線香花火の雫

文学少女

晩夏

 八月の終わり、夏の涼しい夜だった。

 夏祭りの後、手持ち花火に誘われた私は、花火とろうそくを入れたバケツを持って歩く君の後ろを歩いていた。女の子よりも広い君の背中は、頼もしかった。浴衣を着ていた私は下駄を履いていて、私の下駄は河川敷の道にひかれた砂利の音を、わざとらしく大きく鳴らしていた。

 夜空を映した透き通るような灰色の川が、軽やかな音を鳴らしながら、清らかに流れていた。静けさが深まる夜の中、川辺の雑草から聞こえるコオロギの鳴き声と、川の流れる音が重なり合って美しい旋律を奏でていた。

 薄い灰色の雲がぽつぽつと浮かぶ、きらめく星々が一面に散らばった夜空には、黄金色に輝く麗しい三日月が冴えていた。

 橋のところで君は立ち止まり、私も止まった。川辺に降りるための、草が生い茂る短い坂を君は二歩ぐらい進んで

「気をつけろよ」

 と言って、私に手を差し伸べた。君は、いつでも優しかった。

「うん、ありがとう」

 と言って、私は君の手を掴んだ。大きくて厚い君の手はいかにも男の子らしいたくましさがあって、私の心臓は騒いだ。君に聞こえてしまうのではないかと思うほど、心臓の音はうるさかった。

 いつも素振りをしていた野球部の君の手には、固くなったまめが沢山あって、君の努力が直接感じられ、私は君にますます惹かれていった。

 私は、君の手に掴まりながら坂を慎重にゆっくりと下った。私に合わせて、君は私の手を握りながらゆっくりと下りてくれた。

 川辺に下りて、君は手を離した。もっと繋いでいたかったのにという気持ちは、言葉に出来なかった。

 橋の下の川辺は、コンクリートの地面だった。私達はそこで花火をすることになっていた。硬いコンクリートの地面の上を歩くと、私の下駄とぶつかり合って甲高い足音がかたかたと橋の下で鳴り響いていた。音は反響して、橋が震える音がした。

 君はバケツの中から、ろうそく、花火を取り出して、バケツで川の水を汲んだ。重そうなバケツを置き、君はポケットから取りだしたライターでろうそくに火を灯した。

 ろうそくの炎は、淡い朱色の光を橋の下の薄暗い空間にぼんやりと広げた。私達を包み込んでくれるような優しい光だった。ろうそくのオレンジ色の炎は、勢いよく燃え盛っていて、涼しいそよ風に、揺られていた。

「よし、花火をやろう。線香花火は、最後な」

 と言って、君は花火の袋を開けた。君は袋から1本花火を取りだして、袋を私に渡した。

「うん」

 私も、袋から1本適当に花火を取り出し、袋を地面においた。私と君はロウソクの炎に花火の先端をつけて、火がつくのを待った。先に、私の花火から火花が散り始めた。

 私は花火をろうそくから離し、川の方に向けた。花火の火が手元の方に移るにつれて、火花はどんどん激しくなっていった。「シューッ」という音を鳴らしながら、火花は激しく前方にまっすぐに吹き出していた。緑の閃光が、鮮やかに輝いていた。花火から出る灰色の煙は緑の閃光に照らされて、美しかった。

 隣からも「シューッ」と花火が燃える音がした。隣を見ると、君の花火も私と同じように火花が前方にまっすぐと吹き出ていた。君の火花は、赤い閃光だった。

「手持ち花火、結構久しぶりだ」

 と、君が呟いた。

「私も久しぶりだよ。小学校のときが、最後だった」

「花火って、こんなに綺麗だったんだな」

「ね。小学校のときは、ただ楽しいとしか思わなかった」

 思い出を辿っていると、不思議と口角が上がっていた。楽しかったなと懐かしむと同時に、私はなんだか悲しくて、寂しい気持ちになった。

「懐かしいな。花火振り回して遊んでたよ」

 と、君は笑った。

「2本持って、くるくる回ったりね」

 そのとき、私の花火は火花を散らすのをやめた。私は花火を水の入ったバケツに入れた。じゅわっ、という音を鳴らしながら、ほのかな煙が昇っていった。その光景は、なんだかさびしかった。

 次の花火を袋から取り出した。そして、花火の先端をろうそくの炎につけた。火花が散り始め、私は花火をろうそくから離す。この花火も、さっきの花火と同じように前方に火花が放たれる。けれど、勢いは弱く、重力に従って火花は下に垂れる。私には、オレンジの閃光を放つ、美しいしだれ桜のように見えた。

 夏の中に、春の光景が浮かび上がるその花火は、不思議で、幻想的だった。夏のように燃え上がる春。そんな言葉が頭によぎって、それはどんなに春だろうかと考えていた。

 そんな中、君は四方八方にぱちぱちと火花を散らす花火を持ちながら、私の隣に来た。

「もう、夏休みが終わるな」

 と、君は悲しそうに、花火を見ていた。

「あっという間だね」

「あぁ、本当にあっという間だったよ」

「ずっと、部活だったの?」

「うん。ほぼ毎日あった」

「それは、大変だったね」

「うん。けど、野球は好きだから」

「すごいよ、ほんとに」

「そうかな…。そういやお前、高校決めたか?」

 私達は、中学三年生だった。夏は終わりに近づき、もう本格的に受験を意識し始める時期だった。

「多分、近くの○○高校にする。みんな行くみたいだし」

「そうか」

 私の花火は、止まった。バケツに、花火を入れた。じゅわっ、と小さな音を立てた。続けて、君も花火をバケツに入れて、じゅわっ、と音を立てた。すると、君は突然

「俺、高校は遠いところに行くんだ」

 と切り出した。私は、振り向いて君の顔をみた。君は、強い、まっすぐな目を、私に向けていた。感情が、複雑に絡み合って、ねじれて、私は呆然と、立ち尽くした。

「野球の推薦で、行くことになったんだ。俺は、寮で生活して、野球に全力で打ち込むことにした」

「…そっか」

「ごめんな、突然」

「いや、喜ぶこと…だよね。おめでとう、大介。大介ならきっと、大丈夫だよ」

 "喜ぶことだよね"という言葉は、自分にも向けていた。素直に喜べない、自分がいた。君が、遠くに行ってしまうと知って、どうして喜ぶことが出来るだろうか。私は、湧き上がる悲しみを必死に抑えながら、笑顔を浮かべた。笑っていないと、今にも涙が溢れてしまいそうだった。

「うん、ありがとう。俺、頑張るよ」

「甲子園で、大介の姿、見てみたいな」

「あぁ」


 しばらくすると、袋に残っているのは、2本の線香花火だけだった。君は、線香花火を2本袋から取り出して

「どっちが長く残るか、勝負だな」

 と言って、1本を私に渡した。弱々しい、細い持ち手だった。

「うん」

 私と君は、一緒にろうそくの炎に線香花火の先端をつけた。すると、ほぼ同時に線香花火に火がついて、私達はろうそくから線香花火を離し、肩を並べて座り込み、線香花火を静かに眺めていた。

 花火に着いた炎は、じわりじわりと手元に上っていき、その燃え盛る炎は、熱された鉄球のようにめらめらと真っ赤に輝く小さな球へと姿を変えた。

 その小さな球は、小刻みに震えながら、激しい火花をぱちっ、ぱちっ、と放ち始めた。火花は、稲妻のように鋭く、一瞬で姿を消し、美しくて、儚かった。次第に、火花はぱちぱちぱちぱちと、全方位に激しく散り始め、美しい音を鳴らした。

 激しく火花を散らし続けると、真っ赤に輝く球は少しずつしぼんでゆき、火花は、ちりちりと、弱々しく散り、火花の長さも短くなった。最後の力を振り絞るように、小さな火花を、散らし続けた。そして、火花は散らなくなり、力尽きた赤色の玉は、ちょん、と、地面に落ちていった。


 君の線香花火は、まだ、耐えていた。線香花火の、優しい光に照らされた君の横顔が、綺麗で、君と離れてしまうと思うと、私の視界が、溶けて、歪んだ。その、歪んだ視界の隅で、君の赤色の玉は力尽きて、下に落ちた。私の涙のしずくも、下に落ちた。

 火花の音がやんで、夜の静けさが、現れていた。

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