第一章 砂漠に降る雨(8)
◇
真っ暗な寮の自室。
ベッドと鏡。あとは暗闇。他には何も無い部屋で、レインはぼんやり考える。
何がいけなかったんだろう。
早幸さんを覚えていなかったことだろうか。
ううん、多分、それはきっかけに過ぎなかった。約束はそれより前にしていた。
休養が必要に見えるくらい、今の自分には何かが足りないんだ。
それが何かはわからない。とっくに捨ててしまったものかもしれない。
身軽に空を翔けるために、真っ黒な雨雲の中に置いてきたものかもしれない。
今さら拾いに戻るには、遠すぎる。
「休む……って、何すればいいんだっけ」
昨日までのレインの生活は、アイドルが全てだった。
最強のアイドルであるための努力が全てだった。
「私から、アイドル取ったら……何が残るのかな」
とりとめもない考えを巡らせながらぐるぐると部屋を歩き回っていると、ノックの音がした。ドアを開けると、廊下の灯りと共に遠慮がちに顔を出したのは早幸だった。
真っ暗な部屋の中に佇んでいたレインの姿を見て、早幸は勢いよく頭を下げた。
「レインちゃん、ごめんなさいっ……!」
「え」
「プロデューサーから聞きました、活動休止のこと……。さっき私が変なこと言ったせいで、あの後プロデューサーと口論になってしまったんですよね……?」
「口論……は、してないと思う。それより」
先ほどの早幸と同じように、今度はレインが頭を下げる。
「私の方こそ、ごめんなさい。ずっと考えていたんだけど、やっぱり早幸さんが誰なのかも、いつどこで会ってたのかも思い出せなくて」
「っ……い、いいんです、無理に思い出してもらわなくても。むしろちょうどいい機会なのかもしれません。……私が、昨日までの私をちゃんと忘れるための」
「忘れたいの?」
その言葉にどきりと強張った早幸だったが、息をついてから弱々しく微笑んだ。
「……はい。忘れようと思っています。だからレインちゃんも気にせず忘れてください」
「わかった。そうする」
互いにしばらく沈黙してから、何か用があったのだろうと次の言葉を待つレインに、早幸は遠慮がちに口を開く。
「……あの、レインちゃん。さっき、部屋の外から聞こえてしまいました。私からアイドル取ったら、何が残るのかって……」
「ああ。うん。それも、考えてもわからなくて」
相変わらず一切変わることのない表情だったが、それでも何かを感じ取ったのか、早幸は意を決して尋ねた。
「レインちゃん……ステージ、立ちたいですか?」
「立ちたい……っていうか、立つよ。アイドルだから、それが」
ずっとそうだった。歌いたいとか、踊りたいとか、勝ちたいとか、そんな望みはどうでもよくて。ただアイドルだから、望まれたように歌って、踊って、戦いに勝つ。ずっとそうしてきた。それがレインにとっての全てだった。
そんなレインからステージを奪うのはあまりに酷だと、早幸は思ってしまった。
「……ついさっき、事務所にリハーサルの依頼がありました」
「リハーサル……って、何?」
「
「知らなかった。私、今までそんなのやったことない」
「レインちゃん相手にやっても、圧倒されるだけで何の参考にもできないから……」
至極当然な理由。『最強』の物差しは大きすぎて、とても新人の実力など測れない。
「本来なら、昨日までうちにいたアイドルが担当するような案件でした。ですが、そんな人はもういないので、この仕事を受けるなら必然的にレインちゃんが相手することになります。……使うのは小さなステージで、レインちゃんへの負担も少ないはずです。一度……一度だけなら、プロデューサーに内緒で出てもセーフじゃないかなって」
「早幸さんって、いい人だね」
「そんなこと……ありません。元々私のせいだから清算したいだけの、わがままです」
どうやら早幸はレインの活動休止の原因が自分だとまだ思っているようだ。
「わかった。リハーサル、私が出る」
即断即決即答に面食らいつつ、やっぱり「出たい」とは言ってくれなかったなと、早幸は少しだけ残念そうに微笑んだ。
◇
それから二日後の朝。
レインは早幸から教えてもらったリハーサルの会場に一人で来ていた。
大した距離でもなかったので事務所から走ってきたが、これはただの移動なのでトレーニングには含まれない。レインの中ではそういう認識だ。
「本当にちっちゃなステージがある……こんな所あったんだ」
戦舞台の会場とは比較にならないほど狭い、屋根すらない吹きさらしの廃墟。遺跡か祭壇のようでもある飾り気のないステージのすぐ下の地面に、申し訳程度に五本の
「身体、ちゃんと動くかな」
二日もトレーニングを休んだのは、レインにとって初めてのことだった。
練習着姿でステージに上がり、軽く体を動かしていると。
「…………あ」
ふわり、と。
乾いた風に乗って、甘く優しい香りがした。
「おはようございますっ」
朝日に負けないくらいに明るい声に振り向く。
最初に目についたのは、まるで七色の宝石のようにらんらんと煌めく瞳。
その瞳を彩るように咲き誇る笑顔に、ふわり柔らかく広がるピンクブラウンの髪。
花の香りを纏った少女がそこに立っていた。
「はじめまして、レインさん。わたし、
元気よく名乗ってお辞儀をした少女……鈴木花子の瞳が煌めきを増す。視線が合った瞬間からずっと笑顔が絶えない。
レインがこれまで出会ったことのない種類のアイドルだった。
いや、厳密にはデビュー前なのでまだアイドルではないのだろうか。
「こちらこそよろしく。……鈴木花子って、アイドルネーム?」
「アイドルネーム……? えっと、鈴木花子はわたしの名前です」
「本名なの? なら『レイン』みたいなアイドルネームを考えておくのがいいと思う」
アイドルは、ステージ上では本名とは別の名前を名乗るのが通例だ。どうしてそんな通例があるのかレインは疑問に思ったことがなかったが、レイン本人も含めみんなそうしているので、きっと何か大事な理由があるのだろう。
「でも、鈴木花子も大切な名前なんですっ。家族とお揃いなので!」
「そっか。……じゃあ、いいのかな……」
結局本人が名乗りたい名前を名乗るのが一番だろう。そう思ってレインは「鈴木花子」を受け入れ……ようとして、やっぱりまだちょっと呼びづらいことが気になった。
「長いから、とりあえず私は『ハナ』って呼ぶね」
深い意味はなかった。花のような香りがしていたのと、最初に笑顔を見た時に「花みたいだな」と思って、「花子」からそのまま取っただけ。二秒で考えた名前である。
しかしそれを受けた彼女は、より一層瞳を輝かせて、両手を挙げて飛び上がった。
「うれしいっ! ありがとうございますレインさん! 今日からわたしのアイドルネームはハナですっ!」
「あ、うん。……ん、それじゃハナ。始めよっか」
自主トレの時にもよく使う楽曲再生装置を操作しながらレインが尋ねる。
「ハナが先攻でいいかな。自由曲、何番がいい?」
リハーサルは基本的に本番と同じ形式で行うが、デビュー前の新人だとまだ持ち曲もないことが多いので、自由曲の代わりに好きな課題曲を選んでもらうのが通例らしい。
「大丈夫です! わたし、持ち曲ありますのでっ!」
小走りに駆け寄ってきて、ぎこちない手つきで装置を操作するハナ。その髪や衣服、彼女の纏う空気そのものから、さっきと同じ花の香りがふわりと漂う。
……どうして、これが花の香りだって知ってるんだっけ。
レインのそんな疑問は、ハナが再生した曲のイントロに溶けて消えた。
とても優しく、穏やかな曲。
四十曲近くある課題曲の中には存在しないようなスローテンポの曲だった。
こんな曲を選択するアイドルはいない。これほど緩やかな曲調では、歌唱はともかくダンスの技量をまったくといっていいほど活かせないからだ。
ゆったりとしたイントロに合わせるように、瞼を閉じ、右に左にゆらゆらと揺れ動くハナ。そして歌い出しに差し掛かろうかという時、彼女はゆっくりと目を開け。
「──聞いてください、わたしの歌。『
優しい声音で、そう口にした。
(……今の、私に言ったの?)
レインには、そうは聞こえなかった。
しかし、今この場にいるのはハナとレインの二人きり。
(私じゃないとしたら、一体誰に向けて喋ったの?)
ハナの視線の先を追っても、ただ灰色の空が広がっているだけだ。
疑問をよそにイントロが終わり、いよいよハナが歌い始める。
(これ……上手いとか、上手くないとか、それ以前に)
レインには、それが歌には聞こえなかった。
ひとつひとつの言葉を、慈しむように紡いでいく、そんなものが。
レインにとって歌詞というものは、特定の音程と長さと子音と母音を伴った音声の連なりでしかない。意味を伝える必要などないから、言葉とは本質が違う。
それなのにハナは、まるで歌詞が言葉であるかのように。
優しく、柔らかく、語り掛けるように歌っている。
レインではなく、もっと遠くの誰かに、包み込んで送り届けるみたいに。
「聴いてくれて、ありがとうございましたっ!」
結局、五分強の楽曲が流れ終わるまで、レインには目の前で起こっていることが何なのか理解できなかった。
続く後攻、レインの自由曲。
二日間のブランクを挟んだとはいえ、喉も身体も何ひとつ問題なく動いた。いつもの自分の、いつもの実力が出せていた。
なのにレインは、何故かずっとさっきのハナの歌が気にかかって仕方がなかった。
何かを考えながらステージを終えたのは、初めてのことだった。
「わぁぁっ……! すごい! やっぱりレインさんは、一番キラキラですごいですっ!」
レインのダンスを真正面でずっと楽しそうに見つめていたハナは、両手をパチパチと合わせて音を立てながら全力でレインを褒め称えた。
「……まだ、課題曲が残ってるよ」
「わっ、そ、そうでした……! あの、わたし、まだまだ知らない曲ばかりなので、今回は『三番』にさせてもらってもいいですか……!?」
「え、うん。私は別に何番でも」
言われるまま承諾はしたものの、仮に四番以降を知らなくて三番を選んだというのであれば、とても
「でも、三番って、なんだかもったいないですよね」
「……? 何が……?」
「もっとかわいい名前の曲にできると思うんですっ!」
「…………?? …………???」
この子は何を言っているのだろう。
砂の国と鉄の国でも言葉は通じるのに、同じ砂の国に住むはずのハナの言葉の意味がひとつも理解できない。もしかして宇宙からでもやってきたのだろうか。
「えっと……とりあえず、始めるね」
頭の中はずっとぐるぐるしていたが、曲が流れれば気にならなくなるだろう。
ハナと並んで立ち位置につき、最初の一音を待つ。
何千回と繰り返してきた、聴き慣れた「三番」の第一音が──
「……みんなぁっ、楽しんでくれてますかぁーっ!」
流れ出すと同時に、ハナが唐突に大声を上げた。
「……っ……?」
予想外の事に面食らいはしたが、それでも動きを乱されるようなことはなく、レインの身体に染み込んだダンスが『再演』されていく。
「ラストの曲ですっ! 最後までどうか、心から楽しんでいってくださいね! えっと、三、さん……『サンフラワー』っ!」
これは、一体何?
ハナは私を妨害して、惑わそうとしてる?
……多分違う。そんな意地悪をするような子じゃないはず。
じゃあ、さっきから一体何の真似?
誰も見ていないステージで、誰かに向かって叫ぶように。
楽しいとか、嬉しいとか、そんな気持ちを。重りになるはずの感情を。
全部まとめてステージ上に持ち込んで、手当たり次第に振り撒いている。
実際、振り付けと全く関係ない方に顔を向けようとするせいで、ダンスは滅茶苦茶。オーバーな動きも多いし、声も不必要に上ずっていて。
レインがこれまで見てきたアイドルたちの実力と比べたら、拙いなんてものじゃない。
(……なのに、なんで)
あまりにも違い過ぎて、意識を外せない。
どこにいても、ハナの声が、ダンスが、笑顔が、レインの中に入り込んでくる。
(ああ……そっか。いつもは、人形だから)
練習の時と何も変わらないから、集中すればすぐに視界から消えたけれど。
(この子は、ハナは……人間なんだ)
感情に溢れて、愛とか夢とか楽しいとかを、詞に乗せて叫ぼうとする人間。
いつまでもステージの上で呼吸をして、消えてくれない。
「っ、はぁ……っ、ありがとうございましたっ! ……みんな、だいすき……っ!」
息も乱れてへろへろになりながら、満開の笑顔だけは崩さないままで。
愛の言葉を高らかに告げて、「ハナのステージ」をやり遂げるまで。
ステージの上にいたのに、最後までレインは「一人」になれなかった。
「はぁ、はぁっ……れ、レイン、さんっ」
ぎゅっと握ってきた、あたたかい手。
「ありがとうございましたっ。すっごく、すっっっっごく、楽しかったです!」
先程よりも強く輝いて見えた瞳が、言葉以上にハナの昂揚をストレートに伝えてくる。
「楽し、かった……?」
「はいっ! 隣に立ってたらまるでわたしまで一緒に、レインさんみたいなキラキラのアイドルになれたみたいで……っ。えへへ、まだまだ、全然なんですけどっ!」
「うん……基礎体力は、もっとつけて……」
「がんばりますっ!」
そんなに疲れてるのは全部、重りを抱えてステージに立ったせいだよ……と、レインは口にすることができなかった。
ステージの下で煌めく、五本の
「あ……っ、そうだ、判定っ。…………え? ……え、ええ〜っ!?」
それらが全て、
新人側の薄紅色に光り輝いているのを、見つけてしまったから。
ライブが、戦争になって。
ステージが、戦場になって。
アイドルが、兵器になって。
誰もアイドルを愛することのなくなったこの世界で。
とうの昔に姿を消したはずの、笑顔で愛と夢と希望を歌うアイドルが。
──この日、人知れず『最強』の無敗記録に終止符を打った。
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試し読みは以上です。
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※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。
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ステラ・ステップ【増量試し読み】 林星悟/MF文庫J編集部 @mfbunkoj
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