仮の智津子

尾手メシ

第1話

 智津子が実家に戻って、まもなく一年になる。




 智津子は高校までを地元で暮らしていたが、大学進学を機に地元を離れ、大学在学中の四年間は気ままな一人暮らしを満喫していた。アルバイトにサークル活動に忙しく、それらの合間に講義に出るような有り様だったが、兎にも角にも楽しい大学生活だった。それが、就寝先がたまたま実家近くの会社になったことで、再びの実家暮らしとなったのである。

 実家に戻った当初は、やはり久しぶりの親との生活は煩わしさが先に立った。食事の時間一つ自由にならないことはストレスで、しかし、それもすぐに馴染んでしまった。そもそも住み慣れていた我が家であるし、自分の親相手に気を遣うこともない。

 本格的に会社勤めが始まってからは、家事を引き受けてくれる母親の存在は素直に有り難かった。慣れない仕事でへとへとになった帰り道、家に帰れば母の食事が待っていると思えば、多少は体が軽くなる。そうやって仕事に追われながら、窮屈ながらも快適な実家暮らしは、瞬く間に半年以上が過ぎていった。




 その日は父母が連れ立って、朝から出掛けていた。母が楽しみにしていた映画が封切られたらしく、その映画を観るついでに買い物をしてくるのだと言って、午前九時を回る前には、父を引き連れて意気揚々と大型ショッピングモールに出掛けて行った。智津子も、一緒にどうだと誘われたのだが、「休日はゆっくりと休みたいから」と言って、玄関先で、連行されていく父を見送った。

 そのまま二階の自分の部屋に戻り、何をするともなく、ベッドの中でスマートフォンを弄る。動画を観たり、SNSをチェックしたりしていたが、さすがに腹が減ってベッドから抜け出した時には、午後一時を過ぎていた。


 十月も半ばを過ぎると、段々と肌寒い日が増えてくる。その日もまさにそんな気温で、上着を一枚羽織って、智津子は部屋を出た。

 二階の廊下を渡り、トンットンットンッと階段を下りる。一階の廊下に下り立ち、リビングに行こうかとしたところで、ふと玄関が気になった。

 今朝、両親を見送った後、自分は鍵を掛けただろうか。掛けたような気もするが、どうにも確信が持てない。智津子は不安になって、リビングとは逆の方向、玄関へ足を向けた。

 玄関扉の前に立つ。上下に付いている鍵を確認すると、これは確りと掛かっている。ドアチェーンは外れていたが、迷った末、智津子はこれも確りと掛けた。鍵だけでは、どうにも頼りなく智津子には思えたからだ。ドアチェーンを掛けてしまえば、帰宅した両親が家に入れずに困るということは分かっていたが、智津子が家にいることは知っているのである、電話なりインターホンを鳴らすなりして貰えばいいだろうと考えた。


 玄関の施錠を終えて、智津子は改めてリビングに向かった。廊下を渡り、ガチャリとリビングのガラス扉を開ける。そのままリビングを突っ切って、キッチンのシンクの前に立つ。

 さて、昼食は何を作ろうかと考えるが、自分一人の為に料理をするのはどうにも面倒だった。棚をゴソゴソと漁って、インスタントラーメンを取り出した智津子は、鍋に水を張って火に掛ける。水が沸いたところに麺を入れ、麺が茹で上がったところで、鍋に粉末スープを直接投入した。

 出来上がったラーメンを鍋のまま、片手に持って智津子はリビングに戻った。ソファに座ってテレビを点けると、なにやら画面の中でお笑い芸人が騒いでいる。途中からなので、内容はさっぱり分からないが、それをぼうっと眺めながら、ズルズルとラーメンを啜る。

 ラーメンも食べ終わり、洗い物も済ませて、それでも智津子はリビングにいた。どうにも自分の部屋に戻る気にならなかったのだ。ソファの上に丸くなって、いつの間にか始まっていた映画を、観るともなしに眺める。そうしていつしか、うとうとと眠りに落ちていた。


 智津子が目を覚ましたのは、物音がしたからである。ガチャリと扉の開く音が玄関から聞こえ、次いで、ギィ、ギィと廊下を踏む足音がする。寝惚けた頭で、両親が帰宅したのだと智津子は思った。

 近づいてくる足音に、

「お母さーん、帰ったのー?」

と、智津子は声を掛けるのだが、返事は返ってこない。

「お父さーん」

智津子は呼び掛けるのだが、やはり返事は返ってこなかった。

 足音はそのままリビングへは向かわずに、階段を昇り始めたようだった。ギィ、ギィと音を立てて、一歩づつ二階へ向かっていく。

 この時になって、智津子はようやく何かがおかしいと気がついた。そういえば、自分はドアチェーンも掛けていたはずだ。例え両親でも、自分が中からドアチェーンを外さなければ、家には入れないはずである。ならば、あの足音は一体どこから入ってきたのだろうか。

 思い当たったところで、すっと血の気が引く。あの足音の主は、少なくとも両親ではない。両親でないなら、それは不審者だ。どうしよう、さっき足音に向かって声を掛けてしまった。自分が足音に気がついていることを教えてしまった。どうしたら、どうしたら。

 足音は、一段一段階段を昇っていく。やがて階段を昇り終えたようで、二階の廊下を踏む音がする。

 焦る頭で智津子が咄嗟に思いついたのは、警察への通報だった。震える手でスマートフォンを探すが見つからない。部屋に忘れてきたのだと気がついた。

 足音は、二階の廊下を歩いていく。

 いよいよ進退極まった智津子は、キッチンに駆け込んだ。シンクに出しっ放しになっていた鍋をひっ掴む。それを握りしめて、キッチンの隅、ガダガダ震えながら息を潜めて小さくなった。


 インターホンの鳴る音で、智津子は我に返った。辺りはすっかり暗くなっている。もう一度、インターホンが鳴る。智津子は恐る恐るキッチンを出た。リビングのモニターを確認すると、画面には両親の姿が映っている。震える指で通話ボタンを押す。

「はい」

 智津子がモニター越しに声を掛ける。

「ちょっと智津子、あなた何でドアチェーンなんてしてるのよ。入れないじゃない」

モニターから聴こえてきたのは、間違いなく母の声だった。


 あれから、智津子は両親に今しがたまでの出来事を話した。父が全ての部屋を見回ったが、何者かが隠れ潜んでいる様子はない。家族総出で家中を確認したが、とくに盗まれたような物はなかった。窓が開いていたり割られていたりといった、侵入された形跡もなかったことから、智津子の勘違いだろうということになった。

「寝惚けてたんでしょ、どうせ。しっかりしてよ、子どもじゃないんだから」

 母は智津子を呆れた顔で見る。

「今日は夜は買ってきたから」

そう言って、買い物袋を持って、さっさとキッチンに行ってしまった。

 父はリビングのソファに座って、すでにテレビを点けている。

「ごめんなさい、疲れてたのかも」

一応は謝ったのが、智津子は釈然としない。




 それからのことである。智津子は、家の中で何者かの気配を感じるようになった。

 不意に、家族以外の誰かの気配を感じる。驚いて周りを見回してみるが、そこには誰もいない。そんなことが度々あった。

 金縛りに襲われるようになったのも、この頃からだ。


 夜中、真っ暗な中で目を覚ます。今何時だろうかと枕元のスマートフォンに手を伸ばそうとして、しかし身体がぴくりとも動かない。金縛りだ、と智津子は思った。言い知れぬ不安が、智津子の心を焦らせる。指の一本でも動かせれば金縛りは解ける、そう聞いたことがあったので、どうにか動かそうとするのだが、やはり全く動かない。

 急き立てられるような心持ちの中で、智津子ははっきりと誰かの気配を感じていた。それは、普段感じることがあるぼんやりとした気配ではなく、実体を伴ったような濃密な気配である。

 ああ、今リビングにいるな。今度は風呂場だな。もちろん見えるはずはないのだが、智津子には、気配がどこにいるのかが手に取るように分かる。それは家中を徘徊し、階段を昇り、両親の寝室にも行っているようだった。

 ただ、不思議なことに、智津子の部屋には入ってこない。仮に入ってこられても困るのだが、そこに何か意味があるような気もして、気味が悪かった。




 こんなことがあった。

 その日は仕事が立て込んで、残業の末の帰宅となった。暗い夜道を、智津子はとぼとぼと一人歩いていく。ようやく見えてきた我が家は、どの部屋もすでに灯りは落とされていた。それもそのはず、スマートフォンで確認した時間は、とうに午後十一時を大きく回っている。家族はすでに寝てしまったのだろう。母が点けてくれていた玄関灯だけが、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。


 玄関扉の前に立ち、智津子は鞄から鍵を取り出した。鍵穴に差して、鍵を外す。静かに扉を開くと、やはり家の中は暗く静まり返っていた。家の中に入って、静かに扉を閉める。暗い玄関に、電気を点けようかと迷ったが、扉の上の欄間越しに入ってくる街灯の明かりで、家の中は薄っらと照らされている。結局、電気は点けなかった。

 上下の鍵を掛け、ドアチェーンもしっかりと掛ける。上がり口で靴を脱いで、脱いだ靴を揃えようと家の中に背を向けた。

 揃えた靴を脇に並べて、正面に向き直った時である。何かが薄闇の中を通り過ぎたような気がした。何だろうかと思っていると、リビングの方から、カチャンと扉の開く小さい音がする。

 ああ、親がまだ起きているんだな、と智津子は思った。リビングで何かしているのだろうと思ったのだが、一向にリビングのガラス扉から光が漏れてこない。

 智津子がリビングに近づいてみると、ガラス扉越しに見たリビングは、やはり暗いままだった。ガラス扉も閉まっている。扉を開いて顔を突き入れたが、暗くて部屋の様子は分からない。扉は開いたままにして、智津子は壁にあるスイッチをパチリと入れた。ぱっと明るくなった室内には、やはり誰もいなかった。

 きっと勘違いだったのだろうと思いながら、智津子はリビングを突っ切って、キッチンへ行く。もちろんそこにも誰もいるはずもなく、智津子は棚からコップを取り出すと、水道からコップに水を汲んだ。それをぐうっと飲み干して、シャワーを浴びてさっさと寝てしまおうとリビングに向き直った時だ。

 再び智津子の視界を何かが横切る。何だろうと思う間もなく、ダンッ、ダンッ、ダンッと足音だけが、リビングの中を駆け抜けた。足音は、そのまま廊下へ走り出ていく。バタンッと大きな音を立てて、乱暴に扉が閉じられる。それきり音はしなくなった。

 静まり返った家の中、へたり込んだ智津子だけがキッチンに残された。




 また、こんなこともあった。

 週末の夜、友人とネット飲み会をしていた時のことである。飲み会と言っても友人と二人、画面を繋いで、めいめいの家で酒を飲みながら画面越しに話すだけなのだが、これが存外面白かった。

 智津子も友人も、共に社会人一年目であり、仕事の愚痴から恋愛話まで話題に事欠くことはない。上司がどうした、隣の課にイケメンがいる、同級生の誰それに彼氏が出来たらしい。話題はあちらに飛び、こちらに戻りとコロコロ変わり、気がつけば三時間以上を話していた。


「そういえば、親戚の子どもでも預かってるの?」

「え?何で?」

 不意に智津子が振った話題に、友人が戸惑った顔をしている。

「いや、何でって。だって、ずっと足音がしてるから……」

 飲み会が始まって三十分を過ぎた頃だろうか、智津子はそれに気がついた。どこからかパタパタと音がする。何の音だろうかと周りを見回してみるが、智津子の周りにそんな音が鳴りそうな物はない。何だろうかと首を捻っている間に、音は止んでしまった。自分の気のせいだったかと友人との会話に戻り、楽しく話していれば、すぐに忘れてしまった。

 しかしそれからも、音は鳴っては止んでを繰り返す。聞くともなしに聞いていたその音の正体に、智津子が思い至ったのはついさっきのことである。

 分かってしまえば簡単なことで、あのパタパタという音は、誰かの足音である。音の軽さから考えれば、恐らく子どもだろう。音が大きくなったり小さくなったりしていることから、家の中を走り回っているのだと智津子は思った。

 友人も、智津子と同じで実家住まいである。きっと友人の家で親戚の子どもでも預かっていて、その子どもが、家の中で走り回って遊んでいるのだろうと智津子は考えた。

「足音なんてしてる?」

「してるよ、ずっとパタパタ走ってる。だから私、親戚の子どもでも預かってるのかと思ったんだけど……。あなた、小さい弟妹なんていなかったから」

「子どもなんて預かってないし、やっぱり足音なんて聞こえないわよ。ねぇ、大丈夫?」

 友人が心配そうに智津子を見てくる。そう言われると、智津子も自信がなくってくる。確かに聞いたと思ったが、あれは空耳だったのか。智津子が耳を澄ませてみれば、やはりパタパタと聞こえた。

「ほら、やっぱり」

言った智津子の口が途中で止まる。

 パタパタと足音がする。但し、改めて良く聞いたそれは、画面の向こうからではなく、扉一枚を隔てた先、廊下からだった。二階の廊下の奥からパタパタと走ってきた足音は、智津子の部屋の前を通り過ぎて一階へと下りていった。

 しばしの無言の後、ポツリと智津子が言う。

「ごめん、私の勘違いだった」

 互いにどこか気まずくなって、その日の飲み会は、それで解散となった。




 そうして、智津子が実家に戻って、まもなく一年になる。

 誰かの気配が家の中を彷徨っていることを除けば、概ね悪くない一年だったと智津子は思う。

 久しぶりの実家暮らしは快適で、一人暮らしの自由と引き換えにしても惜しくはない。最初は戸惑うことばかりだった仕事も、最近は慣れてきたからか、上司から注意されることも減ってきた。地元に戻ったことで、昔からの友人たちとの付き合いが復活したことも嬉しかった。大学時代は、どうしても地元に残った友人とは連絡が途切れがちだったが、こうして戻った今は、気軽に遊びに行ける。恋人が出来ないことは玉に瑕だが、やはり悪くない一年だったな、と智津子は思う。


 花冷えの、身体の芯から震えがくるような、そんな夜である。

 「今日は冷えるわね」と言う母が作った鍋をつつき、リビングで毎週の楽しみになっているドラマを観た。部屋に戻って、スマートフォンで友人とメッセージを遣り取りし、ひとしきり遣り取りしたところで風呂に入る。風呂から上がって、髪を乾かしたりだとか化粧水をつけたりだとかいった、寝る前のあれこれを手早く済ませ、身体が冷える前にと智津子は布団に潜り込んだ。


 目を覚ました時には、周りは暗かった。天井も見えないような闇の中に、一層増した冷えが織り積もっている。智津子が小さく吐いた息が、白いもやになって暗がりに消えた。

 何時だろうかと枕元のスマートフォンに手を伸ばそうとして、身体が動かなかった。ああ、またか。いつもの金縛りである。何度も金縛りになったせいで、智津子はすっかり金縛りに慣れてしまった。最初に感じていたような恐怖感は薄れ、今では、ただただうんざりするだけである。身体が動かないことは気分が良いものではないが、そのままじっとしていれば、そのうち解けるか寝るかしてしまう。その程度の、取るに足らないものだというのが、金縛りに対する智津子の正直な所である。

 智津子は目が覚めた時の姿勢のまま、ただじっと、暗闇の向こうにあるはずの天井を見ていた。身体が動かないのだから、他にやることもない。

 家の中では、いつものように誰かが徘徊しているようだった。その気配が、智津子にははっきりと感じられる。

 今、気配はキッチンにいる。それがキッチンからリビングに移り、リビングの中を二周してから廊下に出てきた。廊下を奥へと進み、トイレを通り過ぎて風呂場に入った。気配はそれきり、その場に留まっている。気配だけでも風呂に入るのだろうか、なんて益体もないことが智津子の頭に過る。

 今日の金縛りはずいぶん長いなと、智津子が相変わらず天井を見つめていると、風呂場に留まっていた気配が、再び動き出したことが分かった。

 風呂場を出た気配は、一階の廊下を真っ直ぐ進み、どうやら階段を上がり始めたようだった。段々と、気配が上に昇ってくる。足音はしないが、気配の移動する様子は、まさに人が一段一段、階段を踏み締めて昇ってくるようだった。

 階段を昇り終えた気配が、いよいよ二階の廊下に立つ。廊下を、智津子の部屋に向かって、足音もなく進んでくる。しかし、智津子に恐怖はない。気配が、決して自分の部屋に入ってくることはないと知っているから。

 案の定、気配は智津子の部屋の前を素通りし、そのまま両親の寝室へと向かった。中に入っていった気配が、じっと母の鏡台の前に立っているのが分かる。それから気配は、一度部屋の奥、窓の側まで進んでから、再び廊下に出てきた。

 奥から気配が戻ってくる。廊下を進み、智津子の部屋に近づいてくる。このまま一階に下りていくのだろうという智津子の予想とは裏腹に、気配は智津子の部屋の前で止まった。何だろうかと、智津子がぼんやり考えているうちに、カチャリと音がした。

 金縛りで身動きが出来ないため、扉を見ることは出来ない。それでも、智津子には分かる。今、部屋の扉が開けられた。開いた扉から、誰かが部屋に入ってくる。気配を感じるまでもなく、智津子ははっきりと確信した。ギィ、ギィと、床を踏む足音がする。ゆっくり部屋に入ってきた足音は、床を軋ませながら、一歩一歩、智津子の眠るベッドへ近づいてくる。

 智津子の心臓が早鐘を打つ。誰かが一歩踏み出す度に、智津子の呼吸が速く浅くなる。吐き出された息が、白くわだかまって凍りつく。寒さに割れた氷がパキンッと、澄んだ音を響かせた。

 いよいよ足音は、智津子のベッドの真横に立った。ぐっとベッドが沈んだことで、誰かがベッドの上に乗ったのだと分かる。そのまま、誰かが智津子に覆い被さってくるが、智津子は金縛りで動けない。

 暗くてよく分からないが、暗闇に浮かぶシルエットから、どうやら女のようだった。智津子の顔の左右に両手をついて、長い髪を垂らして、智津子の顔を覗き込んでくる。息がかかるほどの距離で、智津子はその顔を見た。

 その顔は、智津子の顔をしていた。僅かな闇を挟んで、智津子と智津子が見つめ合う。

 数瞬見つめ合った後、智津子の口から蚊の鳴くような、吐息とも悲鳴ともつかない音が漏れた。弾かれたように、智津子が智津子から離れる。そのまま智津子は乱暴に扉を開いて廊下に飛び出すと、ダッと階段を駆け下りる。その勢いのまま一階の廊下も駆け抜けて、バンッと玄関扉を開けて、夜の世界へ走り去ってしまった。智津子は座り込んだまま、開け放たれた扉を見ていた。




 その夜を境に、智津子が家の中で誰かの気配を感じることはなくなった。結局、あれは何だったのかはさっぱり解らないが、もう終わったことだから、と智津子は考えないことにしている。

 ただ、あれ以来偶に、母が智津子の顔をじっと覗き込んで、

「あなた、智津子よね?本物の智津子よね?」

と、智津子に訊くのである。

「何言ってるのよ、当たり前じゃない」

そう笑って智津子は返すのだが、「そうよね」という母の顔は、どこか納得していないようだった。

 本物かと問うということは、母は偽者の智津子を見たのだろうか。気にはなるが、答えが恐ろしくて智津子は訊けずにいる。

 友人との会話も噛み合わないことがある。友人が、

「この間のランチ、美味しかったよね」

と、楽しそうに話を振るのだが、智津子にランチに行った記憶はない。「そうだね」と、適当に話を合わせてお茶を濁すのだが、一体友人は、誰とランチに行ったのだろうか。やはり、これも訊けないままだ。

 あの夜走り去った智津子は、どうなったのだろうか。あれが、母や友人が目撃したかもしれない偽者の智津子なのだろうか。或いは、自分こそが偽者の……。

 智津子にはもう、気配も足音も感じられない。

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