一五
三千代にあって、言うべきことを言ってしまった代助は、あわない前に比べると、よほど心の平和に接近しやすくなった。しかしこれは彼の予期するとおりにいったまでで、別に意外の結果というほどのものではなかった。
会見の翌日彼はながらく手にもっていた
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚いた。彼は
彼は通俗なある外国雑誌の購読者であった。その中のある号で、
代助はいま道徳界において、これらの
彼は
奥から梅子が出て来るまでには、だいぶ暇がかかった。代助を見て、また気の毒そうに、今日は御都合が悪いそうですよと言った。代助はしかたなしに、いつ来たらよかろうかと尋ねた。もとより例のような元気はなく
「今度こそよく考えていらっしゃいよ」と注意した。代助は返事もせずに門を出た。
帰る途中も不愉快でたまらなかった。このあいだ三千代にあって以後、味わうことを知った心の平和を、父や嫂の態度でいくぶんか破壊されたという心持ちが
代助はみちすがら、なにを苦しんで、父との会見をさまでに急いだものかと思い出した。元来が父の要求に対する自分の返事にすぎないのだから、便宜はむしろ、これを待ち受ける父のほうにあるべきはずであった。その父がわざとらしく自分を避けるようにして、面会を延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなるという不結果を生ずるほかになにも起こりようがない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もうすでに片づけてしまったつもりでいた。彼は父から時日を指定して呼び出されるまでは、宅のほうの所置をそのままにして放っておくことにきめた。
彼は家に帰った。父に対してはただ薄暗い不愉快の影が頭に残っていた。けれどもこの影は近き未来において必ずその暗さを増してくるべき性質のものであった。その他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分がこれから流れて行くべき方向を示していた。一つは平岡と自分をぜひともいっしょにまき込むべきすさまじいものであった。代助はこのあいだ三千代にあったなりで、
最後に彼の周囲を人間のあらんかぎり包む社会に対しては、彼はなんの考えもまとめなかった。事実として、社会は制裁の権を有していた。けれども動機行為の権はまったく自己の天分からわいて出るよりほかに道はないと信じた。かれはこの点において、社会と自分との間にはまったく交渉のないものと認めて進行する気であった。
代助は彼の小さな世界の中心に立って、彼の世界をかようにみて、
「よかろう」と言って、また家を出た。そうして一、二丁歩いて、乗りつけの帳場まで来て、きれいで早そうなやつをえらんで飛び乗った。どこへ行く当てもないのをいいかげんな町を名指して二時間ほどぐるぐる乗り回して帰った。
翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立って、左右前後を一応くまなく見渡したあと、
「よろしい」と言って外へ出て、用もないところを今度は足にまかせてぶらぶら歩いて帰った。
三日目にも同じことを繰り返した。が、今度は表へ出るやいなや、すぐ江戸川を渡って、三千代のところへ来た。三千代は二人の間に何事も起こらなかったかのように、
「なぜそれからいらっしゃらなかったの」と聞いた。代助はむしろその落ちつき払った態度に驚かされた。三千代はわざと平岡の机の前にすえてあった
「なんでそんなに、そわそわしていらっしゃるの」とむりにその上にすわらした。
一時間ばかり話しているうちに、代助の頭はしだいに穏やかになった。車へ乗って、当てもなく乗り回すより、三十分でも好いから、早くここへ遊びに来ればよかったと思い出した。帰るとき代助は、
「また来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」と三千代を慰めるように言った。三千代はただ微笑しただけであった。
その夕方はじめて父からのしらせに接した。その時代助は
「お役所風だね」と言いながら、わざとはがきを門野に見せた。門野は、
「青山のお
「どうもなんですな。昔の人はやっぱり
食事を終わるやいなや、
「断わりますか」と聞いた。代助はこのあいだから珍らしくある会を一、二回欠席した。来客もあわないですむと思う分は両度ほど謝絶した。
代助は思い切って寺尾にあった。寺尾はいつものように、血眼になって、なにかさがしていた。代助はその様子を見て、例のごとく皮肉で持ち切る気にもなれなかった。翻訳だろうが焼き直しだろうが、生きているうちはどこまでもやる覚悟だから、寺尾のほうがまだ自分より社会の
寺尾は、このあいだの翻訳をようやくのことで月末までに片づけたら、本屋のほうで、都合が悪いから秋まで出版を見合わせると言いだしたので、すぐ労力を金に換算することができずに、困った結果やって来たのであった。では
代助は気の毒になって、当座の経済にいくぶんの補助を与えた。寺尾は感謝の意を表して帰った。帰る前に、実は本屋からも少しは前借りはしたんだが、それはとくの昔に使ってしまったんだと自白した。寺尾の帰ったあとで、代助はああいうのも一種の人格だと思った。ただこう楽にくらしていたってけっしてなれるわけのものじゃない。今のいわゆる文壇が、ああいう人格を必要と認めて、自然に産み出したほど、今の文壇は悲しむべき状況のもとに
代助はその晩自分の前途をひどく気にかけた。もし父から物質的に供給の道をとざされた時、彼ははたして第二の寺尾になりうる決心があるだろうかを疑ぐった。もし筆を執って寺尾のまねさえできなかったなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を執らなかったら、彼はなにをする能力があるだろう。
彼は目をあけて時々
定刻になって、代助は出かけた。
弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになった。頭も楽にぬれた世の中をながめることができた。けれども
玄関を上って、奥へ通る前に、例のごとく一応嫂にあった。嫂は、
「うっとしいお天気じゃありませんか」と
「お父さんが待っておいででしょうから、ちょっと行って話をして来ましょう」と立ちかけた。嫂は不安らしい顔をして、
「
父は
「降るのに御苦労だった」といたわってくれた。
その時はじめて気がついて見ると、父の頰がいつの間にかぐっとこけていた。元来が肉の多いほうだったので、この変化が代助にはよけい目立って見えた。代助は覚えず、
「どうかなさいましたか」と聞いた。
父は親らしい色をちょっと顔に動かしただけで、別に代助の心配を物にする様子もなかったが、しばらく話しているうちに、
「おれもだいぶ年を取ってな」と言いだした。その調子がいつもの父とはまったく違っていたので、代助はさいぜん嫂の言ったことをいよいよ重く見なければならなくなった。
父は年のせいで健康の衰えたのを理由として、近々実業界を退く意志のあることを代助にもらした。けれども今は日露戦争後の商工業膨張の反動を受けて、自分の経営にかかる事業が不景気の極端に達している最中だから、この難関をこぎ抜けたうえでなくては、無責任の非難を免かれることができないので、当分やむをえずに
父は普通の実業なるものの困難と危険と繁劇と、それらから生ずる当事者の心の苦痛および緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見
「そういう親類が一軒ぐらいあるのは、たいへんな便利で、かつこの際はなはだ必要じゃないか」と言った。代助は、父としてはむしろ露骨すぎるこの政略的結婚の申しいでに対して、いまさら驚くほど、はじめから父を買いかぶってはいなかった。最後の会見に、父が従来の仮面を脱いでかかったのを、むしろ快く感じた。彼自身も、こんな意味の結婚をあえてしうる程度の人間だとみずから見積っていた。
そのうえ父に対していつにない同情があった。その顔、その声、その代助を動かそうとする努力、すべてに老後のあわれを認めることができた。代助はこれをも、父の策略とは受け取りえなかった。私はどうでもようございますから、あなたの御都合のいいようにおきめなさいと言いたかった。
けれども三千代と最後の会見を遂げたいまさら、父の意にかなうような当座の孝行は代助にはできかねた。彼は元来がどっちつかずの男であった。誰の命令も
彼は三千代の前に告白したおのれを、父の前で白紙にしようとはおもいいたらなかった。同時に父に対しては、
彼は平生の代助のごとく、なるべく口数をきかずに控えていた。父から見ればいつもの代助と異なるところはなかった。代助のほうではかえって父の変わっているのに驚いた。実はこのあいだからいくたびも会見を謝絶されたのも、自分が父の意志にそむく恐れがあるから父のほうでわざと、延ばしたものと
「あなたのおっしゃるところはいちいち御もっともだと思いますが、私には結婚を承諾するほどの勇気がありませんから、断わるよりほかにしかたがなかろうと思います」ととうとう言ってしまった。その時父はただ代助の顔を見ていた。ややあって、
「勇気がいるのかい」と手に持っていた
「当人が気に入らないのかい」と父がまた聞いた。代助はなお返事をしなかった。彼は今まで父に対しておのれの四半分も打ち明けてはいなかった。そのおかげで父と平和の関係をようやく持続してきた。けれども三千代のことだけははじめからけっして隠す気はなかった。自分の頭の上に当然落ちかかるべき結果を、策で避ける
「じゃなんでもお前のかってにするさ」と言って苦い顔をした。
代助も不愉快であった。しかししかたがないから、礼をして父の前をさがろうとした。ときに父は呼びとめて、
「おれのほうでも、もうお前の世話はせんから」と言った。座敷へ帰った時、梅子は待ち構えたように、
「どうなすって」と聞いた。代助は答えようもなかった。
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