第2話 小野の恋
特に早くも遅くもない登校風景。
朝の陽ざしが街中に降り注ぐ。
鳥のさえずりが耳に心地いい。
学生服に身を包んだ生徒たちは桜の舞い散る道を歩いていた。瑛太が楽しそうな彼らの声を聞いていると、ようやく一日が始まるのだと言う実感が湧いてくる。
(やっぱり学生はこうじゃないとな)
賑わう人を見るのは嫌いじゃない。彼らを見ていると背中を押されて、エネルギーを体内に分けてもらえているような気分になる。休むのに一人きりになる時間を持つのも重要だが、雑踏に紛れるのも自分は一人ではないと思えるのだ。そんな日常風景が愛おしい。
瑛太は軽快な足取りで人込みを進む。
年月を経て灰色のかかった重みのある校舎に入ると、そのままの勢いで所属する教室にまで辿り着いた。室内に入って顔見知りの同級生に挨拶をしていると、やたらと見慣れた、目に付くシルエットが網膜に映る。前髪で顔の隠れた小野が席に座って手持無沙汰に時間をつぶしていた。
(そりゃあいるよな)
昨日の件もあり、瑛太の中で小野の印象は悪くない。率先して会話をしたいぐらいには親近感がある。
それも人目がつかなければだ。いい年した男女が話をしてれば、周りからは目立つ。あらぬ噂が立ったりもするだろう。何食わぬ顔をして自分の席に着くのが波風を立てない判断だろうが、彼女と顔見知りになっておいてそれは可愛そうだ。それにせっかく面白い人間性を持っているのだ、ここは多少のリスクを背負ってでも親睦を深めるのが吉だ。
瑛太は小野の横に立った。
「おはよう、小野」
「え……ええ……っ!?」
小野は目を丸くする。
それを見て瑛太は苦笑した。
「何驚いてるんだ」
「い……いや、まさか話しかけられるとは……思わなかったから……」
「もしかして俺、拒絶されてる? 悲しいね」
「そういうわけじゃないよ……! その……私なんて……いてもいなくても同じだし……」
「そんなことないんじゃないの。少なくとも俺には影響を及ぼしてる。小野を見て良い意味でテンション上がったしさ」
「そ、そう……?」
「小野はシャイだな。まあ、そういのも個性と言えば個性か。世の中色んなやつが存在してて面白いよな」
「古川君って……ポジティブだね……」
「なのかね。自分ではよく分からんが」
比較的、瑛太は恵まれた環境を生きてきたとは思う。
親からは適度に愛されたおかげか、人と話すのが苦ではなかった。コミュニティに入れば友達に困らない程度のコミュ力はあるし、程々に人に心を開くことができる。
それに親からは色んなことに挑戦させてもらえたし、成功体験もあるから自分ならどこに行ってもやって行けると言う根拠のない自信もある(さすがに万人受けするタイプでもないが)。
ポジティブなのはそういうところが所以なのかもしれない。
一方で小野は瑛太とは異なるタイプ。
生まれ持った性格なのか、後天的な環境によるものなのかは分からないが、彼女は人と話すのが得意ではないのだろう。別に内気な性格が悪いわけではない。見方を変えたり環境次第でば、それも長所になりうる。
ただせっかく縁があったのだ、自分の持ち前の性格を利用してでも小野を楽しませてみたい。彼女の色んな一面を見てみたかった。
「まあ、それより何か話そう。昨日の晩、何してた? 俺はテレビでクイズ番組を観てたんだよな」
「私は……テレビは観ないかな……。勉強の息抜きに……Youtubeをちょっと……」
「へぇ! Youtubeは俺も観るよ! 推しは誰!?」
「推しは……山本咲って人かな。昨日は咲さんが魚を包丁でおろすのを……観てた……」
「それは面白そうなネタだな」
「私は……料理は作るけど手先が器用じゃないんだ……。だから咲さんが器用におろすのを見て……感心しちゃったよ……」
「そっかそっか。俺も観てみたいね、その咲さんとやらを」
「きっと気に入るよ……美人さん……でもあるし……」
小野が目を輝かせる。彼女はよほど咲と言うYoutuberに心酔しているのだろう。咲という人物が何者なのか気にはなるが、それ以上に活き活きとする小野の顔を見れたのがよかった。
瑛太が話題を発展させようとしていると、横から一人のクラスメイトが横やりを入れてくる。
「おっ、古川どうしたの? 小野と良い感じじゃん」
「青木」
この乱入者はクラスメイトである。陽気な男だ。転校してきたばかりの瑛太に話しかけてくれて、周りのクラスメイトとの仲を取り持ってもくれた。
人と仲良くできるかは絶対ではない。友達作りに自信がないわけではないが、楽ができる分には楽をしたい。
そういう意味では青木はいい奴なのだろう。ただ好奇心旺盛なのがたまにきずか。
「小野も満更でもなさそうにしてさ」
「そ、そんなんじゃないよ……!」
はやし立てられた小野は見るからにうろたえている。
「あ、その……古川君がイやと言うわけじゃないけど……! いい人だし……! 何て言うか……そ、そう……古川君に迷惑かなって……!」
「俺は別に気にしないが」
「そ、そういうことにしてよ……! もう……!」
小野は机の上に丸々とうつ伏せになる。何だか小さく唸っている。これでは会話もできない。
瑛太は嘆息した。
「イジメるなよ」
「いや、悪いな。珍しい光景を見たんで興奮しちまった」
「程々にしておけよ」
瑛太は青木の方にぽんっと右手を置き、自分の席に座った。
純粋な小野には気の毒だとは思うが、羞恥心に悶える彼女を見ていると微笑ましくもあった。ただこういうことを繰り返さないように青木には後で言い含めておくことにしよう。
そうこうしているうちにもクラスメイトがこちらの席にやって来て話しかけてくれる。楽しく雑談をしながら担任の教師が現れるまでの時間をつぶすのだった。
「ふぅ、盛り上がったな」
瑛太は学校の授業が終わってから、懇意にしてもらっているクラスメイトからカラオケに誘われた。これも良好な交友関係を築くためだと彼らにつき合うことにしたのだ。楽しそうに歌っているクラスメイトたちにつられて、瑛太もついつい幼い子供に戻ったようにはしゃいでしまった。
今はその帰り。彼らと別れたのは少々名残惜しかったが、また明日がある。話したいことがあればその時に話せばいい。
とりあえず瑛太は通学バスの待つ学校に戻った。運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が響きわたる放課後の学校は何とも哀愁を漂わせる。昼間の賑やかな学園とはまた違った趣を見せていた。一日の終わりが近いのかと思うと、ノスタルジックな気持ちにさえなった。自分の足跡がやけに耳に残る。
そうやって歩いていると、体育館にまでやって来ていた。
「……おっ」
そこに小野がいた。しなやかに立った彼女は両手で胸を押さえると、外から体育館の中を見つめていた。
知り合いに声をかけようとして、ふとためらわれた。小野の顔があまりにも幸せそうだったからだ。唇がとろんとした彼女は乙女チックで、見ているこちらまでも言葉を失ってしまうほどだった。このロマンチックな空気を壊すのもためらわれたが、純粋に彼女が何を感じているのか知りたくて、瑛太は平静を装いながら小野に話しかけた。
「よっ」
「あ……古川君……」
小野がおもむろに居住まいを正す。その改まった感じにドキッとした。自分の好奇心の赴くままに彼女の時間を奪ってしまったようで場違い感があったが、こうして接触したからには引くには引けない。とりあえず会話を繋ぐ。
「何を見てたんだ?」
「そ……それは……」
瑛太がいるにも関わらず、小野は体育館の中に視線を注ぎ続けている。
「俺も見ていいか?」
興味をそそられた瑛太は小野の視線の先を目で辿った。
そこには一人の男性がいる。見るからに爽やかな風貌の男性が髪をなびかせ、コート内を駆け、ブロックの壁を華麗にすり抜けると、宙に飛んでバスケットボールをゴールに叩き込む。いわゆるダンクシュートだった。床に着地したその男は仲間とタッチし合い、何事もなかったように自分のポジションに戻る。男の瑛太から見ても、彼の一連の仕草は芸術のようにも見えた。
「……かっこいい」
小野がぽつりと呟いた。
その一言に瑛太は状況を理解した。どうやら小野はあの男に気があるようだ。思春期真っただ中らしく、彼女も一人の女性なのだ。恋の一つぐらいするだろう。それにしてもまた難易度の高そうな男に惹かれたものだ。あれは女なら放っておかない男だし、倍率だって高そうだ。
「ああいうのがタイプなのか?」
「~~っ!?」
「いいからいいから。小野だってそういう年ごろなんだし。別に恥ずかしがらなくてもいいだろ」
「堂々としてる古川君が……羨ましいよ……」
「俺はそういうの経験済みだからな」
「……人生の先輩さんだ」
「そりゃあどうも。で、どうなんだ? 茶化さないからさ」
顔を真っ赤にした小野が軽く俯く。彼女は唇をぎゅっと引き結び、言うか言うまいか迷ったのか沈黙する。
体育館の床をシューズが擦る音が聞こえる。
ややあって小野の唇が開いた。
「そう……だと思う……」
「思うって……断定しないのな」
「自分でも分からないよ……。いつの間にかあの人の顔を目で追ってたの……。それだけでも幸せだったのに……気づいたら今みたいに体育館に来てまで……見守ってて……。それにバスケしてる姿が生き生きとしてて……まぶしいって言うか……」
小野はしっとりとした声で告白する。コートを走り抜けるかの男子生徒に視線を注ぎながら、どこか熱に浮かされたように胸を抑える。
これは重症だ。瑛太にも経験はあるが、幸せそうにその異性のことを話す、これは恋をしている症状に他ならない。そんな小野を見ていると我がことのように微笑ましくなる。
「告白してみたら」
瑛太は軽い気持ちで背中を押した。
「……無理だよ」
小野は小さく笑った。彼女の眉が微かに垂れ下がっている。その弱々しい姿が身長を実物よりも一回り低くしてしているように見えた。
「私はこんな見た目だし……良いところがないから……あの人とは釣り合わないよ……。こうして遠くから眺めてるだけで……満足だから……」
小野が言葉を紡ぐ。達観した彼女はバスケットボール部の練習風景をぼんやりと眺めるだけだった。
(そんな悩みがあったのか。もっと前向きになってもいいと思うが)
小野には小野なりの良いところがある。実際に彼女は優しい。イケメンかそうでないか、見かけだけで人を区別することのないように親しみを込めて接してくれる。クラスの女子たちの手厳しい歓迎の中、彼女のそういう気遣いは余計に胸に沁みる。瑛太は小野のそういうところは嫌いではない。彼女にはもう少し報われて欲しいとすら思える。
瑛太は小野の心を傷つけないように言葉を選んで答えた。
「諦めて行動しなかったら何も変わらないだろ」
「それはそうだけど……。結果の見えた告白なんて……」
「やらないで後悔するよりやって後悔した方がいい。そういう経験は絶対に次で生きる。何より結果はどうあれ、告白された男の人だって嬉しいもんだよ。自信にもつながるし」
「……それは……私としても嬉しいけど……」
「それに何やる前から振られるって思いこんでるんだよ。小野の素材は決して悪くないんだから」
「わ、私が……?」
「そうだ。もっと髪形を洗練させたり化粧をすれば良い女になるぞ。それは俺が保証する」
これは瑛太の本心だ。
目、鼻、唇、顎、顔を構成するそれぞれのパーツは悪くない。それらを全体的にどう調和するか俯瞰してみたとき、彼女の見かけは女子の全国外見偏差値の上位に来てもおかしくはない。そう思わせるだけのポテンシャルは小野にはあった。ただあか抜けていないだけで自分を卑下するのははもったいない。
「せっかくの縁だし手伝ってやるよ。俺が恋のキューピットになってやる」
「手伝うって何を……?」
「俺が小野の見た目や性格や能力を、お前の想い人の好みに合うようにしてやる」
「無理だよ……。そんな簡単にできるものなの……? 古川君がお世辞を言ってるだけだと思うけど……私可愛くないし……」
「可愛いかどうかは結果が示してくれるだろうさ。とりあえず俺の判断を信じて欲しい」
瑛太は胸に片手をあてて努めて真摯に答えた。
「それにだ、仮に顔が相手の求める水準に達していなくても女には愛嬌がある。この子感じが良いな、話し方に応じて表情が変わって見てて楽しい、打って響いてるような態度が可愛い、と思わせられたら十分に勝ち目はある」
小野は困惑交じりにこちらを見つめる。髪の隙間からかろうじて見える右目が瞬きを繰り返し、瑛太の言動を見定めているようだった。
「……本当に?」
「ああ、事前に男心を知ってればそれだけ恋愛ゲームも有利に進められる」
「古川君っていったい……?」
「……よく知りもしない相手からこんなことを言われても信じられないかもしれない。自分で言うのもなんだが、俺は前の学校ではそこそこモテたんだ。と言っても、こんな地味な見かけをしてたんじゃその面影もないが」
「…………」
「ひとまず騙されたと思って信じて欲しい。悪いようにはしないからさ」
小野は口の開閉を小さく繰り返す。頭の中で情報を咀嚼しているのだろう。
全てを言い終えた瑛太にできるのはひたすら待つことだけだ。後は彼女の判断に任せよう。無理強いをする気はない。小野が嫌と拒否をすれば瑛太としてもすっと身を引くつもりだ。どうなるかは彼女次第。小野が乗ってくれば協力を惜しまない、ただそれだけの話。
何人の生徒が瑛太たちの横を通り抜けていっただろうか、小野はやっと重い口を開いてくれた。
「どうしてそこまで……私を気にかけてくれるの……?」
「小野みたいな他人思いな女子は嫌いじゃないんでね」
合って間もない人間にそこまで肩入れするのもあれだが、それだけの価値を瑛太は彼女に見出していた。優しさには優しさを返したくなるのが人間の心理だろう。単純に瑛太は小野に好感を抱いていた。
だからこそ彼女には幸せになって欲しい。そのためなら力を貸す手間は惜しまない。一人の人間として小野の役に立ちたかった、ありのままの瑛太に優しくしてくれた彼女の役に。
「どう転ぶかは分からないけど……古川君のすごいところは見てみたいな……。うん、信じるよ……」
「決まりだな。俺の全力をもって仕事に取り組ませてもらうよ」
こうして瑛太と小野の二人三脚は始まったのだった。
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