『王は国の冠』(2022)より
【概要】
2022年10月発行。A5判で212p。集英社ノベル大賞(2022)で一次選考を通過した作品に加筆修正したもの。ナンバリングはしてないけど、前作『月の導き』の150年後くらいの設定。
「女の王」が恋に落ちる話……なんだけど、今にして思えば『大奥』と話が似ているかもしれない。すみません。
【冒頭】
――神聖なる王冠――
トゥトゥトゥ、と小鳥の鳴く声がしている。縁側に座る女がふっと目を向けると、鈴生りに実を付けた木に鳥たちが群がっているのだった。
さんさんと陽の光が差す庭園は、女が暮らす屋敷の中庭である。この庭の草木は、全て女の家人が丹精込めて世話をしているもので、その木の実を野の鳥ごときに食われるのが、女には気に食わなかった。
まだ若い女の容貌そのものは、とりたてて美しいということはない。むしろ神経質そうな、怜悧な顔立ちをしている。つややかで重さのある黒髪をゆったりと束ね、深い青の衣を身に着けた女は、けだるげに立ち上がった。鳥どもを少し驚かしてやろう、と木に近づいていく。
女は、わっ、と大きな声を出した。鳥はばたばたと音を立てながら一斉に羽ばたいて、慌てたように飛び去って行った。木の実ではなく、虫でも食っていれば驚かされることもないものを。女は満足げに笑っている。
ミーミ・キア(初夏)も半ば、日差しは強くなるばかりだ。女の衣の下も、うっすらと汗ばんでいる。庭の木陰、ナクの木の下には、赤ん坊を抱いた乳母が立っていた。その顔を見ようと女が近づくと、あたりには砂糖を煮詰めたような香りが漂っている。ナクの実が熟しているのだ。大きく息を吸い込むと、女の胸に、甘ったるい香りが満ちた。
赤ん坊は、ナクの実に手をのばそうとしている。実際に触れられるほど近くはないのだが、乳母は、はっとしたように木から離れた。
女が言う。
「こらこら、ナクの実は食べるものではないのだ。美味しいのはあっちだよ、トゥリ」
トゥリ、というのが、赤ん坊の名だ。女は乳母からトゥリを抱き上げると、先ほどまで鳥が群がっていた木へと向かった。
木には、まだたくさんの実がついている。真赤な、女の指の先程の大きさの実に、女は手を伸ばした。その右手の人指し指には、薄青い石でできた、大きな指輪が嵌まっている。女の手の大きさに比べて、不釣り合いに大きい指輪だった。
トゥリは、ぶうぶうと声を出した。女が微笑むと、その左頬にくっきりとえくぼができる。
「待っておくれ、これには種があるんだ」
この木の実は、熟れるとじゅくじゅくと柔らかくなる。乳離れし始めたばかりの赤子に与えるには、ちょうどよいくらいだ。
女は、摘まんだ実から大きな種を器用に絞り出すと、トゥリの口元にちょんちょんとつける。
「はい、お食べ」
口元をもちゃもちゃとさせながら、トゥリは実を食べる。そして、顔をきゅっと歪めたのだった。
「あらあら、酸っぱかったかな」
ふえふえと、赤ん坊が鳴きだす前の声がこぼれた。女は慌てて、両手でトゥリを抱いては優しく揺らす。
「よしよし。泣かないでおくれ」
とんとん、とトゥリの背中を軽くたたきながら、うろうろと歩き回る。そのうちに、トゥリは機嫌を取り直した。再びお守りをしゃぶりだした口元を、女は懐紙で拭いてやる。
「トゥリはいい子だね」
女がそう言うと、トゥリはきゃっきゃっと声をあげて笑った。
「可愛い二ノ宮が、よくここまで大きくなったものだ」
二ノ宮、というからには一ノ宮もいる。その一ノ宮の方はというと、木陰でもう一人の乳母が見守る中、乳母子(めのとご)と駆け回って遊んでいた。木に隠れたり飛び跳ねたりしながら、互いに追い掛け回している。
一ノ宮は、子どもにしてはすらりと華奢な体つきだ。顔つきも涼やかで、長じればさぞ美男子になるだろうと、屋敷の者たちに噂されていた。
ずしゃり、と音がする。女がぱっとそちらの方を見ると、一ノ宮が地面に転び倒れている。間を置かず泣きだした一ノ宮を見て、乳母子は今にも泣きだしそうな顔になっていた。
「タヤ様!」
一ノ乳母が駆け寄る。自身の息子が何事もないことをさっと目で確かめてから、一ノ宮であるタヤの体を診た。
「どうだ」
女の問いかけに、一ノ乳母が答える。
「両の膝を擦りむいておられます。水を汲んでまいりますね」
「頼む。トゥリを」
女は側に控えていた二ノ乳母にトゥリを預け、タヤのもとへと歩み寄る。
「はは、うえ、さま」
大粒の涙と鼻水を流しながら、タヤは女を呼んだ。女はタヤの傷を診ながら、頬を撫でた。擦りむいてはいるが、大した傷ではない。タヤが女に抱き着くと、青い衣は涙と鼻水でべしょべしょと濡れた。召使が見れば青ざめるような様子だが、女は気にも留めない。
「こんなに血が出ているのでは、さぞ痛いだろうね。さあ、傷を洗おうじゃないか」
一ノ乳母が、庭園の井戸から水を汲んできた。柄杓で水を傷口にかけると、タヤの口から、きゃっと悲鳴があがった。
「よしよし、大丈夫だから」
そう言いながらも、女はタヤが暴れないように、しっかりと体を押さえている。傷を洗い終わると、タヤはしゃくりあげながら指をしゃぶり始めた。普段であれば注意をするところだが、今は大目に見てもいいだろう。女はタヤの頭をゆっくりと撫でた。
乳母にタヤを任せ、女は庭園の隅へ向かう。日陰にぽつぽつと生えているミジェの葉を二枚むしると、両の手で揉みこんだ。ミジェは薬草だが、苦く酸っぱいような、独特の香りがする。揉んでいるうちに、ねばねばした汁がべっとりと染み出してきて、女の掌を汚した。
その葉を、女はタヤの両膝に張り付ける。こうして傷口に貼ると、ミジェの葉が毒を吸い出してくれるという言い伝えがある。土の毒はときに病を引き起こすということを、この国の人々は経験から知っていた。
「さあ、これでもう大丈夫だよ。泣かないでおくれ」
乳母の腕の中のタヤは、涙目で女を見上げている。女は笑いをこぼしながら、懐紙を取り出して手を拭いた。
かあんかあん、と大神殿の鐘が鳴り始めた。八度鳴ったのは、上ノ八刻(午前十時過ぎ)を告げる鐘である。これから、女は務めに出ねばならない。子どもたちと共にいられるのは、食事時を除けば、朝のひとときだけでしかない。
「後を頼む」
昨日と同じように、女は名残惜しく思いながらも歩き出す。仕事場は、屋敷近くの大神殿の中だ。その大神殿へは、神官たちが差し向けた馬車に乗っていく。この道のりは歩くには長く、馬車では短い。ただ、女の身分では、徒歩で行くことを許されないのだ。
門の前に着けられた馬車は、金で飾り立てられた豪奢な作りだ。馬も、色とりどりに鮮やかで、小さな鈴がたくさんついた馬具を着せられている。馬がぶるぶると体を震わせると、鈴がしゃらしゃらと鳴った。
あたりの街には、見渡す限り、高い塀が連なっている。高貴な人々の屋敷が居並ぶ、古くからの街だった。
馬車はゆっくりと、大神殿を目指して進んでいく。御簾のうちから、外を眺めることもなかった。
大神殿に着くと、神官たちが待ち構えるように並び立っている。皆一様に真白い衣を身にまとい、頭を下げて女を出迎えた。
「ご無事の御到着、何よりでございます」
「うん」
御簾の奥から、女が応える。毎日交わされる同じ挨拶には、正直うんざりしていた。この短い道のりに、無事も何もないだろう。そう思ってはいても、口に出したことはなかった。
「今日はどうだ?」
馬車から降りつつ、女が尋ねる。神官の中から、年嵩の女が歩み出て答えた。
「今日も各地から参拝者が参ってございますよ、陛下」
陛下と呼ばれた女の名は、メルフェ・クエズ・シーナ。ニアスハル神聖国の、十四代目の王であった。
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