紙の本お試し読みコーナー

西田素兎子 (にしだ もとこ)

『月の導き ~ティリヤ=テヌ王国歴代記~』(2019)より

【概要】

 2019年10月発行、B6判で262p。初めて作った紙の本。話のアイデア自体はかなり寝かせていたもの。ちなみに設定が古いので、多少今の考えとは違っている。

 ティリヤ=テヌ王国という国を舞台に、「降嫁」が書きたかったというお話。


【冒頭】

 青年は窓の外を見る。間近には、国を南北に貫く大河の流れが広がっていた。それもそのはず、彼は船旅の途上にあるのだった。彼は故郷から都に上るために旅をしている。それには、川を船で下るのが一番早いのだ。

 やがて、ウルジュアク湖からそそぐ支流ガーシュ川と、大河メリーナリとが合わさる場所に通りかかる。川の色が徐々に変わっていく。その川の雄大さに、青年は『メリーナリ賛歌』の一説を思い浮かべた。


メリーナムの主、偉大なる母君

原初の水、最初に出でしもの

永久の流れ、尽きることの無きもの

その腕に抱かれしものは幸いなり


 賛歌の通りのその流れに、青年は毎度のことながら軽い畏怖を覚えた。偉大な、時に人の命さえ飲み込む河。その名を冠する女神メリーナリは、この国で広く信仰されている。

 メリーナリ河に入れば、王都ニアスハルは目と鼻の先だった。ニアスハルは中洲の町、文字通りメリーナリに抱かれたその町は、このティリヤ=テヌ王国で一番栄えている場所だ。船は、その船着き場を目指して進んでいく。青年は遠くに見える町並みを見た。一番高くそびえるのは、神殿の星見塔。今夜も、神官たちが星の観測をするのだろう。

(もうすぐだ)

 青年は思った。もうすぐ、あの方に会える時が巡ってくる。そう思ったところで彼は目を覚ました。


   *

   

 薄暗い室内に、昇ったばかりの太陽の光が差している。そのかすかな輝きを感じて青年は自然と目を覚ました。第三リル(一年のうち、三つ目の月)のまだ肌寒い時節で、耳を澄ませたところでまだ市井のざわめきは聞こえてこない。しかししばらくすると、時を告げる大神殿の鐘の音が街中に鳴り響いた。

もう起きなければ、そう思って彼は寝台から身を起こしたが、それとほとんど同時に、扉の外から使用人が声をかけてきた。

「若様、おはようございます。水をお持ちいたしました」

「……ああ」

「失礼いたします」

 使用人は水の入った桶を持っていて、近くにある台の上に桶を置くと、青年のそばに控える。彼はその水で顔を洗い、髭をそって鏡を見た。ティリヤ=テヌ王国人にしては珍しい、しかし彼の故郷のコーリガン州ではよく見られる、赤っぽい肌の色をした男の顔が映っている。彼は使用人に長く伸ばした髪を編ませると「ありがとう、もういい」と言って桶を下げさせた。

 使用人が出ていったところで青年は寝間着から服を着替える。褪せたように地味な色を染めただけの、装飾のついていない簡素な出で立ちは、まるで乗馬服のように見える。それに合わせるのは革でできた長靴だ。そして青年は聖壇の上に置いてある使い込まれた本をとって部屋を出、別棟にある礼拝堂へと向かったのだった。

 ここ、ティリヤ=テヌ王国の都、ニアスハルにあるコーリガン州公の屋敷では、毎日朝と夕に礼拝が行われている。そして青年――コーリガン州公の跡取りであるセイリン・カールディリ・シアラには、それに出席する義務があった。

 セイリンが礼拝堂に足を踏み入れると、すでに集まっていた人々が一斉に立ち上がって彼に向かって礼をする。彼は片手をあげてそれに返し、最前列へと向かった。そこにたどり着いたところで、彼は年老いた神官に向かって目礼し、いつも彼が使っている椅子に座る。

 神官は軽く礼拝堂全体を見回すと、演壇の上に置いてある小さな鐘を手に取り、がらがらと鳴らした。それを合図に礼拝は始まる。

 神官は聖典を開き、こう語った。

 「われらが導き手、偉大なるハディ・ユナー。われらに道を示したまえ。その御足の行くところ、われらの歩む道なり」

 聖句に続けて聖典に書かれた経文が読まれる。しかし古い言葉で書かれた文言は、遠い昔に意味が失われ、人々の耳には意味不明な言葉の羅列にしか聞こえない。人々はその言葉を、思い思いの祈りの姿で聞いていた。

 その時セイリンは、膝に置いた本の上に手を重ねていた。不思議な響きをしたその経文は、異国からやってきた彼の先祖が伝えたものだという。そのことを考える度に、セイリンは神妙な気持ちになる。今となってはその名さえも失われたカールディリ一族の始祖は、これらの言葉の意味をわかっていたのだろうか。その場にふさわしくないと思いながらもそんなことを彼が考えているうちに、神官の言葉は終わっていた。

 神官が壇から降り、人々がそれぞれの持ち場へと帰って行っても、セイリンは最後まで残っていた。それというのも、少し前に亡くなった叔父のことを思い出してしまったからだ。

 実父リウマと折り合いの悪いセイリンと、特別親しくしてくれた叔父イシリナ。女物の服を着るという、あまり見られない習慣のために、実兄であるリウマからはこれ以上ないというほどに嫌われていた叔父ではあるが、人の心の機微に敏く、また夫婦や家族の仲も良かったために慕う者も多かった。セイリンは今でも、叔父が急死したレル=ナ・キア(季節の名、冬に当たる)の日のことを忘れてはいない。

 彼は礼拝堂の奥に掛けられたハディ・ユナーの絵を見て、叔父の魂がその楽園で安寧を得ることを祈った。ハディ・ユナーはほとんどコーリガンのみで信仰されている神だ。異国からやってきた祖先が、その故郷から連れてきたのだと神官は説く。だから礼拝に来るのも、コーリガンに籍を置く者ばかりだった。

その神の姿は女性を乗せた白馬の姿で現される。セイリンは一瞬、その馬の青い瞳と目が合ったように感じ、『その御足の行くところわれらの歩む道なり』という聖句の一説が不思議と彼の心に響いた。

 礼拝堂を後にした彼が自室に戻ろうとして広間を通りかかると、使用人頭がやってきた。

「本日はこれから王太子殿下への拝謁がございますが、なにか御用はございますか」

「いや、何も。……朝の食事は王宮で済ませてくる」

「はい、かしこまりました」

 セイリンは再び自室に戻り、軽く身を整えてから正装に着替えた。とは言っても、ティリ風のひらひらとした華やかな装束ではなく、コーリガン流のぴったりとした袴が特徴のものだ。着替え終わるとセイリンは、用意された馬車に乗り、王宮へ向かった。

 街は人々が行き交い、すっかり賑やかになっていた。あちこちで物売りの声が響いている。南方の島から持ち込まれた香辛料の香りもする。ニアスハルには、セイリンが懐かしいと思えるものはほとんどない。それでも彼がここにいるのは、コーリガン州公の跡取りとしてそうすることが求められているからだった。州公の子弟、あるいは重臣、立場は様々でも十六の地方州はすべて代表を都に置くように定められている。特にセイリンのような跡取りになる者は、成人すれば一年ごとに都に居を置かなければならない。昔々に決められた、王国支配を目的とする規則のために、セイリンは丁度一年ほど前に都にやってきたのだった。

 王宮は、都の北側にある。ここは、王国で一二を争う壮麗な建物である。セイリンの屋敷がいくつも入ってしまうような広い敷地に、真っ白な高い塀が延々と続いている。セイリンを乗せた馬車が敷地内に入ると、ふっとミレイの花の香りが鼻についた。セイリンはこの花が、もともとは南方の島にしか生えていないことを知っている。都でみられるのは王宮か大神殿、または大貴族の邸宅くらいだろう。ネイシ・キア(季節の名、春に当たる)を象徴する香りだ、とセイリンは思う。



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