第3話 無残な親子

 信康の二俣城への移送が済んだ後。

 家康は、二人の家臣を呼んだ。


 岡本時仲ときなかと野中重政しげまさ。どちらもいわゆる「大身たいしん」の武将ではなく、知名度自体が低いが、岡本時仲の子、岡本大八は後に本多正純まさずみの与力となったが、事件により処刑されている。


 そして、彼らに命じたのが、世にも奇妙な「処刑命令」だった。


「築山殿を殺せ」


 その命令を受け取って、真っ先に反対したのは、野中重政だった。

「何故にございますか? 御台みだい様には何の罪もございません。それがしは得心がいきません。いかにお館様のご命令とはいえ、引き受けかねます」

 強硬に突っぱねてきており、理由を明かさないと、テコでも動かない有り様だった。

 一方の、岡本時仲は、全く動揺した素振りがない分、逆に怖いくらいに従順だったが。


 仕方がないので、家康は、声に出して説明を下す。

「あれは、嫉妬深い。もし、信康が死んだとわかれば、発狂しかねんからな。そうなると、さらなる悲劇を招く」

 夫婦の仲も長いと、相手のいい面も、悪い面も見えてくる。


 家康は、この時点で、もちろん「信康」を殺す決断をしているが、その前に、先に「築山殿」を葬ることを考えた。


 いくら非情な戦国時代とはいえ、「正室」を手にかけて殺した大名というのは数少ない。

 それだけ家康は「追い詰められていた」。もちろん、信長の静かなプレッシャーに。


「はっ」

 従順な岡本時仲はもちろん、不服そうな態度を示していた野中重政も渋々ながらも「上意」を汲んで、従うことになる。


 8月29日。

 遠江国敷知ふち郡の佐鳴さなる湖に近い小藪村(現在の浜松市中区富塚)。


 まるで罪人のように、後ろ手を縛られて連行されてきた築山殿は、流し続けた涙により、両目を赤く腫れ上がらせ、悲痛な叫び声を上げていた。


「離せ、無礼者! わらわを誰と思うておる!」

 しかしながら、主の命令は絶対であり、彼らは逆らうことは出来ない。


 家康からの命令は、築山殿に「自害させろ」だったため、

「御台様。どうか、ここで潔くご自害を」

 野中重政が、丁重に縄をほどき、短刀を差し出して、築山殿に自害を迫るが。


「嫌じゃ」

 彼女は突っぱねてしまう。


「御台様」

「わらわに何の罪があるのじゃ? 得心がいかぬ」

 強硬に突っぱねるが、もちろん、罪状は彼らの手によって、事前に築山殿に言い渡されていた。


「信康とはかって、家康を当主の座から引きずり下ろし、信康を当主にしようとしたこと」

 要約すると、そんな内容だったが、もちろん築山殿は、この件には一切関わっておらず、冤罪だった。


 しかも、あろうことか、縄がほどけたことで、自由になった築山殿は、走って逃げる素振りを見せた。


「あっ」

 と、野中重政が思った瞬間。


―シュン!―


 一瞬の出来事だった。

 岡本時仲が持っていた、長槍の穂先が、築山殿の身体を、背中から突き刺し、貫通して腹部から飛び出ており、鮮血が飛び散る。


 槍を引き抜いた時仲だったが、築山殿は、人形のように倒れ込むも、まだ息がある。しかもこの状態では中途半端に苦しむ。


「御台様。お許し下さい!」

 野中重政は、涙ながらに、その築山殿の心臓目がけて槍を突き刺していた。


 槍が最後に胸を貫く直前、築山殿が発した言葉が、悲痛な叫びだった。

「殿。何故……」


 こうして、全く無罪の罪で築山殿は亡くなることになる。

 なお、この野中重政は、余程このことがショックだったのか。事件の後に城を出て故郷の遠江国堀口村に隠棲したと伝えられる。


 築山殿を処刑したことを岡本時仲から聞いた家康は、一言、

「大儀」

 とだけ言ったが、その眼には涙が溢れていた。


 そして、信康。

 9月15日。

 徳川家康の命令で、こちらは自害させられる。


 信康は、最期まで、家康の信頼が厚い大久保忠世ただよに、


「わしは無実じゃ!」

 

 と懸命に主張していたという。

 介錯は、服部半蔵正成が行ったというが、正成が刀を振り下ろさず、検死役の天方あまがた通綱みちつな(山城守)が急遽介錯したという。


 その最期は、武士らしく立派なものだったかどうかは定かではないが、信康の首は舅である信長の元に送られた。

 首は信長の首実検後に岡崎に返され、清水万五郎が徳川家康の命で、投村根石原(現在の朝日町)に埋め、印の松を植えたという。


 信康の死後、岡崎城内には怪異現象が度重なったとされ、岡崎城代となった石川数正は天正八年(1580年)5月、供養塔の首塚を建てたとされる。信康は若宮八幡宮として、母の築山殿は神明宮として祀られたという。


 なお、岡崎城から信康を出した後に、家康は松平家忠をはじめとした徳川家臣たちに「今後、信康に通信しない」という起請文を書かせていることが当時の史料であり、家忠が残した「家忠日記」からわかっている。


 また、信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電ちくでん(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったともされている。


 これが、「信康事件」、あるいは「信康自刃事件」などと呼ばれる出来事の真相かどうかはわからないが、とにかく徳川家康は、織田信長に指示を仰ぎ、身内を殺すことを選択した。


 なお、余談ではあるが、後年、関ヶ原の合戦で苦戦した時、家康は、「せがれがいればこんな思いをしなくて済んだ」と口走り、側にいた家臣が遅参している秀忠のことだと思い「間もなくご到着されると思います」と声を掛けたところ家康は、「そのせがれのことではないわ!」と吐き捨てたという。

 また晩年には「父子の仲平ならざりし」と親子の不和について言及している。


 一方、徳姫は。

 事件の翌年の天正八年(1580年)の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰され、2人の娘達は家康の元に残していった。


 現在の近江八幡市あたりに居住し、化粧料けしょうりょう田が近江おうみ長命寺に設定されたという。天正十年(1582年)に起きた本能寺の変で父・長兄の信忠ともに失うと、次兄・信雄のぶかつに保護されたが、小牧・長久手の戦い後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えたという。


 ところが、天正十八年(1590年)に信雄が秀吉によって改易されたため、今度は生駒氏の尾張国小折こおりに移り住んだが、その後すぐにまた京都に居住したという。


 関ヶ原の戦い後は、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉ただよしから1761石の所領を与えられ、その後は京都に隠棲した。

 

 なお、長女・登久とく姫は小笠原秀政の室になり、次女・熊姫は本多忠政の室になっている。


 寛永十三年(1636年)1月10日に死去。享年78歳。


 徳姫は信康との間に出来た二人の子以外、産まなかった上に、再婚もしなかったと伝えられている。


 この説が、「真実」かどうかは、誰にもわかりませんが、「説の一つ」と取ってくれると助かります。


(完)

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信康事件の真実 秋山如雪 @josetsu

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