ピータンのない意見

λμ

ピータンのない意見

 私は手渡された五万字ほどの小説を読み終え吐息をついた。文字に沈んでいくような時間だった。潜るにつれて息苦しくなり、底に触れたところで限界に達し、力の抜けた躰が思いがけず仰向けに浮かんだがために肺が空気を求める。

 吸えば、吐く。

 生を実感する吐息。

 傑作だ。

 私は息を整えながら先生に向き直った。


「先生、この作品は――」


 私の感想は先生の差し向けた手のひらひとつで押さえ込まれた。

 先生は顎を撫でながら、値踏みするような横目遣いで、私に言った。

 

「ピータンのない意見を頼むよ」

 

 瞬間、私は言おうとしていた感想をすべて吹き飛ばされた。

 ピータン? 口の中で復唱した。

 ピータンとは何だ? 家鴨アヒルの卵を発酵させた食品だ。黒褐色の白身に緑青色の黄身をもつ、独特な臭みをもつ食べ物だ。

 

 この凄絶な小説と何の関係がある。

 忌憚の聞き間違いだろう。

 私は独断でそう解釈し、失礼の無いよう言い換えた。


「ではお言葉に甘えて、忌憚のないよう――」

「まってまってまって」


 慌てるような先生の声に、私は思わず目を瞬いた。


「誰が忌憚のない意見を言えと言った? そこはもう少し気を使ってくれ。私の性格くらい知っているだろう?」


 先生は両腕を組み、右肘を寒そうに擦っていた。癖のひとつであると私は知っている。作品を見せるとき、かならず同じ仕草をするのである。

 人が自分の躰を触るのは不安やストレスへの対処と言われる。先生もそうなのだろう。それは分かる。分かるが。


「ピータンのない意見、ですか?」


 発声の際、私の声は微かに震えていた。


「うん。ピータンのない意見」


 聞き間違いではなかったのだ。私の瞳は揺れた。先生を直視できなくなったのだ。しかし、手元の小説は目に入れたくない。壁に、机に、電灯に、どこを見ても落ち着けそうになかった。


「ピータン、とは?」


 意を決して尋ねると、先生は風に押されたように背筋をおこした。


「食べるかい? よし、持ってこよう」

「え? あの」


 そうじゃない、というより早く先生は席を立った。

 私は手元に置いていた小説を机の天板で揃え腕時計を見た。そもそも短編の拝読は予定になかった。すでに時間は押しており、これ以上の遅れは家での作業が明日に持ち越されることを意味する。

 さっさと感想を言って帰れば良かったのだ。

 思い浮かんだ結論に、しかし私は首を振った。

 そうではない。

 先生は私を信用してピータンのない意見を求めたのだ。きちんと受け止めて答えなくてはならない。どうやって。意味の分からない問に。

 それでもしなくてはならない。

 自信なさげに手渡された傑作を、傑作と気づけたのは、いまこの世界に私しかいないのだから。

 私が答えを間違えれば、先生は作品を捨ててしまうだろう。

 世に出ることはおろか私が目にした事実すら消えてしまうのだろう。

 分からなければならない。

 問いの意味を。

 長い思索に耽っていると、先生が青磁の皿にピータンを載せて戻ってきた。楕円形の皿の縁に規則正しく並べられた八等分のピータン。中央には白髪葱が添えられており、手前のピータンの緑青色をした黄身に爪楊枝が刺さっていた。これでは葱をまとめて口に入れることはできない。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 と、勧められるままに手を伸ばすと、先生が言った。


「自家製だよ」


 私の手は止まった。

 自家製の発酵食品ほど恐ろしいものはない。明日への作業の持ち越しどころからアスの作業で一日が潰れかねない。

 私は先生の顔を見やった。真面目な顔をして、どうぞとばかりに手を動かした。拒否するという選択肢もあるのだろうか。

 ええい、ままよ。

 口に運ぶと、複雑な香りと味が口腔を支配した。

 ビールが飲みたい。

 それもキレやコクを求めたビールではなく、生ぬるく水っぽいビールが飲みたい。

 美味い。のだろう。

 でなくては、そう思わない。

 私は聞くのを忘れて、もう一切れピータンをつまんだ。

 老酒でもいいかもしれない。

 できれば陶器の箸をもらって葱と一緒に頬張りたい。

 しかし、いまの私にはやるべきことがある。

 私はひとつ咳払いをして言った。


「先生、こちらの短編、たいへん素晴らしい作品――」


 またしても、先生の手のひらが私の感想を遮った。


「ピータンのない意見を、頼むよ」


 つまり、違うと。

 意味はわからない。分からないが、いまの私の感想はなのだろう。アプローチを変える必要がある。

 先生のいうピータンとは何だ?

 いま机の上に置かれている黒褐色のゼリーじみた外観を有する食材か?

 ピータンの特徴は、ゆる固い食感と、硫化水素が微かに混じる、甘みだ。

 ではピータンのない意見とは?

 それらの一切を抜いた意見だ。

 なるほど私の感想にはゆるさと固さと臭さの混じる甘みがあった。

 先生の言うことは絶対だ。機嫌を損ねてはいけないのだ。

 私は作品を読み終えたときの感覚を包み隠さず言うことに決めた。

 

「まるで文字に沈んでいくような体験でした。息をつくのも忘れて、深く潜っていって、全身を包む――」


 私は語りながら先生の様子を伺い、口をつぐんだ。

 奇人を見るような目で私を見ていたのだ。

 

「その、なんだ」


 先生は言った。


「君は私を馬鹿にしているのかい?」


 するはずないでしょう! と叫んでやりたくなった。そうしたところで怒っているとでも勘違いして怯えるだけに違いない。

 人によっては先生を面倒くさいと評するだろう。

 代わりはいくらでもいるのだし、放っておけよと。

 もし私が、先生と関わっていなければ、同じように言ったかもしれない。

 しかし、そうはならなかったのだ。

 私は先生を知ってしまった。先生の作品を読んでしまった。

 これは世に伝えなければならないと、私は確信してしまったのだ。

 そうなると、もはやそれらは傍観者の無責任な一言となる。

 先生が消えれば穴が開く。

 傍観者の多くの人ではなく、無数の名もなき人々に。

 私が広めてしまったがために、私と同じように穴を埋められた人がいるのだ。

 その穴は、先生をおいて他の誰にも埋められはしない。

 これは責務なのだ。

 自らの歓喜を世に広め伝えてしまったがゆえに私が負った、責任なのである。

 私にしかできない、私しかやりたがらない、無用の仕事なのだ。

 考えろ。

 私は私自身に念じた。

 考えろ。考えろ。考えろ。


――ピータンのない意見とは、なんだ? 

 

 先生の投げた言葉の本質を捉えろ。

 誰よりも早くそれを成すのが私の仕事だ。

 ピータンの本質とは何だ?

 鶏ではなく家鴨アヒルの卵。発酵食品。独特の臭みがある。甘みも。何を象徴している? 私の言葉? 感性? それらを抜けと?

 つまり、私ではなく私のものではない意見。

 まさに忌憚のない意見。

 辛辣な言葉を浴びせろと?

 できるわけがない。私には責務がある。それに、どれほど自分を離れた目を意識したとしてもゼロにはできない。どこかに私の欠片が残ってしまう。

 ピータンはどこで食べられる?

 中華屋だ。

 それも昔ながらの中華屋だ。

 伝統的な答えはするなと?

 アバンギャルトな?

 それも違う。

 だとしたら先生は、そのように言う。

 先生は私を最初の読者に選び信頼してくれているのだ。

 もっと、もっと深く先生の世界に潜れ。

 私にしかできない、世には希少と目される私の同志のために、私が潜るのだ。

 潜れ。

 ピータンのない、世界に。

 

 ――世界に!?


 私は思わず先生を見やった。驚いたように両手を小さく挙げていた。常人の動作とは思えない。それが先生だ。つまり、もしピータンのない世界だとしたらどのような意見を投げるのかと、問うているのだ、私に。

 バタフライエフェクト――。

 ほんの些細なことが遥か遠くで甚大な影響を及ぼす。

 もしピータンがなければ、この世界はどうなる?

 何が変わる?

 ピータンなんてものが存在しない世界に生きていたとすれば、この傑作を前にして私は、どんな感想を抱く!?

 

「先生」


 きっと、こうだ。


「面白かったです……!」


 何も変わらない。何も変わらないのだ。ピータンがこの世に存在していなかったとしても、先生の作品は私の穴を埋めたはずだ。私はそれを世に広めようとしたはずなのだ。私が受け取ったこの作品は、ピータンの有無に関わらず存在したはずなのだ。


「そうか」


 先生の手が皿に伸び、葱をいくつか束ね持ち、ピータンとともに口に運んだ。


「残念だ」


 暗い顔をしてもむもむと咀嚼する。

 なぜ!?

 胸裏で叫んだその時、私は気づいた。

 ピータンは、いま、そこにあるのである。

 先生が手ずから作り口にしているのだ。

 ならば。


「い、いえ!」

 

 私は言った。


「美味しかったです!」


 もはや混沌の極みにあった。何を言うのが正解なのかも分からない。ただ感想を述べることがこれほど難しいとは。

 なんど、そう思わされただろう。

 先生は咀嚼を再開して、言った。


「君は変わってるねぇ」


 心底ふしぎそうな顔だった。

 人の気も知らないで、と私は心中で叫んだ。

 叫んで、先生に倣い手で葱をつまみピータンとともに口に運んだ。

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ピータンのない意見 λμ @ramdomyu

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