春なき世界にまた明日

umekob.(梅野小吹)

今は眠れる春の話

 恋とは、こうも突然やってくるものなのだろうか。

 紳士、淑女、令嬢、貴族、それなりの礼儀があれば、ノックのひとつぐらいはするものだろう。

 しかし恋とは無礼千万、ノックどころかアポイントもなしに、僕の心のドアをぶち破って我が物顔で踏み込んできた。


 ナターシャ・シルヴィスキー。

 僕の心を奪った麗しき無礼者。


 氷に閉ざされた常冬の国・ノルン王国領の北部、雪原に広がる辺境領土一帯を統治するシルヴィスキー家──その長女こそが、このナターシャという無礼者であった。


 彼女は他を寄せつけぬ圧倒的な美貌と才に恵まれていながら、その性格は氷をまとっているかのように冷たく、常にポーカーフェイスの仮面に覆われた口元に笑顔が咲くことなどついぞない。これまで幾人もの貴族が彼女に魅了されて求婚したが、その首が縦に振られることもなかったという。


 そんな難攻不落の薔薇のとげに刺されたうちの一人であるこの僕は、貴族でもなければ聡明な知識人でもない。いつも影から彼女を見遣り、憧れを募らせ、羨望と熱情を拗らせて性癖が少々歪んでしまっただけの、ごくごく普通の一般庶民だ。


 麗しき無礼者は、今日も僕の心を縛り付ける。

 ああ、どうにかして、あの氷の淑女を振り向かせることはできないだろうか……。



「──と、言うわけで! ぜひ君の助力を得て、愛しの彼女と接点を作りたい! 協力してくれないか、ロッティくん!」



 ビシッ。出来うる限りのカッコイイポーズを作り、僕は湖のほとりでラナンキュラスの花弁をつまむ少年に語りかけた。


 雪をかぶった白いベンチに座る彼は驚いた表情で面食らい、やや訝しげに眉をひそめる。



「……え、何? 今までずっと俺に話しかけてたの? 知らないオッサン」


「むむ、オッサンとは失礼な! 僕はまだ二十一歳だぞ!」


「じゅうぶんオッサンだろ、俺まだ十一歳だし」



 愛らしい顔立ちの美少年──ロッティ・シルヴィスキーは、綺麗な顔に似合わない小生意気な口を叩きながら呆れたように目を細めた。

 彼はシルヴィスキー家の長男であり、ナターシャの弟である。一般庶民である僕が身を粉にしてようやく知り得た情報ゆえにそれ以上のことは知らないが、この湖にいるという話を小耳に挟んだため、今日わざわざ僕はここまで赴いたというわけだ。


 ロッティは不審なものを見るかのような目で、しげしげと僕を見ている。



「え、何……まだ居座る気?」


「当たり前だ、ロッティ! 何のために必死になって君を探し回ったと思ってるんだ、見つからなかったら泊まり込みで張り込むつもりだった!」


「うわあ、すごい執念……それにしてもよく見つけたね、俺のこと。あんたが初めてだよ、姉さんより俺のことを探し回ってんの」



 呆れ顔で嘆息し、ロッティはラナンキュラスの花弁をちぎる。

 雪が舞い、僕の足跡だけが見受けられる雪原には草花などどこにもないが、このラナンキュラスはシルヴィスキー邸の温室から手折ってきたものなのだろうか。


「……何じっと見てるんだ、変なこと考えてるんじゃないだろうな」


 疑惑の眼差しを向ける彼。僕は笑顔で向き直った。



「いいや、紳士的なことしか考えてないよ。僕は誰もが認める紳士のプロだからね」


「紳士にプロとかアマとかあんの?」


「そんなことよりロッティよ、先ほどの話なんだが、ぜひ僕に協力してくれないか。教えてくれるだけでいいんだ、どうしたら君のお姉さんに冷たい目で見てもらえるのか」


「いや知るかよ帰れ」


「やだやだお願いお願い!! 僕はどうしても君のお姉さんに蔑まれて踏まれたいんだ!!」


「なんか趣旨ズレてきてないか?」



 ドン引きした顔を向けられながらも、僕は冷たい雪の上に膝をつき、地面に顔面を擦り付けて頼み込む。


「お願いだ、せめて足のサイズだけでも教えてくれ! 同じサイズのヒール買って踏みつけを妄想して楽しむから!!」


 などとプライドを捨てて頼み込んでいれば、僕の懇願にようやく折れてくれたのか、ロッティは肩を竦めて「はー、分かったよ……」と頷いた。


 僕は冷え切った顔を上げ、彼を見上げる。



「本当か!?」


「タダじゃないけどね。今から俺が出す条件をあんたが達成できたら、姉さんの情報をあげてもいい」


「ふっ、言ってみたまえロッティくん。僕が全力で叶えてあげよう。にらめっこに百発百中で勝てる変顔の作り方か? ジャンケンで絶対バレない後出しのコツか? 何でも伝授できるぞ」


「どうでも良すぎて逆に気になるのやめろ」



 若干の興味を示しつつ、ロッティは深く息を吐いた。


「まあ、俺の頼みも、そこそこどうでもいいことだけど」


 続けた彼は、花弁をむしり終えたラナンキュラスをぽいと湖に投げ捨てる。


 茎だけになったラナンキュラス。

 凍り付いた水面。

 ぽとり、ころころ、寂しく転がる。



「この場所にさ、」


「うん?」


「……花を、咲かせたいんだ。でも、俺だけじゃうまく出来なくて」



 遠くを見ているロッティ。僕は立ち上がり、「花?」と首を傾げた。



「そう、花。なんでもいい。ひとつだけでもいい。出来れば一年中咲く、綺麗で可愛いやつ」


「一年中……」



 呟き、僕は真っ白な雪に覆われた地面へと視線を落とす。

 雪解けを知らないこの地には、春が訪れることもなく、もちろん花など咲いてはくれない。



「……なるほど、ふむ、確かにそれは難題だね。ここの土は年中雪に覆われているし、日当たりもよくない。いくら種を撒いても芽なんか出ないよ」


「出来ないんだったら別に無理しなくていいよ。その代わり、俺に構うのもやめてよね。さよーなら」



 湖に視線を投げたまま、ロッティは素っ気なく告げる。虚空を見つめるその目がどこか寂しげに見えて、僕は口をつぐみ、しばし考え込んだ。


「……うん、分かった」


 そして、頷きながら口角を上げる。



「僕に任せておけ、ロッティ」


「……は?」


「ここに花を咲かせてやる。ひとつなんてもんじゃない、蝶すら飛び交う常春の花畑にしてやるさ。無論、なるはやでなッ!」



 腰に手を当て、ビシッと地面を指さしながら堂々たる宣言を放つ僕。ロッティは眉根を寄せ、どうにも疑わしげである。

 しかし僕は頼れる男──そして紳士のプロだ。心配などしなくていい。



「僕が、春を連れてきてやる」



 微笑みながら明言し、「また明日!」と続けて踵を返した。

 ロッティは何かを言いたげにしていたが、結局何の言葉も発することなく、走り去る僕の背中を眺めていたようだった。




 ◇




「やあ、ロッティ! また来たよ!」


「うわ、マジで来たのかよ……」



 翌日、大きな荷袋を背負った僕は昨日の宣言通りに湖へと足を運んだ。

 ロッティは相変わらずベンチに腰掛けてラナンキュラスの花弁をむしっており、顔を顰めて僕を見上げる。



「……正直、本当に来るとは思わなかった」


「来るに決まってるだろう? 約束したんだからな!」


「約束なんかしたっけ」


「ふふ、目と目が合って語らえば、それはすなわち約束なのさ」


「ええ……」



 困惑顔のロッティに胸を張り、僕は荷袋を降ろして中身を取り出した。

 スコップ、園芸用の手袋、腐葉土、種……必要な物資をあらかた並べていれば、ロッティが覗き込んでくる。



「……何これ、買ってきたの?」


「いや、すべて店長からの頂き物だよ」


「店長って?」


「昨日街に帰ってすぐ花屋に雇ってもらったんだ!」


「行動力の化け物すぎるだろ」



 頬を引きつらせるロッティ。「元々知り合いでね、花のことを色々教えてもらっているのさ」と続けた僕は手袋を付け替え、ベンチ周りの雪を掘る。


「むむっ!?」


 しかし、水気の多い湖周辺の土はすっかり凍り付いており、小さなスコップだけでは到底掘り起こせそうになかった。



「むっ……うーん、こいつは硬いな。小さなスコップだと時間がかかりすぎて僕が凍死してしまう」


「……だから、無理しなくていいって言ったじゃん。昨日の話はあんたに諦めてもらおうと思って言った冗談だよ、こんなとこに花なんか咲くわけない」


「でも、昨日『さよなら』と言って少し寂しそうにした時の君の顔は、きっと本物だろ?」



 指摘すれば、ロッティはぐっと押し黙る。

 僕は小さく笑い、「一度ぐらい植えてみようよ」と続けて顔を上げた。



「よし、明日はシャベルを持ってこよう! 任せておけ、僕には土木業の知り合いがいるからね! 君は君のお姉さんの足のサイズでも温めながら待っていたまえ!」


「足のサイズを温めるって何……」



 呆れたロッティの視線を背中で受け止めながら立ち上がり、僕は荷物をまとめて振り返る。


「それじゃ、また明日!」


 目と目が合って、〝明日〟の約束を。

 同意の言葉は返ってこないが、僕は笑顔で彼に手を振って、街へと戻っていくのだった。



 ──かくして、次の日。


 今度はシャベルを持ち、僕は約束通りに湖へ赴く。



「さあロッティ、今日こそ花を植えるぞ!」


「あ、また来たんだ……」


「ふっふっふ、今度こそ地面を掘ってみせるさ」



 僕は借りてきたシャベルを得意げに見せつけ、凍りついた地面に早速それを突き刺した。ロッティの周りには花弁がいくつか散っている。おそらく、すでにいつもの花占いを終えたのだろう。


 そう思案している間に、シャベルは雪と土を掘り上げ、種を撒くための準備が整う。



「よーし、いい感じだぞ、ふう、ふう……」


「……なあ、息荒いけど大丈夫?」


「心配ご無用、ただでさえ荷物が重いのにシャベルまで持ってきたからね、はあ、さすがに疲れたよ、ふう、ふう……」


「体力ないな」



 今日も今日とて、隣のロッティは呆れ顔。

 僕は冷たい空気を肺に取り込み、胸を上下させるばかりだ。


「明日から、少し運び方を工夫しよう……」


 呟き、息を整えながら、持参した種を蒔いていく。彼はことさら眉根を寄せた。



「……明日もくんの?」


「当然だろう?」



 即答する僕。

 種も撒き終え、土を被せて優しく埋める。



「花は世話しないといけないんだし、毎日様子を見てやらないと。いずれはここを花畑にするつもりだからね」


「……毎日……」


「ふふ、君のお姉さんに踏まれて折れても気にならないぐらい、たくさんの花を植えようか。羨ましい、僕もへし折られたい……」


「おい、話が脱線してるぞ」



 ついつい本音を漏らしつつ、「おっといけない」と我に返った僕は土いじりを済ませて振り返る。


 今日の作業は、これで終わりだ。



「それじゃ、また明日」



 いつものように笑いかければ、ロッティは迷ったように目を泳がせ、やがて、控えめに頷いた。



「……うん。また明日」



 不本意そうながらも〝明日〟の約束を結びつけた彼に、僕は柔く頬を緩める。

 少しずつ素直になってきた少年の様子を微笑ましく思いながら、僕はその日、浮かれた足取りで帰路につくのだった。



 ──そしてまた次の日、僕は意気揚々と湖に赴く。


 犬ぞりに乗って。



「やーあ、ロッティ! 今日は寒いね!」


「ワン! ワンワン!」


「うっっわああああ犬うぅッ!?」



 二匹の大型犬にソリを引かせて現れた僕に驚愕し、ロッティはラナンキュラスを持ったまま顔面蒼白で雪の降り積もるベンチの端に避難する。犬たちは大人しくしているが、「なんで犬なんか連れてきたんだよォ!」とロッティは涙目だ。



「いやあ、荷物が重いから。犬ぞりを貸し付けている知り合いがいて……」


「ずっと思ってたけど、あんたやたらと顔が広いな!!」


「え、そうかな? まあ、友達は多い方かもしれないけど……って、そんなことよりうわアアア!! 昨日花を植えた土がまた凍ってるじゃないか! なんてことだ!」



 頭を抱え、僕は凍った土をシャベルで叩く。どうにか表面上は砕けたものの、おそらく中身も凍りついていることだろう。



「くっ、誤算だった……。湖の周辺じゃ、どうやっても土が水分を含んで凍ってしまう……!」


「はあ……そんなの最初から分かってたことだろ。だから無理しなくていいって。姉さんの足のサイズなら教えてあげるし、もう諦めなよ」


「バカを言え、僕はプロ紳士だぞ! プロ紳士は一度交わした約束を破ったりしないッ!」


「そもそも約束してないしプロ紳士って何」



 ため息混じりに白い目を向けられるが、「僕は諦めないぞ!」と宣言して立ち上がる。犬たちも尻尾を振って応援しているようだった。

 肩をすくめたロッティだけが、「ほんと、あんたって変なやつだよな……」と嘆息している。


 彼は雪を見つめ、手元のラナンキュラスに視線を落とした。



「……あんた、友達いっぱいいるんだろ。だったら俺なんかに構ってないで、他の奴らと過ごす時間にあてた方が絶対いいよ」



 ぽつり、こぼれ落ちた言葉。僕は振り向いて首を傾げる。



「え? なぜだい?」


「なぜって……俺なんかと一緒にいても、時間の無駄だから。他の友達に見捨てられる前に、ここに通うのやめなよ」


「はは、大丈夫さ。友達なら、そう簡単に見捨てられたりしないよ」



 そう続けて、僕は寂しげな表情を浮かべているロッティを見遣った。



「本当の友達っていうのは、たとえ十年以上会っていなくても、またいつか会えた時、まるで昨日会ったみたいに今日の話の続きができるものだ」


「……」


「君の友達は、そうじゃないのかい?」



 彼の心にやんわり踏み込む。

 すると、澄んだ瞳がわずかに揺らいだ。



「……友達どころか、居場所だって、俺にはないよ」


「うん? どうして? 生意気すぎて嫌われたのか? 君あんまり可愛げないもんな」


「うるせえばか。そうじゃなくて……」



 目を泳がせ、視線が落ちる。


「そうじゃ、なくて……」


 再度繰り返したロッティは、か細い声で続きを語った。



「俺は、ただ、もう誰にも会いたくない。友達にも、あんたにも……姉さんにだって、もう、会いたくない」



 弱々しく紡いだ彼。

 雪の積もるベンチに縮こまり、膝を抱く。


 凍った湖。静かな雪原。

 草木も生えず平坦な小道には、犬ぞりの滑った跡と、僕の足跡──そして、ラナンキュラスの花弁が散らばっている。


 白い息を吐いて、吸って。

 まだ幼さの残る少年に、僕は微笑んだ。



「だったら尚更、ここに花を咲かせないと」



 告げた途端、ロッティは顔をもたげた。僕は尻尾を振って寄ってくる二匹の犬の背を撫でながら続ける。



「ここに僕の植えた花があれば、誰にも会いたくない君が一人でここにいる時も、こいつが僕の代わりに君を見守っていてくれるだろう?」


「……なんで、あんたなんかに、見守られなきゃいけないんだよ……」


「はは、僕は紳士的な大人だからね。子どもが毎日一人でここに座っているのを、心配していないわけじゃないんだ」



 顔を傾けながら語れば、逃げるように逸らされる目。

 思春期ゆえに色々あるのだろうと微笑み、僕は立ち上がった。



「また明日来るよ。それとも、やっぱりもう来ない方がいいかい?」



 少し意地悪な問いを投げかける。

 ロッティはどこか拗ねたように僕を見て、いささか迷ったように目を泳がせた挙げ句、昨日と同じ言葉を細く紡いだ。



「……また明日」


「ははっ! ──うん、また明日!」



 そうして今日も、僕は街へと戻っていく。

 けれど次の日には、また湖へと赴くのだろう。


 次の日も、その次の日も。

 さらに翌週も、翌々週も、月を跨いで寒さが厳しくなっても。


 しかし土に埋めた花の種からは、結局、いつまで経っても芽など出ず──


 こうして、今日もまた、僕は君の待つ白いベンチに向かっている。




 ◇




「あれ、今日もロッティはいないのか」



 彼と最初に出会ってから、約三ヶ月と少し。相変わらず僕の足跡ばかりが目立つ湖のほとりには、ロッティの姿が見当たらなかった。


 最近、こういう日も稀にある。いったいどこにいるのかと勘繰ることはないものの、風邪でもひいて寝込んでいるのではないかと少し心配しなくもない。



「まあ、たまには家でのんびりしたい日もあるだろうし」



 うんうんと頷き、僕は日課となった土いじりを始めた。

 長らく僕の足跡とラナンキュラスの花弁しかなかったベンチの周りには、少しずつ物が増えてきている。


 雪除けのための屋根を設置したり、日光を集めるためのソーラー板を自作してみたり。

 されどもいずれも失敗ばかりで、なかなか春が芽吹く気配はない。それでも、ほんの少しずつではあるが、きっと進歩しているのだろう。多分。



「最近はロッティも素直になってきたしなあ、ふふふ」



 一人呟き、無意識に頬が緩んだ。

 僕らのベンチが春の芽吹きに近付く一方で、ロッティと僕の親交も、少しずつ着実に深まってきている。


 最近はもう、『また明日』と言えば『また明日』と返ってくるのが当たり前になった。

 ほんの小さな進歩だが、その小さな変化が嬉しいと思う。


 今日は、その言葉を伝える相手がいないけれど。



「……あっ、でも、君たちはいたか。うんうん、良い子だね、花の種くんたち。早く芽を出すんだよ」



 物言わぬ土に「また明日」と告げて、僕は立ち上がり、誰もいないベンチを後にする。

 冷たい冬の風だけが、僕の背中に、『また明日』と語りかけているようだった。



 ──かくして、次の日。


 僕は仕事先である花屋の店長から「シルヴィスキー家の坊ちゃんが今からうちに来るんだとよ」と知らされ、大きく目を見張る。



「え、本当かい!?」


「ああ。いつもたくさん注文してくれるお得意さんだからな、失礼なこと言うなよ?」


「おお、ロッティ! ついに向こうから僕に会いに来るのか!」



 嬉しさを隠しきれず破顔する僕。

 店長はきょとんと目をしばたたいた。



「何だよ、知り合いか? シルヴィスキー家とも交流あんのか、お前すごいな」


「ふっ、紳士だからね!」


「はいはい。じゃあ相手は頼むぜ、紳士様」


「任せておけ!」



 ふふんと得意げに胸を張り、店長が店の奥へと引っ込んだあと、僕はうきうきと胸を踊らせてロッティの来店を待ち侘びる。


 まさか、湖の外で彼と会うことになろうとは。

 はてさてどうやって出迎えてやろうか?


 驚かす? 喜ばす? いずれにせよ、きっと照れ隠しにそっぽを向いてしまうのだろう──などと考えていれば、やがてドアベルの音が客人の訪れを僕に知らせる。



「やあ! いらっしゃい、ロッ──」



 しかし、そこまで発したところで、僕は露骨に言葉を飲んだ。

 なぜなら、来店した人物が、僕の想像した人物ではなかったからだ。


 僕よりも背が高く、黒い礼装に身を包んだ、見目麗しい美青年。どことなくロッティに似てはいるが、「こんにちは。シルヴィスキー家の者です」と名乗る声も低く、別人だとすぐに判断した。


 ああ、そういえば、たしかシルヴィスキー家の子息は二人いると聞いたことがあるような。

 つまり、彼もナターシャの弟。シルヴィスキー家の二人目の子息。


 すなわちロッティの兄ということで──


 ……あれ? でも、ちょっと待てよ。



(ロッティって、シルヴィスキー家の、長男・・だったはずじゃ──)



 そう気が付き、硬直する僕。来店した青年は「あの……?」と眉をひそめた。



「すみません、注文した花を取りにきたんですけど……」


「え……? あ、は、はい、今すぐ……でも、あの、その前に、つかぬ事をお伺いしますが……」


「はい?」



 どく、どく、どく。


 早鐘を打つ胸の鼓動が、頭の裏側にまで響いている。

 まるで耳のすぐ横に心臓があるみたいに、音がよく聞こえていた。


 ロッティと過ごした日々の記憶。

 泡沫のように浮かんでは弾け、断片的に脳裏で移ろう。


 寂しそうに膝を抱え、居場所がないと言っていたこと。

 いつも彼が座っているベンチに、ずっと雪が降り積もったままだったこと。

 白い雪原には、いつだって、僕一人分の足跡しか残っていなかったこと。


 からからと渇く喉に、ぬるい生唾を嚥下して、僕は掠れる声で問いかける。



「ロッティ・シルヴィスキーって……今、どこに、いるんでしょうか……」



 尋ねれば、しん、と一瞬の沈黙が流れた。

 青年は硬直し、やがて悲しげに目を伏せて、言いにくそうに口火を切る。



「……兄さんの、知り合いですか?」


「兄さん、って……」


「ロッティ兄さんのことです。……ああ、そうですね。兄さんが、今も生きていれば──きっと、あなたぐらいの年齢だったんでしょうね」



 確信に近い発言が鼓膜を叩き、僕は息を呑んだ。

 まだ現実を咀嚼しきれていない僕に構わず、青年は続ける。



「──今日は、ロッティ兄さんが死んで、ちょうど十回目の命日ですから」




 ◇




 灰の空から雪が降る。

 しんしんと降り積もって、ベンチに溢れかえるほど供えられたラナンキュラスの切り花を、白く白く染めていく。


 この国の夕暮れは早い。もうあと三十分もしないうちに、日は沈み、夜のカーテンが空を包み込むのだろう。


 静かに降る雪にまぎれて、風につままれたラナンキュラスの花弁が、一枚一枚宙を舞う。



「……やあ、ロッティ」



 声をかければ、彼は振り向きもせず、「また来たの」と覇気のない声で答えた。僕はベンチの後ろから続ける。



「今日、君の弟が僕の店に来たよ」


「……うん。知ってる」


「少し、びっくりした。……君、幽霊だったんだね」



 雪を踏みしめて近付き、ロッティの頭部に手を伸ばした。けれどその手は触れられず、彼の頭をすり抜けてしまう。



「──十年前、この国に、一度だけ春が来たんだ」



 ロッティは小さく告げて、ベンチに供えられたたくさんの花の中で膝を抱えた。



「すごく、あたたかい日だった。姉さんは喜んで、俺の手を引いてさ。『野花が咲いているかもしれないから見にいこう』って、一緒にこの湖まで来たんだ」


「……うん」


「でも、湖の周りに花なんかなかった。だけど、対岸には綺麗な花が咲いているように見えたんだ。だから俺は、一人で凍った湖の上を突っ切って、向こう岸まで行こうとした。でも……」



 一旦言葉を区切り、ロッティは俯く。


「……薄くなってた氷が割れて、湖の中に落っこちちゃった」


 消え去りそうなほど弱々しい声。

 罪を告白するかのような言葉。

 僕は黙って、それに耳を傾けていた。



「姉さんは、あの日から笑わなくなった。ずっと責任を感じて、毎日、ここに花を手向けにくる」


「……」


「でも……もう、俺は、姉さんに会いに来てほしくないんだ。だから、ここに綺麗な花がたくさん咲けば……姉さんは、もう、花を持って俺に会いに来なくていいと思った……」



 静かに語って、小さな背中が丸くなる。

 僕は彼の体に触れられぬまま──けれど、触れられないと知っていながら、その頭をそっと撫でた。



「大丈夫。僕が咲かせるよ」


「うるさい……もう、放っとけよ……」


「放ったりしないさ。僕らは友達だろ?」


「話聞いてなかったのかよ、俺もう死んでるんだぞ! 友達になんかなれるわけないだろ!!」


「なれる。僕が証明する」



 堂々と明言し、振り向いたロッティを真っ直ぐと見つめる。潤んで揺らぐ彼の瞳の中で、僕は微笑みを浮かべた。



「言っただろう? 本当の友達っていうのは、たとえ十年以上会っていなくても、また会えた時、まるで昨日会ったみたいに今日の話の続きができるんだ」


「……っ」


「だから、僕が証明するよ。ここに綺麗な花を咲かせて、いつか僕も死んでしまった後。またここで君と出会って、今日の話の続きをするって」



 だから、今日の約束は、この続きをいつか語るための〝また明日〟だ。


 優しく告げて顔を覗けば、ロッティは目尻に涙を溜め、震える唇を開いた。



「……絶対?」


「うん」


「俺のこと忘れない?」


「花の世話をするたび思い出すよ」


「花、ちゃんと、咲かせてくれる?」


「ああ、大丈夫だ、僕は紳士だからやり遂げるさ。君は安心して眠っていい」



 伸ばされた小さな手。

 僕も片手を差し出し、触れられない彼の小指に、自身の小指を絡める。



「〝また明日〟」


「うん……」



 頷いたロッティは、涙を拭い、初めて僕に笑いかけた。

 強固な氷。

 春の日差しで、ようやく溶ける。



「……また明日」



 紡いで、ひとつ瞬いた、瞬間。

 目の前にいたロッティの姿は、忽然とその場から消えてしまっていた。


 白い雪原。僕の足跡だけが残る湖のほとり。

 静まり返る静寂の中で、不意に、ざくりと雪を踏みしめる足音が響く。



「あ……」


「!」


「……あなたは?」



 その場に現れたのは、ラナンキュラスの花を持ち、黒い礼装に身を包んだ憧れの女性。

 ナターシャ──彼女との唐突な邂逅に、一瞬驚きながらも、僕は咄嗟に声を紡いだ。



「……あのっ、足のサイズを──」



 しかし、言いさした言葉はすぐに飲み込む。

 黙った僕に、ナターシャは首を捻った。



「……? 何ですか?」


「いや……失礼、何でもありません」



 薄く笑い、僕は目を細める。



「これは、いつか友人から聞きます」



 不思議そうなナターシャ。軽く会釈して、僕は彼女のそばを去った。


 少し歩き、夜のとばりが降りた空を見上げる。

 白い吐息。星も見えない。

 物言わぬ雪は降り注ぎ、夜の訪れと共に、冷たさの増す冬がすべての生命を微睡まどろみへいざなう。


 いつかは僕も、この雪に埋もれて朽ちることになるのだろう。

 春なき冬の最果てで、再び君と会えたなら。

 僕はきっと、今日と変わらない言葉を君にかけるよ。


 だからその時は、まるで昨日会ったみたいに、今日の話の続きをしてくれ。



「──また明日」



 雪解けなき世界の片隅、密かに結んだいつかの約束。

 雲間に星がまたたく中、土の下の春が芽を出していたことを、僕も、君も、まだ知らない。

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