一六
彼は第一の手段として、なにか職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業という文字があるだけで、職業そのものは体をそなえて現われて来なかった。彼は
すべての職業を見渡したのち、彼の目は漂泊者の上に来て、そこでとまった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う
この落魄のうちに、彼は三千代を引っ張り回さなければならなかった。三千代は精神的にいって、すでに平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで彼女に対して責任を負うつもりであった。けれども相当の地位をもっている人の不実と、
彼はまた三千代をたずねた。三千代は前日のごとく静かに落ちついていた。
「また都合して
代助はこのあいだから三千代を訪問するごとに、不愉快ながら平岡のいない時を
平岡との関係については、むろんくわしく尋ねる機会もなかった。たまに
「すこしまた話したいことがあるから来てください」と前よりはややまじめに言って代助は三千代と別れた。
中二日置いて三千代が来るまで、代助の頭はなんらの新らしい
青山の
「先生、将棋はどうです」などと持ちかけた。夕方には庭に水を打った。二人ともはだしになって、
代助は夜にはいって頭の上の星ばかりながめていた。朝は書斎にはいった。二、三日は朝から
「どうも非常な暑さですな」と言って、はいって来た。代助はこういううわのそらの生活を二日ほど送った。三日目の日ざかりに、彼は書斎の中から、ぎらぎらする空の色を見つめて、上からはきおろす炎の息をかいだ時に、非常に恐ろしくなった。それは彼の精神がこの猛烈なる気候から永久の変化を受けつつあると考えたためであった。
三千代はこの暑さを冒して前日の約を
「
「でも買い物をしたついででないとあがりにくいから」とまじめな答えをして、代助の後について奥まではいって来た。代助はすぐうちわを出した。照りつけられたせいで三千代の頰がこころもちよく輝いた。いつもの疲れた色はどこにも見えなかった。目の中にも若いつやが宿っていた。代助はいきいきしたこの美しさに、自己の感覚をおぼらして、しばらくは何事も忘れてしまった。が、やがて、この美しさを
代助はいくたびかおのれを語ることを
代助はようやくにして思い切った。
「その後あなたと平岡との関係は別に変わりはありませんか」
三千代はこの問いを受けた時でも、依然として幸福であった。
「あったって、かまわないわ」
「あなたはそれほど僕を信用しているんですか」
「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」
代助はまぶしそうに、熱い鏡のような遠い空をながめた。
「僕にはそれほど信用される資格がなさそうだ」と苦笑しながら答えたが、頭の中は
「まあ」とわざとらしく驚いて見せた。代助はまじめになった。
「僕は白状するが、実をいうと、平岡君より頼りにならない男なんですよ。買いかぶっていられると困るから、みんな話してしまうが」と前置きをして、それから自分と父との
「僕の身分はこれから先どうなるかわからない。少なくとも当分は一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」と言いよどんだ。
「だから、どうなさるんです」
「だから、僕の思うとおり、あなたに対して責任がつくせないだろうと心配しているんです」
「責任って、どんな責任なの。もっとはっきりおっしゃらなくっちゃわからないわ」
代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、ただ貧苦が愛人の満足に価しないということだけを知っていた。だから富が三千代に対する責任の一つと考えたのみで、それよりほかに明らかな観念はまるで持っていなかった。
「徳義上の責任じゃない、物質上の責任です」
「そんなものはほしくないわ」
「ほしくないといったって、ぜひ必要になるんです。これから先僕があなたとどんな新らしい関係に移って行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「解決者でもなんでも、いまさらそんなことを気にしたってしかたがないわ」
「口ではそうも言えるが、いざという場合になると困るのは目に見えています」
三千代は少し色を変えた。
「今あなたのお父様のお話をうかがってみると、こうなるのははじめからわかってるじゃありませんか。あなただって、そのくらいなことはとうから気がついていらっしゃるはずだと思いますわ」
代助は返事ができなかった。頭をおさえて、
「少し脳がどうかしているんだ」とひとりごとのように言った。三千代は少し涙ぐんだ。
「もし、それが気になるなら、私のほうはどうでもようござんすから、お父様と仲直りをなすって、今までどおりおつきあいになったらいいじゃありませんか」
代助は急に三千代の
「そんなことをする気ならはじめから心配をしやしない。ただ気の毒だからあなたにあやまるんです」
「あやまるなんて」と三千代は声をふるわしながらさえぎった。
「私がもとでそうなったのに、あなたにあやまらしちゃすまないじゃありませんか」
三千代は声を立てて泣いた。代助はなだめるように、
「じゃがまんしますか」と聞いた。
「がまんはしません。当たり前ですもの」
「これから先まだ変化がありますよ」
「あることは承知しています。どんな変化があったってかまやしません。私はこのあいだから、──このあいだから私は、もしものことがあれば、死ぬつもりで覚悟をきめているんですもの」
代助は
「あなたにこれから先どうしたらいいという希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんかないわ。なんでもあなたの言うとおりになるわ」
「漂泊──」
「漂泊でも好いわ。死ねとおっしゃれば死ぬわ」
代助はまたぞっとした。
「このままでは」
「このままでもかまわないわ」
「平岡君はまったく気がついていないようですか」
「気がついているかもしれません。けれども私もう度胸をすえているから大丈夫なのよ。だっていつ殺されたって好いんですもの」
「そう死ぬの殺されるのと安っぽく言うものじゃない」
「だって、放っておいたって、ながく生きられる身体じゃないじゃありませんか」
代助はかたくなって、すくむがごとく三千代を見つめた。三千代はヒステリーの発作に襲われたように思い切って泣いた。
ひとしきりたつと、発作はしだいに収まった。あとはいつものとおり静かな、しとやかな、奥行きのある、美しい女になった。
「僕が自分で平岡君にあって解決をつけてもようござんすか」と聞いた。
「そんなことができて」と三千代は驚いたようであった。代助は、
「できるつもりです」としっかり答えた。
「じゃ、どうでも」と三千代が言った。
「そうしましょう。二人が平岡君を欺いてことをするのはよくないようだ。むろん事実をよく納得できるように話すだけです。そうして、僕の悪いところはちゃんとあやまる覚悟です。その結果は僕の思うようにいかないかもしれない。けれどもどう間違ったって、そんなむやみなことは起こらないようにするつもりです。こう
「よくわかりましたわ。どうせ間違えば死ぬつもりなんですから」
「死ぬなんて。──よし死ぬにしたって、これから先どのくらい間があるか──またそんな危険があるくらいなら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
三千代はまた泣きだした。
「じゃよくあやまります」
代助は日の傾くのを待って三千代を帰した。しかしこのまえの時のように送ってはいかなかった。一時間ほど書斎の中で
「まだ早いじゃありませんか。日があたっていますぜ」と言いながら、
狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷりぬらすにはだいぶん骨がおれた。代助は腕が痛いと言って、いいかげんにして足をふいて上がった。煙草を吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生の心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下からからかった。
晩には門野を連れて、
代助はその晩わざと雨戸を引かずに寝た。無用心という恐れが彼の頭にはまったくなかった。彼はランプを消して、
翌日の朝彼は思いきって平岡に手紙を出した。ただ、内々で少し話したいことがあるが、君の都合を知らせてもらいたい。こっちはいつでもさしつかえない。と書いただけだが、彼はわざとそれを封書にした。状袋ののりを湿めして、赤い切手をとんと張った時には、いよいよクライシスに証券を与えたような気がした。彼は門野に言いつけて、この運命の使いを
翌日は平岡の返事をこころまちに待ち暮らした。そのあくる日も当てにして終日
五日目に暑さを冒して、電車へ乗って、平岡の社まで出かけて行ってみて、平岡は二、三日出社しないということがわかった。代助は表へ出て薄汚い編集局の窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一応電話で聞き合わすべきはずだったと思った。せんだっての手紙は、はたして平岡の手に渡ったかどうか、それさえ疑わしくなった。代助はわざと新聞社あてでそれを出したからである。帰りに神田へ回って、買いつけの古本屋に、売り払いたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ。
その晩は水を打つ勇気もうせて、ぼんやり、白い
「先生今日はお疲れですか」と門野は
「君、平岡の所へ行ってね、せんだっての手紙は御覧になりましたか。御覧になったら、御返事を願いますって、返事を聞いて来てくれたまえ」と頼んだ。なお要領を得ぬ恐れがありそうなので、せんだってこれこれの手紙を新聞社のほうへ出しておいたのだということまで説明して聞かした。
門野を出したあとで、代助は縁側に出て、
「行ってまいりました」と挨拶をした。「平岡さんはおいででした。手紙は御覧になったそうです。
「そうかい、御苦労さま」と代助は答えた。
「実はもっと早く出るんだったが、うちに病人ができたんで遅くなったから、よろしく言ってくれろと言われました」
「病人?」と代助は思わず問い返した。門野は暗い中で、
「ええ、なんでも奥さんがお悪いようです」と答えた。門野の着ている白地の
「よほど悪いのか」と強く聞いた。
「どうですか、よくわかりませんが。なんでもそう軽そうでもないようでした。しかし平岡さんが明日おいでになられるくらいなんだから、たいしたことじゃないでしょう」
代助は少し安心した。
「なんだい。病気は」
「つい聞き落としましたがな」
二人の問答はそれで絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へはいった。静かに聞いていると、しばらくしてランプの
代助は夜の中になおじっとしていた。じっとしていながら、胸がわくわくした。握っている肱掛に、手からあぶらが出た。代助はまた手を鳴らして門野を呼び出した。門野のぼんやりした白地がまた廊下のはずれに現われた。
「まだ
寝る前に門野が
「お宅からのようです、
代助ははじめてランプを書斎に入れさして、その下で、状袋の封を切った。手紙は梅子から自分にあてたかなり長いものであった。──
「このあいだから奥さんのことであなたもさぞ御迷惑なすったろう。こっちでもお父様はじめ兄さんや、私はずいぶん心配をしました。けれどもその
まだ後がだいぶあったが、女のことだから、たいていは重複にすぎなかった。代助は中にはいっていた小切手を引き抜いて、手紙だけをもう一ぺんよく読み直したうえ、
代助はランプの前にある封筒を、なおつくづくながめた。古い寿命がまた一か月延びた。おそかれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志はありがたいにもせよ、かえって毒になるばかりであった。ただ平岡とことを決する前は、パンのために働くことをうけがわぬ心を持っていたから、嫂の贈り物が、この際糧食としてことに彼には
その晩も
家のことはさのみ気にかからなかった。職業もなるがままになれと度胸をすえた。ただ三千代の病気と、その原因とその結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、さまざまに想像してみた。それもひとかたならず彼の脳髄を刺激した。平岡は
門野が寝ぼけ眼をこすりながら、雨戸をあけに出た時、代助ははっとして、このうたたねからさめた。世界の半面はもう赤い日に洗われていた。
「たいへんお早うがすな」と門野が驚いて言った。代助はすぐ風呂場へ行って水を浴びた。朝飯は食わずにただ紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、ほとんどなにが書いてあるかわからなかった。読むにしたがって、読んだことが群がって消えて行った。ただ時計の針ばかりが気になった。平岡が来るまでにはまだ二時間あまりあった。代助はそのあいだをどうして暮らそうかと思った。じっとしてはいられなかった。けれどもなにをしても手につかなかった。せめてこの二時間をぐっと寝込んで、目をあけてみると、自分の前に平岡が来ているようにしたかった。
しまいになにか用事を考え出そうとした。ふと机の上に乗せてあった梅子の封筒が目についた。代助はこれだと思って、しいて机の前へすわって、嫂へ謝状を書いた。なるべく丁寧に書くつもりであったが、状袋へ入れて
「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たしておいてくれ」と門野に言い置いて表へ出た。強い日が正面から射すくめるような勢いで、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず目と
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んでおいたが、少し都合があって見合わせることにしたから、そのつもりで」と断わった。帰りには、暑さがあまりひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから
「いや、お使いで」と平岡が言った。やはり洋服を着て、蒸されるように扇を使った。
「どうも暑いところを」と代助もおのずから表立った言葉づかいをしなければならなかった。
二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いてみたかった。しかしそれがどういうものか聞きにくかった。そのうち通例の挨拶もすんでしまった。話は呼び寄せたほうから、切り出すのが順当であった。
「三千代さんは病気だってね」
「うん。それで社のほうも二、三日休ませられたようなわけで。つい君のところへ返事を出すのも忘れてしまった」
「そりゃどうでもかまわないが、三千代さんはそれほど悪いのかい」
平岡は断然たる答えを一言葉でなしえなかった。そう急にどうのこうのという心配もないようだが、けっして軽いほうではないという意味を手短に述べた。
このまえ暑い盛りに、
「君の用事と三千代の言うこととなにか関係があるのかい」と平岡は不思議そうに代助を見た。
平岡の話はさっきから深い感動を代助に与えていたが、突然この思わざる問いに来た時、代助はぐっとつまった。平岡の問いは実に意表に、無邪気に、代助の胸にこたえた。彼はいつになく少し赤面してうつむいた。しかし再び顔を上げた時は、平生のとおり静かな悪びれない態度を回復していた。
「三千代さんの君にあやまることと、僕の君に話したいこととは、おそらく大いなる関係があるだろう。あるいは
「なんだい。改まって」と平岡ははじめて眉を正した。
「いや前置きをすると言い訳らしくなっていけないから、僕もなるべくなら率直に言ってしまいたいのだが、少し重大な事件だし、それに習慣に反したきらいもあるので、もし中途で君に激されてしまうと、はなはだ困るから、ぜひしまいまで君に聞いてもらいたいと思って」
「まあなんだい。その話というのは」
好奇心とともに平岡の顔がますますまじめになった。
「そのかわり、みんな話したあとで、僕はどんなことを君から言われても、やはりおとなしくしまいまで聞くつもりだ」
平岡はなんにも言わなかった。ただ
代助は一段声を潜めた。そうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係がどんな変化を受けて、
「ざっとこういう経過だ」と説明の結末をつけた時、平岡はただうなるように深いため息をもって代助に答えた。代助は非常につらかった。
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りしたようにあたる。けしからん友だちだと思うだろう。そう思われても一言もない。すまないことになった」
「すると君は自分のしたことを悪いと思ってるんだね」
「むろん」
「悪いと思いながら
「そうだ。だから、このことに対して、君の僕らに与えようとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはただ事実をそのままに話しただけで、君の処分の材料にする考えだ」
平岡は答えなかった。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて言った。
「僕の
今度は代助のほうが答えなかった。
「法律や社会の制裁は僕にもなんにもならない」と平岡はまた言った。
「すると君は当事者だけのうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「そうさ」
「三千代さんの心機を一転して、君を元より倍以上に愛させるようにして、そのうえ僕を
「それが君の手ぎわでできるかい」
「できない」と代助は言い切った。
「すると君は悪いと思ってることを
「矛盾かもしれない。しかしそれは世間の
「じゃ」と平岡はやや声を高めた。「じゃ、僕ら二人は世間の掟にかなうような夫婦関係は結べないという意見だね」
代助は同情のある気の毒そうな目をして平岡を見た。平岡のけわしい
「平岡君。世間から言えば、これは男子の面目にかかわる大事件だ。だから君が自己の権利を維持するために、──故意に維持しようと思わないでも、暗にその心が働いて、自然と激して来るのはやむを得ないが、──けれども、こんな関係の起こらない学校時代の君になって、もう一ぺん僕の言うことをよく聞いてくれないか」
平岡はなんとも言わなかった。代助もちょっと控えていた。煙草を一吹き吹いたあとで、思い切って、
「君は三千代さんを愛していなかった」と静かに言った。
「そりゃ」
「そりゃよけいなことだけれども、僕は言わなければならない。今度の事件についてすべての解決者はそれだろうと思う」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛している」
「ひとの
「しかたがない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有することは誰にもできない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令するわけにはいかない。夫の権利はそこまでは届きゃしない。だから細君の愛をほかへ移さないようにするのが、かえって夫の義務だろう」
「よし僕が君の期待するとおり三千代を愛していなかったことが事実としても」と平岡はしいておのれをおさえるように言った。
「君は三年前のことを覚えているだろう」と平岡はまた句をかえた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「そうだ。その時の記憶が君の中に残っているか」
代助の頭は急に三年前に飛び返った。当時の記憶が、
「三千代を僕に周旋しようと言いだしたものは君だ」
「もらいたいという意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だって忘れやしない。今に至るまで君の厚意を感謝している」
平岡はこう言って、しばらく
「二人で、夜上野を抜けて
代助は黙然としていた。
「僕はその時ほど
「僕もあの時は愉快だった」と代助は夢のように言った。それを平岡は打ち切る勢いでさえぎった。──
「君はなんだって、あの時僕のために泣いてくれたのだ。なんだって、僕のために三千代を周旋しようとちかったのだ。
平岡は声をふるわした。代助の
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」
平岡は
「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友だちの本分だと思った。それが悪かった。今くらい頭が熟していれば、まだ考えようがあったのだが、惜しいことに若かったものだから、あまりに自然を
代助は涙を膝の上にこぼした。平岡の
「どうも運命だからしかたがない」
平岡はうめくような声を出した。二人はようやく顔を見合わせた。
「善後策について君の考えがあるなら聞こう」
「僕は君の前にあやまっている人間だ。こっちから先へそんなことを言いだす権利はない。君の考えから聞くのが順だ」と代助が言った。
「僕にはなんにもない」と平岡は頭をおさえていた。
「では言う。三千代さんをくれないか」と思い切った調子に出た。
平岡は頭から手を離して、
「うんやろう」と言った。そうして代助が返事をしえないうちに、また繰り返した。
「やる。やるが、今はやれない。僕は君の推察どおりそれほど三千代を愛していなかったかもしれない。けれどもにくんじゃいなかった。三千代は今病気だ。しかもあまり軽いほうじゃない。寝ている病人を君にやるのはいやだ。病気がなおるまで君にやれないとすれば、それまでは僕が夫だから、夫として看護する責任がある」
「僕は君にあやまった。三千代さんも君にあやまっている。君から言えば二人とも、
「それはわかっている。本人の病気につけ込んで僕が意趣晴らしに、虐待するとでも思ってるんだろうが、僕だって、まさか」
代助は平岡の言葉を信じた。そうして腹の中で平岡に感謝した。平岡は次にこう言った。
「僕は
「しかたがない」と代助は首をたれた。
「三千代の病気は今言うとおり軽いほうじゃない。この先どんな変化がないとも限らない。君も心配だろう。しかし絶交した以上はやむを得ない。僕の在不在にかかわらず、
「承知した」と代助はよろめくように言った。その
「君、もう五分ばかりすわってくれ」と代助が頼んだ。平岡は席についたまま無言でいた。
「三千代さんの病気は、急に危険なおそれでもありそうなのかい」
「さあ」
「それだけ教えてくれないか」
「まあ、そう心配しないでもいいだろう」
平岡は暗い調子で、地に息を吐くように答えた。代助は堪えられない思いがした。
「もしだね。もし万一のことがありそうだったら、そのまえにたった一ぺんだけでいいから、あわしてくれないか。ほかにはけっしてなにも頼まない。ただそれだけだ。それだけをどうか承知してくれたまえ」
平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかった。代助は苦痛のやり所がなくて、両手の
「それはまあその時の場合にしよう」と平岡が重そうに答えた。
「じゃ、時々病人の様子を聞きにやってもいいかね」
「それは困るよ。君と僕とはなんにも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」
代助は電流に感じたごとく椅子の上で飛び上がった。
「あっ。わかった。三千代さんの
代助はテーブルの
「ひどい、ひどい」と言った。
平岡は代助の目のうちに狂える恐ろしい光を見いだした。肩を揺られながら、立ち上がった。
「そんなことがあるものか」と言って代助の手をおさえた。二人は魔につかれたような顔をして互いを見た。
「落ちつかなくっちゃいけない」と平岡が言った。
「落ちついている」と代助が答えた。けれどもその言葉はあえぐ息の間を苦しそうにもれて出た。
しばらくして発作の反動が来た。代助はおのれを支うる力を用い尽くした人のように、また椅子に腰をおろした。そうして両手で顔をおさえた。
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