼のことを真っ直ぐ見られないし、蒼も俺の方を全く見ていなかった。
「……そうだな」
そう答える俺は、もう苦しさに顔が歪んでいたかもしれない。
嘘でも、笑えない。
愛想笑いをできる内容じゃない。
それはもちろん蒼も一緒で、切なそうな顔をしていた。
「おーい、蒼!鴻基!お別れ会の準備するぞ!」
そんな気分ではないけど、一月から準備してきた先輩方のお別れ会。
二年間可愛がってもらったお礼は大切だ。
「今行く」
蒼と二人、中身がほとんど入っていない荷物を片手に教室を出た。
もうすぐなくなってしまうであろう、コンビニで買ったホット限定のキャラメルミルクティーを片手に帰り道を歩く。
まだマフラーを手放すのは惜しい気温の中、暖かい日もあるわけで、日を重ねるごとに桜の開花情報がニュースで話されている。
最近、楓桜の顔を見に行く日が減った。
俺の顔と名前は覚えているけど、話したこと、見たものや食べたものをすっかり忘れている。
その度に申し訳なさそうな顔をするのを見るのが辛いのだ。
それでも冬に比べて少し日が長くなった今、部活の帰りでも面会時間に余裕で間に合うのではないかと考えている自分がいる。
……やっぱり、今日は会いに行こう。
部活のない今日。
会える日に会っておこう。
通学路を逸れて、駅の方へと歩く。
カバンを漁りICカードを取り出す。
黄色い丸に、ニコちゃんマークが描かれている、可愛らしいデザインだ。
カードを改札機にかざしたピピッという音を聞き、ちょうどタイミングが合った上り電車に乗った。
当たり前だけど、制服姿の人が沢山いる。
これから遊びに行くのか、どこで何をするかを楽しそうに話し合っている姿が目に入る。
楓桜も病気じゃなかったら、春夢病じゃなくて治る病気だったら。
この人達みたいに電車に乗ってどこかへ出かけることが沢山あったのかもしれない。
通院している時間も、どこかで美味しいものを食べる時間に変わっていたかもしれない。
電車に揺られながら、たまに目に映る桜から視線を逸らす。
「ご乗車ありがとうございました」
車内に終点のアナウンスが流れた。
長い間乗っていると、入れ替わり立ち代り人が流れていく。
もう、見慣れた制服の人は誰一人乗っていなかった。
もう歩き慣れた道を通り、エレベーターで最上階まで上る。軽くノックをして扉を開けた。
「楓桜」
「あ、鴻基」
俺が声をかけると、ふわっと笑って俺の名前を呼んだ。
どうやらベッドから出て、窓の外を眺めている最中のようだ。
「今日ね、トンネルを見たの。薄ピンクの花がチラホラ咲いてて綺麗だったよ」
……トンネル?
薄ピンクの花が咲くトンネル。
なに、それ。
____春になると桜が咲くんだって。満開の桜のトンネルをくぐれるの
入院してまださほど経っていない頃。
楓桜がどこか楽しそうに、嬉しそうに話していたことを思い出した。
とうとう、楓桜は自分の一番好きな花の名前を忘れた。
……いや、でもそんなこと……。
「その花、なんて言うの?」
まるで楓桜を試すように聞く。
楓桜が桜を忘れるわけない。
ずっとずっと、桜が好きなのは変わらなかったのに。
「初めて見る花だったかな。名前、教えてもらったけど忘れちゃった」
何とも思っていないかのように笑顔を見せた。
それが心が握りつぶされてしまいそうなほど苦しい。
「そっか」
「看護師さんに聞いとくね」
絞り出すように声を出し必死に笑顔を作ると、楓桜はなぜか、どこか嬉しそうに笑った。
とうとう桜が満開になった。
楓桜はきっと、今日俺に何かを話そうとしているに違いない。
『すぐに来て』
そうメールが来て、部活を早退して走った。
先生ももう、きっと分かっていた。
もしかしたら担任が顧問にも話していたのかもしれない。
俺が理由も話さずに、すみません帰りますと言っただけなのに、早く行けと言ってくれた。
電車から降りると、どこかに咲く桜の花びらが風に乗って飛んできた。
満開になったかと思ったら、もう所々で散り始めているらしい。
「お待たせ」
扉を開くなり、声をかける。
「遅いよ、鴻基」
こっちを向いて言う楓桜は、どこか切なそうで、それでもどこかスッキリしたような表情をしていた。
「ちょっと着いてきて」
歩くことにも話すことにも全く支障がないから、ただ髪を染めた恋人という錯覚が抜けない。
俺の手を包み込むように取り、来た道を戻る。
楓桜が手を引いて連れてきた場所はあの場所。
満開の桜のトンネルだった。
トンネルの中にあるベンチにお互い何も言わずに腰掛けると、楓桜が俺の両手をとり、まっすぐ目を見た。
吸い込まれそうなくらい綺麗な瞳をしている。
「何も言わずに聞いて欲しい。忘れる前に聞いて欲しい」
繋がれた手を上下にゆっくり振りながら言う。
その目から、強い決意を感じた。
「分かった」
俺が頷くと、楓桜も数回頷いてすうっと息を吸った。
「私の余命の話を、ついさっき主治医の先生から聞いた。もう、いつ死んでもおかしくない。明日かもしれない。もしかしたら、一週間持つかもしれない。それは、今の研究では検査しても分からない」
ハッキリ、涙ぐむ様子もなくスラスラと言葉を並べる。
俺はただ、ひたすら頷くことしか出来ない。
「今日はね、鴻基にお礼を言いたくて呼んだの。余命のことを話されるのは分かっていたから、私とずっと一緒にいてくれたこと、ありがとうって伝えたくて、呼んだんだ」
笑顔で話す楓桜とは反対に、俺は今にも泣きそうだった。
涙をこらえることに必死になっていた。
楓桜は死ぬことが辛いのに、笑顔で俺に話してくれているのに、俺がここで泣いてはいけない。
「だからね、ありがとう。鴻基。小さいときからずっと、私と一緒にいてくれて。私の事守ってくれて。あの頃からずっとずっと、鴻基のこと大好き。鴻基との思い出だけは、覚えてるよ。他のことは忘れちゃってても、ずっと、覚えてる」
あぁ、もう無理だ。
俺は泣いた。
ボロボロと涙をこぼして、嗚咽を漏らしながら泣いた。
情けないくらい鼻をすすり、崩れ落ちるように泣いた。
「俺も大好きだ。ずっとずっと愛してる。こんなに好きになるのは、後にも先にも楓桜しか居ないんだよっ……」
全力で笑えるのも、ボロボロになって泣けるのも、楓桜がいたから。
こんなに愛しいと思えるのも、ずっと一緒に、生涯を共にしたいと強く思えるのも、一番失いたくないと思うのも、楓桜だけだ。
「鴻基、鴻基。聞いて。ね?」
「っ……。わかった」
俺は言葉を繋ごうとした口を閉じた。
「鴻基には幸せになって欲しいの。私の事を忘れろとは言わない。……言いたくない、が正解かな。だから、お願い。私が死んだら、何歳になってもいいからちゃんと幸せになって」
少し俯き気味だったのを、またまっすぐ俺と目を合わせ直した。
「恋人を作れって言ってるわけじゃない。それが鴻基にとって心から幸せって言えないなら、無理に恋人を作っても苦しいだけだもん。だからね、鴻基が心から幸せって言える人生を送ってほしい。……約束ね」
以上です、と笑った。
俺の大好きな笑顔で、うっすら涙を浮かべながら微笑んだ。
「……約束、守るよ」
止まらない涙をそのままに、楓桜と数年ぶりに指切りげんまんをした。
もうこれ以上、何も言えなかった。
春休みが明けて三年生になった。
三年生。最高学年。
この言葉を聞く度に、自然と背筋が伸びる気がする。
「進級して早々だが、進路希望調査配るぞ」
新しい担任の先生がそう言って、プリントを配り始めた。
楓桜とは、また同じクラスだ。
クラス替えの今日、楓桜はまだ病院で生きていたのだ。
もうすぐあの、余命を聞かされた日から一週間が経とうとしていた。
進路かぁ……。
まだ夢という夢もない今、どこかそこら辺の大学へ行って、そこでやりたいことを見つければいいかなと思い始めている。
「仁海!」
ガラガラッと妙に大きな音がしたかと思ったら、知らない先生に名前を呼ばれた。
「早く来い!」
え、なに?俺何かした?
いつもならそう思う。
でも今日は、そうじゃないことを何となく、理解していた。
これは、きっと、そういうこと。
机の横にかけてあるカバンを手に、席を立って走って教室を出た。
「槙原が……」
廊下を出て先生と二人きりになったとき、顔を歪ませて言われた。
「……早退します」
俺はそれだけを口にして、何も聞かずに学校を出た。
正門を出ると、母さんの車が止まっていた。
「母さん、なんで」
「さっき梢さんから電話があったの。知らされたら絶対行くって言うだろうと思って」
梢さんとは、楓桜のお母さんのことだ。
そのあとはもう、お互い何も話さなかった。
病院に着くと、おばさんが霊安室まで案内してくれた。
その間、何を思っていたのかは全く分からない。
それでも、白い布を顔にかけられた楓桜を見て、俺は壊れたように泣いた。
母さんもおばさんも、しゃくりあげながら泣いていた。
ひとしきり泣いたあと、一人外に出て楓桜と話したトンネルがすぐ近くの所まで歩く。
さすがに中には入れなかった。
きっとまた、泣いてしまうから。
もう俺の涙を受け止めてくれる人は居ないのに、止まらない涙がこぼれてしまうから。
少し離れて桜のトンネルを見ていると、春らしい優しい風が吹いた。
桜の木が揺れて、花びらを散らす。
青空に、良く映える。
桜吹雪が映えるこの真っ青な空を見上げて、俺はまた涙を流した。
新学期が始まった日、楓桜は永眠した。
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