ひとりより、ふたり
高田あき子
ひとりより、ふたり
台所の端、炊飯器の前に男が一人立っている。
ありがちな黒髪だ。しかし、男にしてはずいぶんと長く伸ばしている。腰が隠れるほどのそれを適当に束ねただけで、ヘアゴムにはなんの飾り気もない。
男は小さく鼻歌をうたいながら炊飯器を開く。たちまち広がる湯気で火傷しないよう気をつけながら、
くるりと身を翻らせると同時に束ねた黒髪が揺れる。その動きはどこかネコ科を思わせるしなやかさがあった。
男は、服装もまたありふれていた。白いシャツに黒いエプロン、下はスキニーパンツという出立ちである。特に洒落たところはないのだが、なぜか不思議と見栄えが良い。
長身だからかもしれないし、それなりに整った顔つきのせいかもしれない。だがそれ以上に、彼がまとっている人懐こさや愛想の良さがそう思わせるのだろう。男のそれは決して粗野でなく、けれども上品すぎない親しみやすさがあるのだ。
男は振り返った先にあったコンロの下方、グリルの中を覗き込んだ。内側は熱源が赤く光っていて、少し顔を近づけるだけで香ばしい匂いが漂ってくる。その匂いに思わず、男は表情をほころばせた。
グリルの中で焼かれているのは豚バラとネギを竹串に刺した、いわゆる
焼きたてを食べるならやっぱり塩コショウだろうか。それともレモンか、しかしタレも捨てがたい。
うっとりとした表情を浮かべたまま、男はそんなことを考えた。そのまましばらく無言で豚串を見つめていたが、やがてハッとして頭を振った。
いけない。まだ料理全てが出そろったわけではないのだ。最後まで気を抜かず、最高の食事に仕上げなくてはならない。
男は両頬に手を当てて一つ頷く。コンロの上にフライパンを乗せてサラダ油を引き、もやしと、同じくらいのサイズに切ったニラを投入する。強火で手早く炒めながら塩コショウと少量の水で溶いた鶏ガラ、オイスターソースを加えて味つけ、最後にゴマ油を少し加えて全体を絡めて皿に盛れば簡単に野菜炒めの完成だ。
我ながら上手くできた、と男は自画自賛する。満足げに口元を緩めつつ、もう片方のコンロで温めていた鍋のフタを開ければ、湯気の向こう側から現れたのは卵とワカメの中華スープである。お玉で軽くひと混ぜして、食器棚から取り出したスープカップに注いでいく。
これで一通り準備完了。あとはテーブルの上に配置するだけだ。
男は再び時計を見る。すでに時刻は午後七時五〇分を回っている。いつもの時間より遅れてしまったが、まあ許容範囲といったところだろう。
茶碗によそったご飯とともに、野菜炒め、スープ、豚串を乗せた平皿を並べる。最後に冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーと、お気に入りの店で買った沢庵を取りだし、テーブルの端に添えたら今日の夕食は完成だ。
男は小さく息をつく。そして今一度食卓に並んだメニューを確認し、一人満足げに笑みを深めた。
エプロンの紐を緩め、髪を結わえていたゴムを外す。傷みの少ない艶やかな黒髪は引っかかることもなくするりと解けて流れ落ちた。男が椅子を引く音と同時に、壁掛け時計は八時を指す。男は背筋を伸ばし、深呼吸するように息を吸って、両手を合わせた。
――いただきます。
そう口にしようとしたとき、窓の外から覚えのある音が聞こえてきた。
どうやらタイミング良く同居人が帰ってきたようだ。彼の愛用するバイクの音。エンジンを切るよりも先にスタンドを立てる独特のクセも健在だ。今日も無事帰宅してくれたようである。やはり『何事もなく』というのは嬉しいものだ。
玄関の鍵を開ける音が響く。男は思わず頬を緩めて席を立ち、もう一度台所へ戻って、彼のぶんも茶碗にご飯をよそうことにした。
普段はひとりで食べる夕食だが、今日は準備に少し時間をかけたことで予定がずれ込んだ。悪いことではない。二人で同じ料理を、温かいうちに食べることができるのだから。
やがてリビングルームのドアを開ける彼の『ただいま』が聞こえてくるのだろう。その前に男は長い黒髪をふわりと揺らしながら、笑顔で出迎えの言葉を口にする。
おかえり。そして、今日も一日お疲れさま!
ひとりより、ふたり 高田あき子 @tikonatu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます