一七
代助は夜の十時すぎになって、こっそり家を出た。
「今からどちらへ」と驚いた門野に、
「なにちょっと」と
平岡の住んでいる町は、なお静かであった。たいていな
代助は
代助は三千代の門前を二、三度行ったり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ちどまって、耳をすました。五分ないし十分はじっとしていた。しかし
代助が軒燈の下へ来て立ちどまるたびに、やもりが軒燈のガラスにぴたりと身体をはりつけていた。黒い影は
代助はやもりに気がつくごとにいやな心持ちがした。その動かない姿が妙に気にかかった。彼の精神は鋭さのあまりから来る迷信に陥った。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつつあると想像した。三千代は今死につつあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一ぺん自分にあいたがって、死にきれずに息をぬすんで生きていると想像した。代助は
道ばたに石段があった。代助はなかば夢中でそこへ腰をかけたなり、額を手でおさえて、固くなった。しばらくして、ふさいだ目をあけてみると、大きな黒い門があった。門の上から太い松が
彼は立ち上がった。
その晩は火のように、熱くて赤い
ところへ門野が来て、お客さまですと知らせたなり、入口に立って、驚いたように代助の顔を見た。代助は返事をするのも退儀であった。客は誰だと聞き返しもせずに手で支えたままの顔を、半分ばかり門野の方へ向きかえた。その時客の足音が縁側にして、案内も待たずに兄の誠吾がはいって来た。
「やあ、こっちへ」と席を勧めたのが代助にはようようであった。誠吾は席につくやいなや、
「暑いな」と言った。
「お宅でも別にお変わりもありませんか」と代助は、さも疲れ果てた人のごとくに尋ねた。
二人はしばらく例のとおりの世間話をした。代助の調子態度はもとより尋常ではなかった。けれども兄はけっしてどうしたとも聞かなかった。話の切れ目へ来た時、
「今日は実は」と言いながら、
「実はお前に少し聞きたいことがあって来たんだがね」と封筒の裏を代助のほうへ向けて、
「この男を知ってるかい」と聞いた。そこには平岡の宿所姓名が自筆で書いてあった。
「知ってます」と代助はほとんど器械的に答えた。
「元、お前の同級生だっていうが、ほんとうか」
「そうです」
「この男の細君も知ってるのかい」
「知っています」
兄はまた扇を取り上げて、二、三度ぱちぱちと鳴らした。それから、少し前へ乗り出すように、声を一段落とした。
「この男の細君と、お前がなにか関係があるのかい」
代助ははじめから万事を隠す気はなかった。けれどもこう単簡に聞かれたときに、どうしてこの複雑な経過を、一言で答えうるだろうと思うと、返事は容易に口へは出なかった。兄は封筒の中から、手紙を取り出した。それを四、五寸ばかりまき返して、
「実は平岡という人が、こういう手紙をお父さんの所へあてて寄こしたんだがね。──読んでみるか」と言って、代助に渡した。代助は黙って手紙を受け取って、読みはじめた。兄はじっと代助の額のところを見つめていた。
手紙はこまかい字で書いてあった。一行二行と読むうちに、読み終わった分が、代助の手先から長くたれた。それが二尺あまりになっても、まだ尽きる
「そこに書いてあることはほんとうなのかい」と兄が低い声で聞いた。代助はただ、
「ほんとうです」と答えた。兄はショックを受けた人のようにちょっと扇の音をとどめた。しばらくは二人とも口を聞きえなかった。ややあって兄が、
「まあ、どういう
「どんな女だって、もらおうと思えば、いくらでももらえるじゃないか」と兄がまた言った。代助はそれでもなお黙っていた。三度目に兄がこう言った。──
「お前だってまんざら道楽をしたことのない人間でもあるまい。こんな不始末をしでかすくらいなら、今までせっかく金を使った
代助はいまさら兄に向かって、自分の立場を説明する勇気もなかった。彼はついこのあいだまでまったく兄と同意見であったのである。
「姉さんは泣いているぜ」と兄が言った。
「そうですか」と代助は夢のように答えた。
「お父さんはおこっている」
代助は答えをしなかった。ただ遠いところを見る目をして、兄をながめていた。
「お前は平生からよくわからない男だった。それでも、いつかわかる時機が来るだろうと思って
兄の言葉は、代助の耳をかすめて外へこぼれた。彼はただ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の
「代助」と兄が呼んだ。「
「よくわかりました」と代助は簡明に答えた。
「
「
兄はテーブルの上の手紙を取って自分で巻きはじめた。静かな部屋の中に、半切れの音がかさかさ鳴った。兄はそれを元のごとくに封筒に納めて懐中した。
「じゃ帰るよ」と今度は普通の調子で言った。代助は丁寧に挨拶をした。兄は、
「おれも、もうあわんから」と言い捨てて玄関に出た。
兄の去ったあと、代助はしばらく元のままじっと動かずにいた。門野が茶器を取り片づけに来た時、急に立ち上がって、
「門野さん。僕はちょっと職業をさがして来る」と言うやいなや、
代助は暑い中を
「焦げる焦げる」と歩きながら口の内で言った。
飯田橋へ来て電車に乗った。電車はまっすぐに走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」とはたの人に聞こえるように言った。彼の頭は電車の速力をもって回転しだした。回転するにしたがって火のようにほてってきた。これで半日乗り続けたら焼きつくすことができるだろうと思った。
たちまち赤い
(明治四二・六・二七─一〇・一四)
それから 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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