信康事件の真実

秋山如雪

第1話 三河の異変

 徳川信康。あるいは松平信康(1559~1579)。父は徳川家康、母は築山殿。幼名は竹千代。またの名を岡崎三郎という。徳川家の嫡男として生まれ、一時は将来を嘱望しょくぼうされた人物。


 築山殿つきやまどの。あるいは築山御前ごぜん(生没年不詳~1579)。徳川家康の正室として知られ、「瀬名せな姫」の名で知られるが、それは小説などでつけられただけで、実際の名前は不明である。


 そして、一般的には。


 駿河するがの今川家の大名、今川義元の家臣、関口親永ちかながの娘として生まれ、松平元康(後の徳川家康)に嫁ぐ。

 二人の間には、長男信康のぶやす、長女かめ姫が生まれたとされる。

 二人の仲は最初は睦まじかったものの、やがて対立し、別居同然の生活を送る。永禄十年(1567年)、長男の信康と夫の家康の同盟者である織田信長の娘、とく姫がわずか9歳で政略結婚。

 これが、運命の分かれ道になったのか、天正七年(1579年)。息子に嫁いだ徳姫が、「夫の信康とその母の築山殿が武田家に内通している」という書状を父の信長に送り。

 それが原因で、家康によって自害を命じられ、信康もまた父によって自害に追い込まれた。


 以上が、「定説」となっているが。


 ところが。これには不思議な点がいくつかあるという。そもそもこの説自体が江戸時代の書物によって作られたもので、当時の史料からは、築山殿が武田家に内通したという証拠はない。

 それどころか、いくら家康の正室でも、そんな権限があったとは思えないのである。


 前置きが長くなったが、ここでは信康事件の真相を解き明かそうと思う。



 天正六年(1578年)9月22日。

 この日、徳川家康は、三河みかわ国衆くにしゅうを集め、


「今後は、岡崎に詰めることは無用」


 と伝えた。

 「詰める」とは、岡崎に出仕することを意味するため、早い話が国衆に「岡崎に行くな」という命令に等しい。

 なお、この場合の「国衆」とは在地領主のことを指し、大名の直轄の家臣とは違い、それぞれの領地に独自の裁量権を持っている。


 多くの家臣たちが、口々に、

何故なにゆえでございますか?」

得心とくしんが行きませぬ」


 と不満を口にした。岡崎城には当時、信康が入っていた上に、家臣の中に信康を慕う者も多かったからだ。家康は一言、


「浜松と岡崎で争ってはならぬからだ」

 と告げた。

 徳川家康、この時38歳。壮年の年齢とはいえ、戦国時代においては、もう老年に近い年齢になり、若い頃に比べると、腹が出てきており、後年に「タヌキ」と呼ばれる風貌に近くなっていた。居城はこの頃は浜松城になる。


 当時、三河国では前線で戦うことがメインで、武功を上げて華々しく活躍する「浜松城派」と、反対に後方支援や外交などで活躍する「岡崎城派」が密かに対立しており、岡崎城派の筆頭が信康と見られていた。


 一方、岡崎城では。


 数日後。そのことを伝え聞いた信康の家臣が、主に拝謁し、家康の言葉を一部始終伝えていた。もちろんその家臣は、信康に仕えていた上、国衆ではなく、家康直轄の家臣のため、出仕している。


 それを苦々しい表情で耳にする、鬼のような形相の大柄な男、それが徳川信康。この時20歳。

 筋骨隆々、容貌魁偉。鋭く鷹のような眼光と、がっしりとした肉体を持つ荒武者に成長していた信康だったが、当時、彼には父に対する「逆心」などなかった。


「一体、どういうことだ、正照まさてる!」

 その家臣というのが、中根正照という男。 

 中肉中背のごく普通の男に見えるが、長年、家康に仕えてきており、この時は信康の家老として、二俣ふたまた城の城主になっていた。


 正照は、主の強い一言と、剛毅な態度に、ひたすら平伏しながら、

「申し訳ございません。しかし、時が経てば、お館様も殿をお許しになられるでしょう」

 とだけ述べていた。内心は、「早くこの場を離れたい」とでも言いたげな表情で。


 その時だ。


「これ、信康。大きな声を出すでない」

 奥から現れた、派手な赤色の小袖を着た、妙齢の女性。

 艶やかな黒髪と、綺麗な丸い瞳を持つ、今で言う「美魔女」のような彼女こそ、築山殿と言われた、信康の生母だった。

 彼女は家康と同い年か、せいぜい2つ程度年下と見られているので、この時、恐らく36~38歳くらいだろう。


「母上。しかし、私は父上のこのような仕打ちには得心が行きません」

 突然の母の来訪に驚きながらも、信康は必死に自分の無実を訴える。


 しかも続いて現れたのは、信康と同年にして、政略結婚の対象、かの「第六天魔王」、織田信長の娘の徳姫だった。

 「魔王」の娘とは思えないほど、眉目秀麗な、可愛らしい娘に成長していた、20歳の徳姫は、夫の方を心配そうに見つめる。


 二人の間には、二人の女子が誕生していたが、それまでは仲睦まじかった二人が、徳姫の出産後に、急に不仲になっている。というのが定説だ。

 そして、そのことが、「徳姫が父の織田信長に訴えた」という定説に繋がるが、実は彼女は、徳川家自体に不満を持ってはいたが、父には夫のことを何も訴えてはいなかった。それどころか、手紙すら送っていない。


 この時、たまたま信長の元に行くという、家康の家臣、酒井忠次に「手紙」を託して、「相談」する形で訴えたのは、徳姫ではなく、他ならぬ徳川家康本人だった。


 しかも、その手紙を見た信長は、いつものような不遜な態度で、


「で、あるか」

 とだけ言っており、


「信康を殺せ」

 などとは命じてはいないし、あまつさえ「彼」にとって、同盟者の妻である「築山殿を殺せ」など命じられるはずもなかったし、彼にはそんな接点もない。


 ただ、信長は一言だけ、酒井忠次にこう告げたのだ。


「家康に伝えよ。、とな」


 そして、このたった一言が、全てを決める。

 つまり、同盟者とはいえ、織田信長という男を、「恐れて」いた徳川家康は、この酒井忠次から伝え聞いた、信長の一言に戦慄した。


(これはマズい。家中の対立が、これ以上、続けば徳川家は持たん)

 そう。

 この時、家康は手紙の中で、


「徳川家は浜松城派と岡崎城派に割れており、信康が家臣に担ぎ上げられそうになっております。いかがいたしましょうか」

 と書いていた。

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