エルピスの嘲笑

ケロヤヌス

静かな歩み

 春のある日、彼女は消え入るような声で言った。


「私ね、あと一年で死ぬんだ。癌なんだって」


 か細く震える声は、近い将来自分に訪れるであろう冷たい終わりへの拭い去れない恐怖を感じさせた。暗く閉ざされた、永遠の終わり。十七歳の少女が背負うにはあまりにも重い孤独だった。

 だが、死への恐怖で震える彼女はそれを必死で振り払うように、歪んだ笑みで僕に語りかけた。


「だから、最後には笑って死にたいの。生きてて良かったって思えるような思い出を作って、後悔なく人生を終えたい」


 彼女の青白い手から伝わってくる、恐怖と願いが綯交ぜになった感情が、僕の背筋を固くした。僕は、彼女の真っ直ぐな目を見つめながら、「わかった」と小さな決意を口にした。彼女が笑って逝けるなら、僕は今にも崩れそうになる涙腺を抑えることだって苦ではなかった。


 彼女の手を引いて訪れた夜桜は、周囲に吊るされた提灯の優しげな灯りに照らし出され、蠱惑的な雰囲気を放っていた。昼間に見るのとは全く異なるその二面性に、僕は少しぞくりとした。彼女は、青白い頬に薄く笑みを刻んでくれた。病院では見ることのなかった、生を感じさせる感情の欠片。そこにまだ希望があるようで、僕は優しく手を握った。

 夏、少し痩せた彼女を連れてひまわり畑に行った。入道雲が広がる青空の下、その花言葉の通り太陽に向かって背筋を伸ばす大輪の花弁からは、月並みだけれど生命の強さを感じた。


 別の日には海沿いの夏祭りに出掛け、屋台で買った瓶ラムネを片手に夜風に当たった。少しずつぬるくなっていくラムネを口にしながら、彼女は小さく「楽しいね」と溢してくれた。僕はそれがたまらなく嬉しくて、彼女の頭を何度も撫ぜた。照れ臭そうに、遠慮がちに微笑む彼女の姿を、目に焼き付けるように。


 夏の終わり、満足に身体を動かせなくなった彼女の車椅子を押して、彼女が憧れていた大学のオープンキャンパスに連れて行った。僕たちとはそんなに歳の離れていない大学生が、何故だかとても大人に見えた。ガイドの学生の話を、彼女は誰よりも真剣な目と苦しげな表情で聞いていた。帰り道、随分遠くになってしまった大学のキャンパスを振り返って「ありがとう」と口にした。その言葉の意味を、僕は今でも考える。


 秋が暮れ、色づいた満開の紅葉が少しずつ冬支度を始める頃、彼女は病床から起き上がることすらできなくなった。僕は、学校が終わると毎日彼女の病室を訪れ、学校でどんなことがあったのかを語って聞かせた。友人の他愛のない世間話や、教師のドジを少し大袈裟に話すと、彼女の濁った目は生気が滴ったように微かに潤った。面会時間を終えて僕が病室を出ようとすると、彼女は決まって「ごめんね」とあるかないか分からないくらいの声音で独りごちる。彼女が謝る理由なんてどこにもないはずなのに、そんな彼女の気遣いが胸を締めつけた。


 ある日の放課後、いつものように彼女の病院へ向かおうと支度をしていると、僕の携帯が鳴った。着信相手は、彼女のお母さん。あぁきてしまったのだと、どこか乾いた達観さを感じながらも、僕は走った。


 病室のドアを開けると、まさに「その時」だった。家族や友人が取り囲むベッドの枕元で彼女の手を握る。すっかり冷たくなっていたその手は、まるで魂だけが抜け落ちた屍蝋のようだった。

 四肢から浸潤した死神が、その吐息で全身を凍らせていく感覚。それを脊髄で感じ取った彼女は、焦点の合わない目を必死に開き、音の出し方を忘れてしまった喉を震わせて、最期の言葉を絞り出した。


 僕はその言葉を、生涯忘れることはないだろう。



「……死にたくないよ」


 僕の手を握った彼女の手は、死神に連れて行かれるその瞬間まで小さく震えていた。


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