アパート

 時計はすでに十一時を回っている。

 二人は栞の部屋にいる。淡いピンク色のカーテンに白いソファ、クッションは濃いピンクで、絨毯はサーモンピンク。この部屋にはピンク色のものが多い。テーブルの上では香皿でアロマが焚かれている。


 女は、名前を龍子と言った。

 職業はバーテンダーで、新宿の盛り場のバーに勤めている。

 その怪我の原因だが、仕事の関係でトラブルに遭ったとのことだった。

「……レイプドラッグだよ。店に来る男で、若い女の子の客相手に一服盛ろうとする二人組がいたから、追い返してやった。そしたら待ち伏せされてこのザマだ」

「ええ、怖いね」

「奴ら、途中にひと気がない場所がないからって、電車の中までオレを尾けてやがった。駅を出てから襲われた、返り討ちにしてやったけどな」

 龍子はそう言って拳を握る。その手には今は、栞が処置した湿布と包帯が不細工に巻かれている。

「ねえ、龍子ちゃん。やっぱり、警察行った方がいいよ。絶対危ないって、その人たち」

 栞の呼び方に龍子はあからさまに顔をしかめる。

「龍子ちゃん……いや。警察は嫌だ。行きたくない」

 そう言えば、龍子はさっきもそんなことを言っていた。

「どうして?」

「昔は暴れてたから、オレは。今更オレが襲われましたー、なんて言ったって、奴等まともに受け取っちゃくれねえだろ」

 そんな理由に、栞は少し安堵する。

「うーん、でもねえ。今は真面目に働いてるんでしょ? 龍子ちゃんが悪者を追っ払ったんだって、警察の人にもちゃんと分かってもらわないと」

「……うー」

 栞の言葉に、小さな声で唸る龍子。その怯んだような表情は、警察にどうしても苦手意識があるという顔だった。

「無理をさせたいわけじゃないよ。でもさ……」

 襲撃者が諦めたかどうかも分からないし、と言おうと思った栞だが、ふとあることを思いつく。

「ケーキのお詫びと思って、ここは私のお願い、聞いてくれるかな? はい、あーん」

 そう言って栞は、ケーキが載せられたスプーンを、龍子に向かって差し出す。手が使えない龍子は嫌そうな、というか恥ずかしそうな顔を見せる。

「……チッ」

 皿の上には、少し潰れて形が崩れたケーキが二つ、ちょこんと載っていた。


「でもさでもさ。ということは、龍子ちゃん、この近くにおうちがあるってこと?」

「ああ。それがどうした?」

「その人たちが捕まるまで、私が一緒に通勤してあげるよ。二人だったら襲われないでしょ?」

 我ながら名案だと思っていた栞だったが、龍子は慌てて頭を振る。

「駄目だよ! アンタまで襲われかねねえだろうが!」

 栞は、ふふ、と笑って、それから腕をまくり上げて見せる。

「大丈夫。私、合気道三段だからね。龍子ちゃんが襲われても、守ってあげられるよ」


 いわゆるぽっちゃり系でガーリーなファッションが好きな栞は、食べるのが好きで運動とは縁がないタイプと見られがちだ。ファッションに目覚めたのは大人になってからで、それまでの色気のない体育会系女子の生活の反動だったかもしれない。

 そんな自分の知られざる特技も、ついに誰かの役に立てる日が来た。

 そう思って、栞はにんまりと笑うのだった。


(了)

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龍子と栞 平沢ヌル@低速中 @hirasawa_null

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