第5話 あなたが好きです

 日を追うごとに小野と山本の関係は深くなっていった。時間があれば山本は小野をバスケや遊びに誘うようになり、傍目からも二人の仲睦まじさが伝わってくる。


 小野が瑛太との訓練をすればするほど結果は出た。


 上手くいかないことはある、それでもじっくりと取り組めば時間が解決してくれた。小野は瑛太からのアドバイスを見事に自分のモノにしてくれた。これほどやり甲斐のある仕事もない。小野から山本との進展具合を聞いて、瑛太は年甲斐もなくはしゃいでしまう。瑛太が素晴らしいと思う小野を、第三者である山本と共有できたようで嬉しかった。彼女の魅力を分かってくれる人は分かってくれるのだ。それでこそ教育し甲斐があるというもの。


 小野にはもっと、もっと外見も内面も美しくなってもらいたい。


 逸る気持ちを抑えながら、そうして瑛太は今日の勉強会を始めた。公園の目立たない一角にある、風にざわめく巨木の下で小野と対面する。


 葉の隙間からこぼれる陽光が小野の顔を物憂げに照らし出していた。


「よっ、小野……?」


 違和感があった。普段の小野を知っていれば簡単に分かるような、露骨にアンニュイな雰囲気を匂わせる彼女。凛とした、いつもより力強い光を放つその目は、親しみなれた瑛太の心ですら鷲掴みにする。


 つい瑛太は背筋を伸ばしてしまった。いつも通りの訓練をして、話をして、連帯感を高めて、そう一日を終えるのだと思っていた瑛太は完全に意表を突かれた。


「古川君……」


 透き通った、芯のある声がピンク色の唇から吐き出される。何を考えているのか読めない、だが明確な決意の宿ったトーンに飲まれ、瑛太は油断ならないイベントの発生を予期して身構えていた。


「……どうした?」

「大したことじゃないんだけど、ううん、きっと私にとっては大ごとなんだろうね。気になって仕方ないから」

「言いたいことがあればはっきり言ってくれ。俺たちはパートナーなんだから、隠し事はなしだ」

「古川君ならそう言うよね。……うん、それじゃあお言葉に甘えて」


 小野が深呼吸をする。


 可憐な瞳から漏れる視線が瑛太のそれを絡めとる。奇妙なことに瑛太は身動きが出来なくなっていた。つぶさに動く小野の唇に意識を奪われ、彼女の声を聞くまで瑛太は現実感のない世界に入り浸っているような気分にさらされる。


「どうして古川君はここまで私の面倒を見てくれるの?」


 やけに艶めいた、その声が瑛太の鼓膜に沁みた。一瞬、時間の感覚がなくなる。酩酊感に襲われた。足元が覚束ない。色気がヤバかった。その気はなくても小野の魔性の声に魅了されたのだ。それが演技なのかどうかは瑛太にも分からないほどだった。心地よい夢の世界にさらわれた瑛太は、だが現実に舞い戻り、動揺に幾度となく視線をチラつかせると、やがて平常心を取り戻して小野と対峙した。


「どうしてって」

「普通の人間はここまでしてくれないよ。実際に、今までの私は男の人からからかわれることはあっても、対等な人間とは思われてこなかった」

「……そうか」

「でも古川君だけは違った。私の恋を真剣に応援してくれた。何の得にもならない訓練を発案してサポートしてくれた。それがどんなに泣きたくなるほど嬉しかったか」


 小野が儚い笑みを浮かべる。目をそらせば溶けて消えてしまいそうな、そんな儚さ。


 切なそうに眉根を寄せたその顔が、瑛太の網膜に焼き付いて消えない。同情心が締め付けられる。思わず抱きしめて守りたいぐらいだった。


「小野……」

「古川君の正直な気持ちを聞きたいの。無理を言ってるのは分かってる、でも教えて欲しいな……」


 小野の目は本気だった。


 嘘はつけない。傷つけたくはない。


 どう答えるのが彼女のためになるのだろう。もとい大した理由でもない。ただ小野に不必要に責任を感じてもらいたくなかった。出来れば納得してもらいたかったが。これはあくまで瑛太の自己満足にすぎない。瑛太はしばし逡巡した末に、できるだけありのままの気持ちを伝えることにした。


「別に……深い意味はない。単純に小野には幸せになって欲しかったから。強いて言えば小野が面白い奴だったからだ。クラスメイトの女子たちが冷めた目で俺を見る中、小野だけは俺に親切にしてくれた。その恩に報いたかったんだ」

「それだけの理由で……?」

「それだけ、って言うが俺にとっては重要な理由だ。前の学園でもこの学園でも、女子には苦い思い出しかないからな。年ごろの人間は、着飾った人間じゃないと相手にしてくれない」


 転校前の学園で。オシャレを知らなかった頃の瑛太は、自分の容姿によく苦渋を舐めさせられた。色気づき始めた同級生たちは露骨に地味な装いの人間を見下した、もちろん見下される側には瑛太も含まれている。


 当時はそれが悔しかった。


 周りに認められようとオシャレを研究して、スクールカーストの上位に食い込んだ時もある。だが複雑な心境でもあった。容姿を認められたのは嬉しかったが、ありのままの自分を認めてくれる人はいないのだと。だからこそありのままの瑛太を受け入れてくれる小野の存在は大きかった。仲良くしたかった、役に立ちたかった。こんな思いをしたのは生まれてから片手で数えるほどしかない。


「そうだったんだ……」

「これで満足か?」

「……うん、やっぱり古川君は古川君だね。義理堅いんだ」


 小野はこくんっと頷く。


「ふん……」

「教えてくれてありがとう。おかげで私の気持ちも固まったかな」


 小野がぎゅっと右手を握りしめる。


「気持ち?」

「これから私は一世一代の行いをするの。初めて尽くしで緊張してるけどね。成功すればいいな」

「ん?」

「あのね、初めは古川君はいい人だな程度にしか思ってなかったけど、一緒に過ごしていくうちに惹かれていったんだ。優しい古川君に」


 小野は後ろ手を結び、控えめに、はっきりと語った。にっこりとほほ笑むその顔がやけに印象的だった。


「……それって」


 目の前がかあっと熱くなる。話の文脈から窺える、次に流れてくるであろう言葉を予想して手の平からじわっと汗が滲んだ。

 無意識に意識してしまう。勘違いはよくないと打ち消そうとするも、彼女から向けられる好意にいてもたってもいられなくなる。


「あまり要領のよくない私に、親身になって教えてくれたでしょ。オシャレにしろ山本先輩の好みにしろ。それがすごく嬉しかったんだよね」


 忙しなく行ったり来たりする小野が、瑛太のいる背後をにこっと振り返る。


 彼女はぽつりぽつりと思い出すように言葉をまとめる。


 もう、瑛太は小野から目を離せないでいた。見えるはずの背景がモザイク状にぼやけ、瑛太の瞳には親しみやすい彼女の姿しか映らなくなる。


「おかげで私の先輩への恋は終わっちゃったの。より気になる人が出来たから」


 それはコーヒーのように、甘くて苦い、複雑な思いを瑛太の心に浮かび上がらせる。どこかで距離感を測り間違えたのか、瑛太は必要以上に小野と近づいてしまった。その結果がこれだ。彼女はせっかくあの将来性のある山本と関係を持てたにも関わらずだ。とてももったいない。


「……それは一時の気の迷いだ。よく考えろ、せっかくあの良い男が小野に目をかけてくれたのに」


「もう、別にいいんだ。無理して先輩の好みに合わせるのに疲れちゃった。こんな様子じゃ、もし付き合っても長続きしないよ」


 小野の乾いた笑いが切ない。確かに相手に無理に合わせるのは大変だろう。それを否定することは瑛太にも出来なかった。


「……それは」

「それより古川君だよ。接すれば接するほど好きになっちゃった」


 小野が瑛太に目と鼻の距離にまで近づき、上目遣いのまま小首を傾げる。


 一際強い風が流れた。

 小野の髪が揺れた。

 さわさわと。


 特別なことは何もしていないのに、ただそこに佇むだけで彼女には色気があった。心がうずく。瑛太は単純に小野に魅了されていた。こんな変化を望んでいたわけではないが、真心を込めて付き合ってきた影響か、瑛太は強く小野を嗜めることが出来ないでいた。こちらの対応次第ではまだ引き戻せるはずなのに。小野に情が移ったとでもいうのだろうか。


「何か緊張してきたな。この人しかいない、そんな本命を目の前にすると役を演じることなんて出来ないんだね」

「……小野」

「へへっ」


 小野が潤んだ瞳を瑛太に向ける。


 彼女の綺麗な顔がくしゃっと笑みの形を作り、端正な目元の皮膚がふわっと盛り上がった。刹那、甘い痺れが脳天を貫いた。拍動する心臓の音が体内でくぐもり、ドクンドクンっといつにも増して大きく聞こえた。


 苦しい、息を吸うのを忘れているのだから当然だ。一瞬たりとも小野から目を離せなかった。三日月形に引き結んだ、紅の唇からこぼれる次の言葉に期待して瑛太の頬が熱くなる。


 瑛太は場の空気に飲まれていた。気を抜くと理性が吹き飛びそうになる。


「付き合ってください、古川君。あなたからしたら私は、つまらない、取るに足らない女かもしれない。でも、私のこの人生をかけていい女であるように努力します。この気持ちには嘘をつけないから、だからどうか……」


 小野の真摯な言葉が胸を打つ。芯の通った、耳に心地いい美声が鼓膜に馴染む。


 恋に苦い思い出のある瑛太は、不覚にも彼女の想いにときめいてしまいそうになる。胸も手足もはてには顔までも血流が加速して、痺れるような熱が全身を支配する。小野からの告白は幸せだった。軽くなった体がふわふわと浮き上がりそう。


 なんて答えるのがベストなのだろう。


 相変わらず彼女は不安と期待の入り混じった表情を浮かべている。眉はいびつに八の字に曲がり、唇はぎゅっと引き結ばれている。

 瑛太は迷う。彼女の気持ちは嬉しい。身近な人間から好意を向けられて嬉しくないわけなんてなかった。


 ただ同時に自分でいいのかとも思う。瑛太はどこにでもいるような普通の人間だ。特に面白くもなければ将来性のある人間でもないのだ。そんな自分が彼女に選ばれてもいいのだろうかと二の足を踏んでしまう。失礼な思考だとは思う。好意には好意を返せばいい、それが相手への礼儀にもなるだろうから。


 それは分かっている……が。


「俺は小野が嫌いじゃない」

「古川君……!」

「俺は小野が思うような、立派な人間じゃない。代わりなんていくらでもいる。もっと広い社会を見てもそう言えるのか?」

「もちろんだよ……! 古川君がいたから、私、女として自信が持てた。何より今が楽しいの!」


 小野がぱぁっと宙に両手を広げる。作り物ではない、自然な、彼女の満面の笑みは星のようにキラキラと瞬いている。


「それで返事は……?」

 小野の瞳が震える。


(純粋なやつだ……)


 心のわだかまりが解けていく。小野の真っ直ぐな好意が、これまでに培われた女性への苦手意識を上書きしてくれる。彼女は心から信用してもいいのではないかと願える相手だった。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。


 瑛太は強い人間ではない。悩むし葛藤もする。


 この期に及んで、自分がちっぽけな人間だとバレるのが怖くもある。


 過去にはつき合った女に愛想をつかされたこともあるのだ。それでもそんな瑛太に小野は勇気を振り絞って想いを告げてくれた。それはとても簡単でとても難しいこと。彼女のそういう行動は偉いし、報われて欲しいとも思う。ありのままの自分を受け入れてくれる小野は、こちらとしても受け入れたくなるのが正直なところだった。瑛太は小野が嫌いではない。彼女のひたむきさは評価をしているし、次に何を見せてくれるのかと期待してはもっと見ていたいぐらいだった。小野には褒美があってもいいのではないだろうか。今回、彼女はそれだけのことをしたのだから。


「……仕方ないな、とりあえず試しにつき合ってみるか?」


 瑛太は溜息を吐きながら答えた。


「古川君!」

「勘違いするな、あくまで試しにだ。近い距離にいることで見えてくるものもあるからな。素の俺は案外だらしないかもしれないぞ」

「それは想定外かな」

「例えだがな」

「うーん……そういうところも好きになれるように努力するから……!」

「無理はするなって。俺もせっかく出来た彼女から、愛想をつかれたくはないからな」

「……うん!」

「何が変わる訳でもないが、恋人っぽい真似をたくさんしよう。デートでも何でも」

「ゆくゆくは家族に……!」

「俺の彼女は妄想力がたくましいことで」


 瑛太は笑う。


 内心では満更でもない。


 付き合う以上は彼女を大切にしてあげたい。それが瑛太の偽らざる本音だった。

 未来のことは誰にも分からない。ひょっとしたら小野との関係は終わるかもしれないし、仲睦まじく続くかもしれない。


 それでもこの一瞬だけは、瑛太と小野の心は繋がっている。それなら今だけでも楽しめばいいのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る