かえりつく

鷲島鶏介

かえりつく

 来月、二十六歳になる。舞台俳優としての経歴は、上京後から養成所で学んだ期間をふくめると今年で八年目をむかえた。

 そんな坂田陽貴さかたはるきにとって、JR総武本線に乗るのは四年ぶり、二度目のことだった。

 八月末の青空の下、電車は千葉県の片田舎をひた走っていた。平日の昼すぎ、くだり電車の先頭車両は貸しきり同然である。ボックス席に腰かけてみたが、空の座席に左右をとり囲まれているようでどこか落ちつかない。

 遅めの昼食にと、千葉駅でサンドイッチと缶コーヒーを買ったが食が進まなかった。無理して齧り、呑み込んだものがうまく喉の奥に落ちていかない。コーヒーだけ窓辺に置き、ビニール袋に食べ残しを詰めて口を縛った。

 陽貴は外の田園風景に目を向ける。黄金色に染まりだした稲穂とは裏腹に、陽射しはまだ夏を引きずっている。低い山か森なのか、夕立が降る時に垂れこめる雲に似た木々も、色づくのはまだ先らしい。

 市街地の景色と、建造物といえば遠くに点在する民家と鉄塔だけというのどかな眺めとがくるくると入れ替わるようになったのは、千葉駅を出てしばらくしてからのことだった。四年前と変わっていない。およそ五分の周期で、人口密度が蛇腹のように伸び縮みを繰りかえすのも同じだ。踏切で電車の通過を待っているのは、乗用車二台と自転車に乗った老人ひとり。そのほかには車も、人の姿もない。

 陽貴は隣の座席に置いたトートバッグからクリアファイルを取り出した。差しこまれた一通の封筒には、赤と青、二色の縁取りがほどこされている。投函元の国は「LONDON」、差出人は「KOUYA KUBOTA」。

 七月を待たずに梅雨明けの宣言がされたある日、事務所宛に郵送されてきたそれの封を、その場で破ったのだった。

 ――謹啓 突然お手紙を差し上げる非礼をご容赦下さい。この度は祖母・窪田くぼたひさ江が坂田様にお世話になったとの事で、遅ればせながらご連絡を差し上げた次第でございます。

 封筒から出した手紙を、陽貴は読みかえす。嫌味なぐらいに丁寧な日本語が、喉元にうすい刃をあてがう。

――去る六月二十三日、ひさ江は八十一歳にて永眠いたしました。

――誠に勝手ではございますが、葬儀はすでに近親者のみで執り行いました。

 窪田ひさ江。永眠。思いがけない訃報は、陽貴の胸の底に小さな穴をあけた。

 幸か不幸か、二十六年間で親しい人間の訃報を見聞きしたことがなかった。今この瞬間も、穴からいろいろなものがこぼれ落ちているのではないかと気がついたのは昨夜、翌日着る服を決めた時だった。

 手紙にはまだ先がある。

 ――ひさ江の遺言の中で、坂田様宛のものが一つございました。その件で是非、お渡ししたいものもございます。つきましては一度、直接お会いしたいのですがご都合は如何でしょうか。恐れ入りますが後述する私のメールアドレスまでご連絡をお願いいたします。

 何度目かの再読を終え、陽貴は息をつく。背中をのばし、視線を上へ投げた。私立大学の中吊り広告が小さくはためいていた。緑に囲まれたキャンパスの写真の隣には、にこやかな学生たちの集合写真が添えられている。

 上京したての頃、多少なりともまだ持っていた進学への羨望は、東京での日々に埋もれ、アルバイト先の大学生たちと仲良くなるうちに姿かたちを失っていった。物事を曖昧なまま手放せるのが長所な自分が、唯一諦められなかったのが演劇だった。

 七月最後の土日、陽貴が所属する劇団の夏季公演が催された。陽貴が演じたのは物語の中盤で命を落とす若者だったが、主人公とのからみも多くそれなりに重要な役だった。

 稽古に集中するあまり連絡し忘れていたという言いわけを、散々迷ったあげく、ひさ江の孫へ宛てたメールの冒頭にしたためた。ひと月が経っていた。その日のうちに来た返信には、候補日として日付がいくつか挙げられていた。

 ひさ江との縁を浅いものだとは思わない。けれどいくら遺言があったからと言って、血が繋がっているわけでもない。身のわきまえかたを決めあぐねた一ヶ月間だった。考えなしにやって来たと思われるのも癪だった。

 そう書けなかったのは、なぜだろうか。

 陽貴は考える。やがてかぶりを振り、すべてを曖昧にして日常に戻ってきた。稽古をダシにして連絡の遅さを詫びた自分のずるさには、目をつぶった。

 間もなく次の駅に到着するというアナウンスが流れた時だった。田んぼをいくつもとび越えた先、樹木との境目と思しき地点のうち一箇所が目にとまった。等間隔に並ぶ電柱の下、微妙に地面が盛りあがっている。その上には白い横長の看板が、まるで電車の往来を見守っているかのようにぽつんと立っていた。

「なごみ、の……」

文字は小さく、車内の様子が窓ガラスに映って見えにくい。かろうじて読めた部分に既視感があった。それが千葉駅の改札内、昼食を選びがてら覗いた和菓子屋の名前だということに気づいた時には、すでに看板は後続車両へ続々と挨拶を終えていた。

 なごみの米屋――。

 ふいに、別の記憶が手に届きそうなところまで落ちてきた。記憶の断片は、つぎつぎと眼裏で細切れの画となった。黒塗りの仏壇。大きなちゃぶ台の前に座る自分。皺だらけの太い腕が水羊羹やどら焼きなどを目の前にぶちまける。扇風機の羽根の音、蝉の声。どら焼きの袋に同じ店の名前が刻まれていた。

「最近のわけぇもんはこんなの好きじゃねぇかもしれんけど。よければ食ってや」

 あぁ、と息が漏れた。記憶のなかの陽貴が顔を上げると、腰を曲げたひさ江が笑っていた。八月の終わりと始まりが輪をつくった。穴からまた、何かぬけ落ちていった。

 電車は進む。途中で無人駅に停まった。草木に囲まれた一車線のホームには屋根がない。日光も雨も、庇ってくれるものはない。

 車窓に掌をかさねる。日の光を浴び続けたガラスのねっとりとした熱さに、陽貴は目を細めた。

 


 大寒波が襲った年末だった。陽貴は二十二歳、養成所預かりの証である「研究生」の肩書きがとれて二年が経っていた。

 冬の公演の翌日に、主宰者から呼び出しを受けた。彼は二代目であり、陽貴がまだ養成所にいた頃に前任者の勇退にともなって就任したのだが、差しで会ったことはいち度もなかった。新橋駅前にひっそりと建つオフィスビルへ、足早に向かった。

 初めて入る応接室は、陽貴の知っている応接室ではなかった。DVDやビデオテープがところ狭しと積まれ、暖房のなま臭い風が顔に直撃する小部屋で対面するなり、「お前はもう劇団を辞めろ」と告げられた。

「嫌です」

 あれこれ考える前に言葉がとび出すぐらいには、まだ若かった。頭のなかで、いろいろな人間から何度も言われ続けてきた言葉でもあった。

「自分の半径五、六センチのなかの演技しかなってないんだよ。しかもここ最近は自覚してるのか、劇のオーディションでもすっかり受け身になりやがって。そんな奴、この劇団には要らねぇ」

 それが、押し問答の末に転がりでてきた理由らしきものだった。他者になれ。腐っても自分自身にはなるな。かつて一部の好事家からは鬼才と呼ばれ、熱狂的に支持された元映画監督がかかげる劇団のモットーが容赦なく陽貴を打った。

 真冬だというのに汗が頬をつたった。暖房を消す機会も二人に与えない応酬は、陽貴の「来年の冬の公演には必ず」という言葉で幕引きがされた。主宰者は許可も拒絶も示さず、煙草をゆうゆうと吸ったあと、歪んだ笑みをよこしてきただけだった。

 公演じたいは毎年十二月に開催されるが、実質的なタイムリミットは配役についてオーディションが行われる九月中だった。

 半年と少し、か――。

 外に出た陽貴は歩行者の様子をぬすみ見た。それぞれの生活に思いをはせていたはずなのに、気がつけば今月の生活費をどうやりくりするか考えている自分に呆れた。

 そのうち、年が明けた。夏の公演のオーディションでは、名前も与えられていない登場人物を兼役で演じることになった。節分もバレンタインデーも、陽貴がぽつねんと歩く道の反対側をにぎやかにすれ違っていった。

 冬将軍が三月なかばに雪を降らせた影響で、桜の開花が一週間ほど遅れた。スーパーの値引き品が置かれるワゴンに、味噌餡の柏餅がぽつぽつと並びはじめていた。

 稽古や基礎練習のかたわら、「演技の半径」を模索する陽貴の日々は続いていた。金の都合がつく範囲で思いつくことはやった。読書、映画鑑賞、人間観察、ギャンブル、風俗――。

「で、次はクラブに行ってみた、と」

 空調を調節していた陽貴は振りかえる。ダブルベッドに仰向けで寝転がっていた裸の女と目があった。

 適当に選んだ格安ラブホテルだった。部屋に満ちる安っぽいフローラルの香りがきつすぎて、時おり鼻先によぎるかび臭さと男女の残り香に安心してしまうほどだ。

「ついでに、お持ち帰りもですね」

「普通、風俗より先な気がするんだけど」

「五十音順ではそうっすね」

 陽貴の返答に、女は声をあげて笑った。仄暗い照明の下では、あちこち皺が寄った淡い壁紙の色と肌の色がよく似ている。音楽と酒と人いきれが渦まく空間の隅で沈むように佇んでいた陽貴に、「大学生くん? ここは初めてかな」とただひとり唾をつけに来た彼女もまた、こちら側の人間だった。

「偉そう、って先輩とかに言われない?」

「言われる」

「だよね」

 あたしも人のこと言えないけど、と女は天井を眺める。業界では名の知れた、もちろん陽貴も知っている劇団に入っていること。次の舞台ではヒロインに抜擢されたこと。クラブにはストレス発散が目的で月一回の頻度で通っていること。自分たちと同年代か、それより若い男女がけばけばしい色の光のなかで身体をくねらせ、腰を振るのを眺めながら、彼女と言葉をかわしたのが三時間前の話になろうとしている。

「で、いろいろやってみてその半径とやらは広がってるの?」

 陽貴は苦笑いを浮かべた。

「そう簡単に広げられる才能もないから、辞めろって言われるんでしょうね」

「仮に芝居をやめたとして、なにするつもり」

「なにすんでしょうね。今さらサラリーマンはやりたくないし、実家には戻れないし」

 交わった後はいつも、面倒臭いという感情が隙間風となり、胸裡を吹きすぎていった。アルバイト先の大学生を抱いた時も、高校の演劇部の同期と初体験した後もそうだ。恋愛に捧げるぶんの情熱を、演劇に傾けていたはずだった。

 広がらない半径は、その実広げる気がないのだと悟りはじめていた。自分に近しい登場人物の役を選ぶようになったのは、おのが実力の限界を感じていたからではないか。

 胸でちりちりと燻るものを差しだすと、女は「みんなそんなものだよ」と言った。

「そこで崩れるのも、こらえるのも、もう舞台の上の出来事じゃないんだよね」

 陽貴はベッドに腰かけた。どうやってヒロインの座を射止めたのか質問した。起きあがらないまま彼女は腕をあげ、頭の上にある枕を指さしたかと思うと、ぶっと噴き出した。

「あたしね、ずっと他人になりたくてさ。変身願望とかのもっとヤバい感じ。こうやって知らない男と寝て、息するように冗談言ってる今もたぶん、別の人間の皮を被ってる」

 あっけらかんとした口調が、陽貴が訊きそこねた言葉をシーツの波間に散らせた。話がそれた、と彼女は上半身を起こす。

「脇役やって、ヒロインやって、そこから舞い込んだ脇役をまたやって。自分の賞味期限のばすためなら、つまんないヒロインの役ぐらい、いくらでもやってやるって飲み会で演出家にみえを張ったのが効いたのかもね」

 誰かから誰かへ。登場人物から登場人物へ。陽貴の眼の奥で、彼女は他人のやっかみを一手にひき受けながら、まったく振り返らずに別の島へと綱渡りしつづけるのだった。

 延長しよう、と提案された。

「その分払うからさ」

 言葉より、体のほうが正直だった。股間がみるみる熱をとりもどす。やわらかい肌は磁石みたいに陽貴の腕や体に吸いついてくる。舌を絡ませる合間に、遅れてやってきた台詞がぬるりと滑り出てきた。

「バイトかけもちしてるんで別にいいっすよ」

「へぇ。こっちはひとつ辞めてきたところ」

「……せめてワリカンじゃ駄目ですか」

「百歩譲って出世払いかな」

 いびつな陽貴のプライドも、彼女の奥深くへ自分のものを出し入れするうちにおとなしくなった。

 声からメッキが剥がれおちていった。陽貴も小さくうめき、ゴムのなかにふき込んだ。快楽でふやけた頭がもとに戻るまで寝そべっていると、女がよいせ、と起きあがった。

 瞼をとじる。自分の息の向こうで、他人のふりをした他人が物音を立てている。やがてマットレスがぶわん、とにぶく跳ねた後、缶が開く小気味いい音が聴こえた。

「お先に失礼」

 持ちこんだ缶ビールを飲む彼女を見て、陽貴も起きた。腰とほぼ同じ高さの冷蔵庫は、仕切り棚によってなかが二段に分かれていた。有料の飲み物には指一本触れず、上の段に置かれた自分用の五百ミリ缶を手にとる。

 ベッドに戻ろうとして、彼女の腿の上に置かれたものに陽貴は気がついた。大ぶりな本だった。雑誌より厚く、小説やビジネス本の類いよりは頁数が少なそうなそれは、知らんぷりを決め込むように表紙が伏せられ、どんなジャンルの書籍なのか見当がつかない。

「それは?」

 陽貴の問いかけは、一拍置かれたのちに予想外の方向へ跳ねかえされた。

「実家、どこ?」

 思わず黙りこんだ。はぐらかされたことにむっとしたのか、「実家」という二文字に嫌悪感を催したのか、動揺の震源が自分でもはっきりと見出せない。

「……栃木、だけど」

 栃木か。女はおうむ返しに呟いたのち、ゆっくりと微笑んだ。その不敵な表情は、もとを辿ればどこの誰の貌だったのだろう。疑問の泡がひとつ湧いて、弾けた。

「坂田陽貴くん」

 フルネームを呼ばれたのは初めてだった。

「君に夏休みの宿題を課します」



 銚子駅に降りてまず陽貴が感じたのは、八月はじめの熱気のなかにただよう潮の香りだった。

 醤油蔵をイメージしたという構内を抜け、まっすぐのびる大通りをあてもなく歩く。夕暮れの強風にあおられ、キャップが危うく飛んでいきそうになった。

 利根川の河口が望めるまで進んだ。西陽の破片が縫いとめられた川面から視線を右に滑らせると太平洋に行きつく。メモの切れ端みたいなかもめに気をとられ、自転車と追突しかけた。訛った怒鳴り声が耳元をかすめた。

「夏休みの宿題」は、つまるところ「旅」だった。四日間のなかで何に触れて、何が残り、何を活かすか。問題がさし迫ってもなお、すべて風まかせだった。

「さぁ、これは何でしょう?」

 ラブホテルの一室。先ほどまで女の脚の上で顔を伏せていた本の表紙が、上目づかいで陽貴を見上げていた。「日本地図表」の五文字と、いたずらっぽい彼女の顔とを見較べた。

「まあ座ってよ」

 隣に腰を下ろし、譲り受けた地図帳をそのまま開こうとして、止められた。

「目、つぶってみて」

 彼女にしたがい瞼を閉じた。初めから終わりまで、左手で地図帳の頁をそっとつまんだ。

「ここだ、ってところで止めて」

 親指をゆっくりと動かす。少しざらついた感触を残しながら、降りはじめの雨の音のように紙がめくれていった。

 一度目は、どうやらほぼ文章しか載っていない頁を選んだようだった。二度目。だいたい真ん中あたりだな、とぼんやり考えていると、へぇ、と呟く声が聴こえた。ひっかかりを覚える暇さえ与えられず、じゃあその頁のどこかを指ししめして、と言われた。

「もういいよ。指はそのままでね」

 人さし指の腹がついている場所から数ミリずれた先はもう、海だった。青く塗られた太平洋を背景に、羽を畳んだ緑色の鳥が逆さになったような、そんな形の土地が横たわっている。「東京都」の文字は赤線で区切られ、地図の左上端、指さす場所とは東西で真逆の位置に追いやられている。

「このあたりに泊まるんすか、俺」

 旅行など、高校の修学旅行で行ったきりだ。

「そうだよ。交通費が安く済んでよかったね」

「俺ここらへん、全然知らない」

「銚子も知らない? テレビの旅行番組とかでたまに流れてると思うんだけど」

 陽貴がいだく焦りの重量は、時に呆気ないほどに軽くなったかと思えば、抱えれきれないほどに重くなりもした。九月まであと四ヶ月。演技は、役を演じる時だけとり憑き、それ以外は感知が困難な幽霊みたいなものだとどこかで聞いた。日常のなかでそんな存在をつかむ機会など、そう転がっているわけがないのだった。「辞めろ」と言われうなずかなかった自分に、まだやれるかと問いかけた。

 ざっくりと、ふたりで道程を決めた。

 まとまった休みが取れるのは、最速で夏の公演後、八月一日からだった。四日に銚子のふたつ隣の市で催される祭りの記事を、女がインターネットの海から拾いあげた。女性しか担がない神輿が、その祭りには出るという。

「これ、ついでに見てきなよ」

「別にいいけど」

 見たいなら一緒に行けばいいのに、という陽貴の言葉に、彼女は肩をすくめた。

「見たくなったら自分で行くから、お気になさらず」

 そう言った彼女の、軽やかさと乾いた諦めに似たものが縒りあわさった声を、陽貴はこの街まで携えてきたような気がする。銚子漁港のそばにある居酒屋で飲んでいた時もそうだ。おかげで小上がりにいた男性二人組の会話が頭に入ってこなかった。

 零時ちかくになっても、大通りには活気が残っていた。金曜の夜、曜日感覚がぬけ落ちてひさしい。ビジネスホテルのベッドに横たわり、明日は銚子電鉄に乗るか、というふわっとした結論を酔った頭で導きだした頃には、陽貴は意識を手放していた。

 翌日。曇天の下、大通りをさかのぼった。駅前のロータリーには行列ができていた。みな、「銚子イオンモール」行きのバスを待っているらしい。

 ――別に、銚子らしさを味わうのが目的じゃないんだ。

 どこへ向かうにも、いちいち言い訳が必要な自分にうんざりした。イオンモールをとりかこむ駐車場の周りを見まわせば、広大な畑地のそこかしこにそびえたつ巨大な風車が湿った空気をかき混ぜている。高い山がないのをのぞけば、実家近くの風景に似ている。陽貴は気がつけばこぶしを握りしめていた。

 屋内を巡り、太平洋が一望できるフードコートで休憩をとった。家族連れと同じぐらい多いのは中高生らしき若者だ。田舎という繭のなかでもがく彼らの喜怒哀楽を浴びていると、体がむず痒くなってくる。陽貴は長居せずに席を立った。

「こっからどうするかなぁ」

 自動ドアの手前でスマートフォンを見ていると、バスが駐車場へ入ってきた。

 ――俺が乗ってきたのとは、違うやつだ。

 紺色に白い横線が入った車体の後を追った。

 駆けよって確かめた終点は隣の市だった。

「もうすぐ出発ですよ」

 時刻表と停車駅とをかわるがわる睨んでいると、運転手から声をかけられた。反射的に「今乗ります」と返していた。

 陽貴のほか数人を乗せて、バスは発った。

 畑地、雑木林を置きざりにして国道に合流する。遠くの空が霞んでいる。じきに住宅地に入った。駅に着くまで、陽貴は家屋の陰で黙りこむぼろいアパートの数をかぞえた。

 バスを降り、線路に沿って移動する。目に映る建物はすべて、窓ガラス越しに眺めるよりぐんと色あせている。化粧の仕方さえ忘れたような家並みに、この街に住まう人間がめかし込んで行く場所について陽貴は想像した。

 ぽつん。踏切を越え、路地を一本入ってみたところで、むきだしになった腕に大きな水の粒が跳ねた。頭上を見やるひますらなかった。降りしきる雨の矢で視界が一気に白くにごる。あっという間に陽貴は濡れ鼠になった。

 慌ててリュックサックのなかを探したが、折り畳み傘はない。舌打ちした。路地を走ると、とある家屋を見つけた。小さな商店らしい。店の表の大部分にはすだれがかかり、開店しているのか否かもはっきりしないが、軒先を借りても文句は言われなさそうだった。

 水浸しになった靴の感触に顔をしかめつつ、雨に打たれない場所でTシャツのすそを絞っていると、背後からだみ声が聞こえてきた。

「ひっでぇ雨だぁ」

 陽貴は振りかえった。太りじしの老婆がうす暗い店奥から腰を曲げ、歩いてきた。

「あんだぁ、ずいぶん若ぇ兄ちゃんだな。店のもんなら奥だよ」

「あ、いえ。ちょっと雨宿りしてまして」

 彼女は陽貴の全身をまじまじと眺め、唸りながら言った。

「こりゃぁしといなぁ。なんか拭くもん持ってないんか」

 しとい。聞きなじみのない言葉が、雨どいから落ちる滴のように耳の穴へ流れ込んでくる。「持ってないんです」と答えると、老婆はよたよたと後ろに向きなおった。

「おーいコンちゃーん、まだいるかぁい」

 はぁい、と応えがあった。

「今そっち戻るからよぉ」

 戻っていく彼女の背中を覗きみる。埃くささのなかにひしめくのは、ニッキや蚊取り線香のにおいやらだ。段ボールが積まれた通路の突きあたりで、襖ががたがたとつっかえながら開くのを陽貴は見た。

「すまんけど、タオル何枚か貸してくれや。外で雨宿りしてる兄ちゃんがずぶ濡れでよ」

「あら、ちょっと待ってて」

 やがて、老婆と店主らしき年配の女性が真っ白なタオルを持ってきた。並んだふたりは店内によどむ影から生まれた姉妹のようだ。

「あらひさちゃん、こんないい男どこで拾ってきたん」

「惚れちゃなんねえぞ、コンちゃん。よしおが泣くからな」

「旦那を色恋沙汰で泣かせられるような人生なら、むしろ大歓迎だわ」

 店主は枯れた腕を組み、西瓜の種をふきとばすように笑って言ってのけた。ふたりがかわす会話の輪郭を、陽貴は胸裡に書きとめた。

 先に訊いてきたのは「ひさちゃん」だった。

「あんた、他所もんだべ?」

 自分の髪を拭く手が止まる。無意識に「他所もん」と対になる言葉をさがしていた。

「ええまあ、そうっすね」

 ここには旅行で来たこと、銚子からバスに乗って来て、さらに隣の市で催される祭りが最終目的地だということ。話の終わりを待たずに「こんなへんぴなとこに来たって面白くもねぇべや」と老女ふたりがかぶせてくるのも予想はついていた。

 東京の人間かと訊かれ、そうだと答えた。

ひさちゃん聞いた、と店主は横を向く。まだ多少は彼女のほうが背筋が伸びているせいで、見下ろすような格好になっていた。

「東京だってよ。やっぱり隆司りゅうじくんと雰囲気が似てるって思ったんだぁ」

「そうかぁ? おらにはわっかんねえや」

「ひさちゃん」のそっけない口振りに、陽貴は拒絶めいたものを嗅ぎとった。三人のあいだに流れる空気が、わずかに滞った気がした。

「どこか泊まれる場所とか、この近くにあったりしますかね」

「浜の方まで行きゃあホテルがあるわね。でもあそこ、高いくせに食事がねぇ」

「まあこんなど田舎で、泊まる場所なんぞ探すだけ無駄だべなぁ」

 まあそうだよな、と納得した。渡り鳥用の餌場もろくにない以上、止まり木を期待してはいけない。ラブホテルですら探すのに骨が折れそうだ、と思ったはずみで、あの女の肌の温もりが体をすりぬけていった。

 海辺にあるというそのホテルへの行き方を訊ねかけた時、老婆の口から予想外の風が吹いた。

「困ってんなら、うちさ泊まってくか?」

陽貴が言葉を発するよりもはやく、店主がそりゃいいね、と手を叩いた。

「泊まっていきな、お兄さん。気兼ねなんてせんでいいんだよ。この人、隆司さんって息子がいんだけどね、ずっと東京にいるからいい具合にその部屋があまってて――」

「コンちゃん、うちの息子の話はぁべつに今ませんでええだろうよ」

 妙に浮かれた言葉を「ひさちゃん」はぴしゃりと遮り、複雑そうな笑みを陽貴に向けた。

「まあ、ぼろい家だけど、雨風ぐれえはしのげるさ」



 雨が小降りになるのを待って商店を出た。腹周りを揺らしながら小股で歩く彼女の歩幅に合わせ、陽貴もゆったりと歩みを進めた。

 老婆は「ひさ江」と名乗った。この齢になるとちゃんと名前で呼ぶのは医者ぐらいだ、と豪快に笑った。

「さっきは済まんかったね。あんなにどら息子の名前呼ばれちゃあ、遠慮するなって方が無理だわな」

 陽貴は言葉を濁した。覗き込むようにして、ひさ江に顔を見つめられた。

「あんた、正直者だね。顔さよぉく出とる」

「……あはは」

「まあ、コンちゃんも悪気があったわけじゃねえから、許してやってくれや」

 路地沿いに広い墓地があった。お盆にはまだ早いせいか、墓石の多さのわりには閑散としている。その奥には大きな陸橋がかかっていて、ひっきりなしに車が行きかっている。

 陸橋の下、ひわいな文字や絵が落書きされたトンネルを抜けて五分は歩いた。車一台ですら四苦八苦しそうな道路の片隅で、ひさ江が足を止めた。二階建てのちんまりとした一軒家が灌木でできた囲いのなかに建っている。

「ここが、おらいの家だ」

 芝生が敷かれた猫の額ほどの庭を正面から踏みあるく。玄関の表札にある苗字は「窪田」だ。商店のにおいと、ひさ江の家のにただようそれは似ていたが、陽だまりのなかにいるように薄まっているのが違いだった。

「雨でしとかっただろうし、シャワーでも当たってきな」

 確かに体は冷えている。ひさ江に先導されるまま、陽貴は風呂場へ行った。髪と体を湯で流すと、温かさにため息が漏れた。

 ドアを開けると、バスマットの上に藍色のジャージとよれたトランクスが畳んで置かれていた。あとで下着は、リュックに入っている替えのものにかえればいい。

 洗面所の隅に置かれた洗濯機が小刻みに振動している。洗われているのは自分の服だと、陽貴は、台所の椅子に座ってテレビを観ていたひさ江から告げられた。ジャージは少し丈が短く、押し入れのにおいがした。

「迷惑だったかもしれんが、まあ年寄りの世話焼きだと思って我慢してくれや」

「いえ、助かります」

「甘いもんは食えるかい」

「まあ……それなりに」

 陽貴の返事を聞くと、ひさ江はよっこいしょ、と立ち上がった。台所とひと続きになった居間を横切った先には、六畳ほどの和室がある。人ひとり分開いた襖の奥、黒塗りの仏壇の前で彼女はごそごそと何かを集めている。

「そこさ楽にしててや」

和室に入った陽貴は、飴色に照るちゃぶ台の前に座った。すぐに彼女もやって来たかと思うと、両腕にかかえた和菓子をぶちまけた。

 貰いものだと彼女は言った。

「――よければ食ってや」

「なごみの米屋」と屋号が入った菓子を手に取る。どら焼きは明後日までの日持ちだった。

「これ、お供えものじゃ……」

「ひとり占めが性にあわんから仏壇に置いただけだぁ。仏さんが飯を食うわけでもねえし」

 麦茶とスプーンを取りに、ひさ江は戻っていった。ひとり占め、仏さん、と口の中で何度か繰り返したが、ひさ江のように、もしくは扇風機から起こる風のように軽くは言えない。諦めてどら焼きの袋を手に取り、破いた。まん丸な生地にかぶりついた。ぎっしりと詰まったつぶ餡の甘みが舌に残った。

「クーラー、つけっか?」

「大丈夫です。東京より全然涼しいです」

「んだ、この辺は夏は涼しくて冬はあったけぇ。住むにゃあうってつけだよ」

 麦茶のグラスを置き、陽貴の反対側に座ったひさ江もまた、自分用の麦茶を飲んでいる。

 夕方になると雨は止んだ。陽貴は長靴を履いて、ひさ江と一緒に家の裏にいた。野菜をとるから手伝ってくれ、と言われたのだった。

「立派な畑ですね」

 そんな大層なもんじゃない、とひさ江は取り合わなかったが、お世辞を言ったつもりはなかった。家の表からは予想がつかないほどに広い裏庭は隅々までよく耕され、湿った濃い土塊のにおいがした。雨上がりのせいもあって、どの野菜も葉は青々と、実は艶やかに光っている。

「何をとればいいですかね」

「トマト三個と茄子を四、五本。おらはここで瓜さとっから」

 わかりました、と陽貴は握り鋏を持ちなおした。収穫中に親指大のいも虫と遭遇し、鋏の刃にのせて隣の空き地に放りすてた。

とり終えて畑を出ると、家の壁際、割れたブロックを積みあげたところにひさ江が座っていた。バケツの中身を見て、うなずいた。

「すまねえな。そんじゃあ飯の支度すっぺ」

 そうして、早めの夕食にはそれらの野菜を使った料理が並んだ。瓜は毎日ひさ江が漬物にしているらしく、すりおろした生姜と刻んだ青唐辛子が上に乗り、醤油をたらした状態で食卓にのぼった。

「これ、めっちゃ美味いっすね」

漬物をつまんだ陽貴の顔がほころぶ。さっぱりしていて、いくらでも腹に入りそうだ。

「だべ? 死んだ父ちゃんが好きでなぁ。近所の奴らにもお裾分けしてんだ。夏になるとみんな欲しがっちまってこちとらひいひいよ」

 陽貴もつられて笑う。近隣の人々の気持ちがわかる気がした。漬物だけではない、トマトが入った卵入りの味噌汁も、茄子とピーマンと豚肉の辛味噌炒めも、ただ味がよいだけではない。何度でも戻ってきたくなる味、という表現がふいに浮かび、それでは定食屋のキャッチコピーだと内心けちをつけた。

 食後、テレビを眺めながら自家製の梅酒を飲んでいたひさ江が、思い出したように訊ねてきた。

「そういや家に来る時にちょろっと聞いたけんど、兄ちゃん俳優なんだよな?」

「ええまあ、舞台俳優ですけど」

 土曜の夜九時、液晶画面にはテレビドラマが流れている。刑事ものの人気シリーズだ。テレビ出演への欲はないが、どうあがいても実力が足りていない手前、出る気はないと言っても強がりに聞こえるだろう。

「もとから東京の人なんか」

「いえ、出身は栃木です」

 帰省しているかと訊かれ、首を振る。

「あんだぁ、親御さんと仲悪いか」

「俳優になるかならないかで喧嘩して上京してきました。我慢比べですよ、こうなったら」

 しょうもない嘘ばかり、口をついて出た。わずかでも改善の望みがなければ、我慢比べする土俵にも立てない。自分も、おそらく家族も、もうその可能性すら放棄してしまった。

「すると、おらは案外短気だったんかもしれんなぁ」

 理由を問うた。ひさ江はテレビから目を離さないまま、言った。

「おらも、息子と喧嘩別れしたんだ。なまじ頭が切れたから物言いも憎ったらしくてなぁ。もう家に帰ってくんなって言ったんだぁ」

 陽貴は梅酒のソーダ割りを飲み干し、テレビの上に視線を滑らせる。写真立てが三つ、それぞれに息子の成長に応じた家族写真がぴったりと収まっている。

「昔は隆司の賞状も飾ってたんだ。出てってからぜんぶ捨てちまった」

 あれから三十年近く経つんだなぁ、と漏れた声は干からびていた。一階で寝るひさ江と別れ、かつて「隆司」が使っていたのだろう、うっすらかび臭い二階の部屋のベッドで天井を見ながら、陽貴は帰る家をなくした人間と、奪わざるをえなかった人間について考えた。

 翌日の朝食の席で、ひさ江が「もう一日泊まっていけ」と言った。

「女神輿が出るのは夕方だ。明日の朝出発したってもなんも遅くねぇ。兄ちゃんもただ飯にありつけるんだから文句はねぇべ」

 お金は払うと言ったが、聞き入れてはもらえなかった。足があまりよくないひさ江のかわりに用事を済ませることになった。

 魚屋を訪れた際に、陽貴は店のおやじの話から窪田家の断片を拾った。

「隆司くんはえらく頭が良かったんだが、あまり体が丈夫じゃなくてなぁ。親心としては地元にいてほしかったんだろうよ」

 おやじ曰く、ひさ江の息子は東京で大学の同期と結婚し、子どももいるらしい。ひさ江の過去と一緒にもち帰ってきた三尾の鯵はお手製の酢なめろうになり、そこにマグロの刺身もついて、彼女と過ごす最後の夕飯は豪勢なものになった。

 翌朝、玄関でひさ江と別れる間際になって、陽貴は自分のリュックサックを漁りだした。

 取り出したのは、小さな名刺入れだ。

「これ、俺の名刺です。よかったら持っていてください」

 劇団名と名前だけのシンプルな紙切れは、いざという時の身分証明になるからと、現主宰者が劇団員用につくらせたものだった。

「あんだぁ、いっぱしに名刺があるなんて売れっ子みたいだなぁ」

 軽口を叩きながら、ひさ江は名刺をズボンのポケットに入れた。エプロンで拭いた手をすっと差し出してきた。

「実の息子みてぇで楽しかった。元気でな」

「ひさ江さんこそ、どうかお達者で」

 敷地を出た。駅が近づくほどに心許なさが滲んだ。二度とはない出会いだとしても、決して消えない自分の帰る場所がひとつ生まれたことが嬉しく、また実の息子をさしおいてそんな感傷にひたることに罪悪感も覚えた。

 最後の宿を押さえ、屋台がならぶ通りで女性たちが威勢よく神輿を担ぐさまを見た。熱気のある光景だったが、己の旅はすでに、ひさ江と別れた時点で終わっている気もした。



 総武本線に揺られて一時間半。低い山も森も消え、田んぼだけが地平までのびるようになった。あまり景色に高低差がなくなると、空が低く見えるのだという気づきが得られた。

 目的の駅に着いた。改札を通ってすぐの場所で窪田航也くぼたこうやとおちあう予定だったが、予想していた場所に彼の姿はない。周囲に視線をやると、建物の隅で電話している男の後ろ姿が目にとまった。やや早口の英語らしき言葉の端々に、時おり苛つきがまじる。

「すみません。窪田さん、ですか?」

 電話が終わったタイミングで声をかけた。振りむいた男の顔に不快そうなひびが走ったのを、陽貴は見逃さなかった。

「坂田陽貴さんですね、これは失礼しました。ひさ江の孫の航也と申します」

 車の用意はできていると彼は言った。ここで長話をするつもりはないらしい。

 足早に駅を去り、近くの駐車場に停められていた車に乗り込む。マニュアル車だった。黒いTシャツに細身のデニムという、シンプルで隙のない服装もあいまって、「品がある」という言葉で身を守っているようだ。

「日にちをこちらから指定してしまいましたが、予定などは大丈夫でしたか」

お前に予定などないだろうと暗に言われた気がするのは、穿ちすぎだろうか。

「ぎりぎりまでアルバイトを入れていたんですけど、どうにか間に合いました」

「失礼ですがお年は?」

「今年で二十六です。窪田さんは?」

 航也が「二十九です」と答えるまで、少し間があいた。

「坂田さんのプロフィールを拝見しました。ここ数年は劇の主要人物を演じるほか、CMなどにもご出演なさっているようですが」

「……よくご存知ですね。まあ僕らの商売上、蓄えは多少無理しないとできないんですよね」

 本当はいつでも辞められるのだとは、言わずにおいた。

 道幅のせいか、路地を避けて車は走る。お互いの手持ちの武器をちらつかせる会話には、事前に想像していたよりずっと、ひさ江に関する話題が出てこなかった。

 表の庭、芝生の上で車は停まった。はびこる雑草に家主の不在を実感した。航也に続いて入った家のなかは、どこもかしこもうっすらと埃が積もっていた。

「祖母は、裏の畑で亡くなってたらしいです」

裏庭へつづく廊下で、航也から告げられた。

「心不全だったようです。見に行きますか?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 芝生があのありさまなら、畑はもっと酷くなっているだろう。彼女が死んだ場所だから、ではなく、雑草が思うがままのたくる変わり果てた畑を視界に入れたくなかった。

 和室の仏壇に手を合わせた。果物も菓子も供えられていない。骨壷が入った白い箱だけが真新しかった。

 唇から、「ただいま」がぽろりとこぼれた。ひさ江の家を去ったその後をかいつまんで報告する。旅を終え、不退転の覚悟でのぞんだ冬の公演のオーディションでは、「主人公の父親の若かりし頃」の役を勝ちとった。これが同業者のなかで評判となったおかげで、俳優人生もひとまずは延命となった。

 どれだけの時間、頭を垂れていただろうか。後ろにひかえた航也の咳払いで我にかえった。

 座ったまま向きなおると、一通の封筒がちゃぶ台の上に差しだされた。

「これは?」

ちゃぶ台をはさみ、ひさ江の孫の表情を見た。無表情のまま、彼は告げた。

「祖母の遺言です。貴方に向けたものです」

 網戸から、気をつかうように夏の終わりの風が入ってきた。封筒を逆さにすれば、折り畳まれた便箋とかつて陽貴が渡した名刺が掌のなかにおちてきた。

 ――前りゃく お元気ですか。先日、朝かんにのっていた坂田様のインタヴュー記事を見ました。ごかつやくのようで何よりです。

 さて、突然でもうしわけないのですが、私窪田ひさ江は、私の死後、あとに書く銀行預金のすべてをあなた様にさしあげます。残高は(ご自分で確にんしていただいたほうがいいと思いますが)約五十万ほど。どうかあなた様の今後にお役立てください。 草々

「これは……」

 最後のひと文字まで辿りついた陽貴は、そう呟くので精いっぱいだった。

 五十万。遺産相続に縁のなかった陽貴には、金額の大小が今ひとつはかりかねる。五十万。もう一度呟いた。二泊三日の恩も返せないまま、親と子をかたどった鋳型のなかに、ひさ江の好意がどろどろの鉄となって満ちていく。

「すごく失礼かもしれないですが、窪田さんたちは、いかほど……」

「葬式代とこの家の処分代だけ。あとは全部、寄付しろとの遺言です」

 背中を冷たいものがつたった。能面に似た航也の表情の奥に怒りが透けている。

「法的な強制力がない遺言って、ありますよね」

「確かに、これは公証ではないです。ですが、日付も押印もされている。自筆の遺言で必須だとされている要点はすべて満たしています」

 どこで勉強したんでしょうね、と航也はほとんど吐き捨てるような調子で言った。

「ですので、効力は通常どおり発生する、と考えるのが自然です」

 陽貴はうつむいた。これほど素直に喜べない臨時収入があるだろうか。心の綱引きは膠着したまま、時間だけが過ぎていく。

 いただけません。喉からでかかった陽貴の固辞は、航也のひと言でたちまち凍りついた。

「いったいどんな手練手管を使ったんですか」

 重く、静かな声だった。陽貴は顔をあげた。航也の表情はまったく変わらないのに、目だけは刃物みたいにぎらついている。

「優秀だった父をこの家から追い出したのは、祖母です。祖父の病気を盾にこんな田舎に縛りつけようとして、それができないと知ったら親子の縁を切った。父は天涯孤独だった母と結婚し、何の援助もないまま僕は育ち、当然窪田ひさ江からは孫だと認知されなかった」

 憎しみが、家の梁を軋ませる。

「あげく、彼女は喪主に父を指定してきたんです。自分の死を知ってたかのように、葬儀のコースも依頼してありました。詫びの言葉も報酬もないまま、故郷を追い出した張本人の葬式をとりしきることを強いられるのがどれほど屈辱か、坂田さん、あなたにわかりますか?」

 自分の唇が震えだす。記憶の海から這いのぼってきたのは魚屋のおやじから聞いた話だ。

「俺は、体が弱かったのは貴方のお父様の方だと聞きました」

「はぁ?」

 航也の語尾と、片方の眉が吊り上がる。

「俺が知っているひさ江さんは、実の息子と喧嘩別れしたことを悔やんでました」

「それは、坂田さんが他人だからじゃないですかね。もしくはそういった経験がないせいで自分のこととして考えられてないか」

「経験なら、してます」

 高校の卒業式の翌日、家の裏山に隠していた荷物をひっぱりだした後、大学入試をすべてすっぽかしていたことを家族に報告した。零細企業と呼ばれるのを誰よりも嫌う、小さな町工場の社長だった父親は黙り込み、その隣で母親は怒り狂っていた。母は父の拡声器なのだと、その時理解した。

 ――俺なんて、初めから産まなかったことにすればいいじゃないか。

 自らが放ったその言葉だけは、鮮烈に憶えている。気色ばんだ両親を見て、後戻りできない場所まで一気に飛びこしたことを悟った。当時、ひと欠片ぐらいはあったはずの後悔も、季節がめぐり、風に吹かれるうちに消えた。

「八年間、俺は実家と一度も連絡を取ってません。でも窪田さんは、帰れない人間ではなかったはずです」

「どういう意味ですか」

 息を吸う。瞼に力をこめ、正面を見据えた。

「窪田さんはお父様のために怒っているようで、実際はひさ江さんにただ自分のストレスをぶつけたいだけなんじゃないんですか」

 航也が小声の英語で何か罵ってきた。アクター。三流役者が、とでも言ったのだろうか。

「認知してもらう努力をしたんですか。会いにいく努力をしたんですか。勉強とか仕事だとか、そんなのにかこつけてお祖母さんを他人扱いしたことは、怠慢とどう違うんですか」

 しばし睨みあったのち、航也は「お前に何がわかる」と低い声で言い放った。陽貴にもわからなかった。わかっていたのは自分たちは同族なのだということだった。

――傷つけあい、無様な姿で生きていく俺たちは、どんな生きものより愚かで、滑稽だ。

「遺言状、俺が持っていていいですか。あとは預金通帳をくれればすぐ出ていくんで」

 あれほど家族写真で賑やかだったテレビの上は、もう何もなかった。



 夕暮れがせまるなか、駅へ向かう足どりは重かった。「コンちゃん」の商店にはシャッターが降りていた。東京方面に線路をのぼっていく電車を途中で見送り、道をそれた。

 商店街のなかに居酒屋を見つけた。吸い寄せられるように薄汚れたのれんをくぐる。会計を終えた頃には、古ぼけた田舎町にすっかり夜がおとずれていた。

 おぼつかない足どりで駅前を通りすぎる。昼間、航也が車を停めていたコインパーキングに辿りついた。入り組んだ場所にあるせいかひと気はない。

 縁石に腰かけ、トートバッグを肩からおろした。クリアファイルに入れた預金通帳をまじまじと見つめる。服も体も、まだ居酒屋にいるのかと錯覚するほどに煙草くさく、舌にはアルコールの後味がまとわりついている。

ひさ江が書きのこした通り、五十万は「約五十万」だった。何の因果か、二十七円の不足分を見るとかわいた笑いがこみあげてくる。

 こいつをどう使おう――。

 真っ先に思いうかんだのは、指環だった。あまり高価だと身につけるのがためらわれるから、二人で二十万ぐらいのものがいい。

 あの日、あの時、ラブホテルの一室から陽貴を旅立たせた女とは今も続いているのだった。籍は入れていないが、四月から一緒のマンションに暮らしはじめた。昨年、大河ドラマへの出演をきっかけに遅咲きの新人としてブレイクした「木川里香きがわりか」という芸名の女は、自分のプロフィールをほとんど詳らかにしないことでも有名だ。

 ――過去、それも劇団に入る前の話なんて、あたしからすればゴミクズみたいなものだよ。

 けれど、陽貴は知っている。彼女と一緒にしょっちゅう行くカラオケボックス。木川里香と芝居がかった声で名乗り、いつも最初にうたうのは「歌舞伎町の女王」だった。女神輿が出ることで有名な祭りは、九十九里浜の北端に近い町で催される。法被姿の女衆の顔を、もっとやきつけておけばと悔いた。

 帰る場所を持たない、もしくは捨てた男と女の住みかと、ひさ江の家。今や陽貴の両の手は埋まっている。家主をなくしたあの家で、より事実に近いものを語っていたのは、おそらく航也の方だろうと陽貴は思う。それでも、ひさ江と過ごした記憶は鮮やかなままだ。それだけで充分だった。

「帰る場所、か」

 口から漏れた呟きがふわふわと夜陰に消える。夜風に乗ってやってきた秋の虫の声が、酔いのまわった頭に何倍にも大きく響く。幸福感の五歩手前のような感情のまま、スマートフォンの電源をつける。午後八時半、終電まであと三十分ちかくだ。

 上京後すぐに、携帯電話からスマートフォンにのり換えた。電話番号もかわり、いろいろな人間の連絡先を捨てたが、実家の電話番号はまだそらで唱えられた。

 ひとり息子が消えた時点で、工場を継ぐ直系の人間はいなくなった。親戚が継いだのか、別の人間に明けわたしたのか、工場を畳んだのか。突然湧いた心の染みが、無視できないほどにどんどん大きくなっていく。ずっと築いてきたはずなのにいとも簡単に崩れさる心の砦に戸惑いながら、番号、通話ボタンと押した。耳元で鳴る呼び出し音にひとまず安堵する。電話番号はまだ、使われているようだ。

 陽貴は頭上を見あげた。駐車場は灯りがとぼしく、おまけに新月だった。都会では見られないあえかな星々が、暗幕のような空に無数の穴をあけている。

 星の周辺にある暗がり。あそこから星々はうまれ落ち、爆ぜる。そして常闇とこやみに還りつく。

 星空を見て気持ちを紛らわす、どこにもかえれない人間の姿を陽貴は視た。あやふやなその顔は、知りうるすべての人間と似ていた。

 留守番電話に接続されたのを確認して、通話を切った。

 耳のなかでこだまし続ける呼びだし音に耳をすませながら、陽貴は長い間、無数の光の点を仰ぎみていた。

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かえりつく 鷲島鶏介 @mugi0401

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