ステージ4


 悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みの中で、自分を失うことである。


 ヒューマニズムとは人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想。神を主体とした教会の権力に抵抗し、神ではなく人間を主体にしようとする考え。

 歴史の流れを経て、多くの意味を持つに至っている。日本では人道主義・博愛主義を指してヒューマニズムと言う場合もあるが、英語では人道主義は別の言葉として区別されている。すなわち、戦争反対や、弱者の尊重といった発想と直ちに重なるものではない。



 追いかけられている。

 足音もなく、姿も見えない。

 しかし、追いかけられている。それだけははっきりと分かる。


 おれは逃げている。

 足音もなく、姿も見えない。

 しかし、逃げている。それだけははっきりと分かる。


 おれを追いかけているのは何だ?

 決まっている、ヒューマニズムだ。

 おれは散々な目に遭った。あいつらは正しさを盾にして好き勝手するのだ。

 ある日、あいつらは口々に罵った。

 ある日、あいつらは暴力を振るった。

 ある日、あいつらは仲間はずれにした。


 しかし、いつまで続くのだ。

 次に意識が戻ったら、ちゃんと仕事しないといけない。


 地平線からゆっくりとお天道様が昇ってくるのが見えた。

 いや、あれは違う。鏡だ。巨大な鏡。

 顔が映し出されている。


「お前は誰だ?」

「お前こそ誰だ?」


 そう返されて、おれは戸惑った。

 おれ、おれは誰だって?

 そんなの決まってる。えっと、つまり、少なくともお前以外のやつだ。


「お前から名乗れよ」

「呼びかけたのはお前の方だぞ、お前から名乗れ」


 いつもはだんまりだったじゃないか。

 こんな時に限って返してくるなんて、おれは追われているのだ。暇じゃない。

 それにしても、おれは誰なんだ?


「どうしても名乗らなきゃダメか?」

「名乗るべきだろう。お前は今までどうやって自分と他人を区別してきたのだ?」


 禅問答が続くかと思っていたが、簡単な質問がやってきた。

 おれと他人を区別する方法なんて簡単なコトじゃないか。


「轢くのがおれで、轢かれるのが他人だ」


 相手は黙った。

 形勢が逆転したようだな。ならばこちらも質問してやろう。


「おれは答えたぞ。お前はどうなんだ? 名乗ってみろ!!」


 鏡の中の顔は実に憎たらしい顔でこう返した。


「おれは――お前のお天道様だよ」


 お天道様!!

 ああ、お天道様!! お天道様だったのですね!!

 おれは感激した。まわりは真っ暗なのに姿が見えるのは、あなたが照らしているからなのですね!!


 そうだ、せっかく出会えたのだから、試しに愚痴でもこぼすことしよう。


「悩み事をひとつ聞いてもらっても、よいですか?」

「構わない、続けろ」

「おれはね、いっつもヒューマニズムってやつに苦しめられてきたんですよ。何でも受け入れるみたいな顔しやがって、人間は美しいだの、あったかいだの、キレイゴトばっかり抜かす。お天道様気取りだ。その言葉を盾にあいつらは平然とヨソを傷つける。そんなやつは人間じゃない・・・・・・から問題ないって……」

「ふむ」

「それからはみんなでよってたかって。おれのことを、あなたさまをあがめているおれのことを、サタニストって――」

「いけない、それはいけない。こらしめてやらなければならないな」


 乗用車が一台、目の前に現れた。

 これで――こらしめてやらなきゃ。

 ルームミラーにはお天道様の顔。見守ってくださるのか、これで安心だ。

 そうだ、お天道様。おれはお天道様の代わりに天罰を下す神官なのだ!!


 目の前にコンビニが出てきた。何人かの学生がたむろしている。アクセルを踏んだまま勢いよく突っ込む。

 店内に入り込み、商品棚をなぎ倒し、壁をぶっ壊して向こう側へと移動した。控室でスマホをいじるバイトを壁に挟むと、グレープジュースと赤黒い液体がフロントガラスにかかった。

 そのまま突き進むとブチッという鈍い破裂音とともに胴体が上下に分かれた。


 カフェインでもアルコールでも手に入らないほど、おれは夢心地だった。


 ははは、潰れていく。あの、忌々しい人間風情ヒューマニズムが、学級委員も風紀委員も子供もママも職場もみんなみんな――

 轢くたびに残りカスがこびりつくので、それをワイパーで一掃してやる。世界の汚れを駆除してやっているのだ。見ろ、お天道様もニコニコしてらっしゃる。


 おれはアクセルを踏み続けた。

 最近の車というのは、スピードメーターが何周もするらしい。

 海の上を走り、太平洋を横断した。


 そのままニューヨークへと突っ走る。

 ピストルで応戦してくるやつもいた。罰当たりなやつだ。

STOP止まれ」だと、お天道様でもないやつが、おれに命令するな!!

 どいつもこいつも、RIP、RIP、RIP。



 突然、頭が痛くなった。

 なんだ? ここまできて、こんなところで、急にはっきり・・・・としやがった。

 覚えがある。これは意識が戻りかけている時の症状だ。

 残された時間は少ない。おれは渾身の力を振り絞って、抗った。

DEAD END行き止まり」と書かれた標識を突き抜けた。


 くたばれ、ヒューマニズム。


 おれの車は自由の女神の足を舐め、オシャカになった。


 日は暮れて、夜の闇がずっと広がっている。



 病院の一室。

 一組の老夫婦が医師の説明を受けていた。

 上京して以来、全く音沙汰のなかった一人息子。

 そんな彼が二日前、路上で倒れ、緊急搬送されたという連絡を受けたのである。


「便りの無いのは良い便り」という格言は、皮肉な形で実現した。 

 彼の身体は大量のカフェインとアルコール、そして糖分によってボロボロの状態になっていた。

 重度の糖尿病は網膜症を引き起こし、眼球の血管が一斉に弾けた。血が彼の視界スクリーンを真っ赤に染めた。二度と彼の目に光が戻ることはない。

 酷使された臓器にはそこかしこに腫瘍が出来、年齢換算では両親をも上回っている状態であった。 

「おそらく――もって三か月かと」


 看護師はむせび泣く夫人をなだめ、診察室の外へと連れ出した。

 この先に待ち受けるショックに耐えられないと判断したからだ。


 医師は残された老人に重々念押しした上で、続きを話した。

 彼が倒れる前に錯乱状態に陥っていたこと。

 その際に自分の上司にあたる男性を突き飛ばし、結果、走行中の車に衝突させたこと。

 借り上げたマンションの彼の部屋を確認したところ、大量の酒類、栄養ドリンク、菓子が床、机、棚いっぱいに積まれ、それ以外の食糧、飲料――米やパン、肉、野菜、水、茶といったものが一切なかった・・・・・・こと。

 壁一面に印刷されたショッキングな画像が貼り付けられていたこと。

 ひとつ救いがあるとするなら、車に衝突した男性が大事には至らなかったことだろう――


 老人は医師の話を黙って聞いていた。


 一体、息子に何が起こっていたのか。

 自分なりに愛情をかけて育てたつもりだった。妻も決して母親として不足があったとは思えない。

 思い当たる節はまったくない。


 両手で顔を覆い、息をゆっくりと吐いた。


――お天道様


――これがあなたのお導きであるなら、私はあなたを恨みます


――そうでないのなら、息子は一体


――何にひかれてしまったのでしょうか

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悪趣味な、実に悪趣味な 脳幹 まこと @ReviveSoul

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