第8話 穏やかなる五十鈴川③
笊に胡瓜を淹れて冷やす。暫し待つと、やがて水面がすーっと揺れて、河童が現れる。僕はそれが何故か嬉しくて、胡瓜をせっせと運んでいたんだけど、父親にとうとう見つかってしまった。
「きみは、胡瓜を河童に運んでいたと」
「はい」
「で、河童は岩室の奥に帰って行くと」
「はい……ごめんなさい」
父と母に挟まれてのお説教を受けた。でも、あの胡瓜を嬉しそうに待つ親子を想うと、何となく……そうしたくてやったのだ。僕は父と母の前ですっくと立った。
「子供がいたから。僕だって、やっぱりご飯は欲しいと思うし。僕には父と母がいるから……」
「天竜川が分岐して流れたのだろうか、どう思う」
「そうねえ」と母は目を遠くにした。
「元の河に還すべきでしょうね。どのみち、五十鈴川にいては伊勢神宮の皆様に迷惑が掛かるわ。あなた」
父はふむ、と頷くと、僕の名を呼んだ。
「あやかしとは慣れ合って楽しかったか? 稜」
「うん。怒らないでいてくれてありがとう、父上」
父はにっこりと笑うと、僕の頭を撫でてくれた。クマのような手だ。神宮では神蔵作りにも重宝される。そして寄り添う母は、雪女のように細い。対する僕は、普通の子供だ。不思議なものである。
「きみもおいで」
父と母は頷きあって、神社の神蔵(倉庫)に入り込んで、たらいを持ってきた。「洗濯でもするの?」と聞き返すと、父は「河童を返すんだよ」と微笑む。
「え……せっかく仲良くなったのに」
「稜、天竜川と五十鈴川では水温も、水圧も違うんだ。あの河童たちは生きていけなくなる。実際に、おまえが胡瓜を運ばなければ、餌が合わないのだろう」
はっとした僕に父は「それではだめなんだよ」と優しく続けてくれた。
「たとえあやかしでも、一人前に生きて行けなければ、絶滅する。河童は河の神様でもあるんだ。天竜川の主が暴れた時、天命で助けることもないだろう」
天命。
聞いたこともない言葉に母は「憶えておきなさい、この言葉を。てんめい」と繰り返してくれた。
五十鈴川は穏やかに流れている。
水面が軽く揺れた。僕は心で謝った。ごめん。もう胡瓜はないんだ。父と母に見つかっちゃって。キミたちとはお別れなんだって。
ただ、胡瓜を泥棒した河童だ。どこにでも行けばいい!とは思えなかったのだ。
「泣くんじゃない。稜」
父は鮭を取るようなクマのようにして渓流を渡り、岩室の前で榊を振った。しっかりとした声に載せられたのは龍神祝詞だ。母がたらいを引き寄せて浮かべた。
岩室から水かきの手が見えた。
「天竜川へ御戻しいたします。逸れたようですな」
父は河童と会話が出来るのだろうか。「神主はあやかしとも対等がモットーよ」と母は目くばせし、同じく着物の裾を濡らして渓流の中に立った。
河童はなかなか出てこなかったが、観念したように顔を覗かせて僕を見た。言われてみれば顔色が悪い。きゅうりが足りなかったのかと思ったが、父の言う通り水質らしかった。
たらいに乗った河童は5匹。父親とその子供。母親はいなそうだった。「多分、向こうにいるのよ」と母はたらいを掴んで流れに乗せる。
「天照のご加護で、出られるでしょう。この川は神様がおわす川ですから。たらいはあげます。ご存命であられますよう」
河童はぽかんとしたまま、たらいに乗って消えた。
「稜、覚えておくのよ。人もあやかしもひと時の施しでは生きていけない。本当に生かしたいと思うなら、心を鬼にして立ち上がらせることよ。慣れ合いと対等は違うわ」
***
――私のあやかしとの出会いの数々はここまでにする。
「……戸隠からたらい船だと?」
「せや。あの二人、伊勢に河ルートで来よったからに。大量の河童にでも連れて来られるんちゃうか。斎王」
気がつけば走り出していた。
あの日送り出した河童が、天命の大本を連れて来るとは運命は数奇なものだ。
あの後、天竜川は水害で氾濫し、天命余波で両親を飲み込んだ。
最後まで立派な二人だった。
伊勢神宮ではなく、閉鎖した神社に弔った。
「伊勢宮、どこへ行く」
「伊勢湾だ。夫婦神のあたりに到着するだろう。八咫鏡が教えてくれた」
その後、わたし、伊勢宮稜は盛大なる河童と海坊主に守られた伊邪那美と伊邪那岐との再会を果たす。
五十鈴川ではなかった。伊勢神宮入りしてから五十鈴川にもあまり足を向けていない。
天命で土地も削られて、この国は存命も難しくなった。
それでも、私は時折伊勢のあやかしと会話をする。ひと時ではなく、いつか、ヒトとあやかしが共存する夢を見つつ、完璧な龍神祝詞を奏上するのだ――。
《終》
『太陽と鴉と狐。~伊勢に響く僕の祝詞を~』 天秤アリエス @Drimica
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