Ⅶm-5:リミックス
「はっ」
目を覚ましたとき、あたしは白に囲まれた空間にいた。
「ソプラさん、よかった」
あたしの目の前で、ミオンさんが安堵のため息をついた。
うそだ。ミオンさんがあたしの前にいるわけない。
「……あたし、天国にいるのかな」
「ううん、天国じゃない。ここは坂波駅の近くにある総合病院。ちょっと意識に問題がありそう。この音は?」
ミオンさんが、ぷおー、と鍵盤ハーモニカを吹いた。
「ラ」
「正解。じゃあこのコードは?」
じゃーん。ファ・ラ・ドの音だ。
「Fメジャー」
「正解。じゃあこの音階は?」
ぷ、お、お、お、お、お、お、お。
「んん……ええ、なにこれ?」
「Cハーモニック・マイナー・パーフェクト・フィフス・ビロウ」
「わかるかあ!」
あたしは思わず起き上がって叫んだ。っていうか、病院に鍵盤ハーモニカって、一体なんなんだよ!
「だよね。あはっ、あはは……」
ミオンさんが口元を押さえて笑い出した。それにつられて、なんだかあたしも笑い出していた。
「ふっ、ふふっ、あはははは……」
そっか、あたし生きてるんだ。それで、ミオンさんがそばにいてくれているんだ。
ずっと聞きたかった綺麗な声を耳にして、やっとそう実感することができた。
「よかった……ソプラさん、本当によかった」
「でも、どうしてミオンさんがここに」
なんとか記憶を手繰り寄せようとしても、がははっ、と笑っていたマネージャーのむさ苦しい笑顔しか出てこない。いや、待って。あのあと横断歩道を渡ろうとして、点滅した青信号が……。
「偶然、本当に偶然、車に轢かれそうになってるソプラさんを見つけたの。助けなきゃ、って思って、私、反射的にソプラさんのこと歩道に突き飛ばしちゃって……」
「そうだったんですか……」
「本当に、ごめんね。ソプラさん、脳しんとうを起こしてしばらく眠ってたみたいで」
「そんな、そんなの全然いいんです! ミオンさんが助けてくれなかったら、あたし死んじゃってたかもだしっ」
あたしの言葉を聞いても、ミオンさんは申し訳なさそうに佇んでいる。彼女のすらっとした細い足をよく見ると、そこには包帯が巻かれていた。
「ミ、ミオンさん、その足……っ」
「ああ……。まあね、ちょっと、足ひねっちゃって。でも大丈夫」
ミオンさんはそう言って、にっこりと笑ってみせた。その穏やかな笑顔を見つめていると、なんだか胸がぎゅっと苦しくなった。この人は、怪我をしてまであたしなんかを助けてくれたんだ。
「ごめんなさい……」
謝ろうとしても、弱々しい声しか出ない。それが情けなくて、あたしは思わずベッドの毛布をぎゅうっと握り、俯いて歯を食いしばった。そんなあたしの顔を、ミオンさんはそっと覗き込む。
「いいの。本当に、謝らないで。私がソプラさんを助けたいと思ってやったことなんだから。こんなの、すぐに治るしね」
「でも……」
ミオンさんはそう言うと、あたしが腰かけるベッドに近寄った。
「ソプラさん、何かを守るということは、何かをあきらめるということだよ」
その言葉のあと、ミオンさんは遠い目をして、両手を組んだ。
「ちょっと昔の話になるけどね。私はかつて、歌手として活動していたんだ。曲を作るのではなく、歌う側だったの。無名だったけど」
「……!」
あたしは、例の動画を思い出した。『2012.12.15. 獅子屋美音 live』。
ピアノの繊細な演奏。人魚のように美しいミオンさんの歌声。鳴りやまない拍手喝采。そして……。
「曲はね、ずっと同じ人に書いてもらってた。私の伝えたい思い、歌っていて楽しいメロディー。それらすべてを理解して、形にしてくれる人に」
「……それって、カイって人ですか」
あたしの言葉を聞いたミオンさんは、目を見開き、体をこわばらせた。少しの間、二人だけの病室に沈黙が流れた。
「ソプラさん、なんで知ってるの……」
驚いたような、怯えたような表情を浮かべたミオンさん。あたしは、なんとなく言ってはいけないことを言ってしまった罪悪感に苛まれる。それでも、あたしは重い口を開いた。
「……見たんです。ミオンさんの昔のライブ動画。一個だけネットに上がってて」
「……」
「歌い終わったあとに、『ありがとう、カイ』って。そう言ってました」
「……そっか」
ミオンさんはふっと息をつき、ふふっ、と笑った。
「その通り、私はずっとカイに曲を書いてもらっていた。私はね、カイが作る曲が大好きで、ずっと歌っていたかったの」
「……そう、ですか」
「でも、カイはそうじゃなかった」
「ええっ」
あたしは思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。ミオンさんはそれを聞いて少し笑うと、そわそわと両手を組み替えた。
「私は歌詞をすぐ間違えるし、音を外してばかりだし、何より声が濁っていた。汚い声だった。私は、彼を、満足させることができなかったの。そのうち、すれ違っちゃって」
ミオンさんは消え入りそうな声で、途切れ途切れにそう語った。
「だから、歌声を捨てた」
その言葉に、あたしははっと顔を上げた。ミオンさんは、覇気のない空っぽな顔だった。
「彼の曲を歌うことをあきらめた。彼の幸せを守るために」
「……」
「私という足かせから解放されて、彼は幸せそうだった。本当にやりたいことができているみたいだったから」
「でも、本当はそんなこと、思ってなんか……」
「ううん、思ってる」
ミオンさんは、そうぴしゃりと言い放った。彼女は、あのときカフェで見たような、大人っぽくて切なげな笑みを浮かべていた。
――やっぱり、体験しないと分からないことって、あるから。
チョコレートケーキの奥で照れたように笑う、ミオンさんの姿が思い浮かぶ。胸の奥がちくりと痛み、あたしは唇を噛み締めた。
「ごめん。でもね、大切な人が何を考えているかって、本当に痛いくらいわかるものだから」
ミオンさんは両頬に手を当てて、ふう、と息を吐いた。
「なんかそんな姿を見ていると、私って、歌わない方がいいんじゃないかなって思ったの。ううん、違うな。私は歌っちゃいけないんだって。そう、思った」
歌っちゃいけない。透き通るように美しい、大好きな声でそんな残酷な言葉を聞かされるなんて。地獄の底に突き落とされた気分だ。
「シシヤミオンは、シシャになった。歌手としての私は、もう死んだ。最近は、作曲もできなくなっちゃったの。カイの成功を思うと、なんか自分が情けなくて。……シオミシンヤも、すぐに消えてしまう」
なんて悲しいおとぎ話なんだろう。人魚姫は、声と引き換えに王子様に会いに行った。でも王子様を守るために、何もかも失って……。
そうしたら、今まで生きてきた人魚姫の人生は、どうなるの?
「……まだ、死んでないです」
「えっ……」
喉がひりひりする。目頭が熱くなる。ミオンさんの顔が、ぼやぼやになって見えなくなる。
――ああ、もう……!
あたしはぐいっと目元を拭い、鼻をずずーっ、とすすった。そして、勢いよくベッドの上に立ち、天に向かって拳を突き上げた。
「そんな悲しいおとぎ話は、あたしがリミックスしますっ」
「えっ、そ、ソプラさん?」
口をぽかんと開けたミオンさんのもとに、あたしはぴょんっ、と着地した。
「あたし、最近、歌詞を書いてるんです。ミオンさんが言ってくれたから、作詞にも挑戦してみようって思って」
あたしはそう言って、前を向いた。視界に、潤んだ瞳でじっとあたしを見つめる、ミオンさんの姿が飛び込んできた。小動物みたいでかわいくて守ってあげたいとか、悲しげな顔はしてほしくないとか、いろんな気持ちでぐちゃぐちゃになりそうで、あたしはぐっと両手を握りしめた。
「完成したら、絶対ミオンさんに歌ってもらうって、決めてるんで」
ミオンさんは、「私なんかが」と言いたそうに、不安げな表情を浮かべている。
「だめって言っても、だめですからっ。絶対に歌ってもらいます。ミオンさんの透き通った、綺麗な声じゃないと、絶対に絶対に、だめなんです!」
そのとき、ふいに風が吹いて、カーテンがふわりと揺れた。まばゆい太陽の日差しが差し込み、あたしたち二人をあたたかく照らし出す。
「声を失った人魚姫が、また歌えるようになる。自信をもって、音楽をできるようになる。そんなハッピーエンドになるように。リミックスさせてください。ミオンさんの、人生を」
あたしはそう言って、ミオンさんの前に両手を差し出した。
「……そっか」
ミオンさんはにっこりと微笑み、ふう、と息をついた。
「思い出した。人魚姫って悲しい物語だけど……。精霊に導かれて、天に昇っていくっていう、美しいラストだったっけ」
ミオンさんは目を輝かせ、そっとあたしの手を取ってくれた。
「私を天に導いてくれるソプラノは、すぐそばで共鳴していたんだね。ありがとう、
「それで、ソプラさんはどんな歌詞を書いてくれるのかな」
「ええっ、うーん……」
しまった。予想していなかった質問だ。
「えっと……人魚姫を助けて、幸せの海を渡って……。それから、竜宮城を百軒建てる、とか……?」
あたしがそう言うと、ミオンさんは口元に手を当て、愉快そうに笑いだした。
「ふふっ、あははは……。それ、なんかどこかで聞いたことあるよ。アッハァン」
「うーっ、今はまだ考え中なんです!」
狭い病室でわいわいと騒ぐあたしたちを、太陽の光が見守るように照らしていた。
リミックス 一碧 @suiten_ippeki
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