ハードウィック・ケネルにて

Azawakh

ハードウィック・ケネルにて

「ここでは人体実験が行われているらしい」

 年老いたロッキーが言った。

「全員が危ないわけじゃない。でもキャンプの最終日、必ず何人かが別室に連れて行かれることになる」

 僕とマックスは顔を見合わせる。

「爺さんが嘘ついてやがるぜ」

 マックスは肩をすくめたが、彼の目の奥が蝋燭の火のように揺らいでいる。スウィーティーは落ち着かない様子で足元を気にし始めた。チャーリーの震えが酷くなる。それは寒さからくるものではないだろう。僕らのキャンプはまもなく終わる。

「冗談はやめてよ」

 僕は耐え切れず、甲高い悲鳴を漏らした。


 サマーキャンプ。夏に数日やってくる悪夢の日々。これをサマーキャンプと呼ぶと知ったのは去年の話だ。別のキャンプ場で一緒になった子が教えてくれた。

「夏のお泊りだけ特別にそう呼ぶみたい。エリーちゃんもサマーキャンプだねってパパが言ってたもの。他の季節のお泊りには名前がないのに、面白いわよね」

 そう言って笑っていた彼女は今年どうしているだろう。僕はまたサマーキャンプに来ている。十三日の今日、湖畔のこの大きな建物で、僕の悪夢が再び始まる。

 重い扉をくぐった先でママと別れ、冷房の利いた屋内でキャンプ仲間と対面する。

「俺はマックス。親父からはマイボスって呼ばれてるぜ。よろしくな」

 マックスは貫禄のある顔をしている。ボスのあだ名は彼に似合っていた。

「私はスウィーティー、そう呼んで」

 頭に赤のリボンをつけ、おしゃれな服を着た子が言う。ピンクのフリルが彼女の細い手足を際立たせている。

「本当はサクラっていうんだけど、でも私、ママが私をスウィーティーって呼ぶ声が好きだから」

「俺たち昨日からここにいるんだぜ」

 マックスが僕の後ろで閉まった扉を気にしながら言った。扉の向こうに誰かいないか確認しているようなそぶりだった。マックスの言葉に頷くスウィーティーの視線も、扉に注がれている。僕も背後を振り返る。僕らはあの扉を気にせずにはいられない。ママと別れ、あの扉が閉まったときの絶望といったら、筆舌に尽くし難い。

「あの」

 そんな僕らを振り向かせるように、細い声がする。

「僕はチャーリー」

 夏場にもかかわらず、七分丈のシャツを着ている彼は、声と同じくらいに細身だった。思わずじろじろ見てしまった僕の視線の言わんとするところを察したのか、チャーリーが困ったように、しかし少し得意げに、ちょっと笑う。

「室内着だよ。僕が寒がりなものだから。パパとママが過保護でさ。僕って、二人の宝物なんだよね」

「そうなんだ。ごめんね見ちゃって。あ、僕はレオ」

 宝物と言う台詞に引っ掛かりを覚えつつ、僕は早口に自己紹介をした。それから首に巻いたバンダナを気にする。デニムのバンダナ。ママのお気に入り。これを僕に巻くとき、ママだって僕のことを。そこまで考えて僕は急いで首を横に振る。ママを思い出すと寂しくなるからいけない。

「僕、ここは初めてなんだけど、ここってどんなところなの?」

 気分を変えようと質問する。スウィーティーとマックスが答えてくれる。

「別に。自由なようで自由じゃない。他と変わんないわ」

「サイズのところが多いけど、ここは年齢でわかれてるな。年長、年下、それ以外。俺たちはそれ以外だ。遊びは一緒にできないけど、飯は皆一緒だぜ。他のやつらと話がしたいならそこでできる」

「そう」

 話に区切りがついたところで人がやってきて、僕らを奥へと誘導する。歩けば歩くほどママが遠ざかる。いや、ママは僕をここに置いてすぐ帰っていったから、もうすでに遠ざかっているのか。でもより一層遠ざかっていく。

 しばらく歩き、辿り着いた場所で、僕はあたりをぐるりと見まわした。だだっ広いところだ。太めの廊下のような、細長いホールのような。いずれにせよ、多少走っても問題なさそうな大きな部屋だ。奥に外へ通じる扉がある。でも透明な扉の前には、重そうな柵があるから、勝手には出られない。部屋の壁沿いには個室が並んでおり、そこが僕らの寝床らしい。個室の一つに近づく。今回ここの使用者はいないのか、中はがらんとしていてベッドも何もなかった。

 僕は床に座り込んだ。滑りにくくなっている床は、少しは柔らかかったが、うちの絨毯に比べたらアスファルトみたいだ。マックスも僕と同じようにしゃがみ込む。スウィーティーは入ってきた扉を見ている。チャーリーも。誰も何も話さない。

 少し経った頃、ガチャリと扉が開いた。ママ! 僕は一瞬期待した。でも顔を出したのはママじゃなかった。

「ゴハンデスヨ」

 にこやかに笑う緑の服の知らない人だ。

 マックスの言う通り、食事は皆一緒だった。お揃いの服を着た人が何人も現れ、夕飯の入った器を僕らに配っていく。僕らと年長チームは行儀良くできたけど、年下チームは散々だった。じっとしていられないらしく、それぞれ好きなように暴れまわっている。他の子の皿を覗き込んでいる子までいた。それを見て僕はまた感傷的になる。僕があのくらいのとき、ママは僕を抱っこしてスプーンでちょっとずつご飯をくれたっけ。あんな風に、他の子にデザートのリンゴを取られる心配もなかった。全部が全部、僕のだった。

「ママに会いたい」

 個室に戻ったあと、僕は呟いた。僕に与えられた寝室だが、しかしここには僕のお気に入りの玩具もなければ、僕専用のタオルもない。それに個室の扉は柵で、向こうがよく見える代わりに、冷房の風が絶え間なく入ってくる。

「寒いよ! あったかくして!」

 叫んでみる。でも誰も僕にタオルをかけてくれない。

「黙れよ」

 隣でマックスが怒る。

「そうよ。うちに帰りたくなるでしょ」

 上からもツンとした声が降ってきた。その語尾には悲壮感が滲んでいて、それに気づいた僕はよりもっと辛くなった。

 皆、帰りたいよね。

 僕はベッドに顔を突っ込む。ふがふが嗅げば、どこかの誰かの遠い記憶が読み取れる気がした。読み取れないかな。できればそれで気を紛らわせたい。そんなのにすがっちゃうぐらい、サマーキャンプって最低。こんな場所へ子供を放り込むなんて、どうかしている。ママなんて嫌いだと、ぐずぐず言いながら目を瞑る。嫌な気分のときは眠るに限る。我慢も退屈も嫌な出来事も、寝ていればいつの間にか終わっているはずなんだ。

 しかし望みは叶わず、目が覚めても僕はキャンプ場にいた。がっかりしながら朝食を終えて、大部屋に戻る。ふと風を感じて首を持ち上げれば、外に続く扉が開いているのに気付いた。そっと近づいて、外の様子をうかがってみる。外は思ったより広く、シェードで作られた日陰の部分と、日光の当たる部分が半分ずつあった。大きな木も何本かある。木の隙間からは湖も見える。

「わお」

 枝を揺らしながらリスが降りてくる。その姿に僕の気持ちがいくらか軽くなる。

「ねえ見て、ビニールプールがあるわ」

 いつの間に隣に来ていたのか、スウィーティーがはしゃいだ様子で言う。

「入っていいかしら?」

「汚れちゃうよ!」

 スウィーティーのお転婆な一面に、チャーリーが慌てている。マックスがおもちゃ箱からボールを見つけてきた。

「サッカーしようぜ!」

「やったことない」

「教えてやる」

 僕は喜んで彼に教わった。マックスの見た目は僕と全然違うけど、こうして遊んでいると同じ存在に思えるのだから不思議だ。

 気づけば僕らは遊びに夢中だった。室内と外とを行き来して、鬼ごっこに宝探し、狩りをやった。土に埋めたものを探す宝探しはスウィーティーが一番上手く、鬼ごっこではチャーリーが一番だった。狩りは皆あんまりだった。でも初めて見る鳥を追うのは楽しかった。いつもは鳩や雀ばかりだから。

 夕飯を終え、眠る頃になると、また少し寂しくなったけれど、疲れのせいであっという間に眠りにつけて、あんまり辛くならずにすんだ。そして次の日になってみれば、ここも案外悪くないような気になっていた。外に出て、太陽に温められた芝を踏み締めると、余計にそう思えた。僕らは前日に続きサッカーをした。スウィーティーとチャーリーも参加した。プールにも足をちょっと浸した。夕飯の知らせが来る頃には、皆遊び疲れてへとへとで、冷房の効いた室内で揃ってうたた寝をしていた。

「なあ」

 目をしょぼつかせながらの夕飯時。横から声をかけられた。話しかけてきたのは年老いたロッキーだ。眉毛の重そうな彼は、年長チームの中でも一際目立っている。

「おまえさんたちに忠告しといてやろう」

 少し柔らかくしたご飯を食べつつ、老人は言う。

「ここでは人体実験が行われているらしい。全員が危ないわけじゃない。でもキャンプの最終日、必ず何人かが別室に連れて行かれることになる」

「その話、俺たちも知ってるぞ」

 ロッキーの後ろから別の二人が口を挟んでくる。

「比較的若いのが連れていかれるやつだ。その点、俺らはもう歳だから安全だが」

「昨日までいたやつが、何人かがいなくなる現場を見たと言っていた。そいつは毎年ここにきているんだと」

「怖いなあ。おまえさんたちも気をつけろ」

 僕らは顔を見合わせる。

「俺たちを怖がらせたいのか? 爺さんたち」

 気丈なマックスが歯を見せる。彼の毛が少し逆立っているように見える。

「わ、若いのって、僕らくらいの?」

 食べるのを忘れてチャーリーが震えた。スウィーティーは何も言わない。気にしない顔で食事をしているが、彼女の白い顔が更に白くなったように見える。

「冗談はやめてよ」

 それだけ言って僕は黙った。ロッキーの話が、僕が食事を終えてからで良かったと思った。そうでなきゃ、チャーリーのようにご飯を残していただろう。

 暗澹とした気持ちで個室に帰る。いや、帰らされる。マックスが、ロッキーの話の真偽を確かめたいと、配膳の人に食ってかかっていたけれど、男女が追加で数人出てきて彼を抱え込んでしまった。有無を言わさず個室へと押し込まれた友人と、マックスの質問に答えず笑うだけだったここの人たち。この二つはロッキーたちの話に変な信憑性を持たせた。

「嘘よね? 冗談よね?」

 スウィーティーがぶつぶつ言っている。マックスは未だ怒って扉を引っ掻いている。チャーリーはわからない。泣いているのかも。僕は耳を押し付けるようにしてベッドに潜った。逃避というやつだ。何か怖いものが大部屋を歩き回り、個室を覗き込んで来やしないか。キャンプテントの周りを、誰かが刃物を持って歩くように。そんな想像から逃れるように目を瞑る。ロッキーたちの話は、僕らを恐怖に落とし込むには十分過ぎた。今夜は寝ないほうがいいのかも。選ばれたときに逃げられるよう、頑張って起きていたほうがいいかもしれない。

 そう決めたものの、日中の運動による眠気と、精神の昂りからくる起床の繰り返しで体が疲れ切ってしまったのか、いつしか泥のように眠り込み、気づけば朝が来ていた。夢の中で一回入口の扉が開く音がした気がしたが、どうだろう。

 揃って食堂に向かう。その列の中にマックスがいないのに気づく。息を飲んだ僕らは、素早く視線を交わしてから、食堂に飛び込む。

「マックス!」

 しかしマックスの姿はなかった。彼の食器もだ。スウィーティーがわなわな震えた。

「彼、選ばれたんだわ!」

 彼女は飛び上がった。パニックになった細い足が、食事の入った器を蹴飛ばす。散乱する食べ物の向こうに、ロッキーの悲しげな顔が見える。彼らが嫌がらせで僕らに怖い話をしたんじゃないんだと、僕は改めて悟る。あの老人たちは、本気で若者を救いたかったんだ。でももう遅い。

 暴れ回るスウィーティーが女の人に捕まる。

「アア、ヨゴシチャッテ。チョットハヤイケドキレイニナリマショウネ」

 女の人は何かを言いながら、スウィーティーをどこかへ連れていってしまう。

「嫌よ、助けてママ!」

「スウィーティー!」

 僕は叫び、彼女を追った。後ろから僕を追う足音が聞こえてきたが、僕のほうが足は速い。人間に追いつけるわけがない。僕は必死に追いかける。

 たどり着いた先は白い扉だった。中が見えない。上のほうに窓があるが、僕の体では届かない。それならと僕は扉に顔を近づけた。中で何が起こっているのか確かめるのだ。

 中からは水の匂いと音がした。花のような香りも。加えてごうっという風の唸り声と、蜂の羽音のような重低音が。

「うわっ」

 体中に走った寒気に、僕は扉から飛び退った。この匂いや音を知っている気がしたが、それが何か思い出すより先に、恐怖で頭がいっぱいになった。そこへスウィーティーの叫び声が聞こえて、僕はより一層顔を引きつらせる。よく聞けば、微かにだがマックスの声もするではないか。

「ああ、やっぱり人体実験だ、あの二人は選ばれたんだ!」

 体がぶるぶる震え出す。仲間を助けたいが、でも怖くて動けない。何もできずに廊下にうずくまっていると、追いついてきた誰かに捕まえられる。離せと暴れたかったが、手足がこわばって大した抵抗にならない。結果、僕は個室に放り込まれてしまう。チャーリーは無事だったのか、どこかから彼の啜り泣く声が聞こえてきた。

「ああ、もうおしまいだ。僕らもきっと人体実験されるんだ」

 ひんひん言う彼に、諦めるなんてと言ってやりたかったが、僕も泣きそうだから何もできない。僕は頭を抱えた。

 ああ、なんでこうなったんだろう。このまま僕も、非道なやつらの実験体になってしまうのだろうか。タオルもかけてもらえず、リンゴももらえず、ママにも会えないまま、僕の人生終わるのだろうか。そんなのってない。僕はとっても可愛いのに。ママの可愛いちゃんで、宝物ちゃんなのに。それがこんな風に終わるなんて! こんなことにならもっと嫌がっておけばよかった。仮病でもなんでも使って、サマーキャンプを拒めばよかった。足でも引きずってみせれば、ママはきっと全てを取りやめて僕を優先しただろうに。

 ガチャンと嫌な音がする。

「レオチャーン」

 扉が開いて人が顔を覗かせる。笑顔なのに、怖い顔に見えた。体中の気が逆立つ。僕も選ばれてしまう!

「サイトウレオチャーン」

 そんな子いないよと僕は個室の奥の奥まで逃げる。できる限り丸くなって全てをやり過ごそうと試みる。レオチャンと、扉の前まで人が来る。どうしようと思ったそのとき、僕の耳がぴくりと動いた。自分の意思で動かしたんじゃない、勝手に動いたんだ。同時に胸がドクドクと鳴り始める。かあっと体が熱くなって、尻尾が揺れだした。あの足音を知ってる、知ってるぞ!

「ママだ!」


「お世話になりました、毎年お盆は墓参りがあって。実家のマンションは犬禁止なんですよね」

「いえいえ。シャンプーやカットはいいんでしたっけ?」

「ええ。ドライヤーやバリカンの音を怖がるので、自宅ですることにしてるんです」

 女性はトリミングサロンを覗いた。そこにはフレンチブルドッグとスピッツがいて、今は新たにイタリアングレーハウンドが連れて来られたところである。

「あ、寒そうな犬だ。あの子、夏でもお洋服なんですね」

「ホテルは冷房が効いてますからね。ああ来た、レオちゃーん、お迎えですよ!」

 ペットホテルのスタッフが奥に向かって手を振る。スタッフの肩越しに見えた景色に、女性は苦笑した。空中を掻くようにして必死の顔のビーグルがやってくる。何かをわふわふ、言いもしている。リードを握るスタッフの体が心配だ。あの勢いで引っ張られたら、肩を痛めてしまうかもしれない。

「レオ! ママよ。寂しい思いをさせてごめんね!」

 彼女はしゃがみ込んで両腕を広げた。千切れんばかりに尾を振る犬は、スタッフを振りほどくと、柔らかな弾丸となって彼女の肩まで駆けのぼってきた。

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