第2話 徳姫と中根正照

 再び岡崎城。


 築山殿は何を思ったのか、おもむろに信康に近づくと、その手を両手で握った。

「信康。まだ男子おのこは生まれぬのか?」

 真剣な眼差しで息子を見つめる彼女の瞳は、嘘を言っていなかった。


 事実、長男の信康には、徳川家を継ぐべき、「跡継ぎ」が期待されたが、徳姫との間に生まれたのは、二人とも「女子」のみ。

 当時の武家にとって、「男子誕生」がいかに重要なことかというと、この結果を踏まえた築山殿が、部屋子をしていた女性を、信康の側室にしたことからも伺える。


 仮にも正室の徳姫にとっては面白くない。

 彼女はそのような経緯から、この義理の母との仲が悪かったとされる。


 それは、逆を言えば、築山殿が「子煩悩」だったことにも繋がっている。

 事実、嫉妬深かった築山殿は、夫の家康が長松院ちょうしょういんを側室に迎え、次男の秀康を産んだ後、彼女は家康の子供を妊娠することを認めていなかったため、長勝院を城内から退去させている。


 そんなことがあったのに、息子には側室を与えているのも矛盾はしているが、とにかく彼女の「家族愛」だけは本物だった。


「申し訳ございません、母上」

 と、体のいい謝罪だけはしていた信康だったが、内心では、正室の徳姫のことを気にしてはいた。


 そして、その徳姫こそが、本件において意外な行動に出ることになる。


「正照」

「はっ」


「後で私の部屋に来るように」

 それだけを伝え、苦々しい表情を浮かべている夫と義理の母の不安を煽るような態度を取っていた。


 当然ながら、彼らは「動いた」。


 さすがに親子ほど年が離れ、妻子持ちの正照と徳姫が内通し、つまり浮気などということはないにしても、「何か」ある。いや、これはひょっとすると「謀反むほん」の相談か、と疑っても不思議ではなかった。


 信康の配下には、服部はっとり半蔵正成から遣わされた「伊賀者」がいた。つまり、彼を間者に使い、こっそりと徳姫の部屋に忍び込ませた。


 そうとは知らない徳姫は、やがてやってきた、中年の正照を部屋に迎え入れた。

 平伏する正照に、彼女は一言、

「首尾は?」

 とだけ聞いた。


 正照は、短いながらも適切な言葉を選ぶように絞り出した。

「もはやこの危機は避けられるものではないかと」


 それを耳にして、徳姫は深くうなだれてしまった。やや間があってから、

「もはやどうにもならんのか?」

「はい。お館様は、信長公の元に赴く酒井殿に文を託されたそうにございます」


「左様か」

 低い声で、唸るように呟く徳姫は、沈んだ表情を浮かべていた。


 だが、間者としては、このやり取りだけでは、何が何だかわからない。核心を掴みたいと思ったものの。


「わかった。大儀である」

「はっ」

 しかも、それだけを言って、正照はさっさと辞去してしまい、おまけにその後、二度と正照が徳姫の部屋に現れることはなかった。


 その報告を聞いて、信康も築山殿も、納得がいかない上に、何が何だかわからないうちに、時が過ぎていた。


 酒井忠次にそれとなく問いただすも、はぐらかされるのみだった。


 それから約1年弱が経った。天正七年(1579年)8月3日。徳川家康が、浜松城から岡崎城にやって来た。供回りはわずかで、もちろん領内のために、武装もしていない。


 築山殿は、そんな夫を丁重な態度で迎え入れ、酒肴を用意して、出迎えた。それに息子の信康、その妻の徳姫。そして、もちろん中根正照も従った。


「殿。遠路はるばるようこそおで下さいました。私は、首を長くしてお待ちしておりました」

「そうか」

 築山殿は、愛情が深く、それ故に「嫉妬深い」と言われた女性だった。裏を返せば、それだけ「夫を」、「子供たちを」、「家族を」愛していた。


 もちろん、家康にもそういう面はあったが、それ以上に彼は織田信長という男を「恐れて」おり、それによって、「徳川家」自体が潰れることを最も恐れた。戦国大名の常として、「家を失う」ことは最大の恥辱になるから、それこそを最も恐れるのだ。


 つまり、家康がわざわざ浜松から岡崎に来たのには、重大な理由があった。


 一通り、歓待を受けた後、彼は築山殿と信康、徳姫を「あえて」遠ざけた。

「わしは、正照に用がある故、親子水入らずの時間を過ごせ」

 と妙な理由をこじつけて、中根正照と二人きりになると、おもむろに切り出した。


「して、やはり噂は確かか、正照」

「はっ」

 直属の主、信康よりも、さらに上の立場の「本来の主」家康。もちろん、正照が誠に忠誠を誓うのは、この家康になる。


 正照は、ある密命を帯びて、信康の動向を探っており、それに徳姫も加担していた。


「岡崎衆の中で、信康様の人気はたこうございます。武勇に優れたお方故に。それ故に、避けられないものかと……」

「で、あるか」

 最後まで聞く前に、まるで、同盟者である、織田信長の口調を真似するように家康が呟いたが、彼の中でも複雑な感情が渦巻いていた。


(信康は確かに優秀だ)

 家康にとって、長男であり、正室の腹から生まれた「世継ぎ」の信康。大事でないわけがなく、事実、天正三年(1575年)、家康が武田勝頼方の小山城を攻めた際に、信康は諸軍を率いて、また殿しんがりも務め、これを成功させ、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と評されたと言われている。


 だが、信康は「優秀すぎた」のである。

 家臣、特に岡崎城に仕える国衆(家康の直轄ではない在地領主)の中には、


「信康様こそが徳川家当主に相応しい」

「信康様を是非、ご当主に」


 という声が上がってきたという。

 そして、それこそが「浜松城派」と「岡崎城派」の対立を生み、家康を悩ませたのだ。

 そのことを「噂」として聞いていた家康が、正照に実情調査を命じていた。


 家康からすれば、「噂」が立つだけで、それが織田信長はもちろん、周辺諸国に知られれば、都合が悪い事になりかねない。噂の真実を確認しに岡崎に来ていたのだ。


 その時、静かに襖が開き、現れたのは、わずか21歳の、信康の妻、徳姫。家康によって、あえて遠ざけられたはずの彼女は、かわやに行くと言って、こっそり夫と義理の母の酒宴の場から抜け出してきていた。


 よく「徳姫が信長に訴えた」、あるいは「徳姫こそがこの事件の黒幕」のような言われ方をするが、実は事件の発端となったとされる徳姫に対し、家康は夫の信康の死後、徳川政権成立後に二千石もの領地を与えている。


 このことから、彼女は無罪だと考えられる。


「ご徳か」

 徳姫、あるいは「ご徳」。彼女は、義理の父の前に平伏し、頭を上げた。


義父ちち上。正照と私が調べた限り、やはり殿を担ぎ上げる動きがあります。このままにしておくのは、危ういかと存じます」

 正照が言わんとしていることを、すべて徳姫がはっきりと伝えていた。

 夫と父、そして義理の父の間で苦悩する立場の徳姫は、夫より「父」、あるいは「義父」を選んだ。


 これによって、家康は「二人」の協力者から、重要な証言を得ることに成功する。


 「情報」が現代よりはるかに伝わりづらく、それ故に情報が貴重とされる時代。証言の多さが有利になる。


 家康は決意した。


 翌日。

「信康。堀江ほりえ城に移れ」

 朝一番に、家康が険しい表情で息子に告げたのがその一言である。

 堀江城は、遠江とおとうみ国にあり、現在の浜名湖にほど近い。


「なっ」

「殿! 一体、どういうことでございますか?」

 驚いた、というより全くの「寝耳に水」状態で、半ば放心している信康と、いきり立って訴える築山殿に対し、家康は冷たく言い放っていた。


「これは命令ぞ」

 家康は、立ち去り、その背にいつまでも築山殿の、

「殿!」

 という悲痛な叫び声だけが響いていた。


 信康は、その後、二俣城に移送された。

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