鬼、麻戸の山から降り、雨もなくただ雷の鳴ること

帆多 丁

麻戸の山にさわることなかれ

 地響き。木々の枝がひしゃげて折れる大音声だいおんじょう。飛び出した二人の鬼は黒い風の如く。


 鬼の一人は細身に長い手足を振り駆ける。その名を玄絹げんけん。切れ長の両の瞳は赤く光り、腰まである黒髪は長く尾を引いてがねの如く艶めいた。

 鬼の一人は隆々と太い手足を振り駆ける。その名をらい。丸くつぶらな瞳も今は怒りに見開かれ、丸め上げた黒髪は武骨な骨のかんざしが留めていた。


 あさの山より降りた鬼二人、目指すは領主の館である。ふるさとを焼かれた恨みは今、この夜に晴らさなければならない。

 高台の上、館の門は固く閉ざされ、赤々と焚かれたかがりは鬼二人を待ち受ける。

 罠である。

 長らく鬼の里を不可侵としてきた二人の鬼、人の手から里を守り続けた彼ら二人を出し抜いた、小癪な人間どもの罠である。

 人間は里の子を巧みに誘い出し、かどわかし、子をたてにして鬼二人を里から引き離した。その隙に里は焼かれた。

 今、血の涙を流す鬼二人を待ち受けるのは弓、弓、弓。矢、矢、矢。

 玄絹げんけんが軽く飛びあがり、雷鼓が隆々とした左腕に細い体を抱きとめる。

「叔父上」

 武骨な雷鼓らいこの手が、黒絹の髪を根元から先まで撫でた。

 掌にまでびっしりと生えた鬼の剛毛がくしけずる、剃刀かみそりのような髪。分厚い掌は無数の細傷をものともしない。

 ひょうと唸り迫る無数の矢をその身に受けて、隆々とした鬼の脚は止まらない。「雷鼓!」「叔父上!」第一射と第二射のわずかな隙間を縫って、雷鼓は玄絹を投げた。

 黒い矢の如く飛び、と身をひねる。がねの黒髪は篝火に照らされ、血のように艶めいてと広がる。

 飛ぶ。首、首。首が飛ぶ。弓兵どもの首が飛ぶ。火の灯り、月の明かりに血が噴き上がる。玄絹、槍を構える兵たちの頭上を越えて伸身の宙返り。身を縦に削がれた兵の薄切りが地に広がり、動揺を抑えようと将兵は門の前、馬上からげきを飛ばす。

 飛ばなかった。

 ひ

 と言い遺して将兵は馬ごと潰れた。隆々としたらいの筋骨と館の門とに挟まれて潰れた。鬼は馬の骸をむずと掴んで一振りに雑兵を薙ぎ払うと、門の中央にその鉄球のごとき拳を打ち込む。

 一撃目で門柱がひしゃぎ、二撃目でが折れる手ごたえがあり、しかし三撃目に先んじて門は、内側から破られた。

「雷鼓!!」

 甥の名を玄絹が叫ぶ。門から噴き出すような勢いで出てきたのは巨大なにしきへび。半身を呑まんとする顎を両腕で押さえ、若鬼は抗う。

 蛇に駆け寄る玄絹を止める兵はもうなかった。

 鬼と蛇の力比べに玄絹の髪が割って入った。

「浅ましや似非えせがみ!」

 人のシキる神など似非にすぎぬ。玄絹は刃金の髪を蛇の喉元に巻き付けと引き絞るが、蛇神の首を断つには至らない。

「叔父上……! 髪を研ぎ申す! こちらへ!」

 雷鼓が左手を伸ばしている。つかえの外れた蛇の下顎がその肩に食い込んでいた。

 髪を解き、玄絹が雷鼓の元へ駆け寄る。甥の巨大な手が丁寧に玄絹の髪を撫で、なまりを取り去っていく。人の血、人の脂を取り去って、刃金の髪は黒々と輝く。

 研ぎ澄まされた刃を玄絹、蛇の口へくつわの如く差し入れて、一息に引いた。分断された蛇の頭の上半分を、雷鼓が布団のように跳ねのけた。

 のたうつ大蛇の身から飛びのいて、二人の鬼がいよいよ館の中にひそむ仇へと意識を向けた時、蛇の網目模様から幾本もの新たな蛇が生える。

 新たに萌芽した蛇の先には果たして

「ち、父上! 母上ぇぇぇ!!!」

 若鬼はたまらず叫び声を上げた。

 新たな蛇たちの頭の代わりに、里の鬼たちの上半身がっていた。うつろな相貌を雷鼓と玄絹に向け、牙をむいている。節くれだった指先に爪を光らせている。

 里を襲ったのはこの似非神かと二人の鬼は理解した。喰われた鬼たちがそこにあるのだ。人里に降りる事なく、鬼の里で畑を拓き、獣を飼って暮らしていた者たちが。

露草つゆくさ……!」

 玄絹が妹の名を唸る。玄絹の妹は、雷鼓の母である。

 蛇より生えた鬼たちが向かってくる。

「雷鼓! 退け!」

 玄絹の警告は間に合わなかった。若鬼は動揺し、虚ろな鬼たちの腕に捕らわれた。蛇神の喉奥が開く。上下の顎が揃っていなくとも、獲物を体内に押し込みさえすれば「喰う」動作は完了する。

「父上、母上、おやめください! 里の皆も! 気を確かに持つのだ!」

 雷鼓は暴れるが、ためらいがある。一人二人を振りほどいても、次から次へとまとわりついてくる。

 雷鼓は虚ろな鬼たちの塊に押し込められ、わずかな隙間からその姿を窺うばかりだ。

 その隙間に、玄絹が腕を差し入れた。

 虚ろな鬼たちが玄絹の首や肩を掴み、爪が食い込む。玄絹の身が引き剥がされる。その時にはもう、玄絹の手は骨のかんざしに届いていた。

「許せ」

 簪が、抜ける。役目を終えた簪が灰と崩れる。

 虚ろな鬼の塊が、爆ぜる。

 例えば空の雷鳴が眼前に鳴るならば、音はもはや音として聞くことは叶わず、ただ不可視の衝撃として体感するのみ。

 雷鼓の太く縮れた黒髪は、麒麟のたてがみの如く背に流れる。その硬く締まった筋肉の奥底から立ち上る熱が、若鬼の表皮に陽炎の揺らぎとなる。大狼だいろうもかくやと四肢を大地に突き立て、胸が大きく膨らみ、似非の蛇神ひいては館の門に向けて放たれる、音ならざる雷鳴。

 その衝撃の形は、蛇神や虚ろ鬼たちの潰れる様で、人間の骸が吹き飛ぶ様で見て取れた。館の土壁は割れ、屋根は飛んだ。

 ふたたび、みたび、よたびと繰り返す雷鼓の咆哮。

 玄絹は最初の雷鳴で遥か後方に吹き飛ばされた。今、衝撃の揺り返しを受けながら、雷鼓の背後へ這い寄っていく。

 幼少の頃、雷鼓は雷神に魅入られた。止めてやらねば、力尽きるまで延々と雷鳴を発し続ける。

 雷鼓の背によじ登り、そのたてがみにつかまりながら、玄絹は自らの胸に指先を突き立てた。ふつふつと血が染み出てくる。内側からせりあがる痛みと圧迫感に歯を食いしばり、玄絹は、肋骨を折り取った。

 ばたばたと血糊が甥の背に落ちる。

 玄絹はうめき、雷鼓の髪を纏めてよじり、丸め上げる。自らの肋骨についた血肉を歯と舌でこそぎ取って、雷鼓の髪へ差した。

 

 目の前に広がるのは、館の残骸ばかり。


 この夜、館の周囲、十数里の村々に雷鳴が間断なくとどろいたと後世に伝えられている。


 似非神を用いた術師は、眼鼻から血を吹いてこと切れているのが見つかった。地下に隠れた領主は引きずり出され、数里離れた村の神社に放り込まれた。

 四肢はなく、目は開かず、ただひたすら麻戸の山にさわるなと繰り返し、三日の後に息絶えたという。


 以来、山に人が立ちいった記録はない。

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鬼、麻戸の山から降り、雨もなくただ雷の鳴ること 帆多 丁 @T_Jota

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