『鴻森駅前 百合治霊院のカルテ』2023

 分厚いシラバスを突っ込んだリュックを持つと、しっかりと重かった。修一は体中にぐっと力を入れて、リュックを背負う。

 つい先ほどまで説明会が行われていたせいで、大学の講堂はざわざわと騒がしい。海外の教会のようにも思える造りの建物は、端から端まで並んだ椅子の後方が、階段状に高くなっている。修一は、「テレビで見るのと同じだ」とおかしな感動さえ覚えていた。

「ねえ、第二外国語、何にする?」

 女子学生の話し声が後方から聞こえた。修一はそっと端に寄る。女子学生は二人連れで、楽しそうに話しながら修一の横を通り過ぎていった。

「フランス語がいいな。一緒に取ろうよ」

「そうしよ! やっぱ一人だとさあ、寂しいよね」

 二人が身に着けている、揃いのイヤリングがきらりと光った。雑誌の表紙を飾るようなファッションだ。入学式から一週間も経っていないというのに、どうしてもう友人がいるのだろう。修一はなんだか恨めしかった。

 講堂を出て、霞んだ青空の下を歩く。広いキャンパスには草木が植えられ、まるで公園のようだ。足元に目をやると、舗装の上にピンクの花びらがぽつぽつと落ちていた。散ってしまってはいるが、このあたりは桜並木のようだ。赤みがかった桜の葉も十分きれいで、通り過ぎていく人たちが目もくれないのは、もったいない。

 四月初旬にしては暖かすぎるほどの気温だ。家を出たときには、寒かったらすぐに帰ろうと考えていたのだが、気が変わる。

 リュックから一枚のプリントを取り出す。ぺらぺらとした紙に黒一色で印刷された、キャンパスの簡略図だ。

 このキャンパスは、修一が所属する文学部をはじめとした、文系学部だけのものでしかない。だというのに、説明会の司会をしていた上級生のボランティアが、「常に、時間に余裕をもって行動してくださいね」と茶化しながら話していたのを思い返す。他の学生たちからは笑い声が上がったが、とても笑う気にはなれなかった。方向音痴の気がある修一には、ひどく恐ろしい話に思えたのだ。

 とはいえ、一・二年次の内は教養棟と呼ばれる建物で主な講義を受けることになるらしい。それなら迷うほどでもないかもしれない。顔をあげて地図が示す方向を見ると、四階建てのどっしりとした建物があった。

 他の大学のオープンキャンパスに参加した当時を思い返す。選択肢としては、もっと新しい施設を備えた大学が他にもあった。それでも修一がこの大学を選んだのは、学びたい専攻科目があったからだ。一二年次は、その目標に向かうための助走のようなものだった。

 そう考えてみた途端、不思議と気分が高揚する。修一は教養棟に向かうことにした。


 教養棟に一歩足を踏み入れると、たくさんの学生であふれかえっていた。男子も女子も色とりどりの服装で、中には緑やピンクの髪色をした人もいる。高校までの黒や紺だらけの世界とは大違いだ。修一はきょろきょろと辺りを見回した。

 自動販売機が置かれた休憩スペースでは、缶や紙コップを片手に、学生たちが話し込んでいる。複数のメーカーの自販機が、ずらりと並んでいる。なかには、カフェモカだとかいちご緑茶だとか、修一には想像もつかない商品も並んでいた。

 二階へ続く階段からたくさんの学生たちが降りてくる。どうやら講義が終わったらしい。修一は反射的に、廊下の端へと寄った。

「仁科先生の課題、やっぱ難しいよ」

「だよな。図書館寄ろ」

 先輩なのだろう、男子学生たちが話している。大学でも先生って呼ぶんだな、と修一がぼんやり突っ立っていると、不意に既視感に襲われた。今、目の前を歩いている一人の男子学生に、不思議と見覚えがある。昔、どこかで会ったことがあるのだろうか。

 身長は修一と同じか、数センチ高いくらいだ。整ってはいるが、これといって特徴のない顔立ち。それでもどうしてだか、この人物には会ったことがある、と確かに思うのだ。

 靄がかった記憶から、必死で絞り出そうとする。修一は、失礼だとは思いながらも男子学生を眺めた。色の薄い髪はさらさらとして、修一とは正反対だ。水色のストライプシャツに、黒いズボン。靴は白いスニーカーという、ありふれた服装だ。

 その間に、男子学生は自動販売機の前で立ち止まった。肩掛けバッグを開けて財布を取り出そうとしたそのとき、かしゃん、と音がして何かが落ちる。キーホルダーの付いた鍵だ。

「あ」

 反射的に、落ちた鍵を見た。複数の鍵を、プレート状のキーホルダーで束ねたものだ。男子学生が、鍵を拾い上げた。プレートの〝ゆめはかなう〟というひらがなが、修一の目に飛び込んできた。

「夢は、叶う」

 修一の言葉に、男子学生がびくりと肩を震わせて振り返る。目が合った。修一ははっきりと思い出す。なぜわからなかったんだろう。そう思ってしまうくらいに、鮮やかな記憶がよみがえってきた。

「百合、だよな」

「鳥羽」

 百合は、微かに目を見開いて言った。百合――百合叶也は、修一の中学生時代の同級生で、唯一の友人だった。修一が中学三年生だった頃の思い出には、本当にたくさんの百合の姿が焼き付いている。今まさに、目の前の百合がしているのと同じ、無表情な顔で。

 走馬灯のように思い返される記憶たちは、途中で途切れている。あの夏、修一が百合の前から姿を消してから、四年もの月日が経っていた。

 中学生の頃から、百合叶也は無表情な人物だった。それは今でも変わらないらしい。音信不通だった修一と四年ぶりの再会を果たしたというのに、「別に、何の興味もありませんよ」というような顔をして、コーヒー缶を握りしめている。修一にとっては、懐かしい感覚だ。百合が内心では、物事を考え込みやすい性格をしているということを、よく覚えていたから。

 考えれば考えるほど、無言に、そして無表情になる。相手に興味がないわけではなくて、ただ悪い癖をもっているだけだ。きっと今も、修一と何を話すべきか考え込んでいるに違いない。その証拠に百合は、自分から修一を誘った。本当に興味がなければ、「ああそう、じゃあ」とでも言って別れることもできたはずなのに。

「何考えてるか、教えてよ」

 修一は笑いながら、百合が自動販売機で買った紙パックにストローを刺す。みかんちゃん、という陽気な顔をしたオレンジのキャラクターが印刷されたパッケージ。中学生の頃、修一が好んで飲んでいた商品だ。百合が覚えていたのか、忘れてはいるが偶然選んだのか。どちらかはわからないが、どちらだとしても修一は嬉しかった。

「まさか、ここで会うとは思わなかった」

 とつとつと、百合が話し始める。その慎重な話し方は以前と変わらない。懐かしさが修一の心に湧き出してくる。確かに、百合は中学でもこんなふうに話していた。

「俺も。でもこの辺、美稲市から結構近いしね」

 二人の出身地である美稲市は、大学のある橘花市の東隣の街だ。

なかでも、修一が生まれ育ち、現在も住んでいる鴻森地区は、新興ベッドタウンとして人気らしく、年々住民が増え続けている。

 その一番の理由は、鴻森駅だろう。県庁所在地でもある橘花の中心部まで鉄道が伸び、鴻森駅には快速列車が停まる。修一自身、通学にはその快速列車を使っていた。

「百合は今、どの辺に住んでるの?」

「鴻森の、駅前」

「そうなんだ。俺もさ、四年ぶりに鴻森に帰ってるんだよね。進学に合わせて」

「そうか」

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