文庫本サイズの宇宙旅行

@midorisatoru

文庫本サイズの宇宙旅行【読み切り】

 文庫本サイズの宇宙旅行

 

 大晦日らしく、冷たく乾いた風が風呂上がりの短い髪を撫でていき、私は刈り上げた横髪をざりざりと触りながら築三十三年、1K8畳のボロアパート「アユミ邸」へ白い息をなびかせ小走りで向かった。金属製のピアスが耳で冷え切ってもはや痛みとなっている。


「今年はサヤカとさ、年越ししたいんだよね」


 大学の文学サークルに所属するひとつ上のアユミ先輩は丸眼鏡を光らせ、私とは正反対の長い黒髪をまとめながら言った。先週のことだった。僥倖である。思わぬ提案に年末の原稿に追われ、決して止めてはならぬキーボードへの打ち込みも思わず止まってしまった。入部と共に一目惚れを続けてはや一年。さまざまなアプローチを経たが、まさか向こうからお誘いが来るとは。


「え〜、大晦日っすか。うーん特に用事はないからいいっすけど」


 わざとらしく生返事を装う。特に用事はない、ではない。万が一を考えて予定を空けていたのだ。嬉しさのあまり顔がにやけてないか心配だったが、必死に真顔を保ち「じゃあ、大晦日になんか適当に酒持って行くっす」と目線を合わせず、キーボードを打ちながらかったるそうに返答。画面にはデタラメな文字列が並んでいた。


 念入りに体を洗った私は雪まじりの寒風吹き荒ぶこの道を、入念なリサーチの末判明した先輩が好きだという日本酒の一升瓶を大事に抱えて走る。他の先輩たちと宅飲みで何度か彼女の部屋にお邪魔したことはあるが、私一人で行くのははじめてだ。二人きりの年越し。まるで恋人同士のようで、それを意識すると一升瓶が割れんばかりにぎゅうと抱きしめてしまう。


 白息吐き尽くし、ようやく「アユミ邸」に到着するとドアの前でひとつ大きく深呼吸をして押したインターホン。返事がない。もう一度押す。やはり返事がない。電気は付いているし、ドアの奥からうっすらテレビ的な音声も聞こえる。走った体もいい加減冷えてきた。


 ふと、ドアノブに手をかけると鍵がかかっていないことがわかった。埒が開かないと感じた私は「おじゃま……しまあす」と小声でささやいてゆっくりと、まるで泥棒かのように中へと入った。


「アユミせんぱあい、あのお、居るっすかあ?」


 抜き足差し足でゴミ袋が置かれたキッチンをかき分けて奥の部屋へ。相変わらず散らかったその空間は年がら年中コタツが大部分を占めていて、そこに愛しのアユミ先輩が眼鏡をかけたままコタツへ埋もれており、穏やかにすやすやと寝息を立てていた。ほっぺたはぽかぽかと温められたせいか赤みを帯びている。


 か、かわいい。思わず写真を撮ろうとスマホを手にしたがハッとしてしまいこむ。彼女の肩にそっと触れて体を揺らす。


「せんぱい、せんぱいほら、お酒持ってきたっす。サヤカっす」

「う、う〜んうん?さ、サヤカあ?あれ何でここに」


 すでに酒の匂いを漂わせ、ずれた眼鏡を直そうともせずに先輩はむくりと立ち上がった。うー、いかんいかん寝てた、クラクラするぞとぶつぶつ独り言を放ちながらドテラを着こみベランダへと歩き出す。


「先輩、酒ここに置いとくっすよ」

「ぁりがろう……とりあえず一本吸ってくるわあ」


 はちゃめちゃに乱れた髪と汚れた部屋にドテラ。なんでこんなのを好きになったのかがわからない。普段は凛としてて、きれいで。それで堂々としてて。小柄な体からは想像できないほどにパワフルに原稿を書き上げる。でも原稿から離れたら急にポンコツ。そんな先輩を眺めていると少し、笑い声が出てしまった。そんなところなのかなって。


「ああ!やべえサヤカ!これ見てみて!」


 轟音の室外機に負けない声でベランダで先輩が笑ってる。ああもうなんすか、と困ったフリをして近づくと先輩はカチコチに凍ってしまった洗濯物のパンツを手に、ゲラゲラと涙を流していた。


「ははは!あたしのパンツ、ブーメランになっちゃった!こりゃあよく飛ぶぞ!」

「……そんな企画をやった芸人のテレビ番組、なんか昔見た気がするっす」


 好きな人のパンツがこうも勿体無さげに披露されると気まずさもなくなる。私はカチコチになった黒のそれを彼女から取り上げると、思った以上の硬さにふふと笑った。間も無くして部屋の暖房でだんだんと柔らかくなっていき、急に気まずくなって適当なところに放り投げた。


 すっかりヤニ臭くなったアユミ先輩が再びコタツへと舞い戻ると、ベランダに置いてあってシャリシャリに凍ったみかんを剥きながらぽつぽつ語り出した。


「なあサヤカ。あたしさあ、夢あんだよね。夢」

「夢?なんすか。暇だし聞きましょう」

「宇宙旅行!」


 目をキラキラ輝かせる大学三年生。まるで少女、いや少年のようだ。先輩はシャリシャリのみかんをはふほふと白い吐息混じりに食べては日本酒を飲む。それが合うのか分からないが、どうもお気に召したのかそのコンビネーションをしばらく繰り返していた。


「でもさあ?大人になったら行けると思ったんだけどまあだ何?何千万とか払うらしいじゃん?いけねえよお」

「そらこんだけタバコ吸って酒飲んでる生活してたら行けないっすよ先輩」

「これは必要経費なの。でさ、でね?あたし昔っから大晦日にやることあるのよ」


 すっかり出来上がったアユミ先輩はよおい、と声を上げすっと立ち上がった。いや、少しふらついていた。おじさんか。そして宣言した。


「年明けの瞬間にこう、ジャンプするのよ。その瞬間地球上にいなかったぞー!ってね。まあ言うなればちいさな宇宙旅行よ」

「うわあそれ、小学生の頃やってたっすわ。なっつかしい。え?アユミ先輩今でもやってるんすか?」


 私からの返事に一瞬先輩はたじろいで「や、やらないの?」とこぼしたが、すぐに平静を取り戻した。


「あ、あたしの地元では大人でもやるんだよ。ふ、風習。そう!風習としてね!」


 私はそんなバカなと冷笑しつつ、慌てる先輩のかわいさに顔が崩れそうになり、必死にももをつねって誤魔化していた。


「で?先輩は今年もそれをやりたいって事なんですね?」

「よく分かってるじゃん!さすがサヤカ!最高!あと十分後に年明けだからジャンプしよう!一緒に!」


 まっすぐな瞳と腕が私へと伸びる。ずるい。そんな目で見られたらその手を握らざるを得ないでしょうよ。私はうんと頷いて、伸ばされた小さな手を握ると先輩は「手、あったけ」と笑った。


「あんまりジャンプするなよ〜?去年それで下の階のおっさんから怒られたから」

「大人なのに何やってんすか。じゃあどれくらいジャンプすればいいんすかねえ」


 アユミ先輩はそれじゃあねえ、とぐちゃぐちゃの本棚から文庫本を取り出した。


「これくらい、かな?文庫本の高さ。これが限界じゃね?」

「ひっく。つうことはえーとだいたい一五センチよりちょっと低いくらいっすね」

「あたしの宇宙旅行は文庫本サイズかあ」


 年越しまであと一分。テレビでは見知らぬ男性アイドルがカウントダウンの準備を始めている。先輩は私の両手を握り顔を合わせた。準備はいい?と決意に満ちた表情で言うから私も気合を入れ、オーケーと答えた。ジャンプするだけなのに。


 あと十秒。ごくりと唾を飲む。あと五秒。深呼吸。三、二、一……


「あけましておめでとうございまーす!」


 アイドルの掛け声と共に私たちは自らの筋肉で浮遊した。わずか十五センチに満たない宇宙旅行。それでもこの空間には私たちだけ。宇宙に浮いたアユミ先輩の顔はまるで夢が叶ったかのような純真な美しさを携えていた。


コンマ数秒では満足できない。このまま時が止まって、ふたりだけの空間がいつまでも続けばいいのに。煩悩が抑えきれない年越しとなった。


 着地の瞬間、先輩はコタツのふとんに足を滑らせ派手に転倒した。両手が繋がれた私も釣られるように倒れ込み、新年の始まりは痛みからスタートしてしまった。


「いてて〜。サヤカ大丈夫?」

「だ、大丈夫っす。もう先輩部屋片付けないと」


 片手だけが繋がったまま、お互いが寝転がった体勢で会話を交わす。顔の距離が近くて焦る。先輩はじゃあ今度また片付けに来てよ。ひとりでさ、とまるで私の気持ちがわかっているかのように意地悪くにやけた。


「い、いいですよ!今度ひとりで来て片づけまくって……やり。うん?」


 頭をつけた床から伝わるカンカンという金属音。足音?


「しまった……これ下の階のおっさんだ……また怒られてしまう」

「ええ?まじっすか。はあ、とりあえずみかんでも渡して謝りますか」

「助かるよサヤカあ。じゃ、あたしみかん取ってくる」


 怒れるおじさんまであと数秒。私は結婚前のご両親への挨拶のように、凛とした正座姿で先輩のみかんの到着を待った。いつの日か訪れるかもしれない予行練習として。

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