星灯籠の街

鍋谷葵

星灯籠の街

 深々と雪が降る夜空の下、一人の男の子は裸足で砂浜を歩いていた。冷たい海の波しぶきも何のその、少年は波打ち際に沿って果ての見えない真っ白な砂浜を、てくてくとリズミカルに歩いていた。

 寒そうだけれども、不思議なことに男の子は寒がる素振りを一切見せなかった。上はほとんどぼろに近いような浅黄色の長袖で、下は穴が開いたジーンズを履いているのに、男の子は全く寒そうじゃなかった。

 春の野原をスキップするように、男の子は寒い雪夜の中を天真爛漫に歩いた。霜焼けになりそうなのに、霜焼けにならない小さな足を楽しそうに、まるでワルツでも踊るかのように動かし続けていた。

 けれど、男の子の顔には、両の目尻から小さな唇の端にかけて走る一筋の傷跡があった。それは深い深い傷跡で、星色の男の子の魅力をすっかり損ねてしまっていた。それどころか、不格好なピエロにさえ見えた。

 でも、男の子はピエロじゃなかった。

 何せ、男の子は一筋を伝う本物の涙を流していたのだから。

 たらりと目じりからこぼれて、口元まで行く水晶のような涙は、ぽたぽたと砂浜に落ちて行った。落ちた涙は、波に消える男の子の足跡の代わりに、透明なガラス球になって残っていった。

 けれど、涙のガラス玉は夢見がちなゴマアザラシの赤ちゃんが食べてしまう。だから、男の子の歩いた道には、何にも残らなかった。

 形跡が何も残らないことも知らない男の子は、涙を流しながら懸命に歩いた。ずっとずっと遠くへ、限りない場所へ、自分が安心できるところを探して、歩いて行った。雪は冷たく男の子の輝かしい金色の髪を冷たく彩った。ただ、顔に着いた牡丹雪は涙と混じって、男の子の顔にへばりついた。すっかり、氷の様に固まってしまった雪は男の子の顔を徐々に徐々に冷やして行った。

 冷たくなってゆく自分に、男の子は顔を歪めた。小さな体の大きな心は、深く沈み込んでしまい、どうしようもない孤独感を覚えた。独りぼっちで寂しくて、今にも凍てつく海に飛び込んで、悠々と泳ぐ鯨に十人のインディアンの子供みたく食べられたいとすら思った。

 びゅうっと吹く風は、なおさら男の子に寂寞の情を覚えさせた。

 けれど、男の子は必死に歩いた。

どうしても波打ち際の向こう側、冷たい冷たいどんよりと暗い海の中に行きたいと思っても、遠くにあるはずの眩い星灯籠の街を目指して、一心不乱に歩いた。

 波の音は重苦しい鯨の鳴き声と混じり合って、不気味な音を夜空と男の子に捧げた。寒さに身もだえる二枚貝たちは、夜空に轟く不気味な音にびっくりして砂浜からひょっこり顔を出した。そして、ある浅利は自分の上に落ちてくる男の子の足に「ワッ」っと驚いた。浅利の声が聞こえた男の子は、ひっそりと足を別のところに下ろして、声を上げた浅利を見つめた。


「旦那、気を付けてくださいね。ここらはあっしらの住処でごぜえますから。そもそもこんな夜に歩いちゃ駄目ですぜ。人間なんざ、お天道様が出てても、後も先も見えてねえんですから。目が見えねえんだったら、手前の家でおとなしく寝てるのが合点です」


 江戸っ子が板についたの浅利は、自分のことを棚に上げて男の子にピシッと注意をした。

パクパクと開いたり閉じたりする浅利は、男の子の目には面白く映った。それこそ、浅利の注意が耳を通り抜けてゆくくらいには面白かった。

 けれど、聴いていないことが浅利にバレてしまえば余計な注意を受けると思った男の子は、こくりと頷いた。


「分かれば良いんですぜ旦那。そんじゃ、俺たちゃ眠りますんで、ここから先を行くんだったら気を付けてくだせえませ」


 器用に砂の中に潜った浅利の寝息が聞こえ始めたころ、男の子は再び歩き始めた。

びっくりして起き上がった二枚貝たちも、再び砂の中に潜りこんで、安らかな寝息を立て始めた。不気味な音の残響が雪夜にすっかり吸われてしまうと、二枚貝たちのいびきばかりが延々と続く砂浜を支配した。

 からから、ころころと不思議ないびきは男の子の心に愉快をもたらした。さっきまで、偉そうな口を叩いていた浅利も、寝てしまえばマラカスのような音しか出せなくなることが面白かったのだ。

 微かに癒された孤独の中、男の子はまだ歩いた。

 すると、目の前に一匹の黒猫が急に海から現れた。黒猫はずぶ濡れの体をぶるりと震わせると、黄色い目を丸くさせて男の子をジッと見つめた。


「やい、これからどこに行くつもりなんだ?」


 そして、黒猫はすっかり水気を体から飛ばしてしまうと意地悪そうな声で首を傾げた。

 性悪な黒猫に、男の子は砂浜の先を真っすぐと指を伸ばして答えた。


「口は利けないのか?」


 意地悪な黒猫は見ればわかることを、クスクスと笑いながら尋ねた。だから、男の子はより一層悲しい表情を浮かべると、牡丹雪と涙の結晶で閉ざされた口を指さした。


「そんなんじゃ、一生掛かっても星灯籠の街には行けないよ。なんたって、星灯籠の街に入るには合言葉が必要だからね。だから君じゃ、絶対に無理さ。今から引き返してもう一度、雪の降ってない日を選ぶんだね」


 男の子をせせら笑った黒猫は体をぶるりと震わせて、再び海の中へ飛び込んだ。押しては帰る波の中にすっかりと消えて行ってしまった黒猫の言葉は、すっかり男の子の気を落としてしまった。口が閉ざされて、利けなくなってしまった自分では星灯籠の街に入れないことを知ってしまったからだ。

 だから、男の子の歩みは止まってしまった。

 それどころか、一歩退いてしまった。そして、二歩、三歩と来た道を後ろ歩きで徐々に辿って行ってしまった。

 目指したところを見る前に、男の子は涙を流しながら、冷たく口の利ない顔のまま帰ろうとした。

 だけれど、一匹のコウノトリがトロイメライの火が入った真鍮のカンテラを口に咥えて男の子の前に着陸した。黒い口ばしを男の子の眼前に差し出すと、カンテラの中のトロイメライの火が男の子の顔を温めた。

 温いカンテラの輝く火に男の子は目を輝かせた。

 小さな目でコウノトリは男の子の目の光を見つめると、そっとカンテラを男の子の手に差し出した。ふっくらとして赤らんだ男の子の小さな手は、真鍮の取手を力強く握った。コウノトリは、カンテラが男の子の手に握られたことを確認すると、カンテラを口からそっと手放した。


「諦めちゃ駄目だよ。もうすぐ星灯籠の街に着くからね。ほんのもうすぐさ。ほら、トロイメライの明かりを頼りに進みなさい。私は空から君を見守っているからね」


 コウノトリは優しい笑みを浮かべると、白い翼をバッと開いて空に飛び立っていった。しかし、コウノトリは言葉通り男の子の上をくるくると、まるで鳶の様に飛び回っていた。

 背中を押してくれるコウノトリに、男の子は落ち込んだ心持をすっかり持ち直した。そして、男の子は上着の袖で、零れ続けた涙を拭うと、にっこりと笑って、力強く歩き始めた。男の子の歩みは、寝ている二枚貝たちのびっくりさせて、砂の中から飛び起こさせた。もちろん、二枚貝たちは江戸っ子口調で、リズミカルに歩く男の子を非難した。

 けれど、男の子の耳に二枚貝たちの声が届くことは無かった。

 むしろ、男の子は自分の小さな一歩一歩を鼓舞してくれているようにすら思えた。だから、男の子の足取りは、より大きく、より力強くなった。そして、カンテラは揺れて、トロイメライの光をあちらこちらに降り注いだ。

 光は海の中にも届いたようで、黒猫はその光を見て再び海から飛び出してきた。


「やい、諦めろと言っただろ? すぐに引き返した方が身のためだ。三歩進めば物を忘れる鳥の言うことなんて信じちゃ駄目だ。鼠も取れて、家の番も出来る利口な俺の言うことを信じるんだな」


 ずぶ濡れの体のまま黒猫は、にゃーにゃ―と甲高い声で男の子に注意した。

だけれど、やっぱり男の子の耳に猫の声が届くことは無かった。

 歯牙にもかけられなかった黒猫はげんなりとすると、元気に歩む男の子の背中に向かってシャーっと威嚇した。普段は聞けない性悪の黒猫の威嚇は、少しだけ興味深かったけれど、男の子は星灯籠の街に興味津々だった。だから、男の子は後ろを振り返ることなく、波打ち際に沿って真っすぐと歩き続けた。

 歩いて、歩いて、男の子は歩き続けた。

 一心不乱に、吹雪で目の前が真っ白になっても、カンテラを手から提げ、にこにこと笑いながらずっと歩いて見せた。

 すると、いつの間にか目の前に大きな門が現れた。硬い重苦しい鉄の扉と閂によって閉ざされた門の前には、一人の門番が居た。

 鋭い槍を持って、鈍い鉄の甲冑を着た門番は体を寒そうに震わせながら男の子を見下ろした。門番の顔には男の子と同じような目尻から唇の端にかけて真っすぐと走る傷跡があった。そして、偶然なことに髪も金色だった。

 けれど、男の子と違って門番の目は酷く冷たかった。


「合言葉は?」


 門番は冷たい目の印象のまま、冷たく男の子から合言葉を聞き出そうとした。このどこか高圧的な門番の口調に、男の子はすっかり震えあがった。そして、ぶるぶると震える男の子を門番は鼻で笑った。


「答える勇気がないなら、この街には入れられない。この街は勇気ある者しか入れない掟があるんだ。臆病者が侵入してもらっちゃ困るんだ」


 大人気ない門番は、男の子を嘲た。


「だから、帰ってくれ。それとそのカンテラは預からせてもらう。そいつは臆病者が持って良い代物じゃないんだ。勇者しか持っちゃいけない代物なんだよ」


 そして、門番は鉄の手で男の子のあどけない手からカンテラを取り上げようとした。

 けれど、男の子はぎゅっと力強くカンテラの取手を握りしめて、勇気の籠った輝く眼差しで門番を見つめた。


「それじゃあ、合言葉を言えるんだな」


 急に見つめられた門番は、慌てた様に男の子に合言葉を迫った。

だけど、男の子は合言葉を知らなかった。

 しかし、男の子はいつの間にか、頭の中で合言葉にふさわしい言葉を見つけていた。その上、トロイメライの火によって男の子の顔を閉ざしていた結晶は、すっかり溶けていた。

 だから、男の子は冬の冷たい空気を大きく吸い込んだ。


「トロイメライ!」


 そして、大きな声で門番に向かって叫んだ。

 目を丸くして驚いた門番は、さっきほどまでのぶっきらぼうで冷たい顔に、優しい笑みを浮かべた。そして、槍を文に立て掛け、鉄の小手を外し、ごつごつとした大きくて暖かい手で、男の子のカンテラを持ってない方の手を優しく握った。


「正解!」


 満面の笑みで正解を伝えた門番に、男の子もまた満面の笑みを浮かべた。


「小さな勇者、それじゃあ行こうか、星灯籠の街に!」


 門番は大笑いしながら、鉄の扉を鉄の手で押した。そして、重苦しい鉄の扉は閂を無視して、いともたやすく、軽々と両側に観音開きした。

 すると、眩いばかりの光が門の内側から溢れ出てきた。

 それは大きなアンドロメダ銀河のサクランボ色の光、天の川銀河の青白い光、いて座三裂星雲の鮮やかな赤の光、そしてその中でも凛然と輝くベテルギウス、プロキオン、シリウス、ポルックス、アルデバラン、カペラ、リゲルのダイヤモンドのような光、またその他にもアークトゥルス、スピカ、レグルス、デネボラの温い光も含まれていた。

 神々しさと温もりの両方の性質を持つこれら星明りは、瑪瑙や瑠璃、翡翠で出来た街を行く、皆が少年と門番と同じ傷跡を持った街の住人よりも多い御影石の灯籠に灯されていた。

 けれども、男の子はそんな街の灯籠にも、光が灯っていない暗いままの灯籠を見つけた。美しい光で満たされているのにもかかわらず、たった一つだけ光ることを許されていない灯籠を前に、男の子は居てもたってもいられなかった。

 だから、男の子は門番の手を振りほどいて、灯りの灯っていない灯籠に、カンテラに灯るトロイメライの火を灯そうと、そっとカンテラを開けた。


「ほら、トロイメライの火を灯籠に灯す時は、ポインセチアの花びらを使うんだよ」


 男の子に追いついた門番は、懐から真っ赤な花びらを男の子に手渡した。


「なに、恐れることは無いよ。君はもう立派な勇者なんだから。その火を、灯籠に移せるさ」


 暖かいけれど、触れれば火傷してしまうトロイメライの火に若干の恐れを抱いている男の子の背中を、門番は優しく摩ってあげた。


「ほら、やってみよう。次の人のためにね」


 そして、勇気づけられた男の子は、ポインセチアの花びらにトロイメライの火を移すと、御影石の灯籠に火を灯した。

 すると、灯籠の火はファクトの眩い光が灯り、光の中から現れた一匹のサファイアのような青い鳩が現れた。鳩はよちよちと灯籠から男の子の肩に乗ると、男の子に頬擦りした。寒さですっかり赤くなってしまった男の子の頬は温まった。

 そして、男の子の顔には満面の笑みが浮かんだ。

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