四泊五日トロピカル因習アイランドの旅

津月あおい

四泊五日トロピカル因習アイランドの旅

 飛行機に七十二時間乗り続けていたあたりから、おかしいと思っていた。


 俺は|野村幻竜斎(のむらげんりゅうさい)。

 ちょっと古風な名前の、広告代理店に勤めるサラリーマン(三十八歳)だ。

 久しぶりの長期休暇をゲットし、「いつもは国内旅行ばかりだがたまには海外旅行もしてみるか」とハワイまで羽を伸ばしたのが運のツキだった。


 眼下に小高い山の連なる島がある。

 それは見たこともない巨大な木々に覆われている。

 明らかに、旅行会社のパンフレットで見た島の様子とは違っていた。


 俺の乗った飛行機は、その南端を目指している。

 もうとっくに燃料はなくなっているはずなのに、ここまでたどり着けたのが奇跡だった。

 ふらふらとアップダウンを繰り返しながら、巨大なジャンボジェット機は小さな飛行場を目指して降下していく。

 不安しかない。

 案の定、機体は滑走路を大きく逸脱して胴体着陸した。


 振動が止むと、フライトアテンダントたちがあわただしく俺たち客を誘導する。緊急脱出用の滑り台が風船のように膨らみ、そこを下るように言われる。

 ……ふう、やれやれ。

 華麗に着地すると、直後に爆発音がした。


「は?」


 俺が最初に降りたので、残りの乗客たちは……。

 考えるのをやめよう。

 脱出口で全身を炎であぶられている者がいるが、俺にはもうどうすることもできなかった。

 風船みたいな滑り台もすぐに熱で溶けて崩れ落ちる。


 帰りの足がなくなった。どうしよう。


 俺は頭を抱えた。

 振り返ると、この飛行場には飛行機が一機も見当たらない。

 どころか、ここが滑走路かどうかも怪しかった。

 なぜなら地面のアスファルトはひび割れだらけで、ラインすら引かれていなかったからだ。


 不安になりながらも、近くのビルへと向かう。

 それは空港の建物かなにかだと思いこんでいたが……なんと、ただの「リゾートホテル」だった。

 入り口で数人のホテルマンたちが俺を出迎える。


「「「ようこそ、トロピカル因習アイランドへ!」」」


 なんだって?


「トロピカル因習アイランド?」

「はい。ここは昔からそういう名前の島なんですよ。よくお越しくださいました、旅の方! さっそくチェックインなさいますか?」

「あ、いや……見てたと思うが、乗ってきた飛行機があそこで炎上してるんだ。すぐに消防か警察に連絡してくれ」

「え? ああ……残念です」

「残念?」

「はい。この島にはそういうのがないんですよ。ですから、残念です」

「……」


 会話にならない。

 消防や警察組織がない? じゃあ、あれらはどうしたらいいんだ。


「まあ、事故っちゃったのは不運でしたけど、あなた様はご無事だったのでよかったじゃないですか。まあ、ひとまずこちらでごゆっくりなさってください。あ、お代は結構ですよ。外から来た方は最大限もてなすのがこの島の決まりですので。さ、中でなにかお飲み物を差し上げましょう」 

「はあ」


 何かキツネにつままれたような気分だ。

 ひとまず俺はホテルの中に招き入れられ、エントランスホールでピンク色した謎の飲み物をふるまわれた。


「このジュースは、島の特産品ガババを使用しております。甘くておいしいでしょう?」

「ガババ? グァバじゃないのか」

「ガババです」

「ガババ」

「まあ、現物はとても大きいんで、お見せすることはできないんですけどね。島の山間部には果樹園もあるので一度ご覧になってみては?」

「はあ……」


 俺は荷物を預けると、部屋のキーを渡された。


「三階の301号室です。あ、でも夕食までまだ時間がありますから、島内をしばらく観光なさってきてもよろしいですよ。ホテルの裏手に商店街や、さらにその先にはビーチもありますので」

「はあ」


 俺はポケットに鍵を入れると、言われるままホテルを出た。

 ホテルの裏はちょっとした公園になっており、そこを抜けると街が広がっている。さらに、まっすぐな道の先に青い海が見えた。


「言われなきゃ、ここはハワイによく似た南国の島だな……」


 俺はふらふらと街を散策することにした。

 どこからか太鼓か、打楽器の音がしてくる。

 これは……サンバのリズムだろうか。


 青い空、白い雲、そして独特な熱帯の空気。

 道の両側にはたくさんの土産物屋が並んでいた。よくわからない植物の繊維でできた人形や、鮮やかな色で描かれた幾何学模様のタペストリー、見知らぬ文字で書かれた「札」のようなものや、白い貝殻で出来たリース、これは……焼き物だろうか。蛙のような顔をした陶器の壺がいたるところに並べられている。


「おニイさん、おニイさん」


 肌を小麦色に焼いた現地の少女が声をかけてきた。

 彼女は簡素な布のノースリーブに短パンという、かなり身軽な恰好をしている。金髪に、空や海と同じ色の目。俺は笑顔で応えた。


「なんだい、娘さん」

「おニイさん、旅の人?」

「そうだよ」

「そっか。じゃあ山には行かない方がいいヨ」

「どうして?」

「特に山の水は飲んじゃダメ。喉が渇いたらガババジュースを飲んでネ」

「まあ、異国の生水はそうそう飲まないかな。ありがとう。あのジュースはすごく美味しいね」

「もう飲んだノ。気に入ってもらえて良かっタ」


 そう言う彼女は、バナナのようなオレンジ色の果物を食べていた。

 サンバの音楽がまた一段と大きくなる。


 俺は海の方まで歩いていってみた。

 白い砂浜にエメラルドグリーンの海。何艘か漁をしている船も見える。船はエンジンが後ろについただけの簡易なもので、山盛りに魚を積んでいた。

 しばらくするとそれらが浜に戻ってくる。

 俺はその漁師たちの元へ向かった。


「オイ、そっち、早く持っていってクレ!」

「オウ。これは肥料の業者に渡すゾ」

「今日は祭りだからナ、料理用にたくさん獲れて良かっタ」


 港で待ち構えていた人たちに漁師たちが次々と魚の入った籠を渡す。

 だが、俺はヤシの木の陰から見てしまった。

 人間の水死体のようなものを。

 白っぽい肌がぶくぶくと膨れている。それが次々と浜に並べられていく。それらも、ガタイのいい男たちによってどこかへと運ばれていった。


 俺は吐き気を催しながら、踵を返す。

 そんな俺を、ちょうど目の前の魚屋のオヤジが見ていた。


「オイ、そこの他所者のあんちゃん。見たのカ?」

「えっ」

「あの漁師たちが獲ってきたものをサ」

「あ、その……」

「驚くのも無理はないやナ。この島では外とは違う、特別な魚が獲れるんダ」

「特別な魚?」

「ほら、これを見ロ」


 魚屋の親父は店先に並んだ魚たちを俺に見せる。

 大小さまざまな色とりどりの魚たち。だがその顔にはどれも第三の目が額のあたりについていた。


「な、なんだこれは!」

「ん? 何ってこの島で獲れる魚はみんなこうサ。あと、沖ではどっかから流れ着いた死体が浮かんでてナ。それはみんな肥料にナル」

「肥料?」

「山の上にあるガババ畑のダヨ」

「ガババ」

「あんた知らないのカ? とっても甘い果物で――」

「いや、知ってる。ここに来た時に……ホテルで……」

「そーかそーか。それは良かっタ!」


 親父は笑顔で俺の背中を叩く。

 ガババ。ジュース。死体。肥料。畑――。

 ぐるぐるとそれらの言葉が頭の中で回るが、暑さのせいで口の中に残ったガババの味がより一層濃くなっただけだった。

 俺は唾で、できるだけそれを喉の奥に追いやる。


「あ、あの……祭りがあると聞いたんだが」

「ああ。祭りカ。実は昨日島民が一人死んじまったんダヨ。その弔いを兼ねた祭りなんだが、ホテルの前の広場で今夜行われル。あんちゃんも来るカイ?」

「え、ああ……それはなんというか、楽しそうだ」

「ぜひ参加してクレ。たくさん料理がふるまわれるし、いろんな踊りや音楽で朝まで宴を繰り広げるんダ。きっとあんちゃんも満足するゾ。ただ――」

「ただ?」

「この島の神様もいつのまにかまぎれてるからナ。もし神様を見たら、気付かないふりをしロ。そうしないと」


 親父は俺の目を見て言う。

 しかし、ちょうど他の買い物客が来て、それきりその話は終わってしまった。

 俺は祭りのことを考えながらホテルへ戻った。


 商店街を抜け、公園を通過し、ホテルの建物を大きく迂回していく。すると、広場のかなたで炎上していたジャンボジェット機が、あとかたもなく消え去っているのが見えた。


「は……?」


 あんな大きなものがすぐに消えるなんて、どうなってる。

 驚いていると、エントランスを掃除していたホテルマンたちがやってきた。


「お帰りなさいませ、旅の方。どうされましたか?」

「いや、俺の乗ってきた飛行機が……」

「ああ、壊れていたので大地に吸収されてしまったのでしょう。亡くなった方々もこの島の養分になったのだと思います」

「吸収? 養分?」

「はい」


 ホテルマンはそれがさも当たり前といったように返答する。

 俺はひどいめまいに襲われた。


「おっと。大丈夫ですか、お客様」

「ああ……ちょっと、疲れてしまったみたいだ。夕飯は遠慮する。少し休みたい」

「そうでございますか。ではごゆっくり。三階の301号室ですからね」

「ああ」


 俺はホテルマンたちと別れると、言われた部屋に向かった。

 エントランスホールを抜け、エレベーターに乗り、深いじゅうたんが敷かれた廊下を進む。一歩進むごとに急な眠気と吐き気がやってくる。

 301号室。そのドアの鍵を開け、部屋の中に入った。

 綺麗にベッドメイキングされた寝具に体を投げ出すと、俺は深い眠りに落ちていった……。



 どれくらい経っただろうか。

 気が付くと、軽快な太鼓のリズムが聞こえてきていた。

 目を開けると、薄暗い部屋の天井がちかちかと明滅している。どうやら窓から灯りが差し込んでいるらしい。俺は体を起こして外を見た。

 広場の真ん中で巨大なキャンプファイヤーが焚かれていた。人々が輪になってその周りを踊っている。たくさんの出店と、現代的なネオンの群れ。俺はその光景を三階の窓から見下ろしていた。


「なんだ、これは……」


 見ていると、あの吐き気はどこへやら、急にお腹が鳴りはじめた。

 俺は何か食べ物をと、祭りの会場へ向かう。



 コンカンカンココ、コカンカカン。

 コンカンカンココ、コカンカカン。


 ちゃんちゃちゃんちゃ、ちゃんちゃちゃ、ちゃんちゃちゃんちゃ、ちゃん。

 ひぅーい。

 ちゃんちゃちゃんちゃ、ちゃんちゃちゃ、ちゃん、ちゃちゃちゃん。


 きゅいきゅいきゅいきゅきゅ、きゅきゅきゅい。

 きゅいきゅいきゅいきゅきゅ、きゅきゅきゅい。


 ドンドン、ドンカラカッカ、ドドンドドン。

 ドンドン、ドンカラカッカ、ドドンドドン。


 ぴーひゃらぴーひゃらぴーひゃらら。

 ぴーひゃらぴーひゃらぴーひゃらら。


 てん、てん、てんつくつ。て、てんて、てんつくつ。

 てん、てん、てんつくつ。て、てんて、てんつくつ。



 祭りの会場は、様々な音であふれていた。

 どうみても日本の太鼓や三味線、沖縄の三線を演奏している人がいる。

 DJブースでスクラッチしている人もいる。

 コンガのような打楽器をひたすら叩いている人、笛を吹きならしている人もいる。


 踊り手も様々だった。

 腰みのをつけてフラダンスをしている人、阿波踊りをしている人、盆踊りをしている人、マイムマイムをしている人、ファイヤーダンスをしている人、パラパラを踊っている人。


 彼らは屋台で思い思いの料理を手に取りながら、食べては踊り、飲んでは歌い、キャンプファイヤーのまわりをぐるぐると回っていた。


 俺は屋台で魚介の串焼きを食べた。

 フライドポテトと、ケバブも食べた。

 わたあめ、焼きそばなんかも食べた。

 

 腹が適度に満ちた頃、会場に白木の棺桶が一つ、運ばれてきた。

 あれが亡くなった島民か。

 そんなことを俺は思っていた。


 棺桶は担ぎ手に持ち上げられながら、キャンプファイヤーのまわりをぐるぐると回りはじめる。

 俺はそれをビールジョッキを傾けながら眺めていた。

 奇妙な人影が棺桶の一団につきしたがっているように見えるが、きっと気のせいだ。それは全身を酷く焼けただれさせた小人で、棺桶のうしろで踊り狂っていた。

 俺はジョッキを取り落とす。


 やばい。気付かれてはいけないのに。

 全身火傷のその小人と目が合ってしまった。


「キェエエエエエエッ!!」


 謎の叫び声をあげて、火傷の小人がこちらに向かって走ってくる。

 逃げなくては!

 俺は祭りの会場を抜けて、ひたすら遁走した。


「はあ、はあ、はあ……!」


 小人は俺より遅れながらも少し気を抜くとすぐに追いついてきそうだった。

 俺はホテルの方向に走り、部屋に閉じこもろうと考えたが、なぜかホテルマンたちに制されて建物の中に入れてもらえない。


「ちょっと、どいてくれ! なにか変な奴に追われてるんだ!」

「まあまあ、旅の方。そうお急ぎにならないでください。まだ祭りは終わってませんよ。一度祭りに参加されたら、夜明けまで家に入ってはいけない決まりなんです」

「はあ?」

「ですからお入れするわけにはまいりません」

「……っ、くそっ!」


 埒が明かない。

 俺はホテルマンたちと突き飛ばすと、裏の商店街の方へ回った。


「はあ、はあ、はあ……!」


 満月の青い光に照らされた大通りは、昼間とは違ってしんとしている。

 湿度の高い風がムワッと海の方から流れてきた。

 いつのまにか目の前に昼間の少女がいる。


「おニイさん、おニイさん」

「お、君か。今なにか変なのに追われているんだ。助けてくれ!」

「おニイさん。あれは、島神様ダヨ。一度気に入られたらずっとついてこられル。良かったネ。おニイさんと島神様、仲良し」

「良くない! 仲良しになんかなりたくない! どうすればいいんだ。どうやったらあれを追い払える?」

「うーん……わからナイ。ただ、山の上には来られないってじいちゃんが」

「わかった、ありがとう!」


 少女はまだ何かわめいていたが、その情報を得た俺は海岸の先にある小高い山を目指した。


「キェエエエエエエッ!!」


 奇声と、虫のように這う足音が後ろからついてくる。

 俺は振り返らずに海沿いを走った。


 ほとんどの島民が祭りに参加しているため、どこにも人影はない。ただ、一台の軽トラがゆっくりと走っているのを見つけた。

 それは山道にさしかかっている。


「おおーい、待ってくれ! 俺もそれに乗せてくれ!」


 俺は声を張り上げてその軽トラを引き止めようとした。だが声が聞こえてないのか全く止まらない。

 山道の入り口には、大きな石碑と看板が立っており、「ガババ果樹園まで500メートル」と書かれていた。


 この先に、ガババの果樹園があるのか。


 俺は山道に入り、そのまま車を追った。

 しばらく走っていると、いつのまにか小人の足音が遠ざかっているのに気づいた。振り返ると山の手前で小人が地団太を踏んでいる。

 やはりあの少女が言っていたように山には入れないようだ。


 やがて、俺はゆっくり走っている軽トラに追いついた。

 車の運転手は何かの音楽を爆音で聴いている。レゲエか? 運転手自身も高速ラップを気持ちよく口ずさんでいる。だから気付かなかったのか。疲れた俺はその荷台に勝手に乗り込むことにした。


 緑色のカバーがかかっていたが、俺は構わずその上に乗った。下はなにやらぶよぶよしたものが置かれている。なにかの商品を潰してしまったら悪いと思ったが、四の五の言ってはいられなかった。

 そのまま山の頂上までタダ乗りさせてもらう。


 やがて、巨木が乱立する山の頂上に車はたどり着いた。

 これらの木は飛行機に乗っているときに見た木々だ。杉のようにまっすぐな幹だが、月明かりに照らされたその枝には、バランスボールほどの大きさの木の実がいくつも生っている。しかも、どれも人間の顔のような不気味な形だ。

 まさか……こんな気味の悪い果実がガババ、なのか?


「オイ、お前誰ダ!」

「しまった、見つかった!」


 いつのまにかレゲエを聞いていたドレッドヘアの運転手が俺に散弾銃を向けていた。辺りを見回すのに夢中で、運転手への警戒を怠っていた。


「すまない! 祭りの会場で島神様とかいうのに追い回されて……ここまで逃げれば大丈夫だと聞いたから来てしまったんだ。許してくれ!」

「なるほど。島神様に……。わかった。今日は祭りに出るやつが多くて手が足りてないんダ。手伝ってクレ。そうしたら見逃してヤル」

「わ、わかった」


 俺は二つ返事で了承した。

 レゲエの運転手は銃を車の中にしまうと、俺が今まで乗っていた荷台のカバーを外した。中身が月の光に照らされる。そこには……昼間見た水死体たちがあった。


「うわああああっ!」


 思わず悲鳴を上げると、レゲエの男が俺の首をつかんで水死体に顔を無理やり近づけさせた。


「オイ、今更ビビッてんじゃねえ。これを朝までに始末しないと、俺もお前も大変なことになるんだからナ。気張ってやれヨ!」

「は、はい……」


 俺は渡されたゴム手袋をはめると、レゲエの男とともに、水死体たちを荷台のカバーに一体ずつ乗せていった。そしてそれを近くの木の根元まで運んでいく。

 木々のそばにはあらかじめスコップが置かれてあり、俺とレゲエの男はそれで穴を掘って水死体たちを順番に埋めていく。

 これは思った以上にキツイ仕事だった。


「はあ、はあ、はあ……!」


 ビールを飲んで、走って、さらにこんな重労働をするはめになるとは思わなかった。俺は気が遠くなりながら、しこたま汗を流す。

 こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。

 俺は今頃、ハワイのビーチでのんびりやっているはずだったのに。

 どうしてこんな得体のしれない島で、人の水死体を埋めてなきゃならないんだ。


 ああ、喉が渇く。

 なにか飲まなきゃやってられない。


「水……水を、くれ」

「ああ? こんなとこに水なんてねえヨ」

「でも、喉が渇いて死にそうなんだ」

「うーん。あの実がどっかに落ちてればいいんだけどナ」


 レゲエの男は頭上のガババの実を見上げて言うが、あたりには何も落ちていない。

 俺は耳を澄ませた。

 さっきからスコップで穴を掘るたびに、どこからか水音がしている気がしていたのだ。


「こ、こっちだ……!」


 俺はレゲエ男の目を盗んで、その水音の方向へと走り出した。

 ガババの木々を縫っていくと、やがて小さなせせらぎを発見した。


「み、水!」


 俺はその小さな泉に手を差し入れた。

 どうやら湧き水のようで、冷たく、透明度も申し分ない。


「ううっ、生水だが仕方がない! 南無三!」


 俺はその水をごくごくと飲み干した。

 美味い。冷たい。体の隅々まで沁み渡るようだ。あとから強烈な下痢に見舞われるかもしれないが、ここで喉が渇いて死ぬよりはましだ。

 しかし、はたと思い出す。


『特に山の水は飲んじゃダメ。喉が渇いたらガババジュースを飲んでネ』


 あの少女の忠告。

 山の水を飲んだらどうなるのか。急に不安になってきた。


「オイ、オイ! 急にどこ行っテ……」


 俺を追って来たであろうレゲエの男は、泉を見ると瞬時に顔を歪ませた。


「オイ、お前。まさか、飲んじまったのカ?」

「え……?」

「山の水をダヨ!!」


 俺は足元を見る。

 いままでこんこんと湧いていた泉は、いつのまにかなくなっていた。

 代わりにどろりとした不透明な水たまりが出現している。


「え? は?」

「馬鹿野郎! それは、このガババの樹液ダ! ときどきそうやって普通の泉のフリをして、地面から湧いてくんダヨ。それを飲んじまっタラ……」

「ど、どうなるんだ」


 一歩、レゲエ男の方へ歩み寄ろうとしたが、足が動かなかった。

 見ると靴を突き破って、根のようなものが地面に食い込んでいる。


「う、うああああああっ!!!」

「ああ……俺ァ、もう知らねえゾ。山の水を飲んじまったら、みんなガババの苗木になっちまうんダ。もう、もう助からねェ。悪いが、お前はここまでダ」


 そう言うとレゲエ男は残念そうに来た道を引き返していった。


「ま、待ってくれ!! 俺をここに置いていかないでくれ!!」


 遠くからレゲエの音楽と、ラップを口ずさむ声と、軽トラの走り去る音が聞こえてくる。

 俺の体はミシミシと音を立て、来ていた服から枝のようなものが突き出てきた。


「うっ、がああっ!」


 ミシミシ。ミシミシ。

 顔からも、腕からも、太ももからも、何かが突き破ってくる。


「おニイさん、おニイさん」


 そんなとき、意識が途絶えそうになった俺の元に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。わずかに残った力でまぶたをこじ開けると、目の前にあの金髪の少女が佇んでいる。


「おニイさん、だから言ったのニ。山の水を飲んだらダメだっテ」

「き、君は……」

「旅の人、島に慣れて島の仕事する人になるカ、島に慣れずに結局ガババの木になってしまうカ、どっちかしかナイ。おニイさん、慣れない人だっタ。残念」


 ミシミシ。ミシミシ。

 体が鳴る。

 少女は「大きくなーれ、大きくなーれ」と綺麗な声で歌っている。


 やがて、朝の光が差してきた。

 空には雨雲が出現し、俺の体を一時潤す。そしてまたすぐに晴れ、七色の虹がかかった。


 その虹のアーチをジャンボジェット機がくぐる。

 それはふらふらと島に吸い寄せられていく。


 やがて、島に大きな爆発音が響く。

 軽トラの近づく音が聞こえてきて、レゲエの音がし、ラップを口ずさむ音が聞こえてくる。


「さーて、今日も気張って収穫すんゾ!」


 俺の四泊五日の旅もようやく終わる。

 ガババの、甘い匂いだけが辺りに満ちていた。



 完

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