第7話 穏やかなる五十鈴川②
母が祝詞のように軽やかに歌う歌は、いつもどこか遠くを思わせる郷愁の歌だった。そして母が歌うと、空気が優しくなり、川に映った陽光も光を増す気がする。
僕は母の歌声を聞きながら、自然の音に耳を澄ませていた。
五十鈴川という伊勢を流れる河川の、不可思議な水音は、時折母の声と輪唱する。速足で母は砂利の川辺に降りて、僕は空っぽになった籠を気にしつつも、頑張って小走りで走った。
「いないわね」
「母様、何が僕の野菜を」
「河伯さまよ。アナタは河童と覚えたらいいんじゃない? 稜、まだ胡瓜があったわよね」
「あるよ。境内にたくさん届いていたから」
「では、戻りましょう」
巫女である母の足は速い。「母様待って」と慌てて追いつく僕を河の魚が笑うように跳ねた。
****
「どのくらい要るかしらね」
神社に戻って。境内の日陰に山になった胡瓜の前で、母は「むむ」と小さく唸る。五本ほどを籠に入れて、また河にやって来た。
振り返ると、すっかり日の上がった伊勢は今日もキラキラと輝いている。空は青く、雲は真っ直ぐに伸びている。時折小さな渦を巻くのは気圧の影響だろう。
「稜、籠を鎮めて。母様、お弁当を作って来るから。アナタは胡瓜の見張り番」
くしゃっとやられて、僕は顔を上げる。「いいわね」と何やら笑を噛み殺しながら母は姿を消した。
籠の中の胡瓜は、透明な水中でもイキイキと青々しく大人しく冷やされている。
(胡瓜の見張り番って……)
僕は一人っ子なので、母が遊び相手だった。母との遊びは、いつも外。父とは祝詞の勉強をしたり、催事のお手伝いをしたり、神事の真似事を一緒にしたりするのが楽しかった。
あやかし
そんな四文字が浮かぶ。伊勢には霊がたくさんいるのだ。特に伊勢神宮の近くにはあやかしが集まって来る。
あやかし。人ではないもの。
でも、親子仲睦まじいあやかしもいる。祓うばかりじゃない。そこを見極めるのも神宮の斎王の力量だと言わんばかりに。
かさ
僕は五十鈴川の近くでしゃがみこんでいる。
ぽかぽかのお日様が背中を照らす。
うと うと うと
(母様、遅いな……)
瞼が重くなって、世界が細くなった。ところで、水面が揺れた。それはゆーっくり揺れて、さっと消える。「眠くなる時は呼ばれているんだ」との父の言葉を思い出して、膝に頭を預けたところで、樹々が大きくひと揺れした。
『キュウリ、狙われてますよ』
幻聴が聞こえた気がして、はっと目を開けると、そこには奇妙な生き物が立っていた。籠の胡瓜をわんさか抱えてお尻を向けたところだった。
「こら! うちの野菜!」
「やっべ」と言いたげに河童がわたわたと逃げ出す。「それ、これから使うんだって!」と追いかける僕。
すいすいと河の中を走る河童を追いかけて、川縁を走った。河童は捕まってたまるか!と慌ててでもしっかりと逃げていたが、途中でへなへなと水に沈み込んだ。
そうすると、また元気に走り出す。
「この……っ!」
河童はスタコラサッサと逃げてしまい、大きな岩室の入り江に回り込んだ。その岩室には神社でよく見る「注連縄」が幾重にもかかっていて、奥には小さな滝がある。
「見つけた。ここから来てたんだ」
五十鈴川の水音に交じって、胡瓜をぽりぽりと齧る音。「父ちゃん」の声。
伊勢の支流には、河童の川流れる「天竜川」がある。僕は明日も河童を見に来ようと決めた――。
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