一四

 自然のになろうか、また意志の人になろうかと代助は迷った。彼は彼の主義として、弾力性のないこわばった方針のもとに、寒暑にさえすぐ反応を呈する自己を、器械のように束縛する愚をんだ。同時に彼は、彼の生活が、一大断案を受くべき危機に達していることをせつに自覚した。

 彼は結婚問題について、まあよく考えてみろと言われて帰ったぎり、いまだに、それを本気に考えるひまを作らなかった。帰った時、まあ今日もこうをのがれてありがたかったと感謝したぎり、放り出してしまった。父からはまだなんとも催促されないが、この二、三日はまた青山へ呼び出されそうな気がしてならなかった。代助はもとより呼び出されるまでなにも考えずにいる気であった。呼び出されたら、父の顔色と相談のうえ、またなんとか即席に返事をこしらえる心組みであった。代助はあながち父を馬鹿にするりようけんではなかった。あらゆる返事は、こういう具合に、相手と自分を商量して、臨機にわいてくるのがほんとうだと思っていた。

 もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで押しつめられたような気持ちがなかったら、代助は父に対してむろんそういう所置を取ったろう。けれども、代助は相手の顔色いかんにかかわらず、手に持ったさいを投げなければならなかった。上になった目が、平岡に都合が悪かろうと、父の気に入らなかろうと、賽を投げる以上は、天の法則どおりになるよりほかにしかたはなかった。賽を手に持つ以上は、また賽を投げられべく作られたる以上は、賽の目をきめるものは自分以外にあろうはずはなかった。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄もあによめも平岡も、決断の地平線上には出てこなかった。

 彼はただ彼の運命に対してのみきようであった。この四、五日はてのひらに載せた賽をながめ暮らした。今日もまだ握っていた。早く運命がそとから来て、その手をかろくはたいてくれればいいと思った。が、一方では、まだ握っていられるという意識がたいそううれしかった。

 門野は時々書斎へ来た。来るたびに代助はデスクの前にじっとしていた。

 「ちっと散歩にでもおいでになったらいかがです。そう御勉強じゃ身体に悪いでしょう」と言ったことが一、二度あった。なるほど顔色がよくなかった。夏向きになったので、門野が湯を毎日わかしてくれた。代助はに行くたびに、長い間鏡を見た。ひげの濃い男なので、少し延びると、自分にはたいそう見苦しく見えた。さわって、ざらざらするとなお不愉快だった。

 飯は依然として、普通のごとく食った。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈託とで、はいせつ機能に変化を起こした。しかし代助はそれをなんとも思わなかった。生理状態はほとんど苦にするいとまのないくらい、一つことをぐるぐる回って考えた。それが習慣になると、終局なく、ぐるぐる回っているほうが、らちの外へ飛び出す努力よりもかえって楽になった。

 代助は最後に不決断の自己けんに陥った。やむをえないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断わろうかとまで考えて、覚えず驚いた。しかし三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾して見ようかという気は、ぐるぐる回転しているうちに一度も出てこなかった。

 縁談を断わるほうは単独にも何べんとなく決定ができた。ただ断わったあと、その反動として、自分をまともに三千代のうえに浴びせかけねばやまぬ必然の勢力が来るにちがいないと考えると、そこに至って、また恐ろしくなった。

 代助は父からの催促を心待ちに待っていた。しかし父からはなんのたよりもなかった。三千代にもう一ぺんあおうかと思った。けれども、それほどの勇気も出なかった。

 いちばんしまいに、結婚は道徳の形式において、自分と三千代をしやだんするが、道徳の内容において、なんらの影響を二人のうえに及ぼしそうもないという考えが、だんだん代助の脳裏に勢力を得てきた。すでに平岡にとついだ三千代に対して、こんな関係が起こりうるならば、このうえ自分に既婚者の資格を与えたからといって、同様の関係が続かないわけにはいかない。それを続かないとみるのはただ表向きので、心を束縛することのできない形式は、いくら重ねても苦痛を増すばかりである。というのが代助の論法であった。代助は縁談を断わるよりほかに道はなくなった。

 こう決心した翌日、代助は久しぶりに髪を刈って髯をそった。にはいって二、三日すさまじく降ったあげくなので、地面にも、木の枝にも、ほこりらしいものはことごとくしっとりと静まっていた。日の色は以前より薄かった。雲の切れ間から落ちて来る光線は、下界の湿り気のために、なかば反射力を失ったように柔らかに見えた。代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例のごとくふっくらしたほおをなでて、今日からいよいよ積極的生活にはいるのだと思った。

 青山へ来てみると、玄関に車が二台ほどあった。供待ちの車夫は込みによりかかって眠ったまま、代助の通り過ぎるのを知らなかった。座敷には梅子が新聞をひざの上へ乗せて、込み入った庭の緑をぼんやりながめていた。これもぽかんとねむそうであった。代助はいきなり梅子の前へすわった。

 「お父さんはいますか」

 嫂は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の目で見た。

 「だいさん、少しやせたようじゃありませんか」と言った。代助はまた頰をなでて、

 「そんなこともないだろう」と打ち消した。

 「だって、色つやが悪いのよ」と梅子は目を寄せて代助の顔をのぞき込んだ。

 「庭のせいだ。青葉が映るんだ」と庭の植込みの方を見たが、「だからあなただって、やっぱりあおいですよ」と続けた。

 「私、この二、三日具合がよくないんですもの」

 「道理でぽかんとしていると思った。どうかしたんですか。かぜですか」

 「なんだか知らないけれどなまあくびばかり出て」

 梅子はこう答えて、すぐ新聞を膝からおろすと、手を鳴らして、小間使いを呼んだ。代助は再び父の在、不在を確かめた。梅子はその問いをもう忘れていた。聞いてみると、玄関にあった車は、父の客の乗って来たものであった。代助は長くかからなければ、客の帰るまで待とうと思った。嫂ははっきりしないから、風呂場へ行って、水で顔をふいて来ると言って立った。下女が好いにおいのするくずちまきを、深い皿に入れて持って来た。代助は粽の尾をぶら下げて、しきりにかいでみた。

 梅子が涼しい目つきになって風呂場から帰った時、代助は粽の一つを振り子のように振りながら、今度は、

 「兄さんはどうしました」と聞いた。梅子はすぐこの陳腐な質問に答える義務がないかのごとく、しばらくえんばなに立って、庭をながめていたが、

 「さんの雨で、こけの色がすっかり出たこと」と平生に似合わぬ観察をして、もとの席に返った。そうして、

 「兄さんがどうしましたって」と聞き直した。代助が先の質問を繰り返した時、嫂はもっともとんじやくな調子で、

 「どうしましたって、例のごとくですわ」と答えた。

 「相変わらず、留守がちですか」

 「ええ、ええ、朝も晩もめったにうちにいたことはありません」

 「ねえさんはそれでさむしくはないですか」

 「いまさら改まって、そんなことを聞いたってしかたがないじゃありませんか」と梅子は笑い出した。からかうんだと思ったのか、あんまり小供じみていると思ったのかほとんど取り合うしきはなかった。代助も平生の自分を振り返ってみて、まじめにこんな質問をかけた今の自分を、むしろ奇体に思った。こんにちまで兄と嫂の関係を長い間目撃していながら、ついぞそこには気がつかなかった。嫂もまた代助の気がつくほど物足りないそぶりは見せたことがなかった。

 「世間の夫婦はそれですんでいくものかな」とひとりごとのように言ったが、別に梅子の返事を予期する気でもなかったので、代助は向こうの顔も見ず、ただ畳の上に置いてある新聞に目を落とした。すると梅子はたちまち、

 「なんですって」と切り込むように言った。代助の目が、その調子に驚いて、ふと自分の方に視線を移した時、

 「だから、あなたが奥さんをおもらいなすったら、始終うちにばかりいて、たんとかわいがっておあげなさいな」と言った。代助ははじめて相手が梅子であって、自分が平生の代助でなかったことを自覚した。それでなるべくふだんの調子を出そうとつとめた。

 けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、その謝絶についで起こるべき、三千代と自分の関係にばかり注がれていた。したがって、いくら平生の自分に帰って、梅子の相手になるつもりでも、梅子の予期していない、変わったいろが、時々会話の中に、思わず知らず出てきた。

 「代さん、あなた今日はどうかしているのね」としまいに梅子が言った。代助はもとより嫂の言葉を側面へずらして受ける法をいくらでも心得ていた。しかるに、それをやるのが、軽薄のようで、まためんどうなようで、今日はいやになった。かえってまじめに、どこが変か教えてくれと頼んだ。梅子は代助の問いが鹿ているので妙な顔をした。が、代助がますます頼むので、では言ってあげましょうと前置きをして、代助のどうかしている例をあげだした。梅子はもちろんわざとまじめを装っているものと代助を解釈した。その中に、

 「だって、兄さんが留守がちで、さぞおさむしいでしょうなんて、あんまり思いやりがよすぎることをおっしゃるからさ」という言葉があった。代助はそこへ自分をはさんだ。

 「いや、僕の知った女に、そういうのが一人あって、実ははなはだ気の毒だから、ついほかの女の心持ちも聞いてみたくなって、うかがったんで、けっしてひやかしたつもりじゃないんです」

 「ほんとうに? そりゃちょいとなんてえかたなの」

 「名前は言いにくいんです」

 「じゃ、あなたがそのだんに忠告をして、奥さんをもっとかわいがるようにしておあげになればいいのに」

 代助は微笑した。

 「姉さんも、そう思いますか」

 「当たり前ですわ」

 「もしその夫が僕の忠告を聞かなかったら、どうします」

 「そりゃ、どうもしようがないわ」

 「放っておくんですか」

 「放っておかなけりゃ、どうなさるの」

 「じゃ、その細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでしょうか」

 「たいへん理責めなのね。そりゃ旦那の不親切の度合いにもよるでしょう」

 「もし、その細君に好きな人があったらどうです」

 「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人があるくらいなら、はじめっからそっちへいったら好いじゃありませんか」

 代助は黙って考えた。しばらくしてから、姉さんと言った。梅子はその深い調子に驚かされて、改めて代助の顔を見た。代助は同じ調子でなお言った。

 「僕は今度の縁談を断わろうと思う」

 代助の巻煙草を持った手が少しふるえた。梅子はむしろ表情を失った顔つきをして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子にとんじやくなく進行した。

 「僕は今まで結婚問題について、あなたに何べんとなく迷惑をかけたうえに、今度もまた心配してもらっている。僕ももう三十だから、あなたの言うとおり、たいていなところで、お勧めしだいになって好いのですが、少し考えがあるから、この縁談もまあやめにしたい希望です。お父さんにも、兄さんにもすまないが、しかたがない。なにも当人が気に入らないというわけではないが、断わるんです。このあいだお父さんによく考えてみろと言われて、だいぶ考えてみたが、やっぱり断わるほうが好いようだから断わります。実は今日はその用でお父さんにあいに来たんですが、今お客のようだから、ついでと言っては失礼だが、あなたにもお話をしておきます」

 梅子は代助の様子がまじめなので、いつものごとくむだ口も入れずに聞いていたが、聞き終わった時、はじめて自分の意見を述べた。それがきわめて簡単な、かつきわめて実際的な短い句であった。

 「でも、お父さんはきっとお困りですよ」

 「お父さんには僕がじかに話すからかまいません」

 「でも、話がもうここまで進んでいるんだから」

 「話がどこまで進んでいようと、僕はまだもらいますと言ったことはありません」

 「けれどもはっきりもらわないともおっしゃらなかったでしょう」

 「それを今言いに来たところです」

 代助と梅子は向かい合ったなり、しばらく黙った。

 代助のほうでは、もう言うべきことを言い尽くしたような気がした。少なくとも、これより進んで、梅子に自分を説明しようという考えはまるでなかった。梅子は語るべきこと、聞くべきことをたくさん持っていた。ただそれがとっさの間に、前の問答につながり好く、口へ出て来なかったのである。

 「貴方の知らない間に、縁談がどれほど進んだのか、私にもよくわからないけれど、誰にしたって、あなたが、そうきっぱりお断わりなさろうとは思いがけないんですもの」と梅子はようやくにして言った。

 「なぜです」と代助はひややかに落ちついて聞いた。梅子はまゆを動かした。

 「なぜですって聞いたって、理屈じゃありませんよ」

 「理屈でなくってもかまわないから話してください」

 「あなたのようにそう何べん断わったって、つまりおんなじことじゃありませんか」と梅子は説明した。けれども、その意味がすぐ代助の頭には響かなかった。不可解の目をあげて梅子を見た。梅子ははじめて自分の本意をえんしにかかった。

 「つまり、あなただって、いつか一度は、おくさんをもらうつもりなんでしょう。いやだって、しかたがないじゃありませんか。そういつまでもわがままを言った日には、お父さんにすまないだけですわ。だからね。どうせ誰を持っていっても気に入らないあなたなんだから、つまり誰を持たしたっておんなじだろうっていうわけなんです。あなたにはどんな人を見せてもだめなんですよ。世の中に一人も気に入るようなものは生きてやしませんよ。だから、奥さんというものは、はじめから気に入らないものと、あきらめてもらうよりほかにしかたがないじゃありませんか。だから私たちがいちばん好いと思うのを、黙ってもらえば、それでどこもかしこも丸く治まっちまうから、──だから、お父さんが、ことによると、こんは、あなたに一から十まで相談して、なにかなさらないかもしれませんよ。お父さんから見ればそれが当たり前ですもの。そうでも、しなくっちゃ、生きてるうちに、あなたの奥さんの顔を見ることはできないじゃありませんか」

 代助は落ちついて嫂の言うことをきいていた。梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかった。もしはんばくをする日には、話がだんだん込み入るばかりで、こちらの思うところはけっして、梅子の耳へ通らないと考えた。けれども向こうの言い分をうけがう気はまるでなかった。実際問題として、双方が困るようになるばかりと信じたからである。それで、嫂に向かって、

 「あなたのおっしゃるところも、一理あるが、私にも私の考えがあるから、まあうちっておいてください」と言った。その調子には梅子の干渉をめんどうがる気色が自然と見えた。すると梅子は黙っていなかった。

 「そりゃ代さんだって、小供じゃないから、一人前の考えのおありなことはもちろんですわ。私なんぞのいらない差し出口は御迷惑でしょうから、もうなんにも申しますまい。しかしお父さんの身になってごらんなさい。月々の生活費はあなたのいるというだけ今でも出していらっしゃるんだから、つまりあなたは書生時代よりもよけいお父さんのやつかいになってるわけでしょう。そうしておいて、世話になることは、もとより世話になるが、年を取って一人前になったから、言うことは元のとおりには聞かれないっていばったって通用しないじゃありませんか」

 梅子は少し激したとみえてなおも言いつのろうとしたのを、代助がさえぎった。

 「だって、女房を持てばこのうえなおお父さんの厄介にならなくっちゃならないでしょう」

 「いいじゃありませんか、お父さんが、そのほうが好いとおっしゃるんだから」

 「じゃ、お父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、ぜひ持たせる決心なんですね」

 「だって、あなたに好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中さがして歩いたってないんじゃありませんか」

 「どうして、それがわかります」

 梅子は張りの強い目をすえて、代助を見た。そうして、

 「貴方はまるでだいげんにんのようなことをおっしゃるのね」と言った。代助はあおじろくなった額を嫂のそばへ寄せた。

 「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で言い切った。

 代助は今までじようだんにこんなことを梅子に向かって言ったことがよくあった。梅子もはじめはそれを本気に受けた。そっと手を回して真相をさぐってみたなどというこつけいもあった。事実がわかって以後は、代助のいわゆる好いた女は、梅子に対していっこうききめがなくなった。代助がそれを言いだしても、まるで取り合わなかった。でなければ、ちゃかしていた。代助のほうでもそれで平気であった。しかしこの場合だけは彼にとって、まったく特別であった。顔つきといい、目つきといい、声の低い底にこもる力といい、ここまで押しせまって来た前後の関係といい、すべての点からいって、梅子をはっと思わせないわけにいかなかった。嫂はこの短い句を、ひらめく懐剣のごとくに感じた。

 代助は帯の間から時計を出して見た。父の所へ来ている客はなかなか帰りそうにもなかった。空はまたくもってきた。代助はいったん引き上げてまた改めて、父と話をつけに出直すほうが便宜だと考えた。

 「僕はまた来ます。出直して来てお父さんにお目にかかるほうが好いでしょう」と立ちにかかった。梅子はそのあいだに回復した。梅子はあくまで人の世話を焼く実意のあるだけに、物を中途で投げることのできない女であった。おさえるように代助を引きとめて、女の名を聞いた。代助はもとより答えなかった。梅子はぜひにとせまった。代助はそれでも応じなかった。すると梅子はなぜその女をもらわないのかと聞き出した。代助は単純にもらえないから、もらわないのだと答えた。梅子はしまいに涙を流した。ひとの尽力を出し抜いたと言って恨んだ。なぜはじめから打ち明けて話さないかと言って責めた。かと思うと、気の毒だと言って同情してくれた。けれども代助は三千代については、ついに何事も語らなかった。梅子はとうとうを折った。代助のいよいよ帰るというまぎわになって、

 「じゃ、あなたからじかにお父さんにお話なさるんですね。それまでは私は黙っていたほうが好いでしょう」と聞いた。代助は黙っていてもらうほうが好いか、話してもらうほうが好いか、自分にもわからなかった。

 「そうですね」とちゆうちよしたが、「どうせ、断わりに来るんだから」と言って嫂の顔を見た。

 「じゃ、もし話すほうが都合が好さそうだったら話しましょう。もしまたわるいようだったら、なんにも言わずに置くから、あなたがはじめからお話なさい。それがいいでしょう」と梅子は親切に言ってくれた。代助は、

 「なにぶんよろしく」と頼んで外へ出た。かどへ来て、よつから歩くつもりで、わざとしおちようきの電車に乗った。れんぺいの横を通るとき、重い雲が西で切れて、には珍らしいせきようが、真っ赤になって広い原一面を照らしていた。それが向こうを行く車の輪にあたって、輪が回るたびに鋼鉄はがねのごとく光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見えるほど、広かった。日は血のように毒々しく照った。代助はこの光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持っていかれた。重い頭の中がふらふらした。終点まで来た時は、精神が身体を冒したのか、精神のほうが身体に冒されたのか、いやな心持ちがして早く電車を降りたかった。代助は雨の用心に持ったこうもりがさを、つえのごとく引きずって歩いた。

 歩きながら、自分は今日、みずから進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じことだと、心のうちにつぶやいた。今までは父や嫂を相手に、いいかげんな間隔を取って、柔らかに自我を通して来た。今度はいよいよ本性をあらわさなければ、それを通し切れなくなった。同時に、この方面に向かって、在来の満足を求めうる希望は少なくなった。けれども、まだ逆もどりをする余地はあった。ただ、それにはまた父をごまかす必要が出てくるにちがいなかった。代助は腹の中で今までのわれを冷笑した。彼はどうしても、今日の告白をもって、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかった。そうして、それから受ける打撃の反動として、思い切って三千代のうえに、おっかぶさるようにはげしく働きかけたかった。

 彼はこの次父にあうときは、もう一歩もあとへ引けないように、自分のほうをこしらえておきたかった。それで三千代と会見する前に、また父から呼び出されることを深く恐れた。彼は今日嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与えたのを悔いた。今夜にも話されれば、明日あしたの朝呼ばれるかもしれない。すると今夜中に三千代にあっておのれを語っておく必要ができる。しかし夜だから都合がよくないと思った。

 つのかみをおりた時、日は暮れかかった。士官学校の前をまっすぐにほりばたへ出て、二、三町来るとはらちようへ曲がるべき所を、代助はわざとでんしやみちについて歩いた。彼は例のごとくにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮らすに堪えなかったのである。濠を隔てて高い土手の松が、目のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、レールの上を、苦もなくすべって行っては、また滑って帰るじんそくな手ぎわに、軽快の感じを得た。そのかわり自分と同じ路を容赦なくゆききするそとぼりせんの車を、常よりは騒々しくにくんだ。

 うしごめつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点のかげを認めた。代助は夕飯を食う考えもなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。

 約二十分ののち、彼はあんどうざかを上がって、でんずういんの焼け跡の前へ出た。大きな木が、左右からかぶさっている間を左へ抜けて、平岡の家のそばまで来ると、いたべいから例のごとく灯がさしていた。代助はへいのもとに身を寄せて、じっと様子をうかがった。しばらくは、なんの音もなく、家のうちはまったく静かであった。代助は門をくぐって、こうの外から、頼むと声をかけてみようかと思った。すると、縁側に近く、ぴしゃりとすねをたたく音がした。それから、人が立って、奥へはいって行く気色であった。やがて話声が聞こえた。なんのことかよくきき取れなかったが、声はたしかに、平岡と三千代であった。話声はしばらくでやんでしまった。するとまた足音が縁側まで近づいて、どさりとしりをおろす音が手に取るように聞こえた。代助はそれなり塀のそばを退いた。そうして元来た道とは反対の方角に歩きだした。

 しばらくは、どこをどう歩いているか夢中であった。そのあいだ代助の頭には今見た光景ばかりがりつくようにおどっていた。それが、少し衰えると、今度は自己の行為に対して、言うべからざる汚辱の意味を感じた。彼はなんのゆえに、かかる下劣なまねをして、あたかも驚かされたかのごとく退却したのかを怪しんだ。彼は暗いみちに立って、世界がいま夜に支配されつつあることをひそかに喜んだ。しかもだれの重い空気にとざされて、歩けば歩くほど、窒息するような心持ちがした。神楽かぐらざかうえへ出た時、急に目がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げるようにわらだなを上った。

 うちへ帰ると、門野が例のごとく漫然たる顔をして、

 「だいぶ遅うがしたな。御飯はもうおすみになりましたか」と聞いた。

 代助は飯がほしくなかったので、いらないよしを答えて、門野を追い帰すように、書斎から退けた。が、二、三分立たないうちに、また手を鳴らして呼び出した。

 「うちから使いは来やしなかったかね」

 「いいえ」

 代助は、

 「じゃ、よろしい」と言ったぎりであった。門野は物足りなそうに入口に立っていたが、

 「先生は、なんですか、お宅へおいでになったんじゃなかったんですか」

 「なぜ」と代助はむずかしい顔をした。

 「だって、お出かけになるとき、そんなお話でしたから」

 代助は門野を相手にするのがめんどうになった。

 「宅へは行ったさ。──宅から使いが来なければそれで、好いじゃないか」

 門野は不得要領に、

 「はあそうですか」と言い放して出て行った。代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるということを知っているので、ことによると、帰ったあとからすぐ使いでも寄こしはしまいかと恐れて聞きただしたのであった。門野がしよせいへ引き取ったあとで、明日はぜひとも三千代にあわなければならないと決心した。

 その夜代助は寝ながら、どういう手段で三千代にあおうかという問題を考えた。手紙を車夫に持たせて宅へ呼びにやれば、来ることは来るだろうが、すでに今日嫂との会談がすんだ以上は、明日にも、兄か嫂のために、向こうから襲われないとも限らない。また平岡のうちへ行ってあうことは代助にとって一種の苦痛があった。代助はやむをえず、自分にも三千代にも関係のない所であうよりほかに道はないと思った。

 夜半から強く雨が降りだした。ってあるが、かえって寒く見えるくらいな音がどうどうと家を包んだ。代助はその音のうちに夜の明けるのを待った。

 雨は翌日まで晴れなかった。代助は湿っぽい縁側に立って、暗い空模様をながめて、昨夕ゆうべの計画をまた変えた。彼は三千代を普通のまちあいなどへ呼んで、話をするのが不愉快であった。やむなくんば、あおい空の下と思っていたが、この天気ではそれもおぼつかなかった。といって、平岡の家へ出向く気ははじめからなかった。彼はどうしても、三千代を自分の宅へ連れて来るよりほかに道はないときめた。門野が少しじゃまになるが、話のし具合では書生部屋にもれないようにもできると考えた。

 ひる少し前までは、ぼんやり雨をながめていた。ひる飯をすますやいなや、ゴムのかっぱを引きかけて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話をかけた。こっちから行くつもりであるからと、機先を制しておいた。電話口へは嫂が現われた。せんだってのことは、まだ父に話さないでいるから、もう一ぺんよく考え直してごらんなさらないかと言われた。代助は感謝の辞とともにベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社のを確かめた。平岡は社に出ているという返事を得た。代助は雨をついてまた坂を上った。花屋へはいって、大きなしらの花をたくさん買って、それをさげて、宅へ帰った。花はぬれたまま、二つのへいにわけてさした。まだ余っているのを、このあいだのはちに水を張っておいて、茎を短く切って、すぱすぱ放り込んだ。それから、机に向かって、三千代へ手紙を書いた。文句はきわめて短いものであった。ただ至急お目にかかって、お話したいことがあるから来てくれろというだけであった。

 代助は手を打って、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現われた。手紙を受け取りながら、

 「たいへん好いにおいですな」と言った。代助は、

 「車を持って行って、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけのちようまで出て行った。

 代助は、百合の花をながめながら、部屋をおおう強い香の中に、残りなく自己をほうてきした。彼はこのきゆうかくの刺激のうちに、三千代の過去をぶんみように認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が煙のごとくはいまつわっていた。彼はしばらくして、

 「今日はじめて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言った。こう言いえた時、彼は年ごろにない安慰を総身に覚えた。なぜもっと早く帰ることができなかったのかと思った。はじめからなぜ自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見いだした。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。そうしてすべてがブリスであった。だからすべてが美しかった。

 やがて、夢からさめた。この一刻のブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒してきた。彼の唇は色を失った。彼は黙然として、我とわが手をながめた。爪の甲の底に流れている血潮が、ぶるぶるふるえるように思われた。彼は立って百合の花のそばへ行った。唇がはなびらにつくほど近く寄って、強い香を目のうまでかいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香にむせて、失心して室の中に倒れたかった。彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間をいったり来たりした。彼の胸は始終鼓動を感じていた。彼は時々椅子のかどや、デスクの前へ来てとまった。それからまた歩きだした。彼の心の動揺は、彼をして長くいっしょにとどまることを許さなかった。同時に彼は何物をか考えるために、むやみなところに立ちどまらざるをえなかった。

 そのうちに時はだんだん移った。代助はたえず置時計の針を見た。またのぞくように、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空からまっすぐに降っていた。空は前よりもやや暗くなった。重なる雲が一つところでうずをまいて、しだいに地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。その時雨に光る車を門からうちへ引き込んだ。輪の音が、雨を圧して代助の耳に響いた時、彼はあおじろい頰に微笑をもらしながら、右の手を胸に当てた。

 三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いにはいって来た。めいせんこんがすりに、からくさようひとおびを締めて、このまえとはまるで違ったをしているので、一目見た代助には、新らしい感じがした。色はふだんのとおり好くなかったが、座敷の入口で、代助と顔を合わせた時、目もまゆも口もぴたりと活動を中止したように固くなった。敷居に立っている間は、足も動けなくなったとしか受け取れなかった。三千代はもとより手紙を見た時から、何事をか予期して来た。その予期のうちには恐れと、喜びと、心配とがあった。車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもってみなぎっていた。三千代の表情はそこで、はたととまった。代助の様子は三千代にそれだけのショックを与えるほどに強烈であった。

 代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられたとおりに腰をかけた。代助はその向こうに席を占めた。二人ははじめて相対した。しかしややしばらくは二人とも、口を開かなかった。

 「なにか御用なの」と三千代はようやくにして問うた。代助は、ただ、

 「ええ」と言った。二人はそれぎりで、またしばらく雨の音をきいた。

 「なにか急な御用なの」と三千代がまた尋ねた。代助はまた、

 「ええ」と言った。双方ともいつものように軽くは話しえなかった。代助は酒の力を借りて、おのれを語らなければならないような自分を恥じた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものとかねて覚悟をしていた。けれども、改まって、三千代に対してみると、はじめて、一滴の酒精が恋しくなった。ひそかに次の間へ立って、いつものウィスキーをコップで傾けようかと思ったが、ついにその決心に堪えなかった。彼は青天白日のもとに、尋常の態度で、相手に公言しうることでなければ自己の誠でないと信じたからである。酔いという障壁を築いて、そのえんに乗じて、自己を大胆にするのは、きようで、残酷で、相手に汚辱を与えるような気がしてならなかったからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取ることができなくなった、そのかわり三千代に対しては一点も不徳義な動機をたくわえぬつもりであった。いな、彼をしてりんに陥らしむる余地がまるでないほどに、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代からなんの用かを聞かれた時に、すぐおのれを傾けることができなかった。二度聞かれた時になおちゆうちよした。三度目には、やむをえず、

 「まあ、ゆっくり話しましょう」と言って、巻煙草に火をつけた。三千代の顔は返事を延ばされるたびに悪くなった。

 雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨のために、雨の持ちたす音のために、世間から切り離された。同じ家に住む門野からもばあさんからも切り離された。二人は孤立のまま、白百合の香の中に封じ込められた。

 「さっき表へ出て、あの花を買って来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の目は代助について室の中を一回りした。そのあとで三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。

 「兄さんとあなたと清水町にいた時分のことを思い出そうと思って、なるべくたくさん買って来ました」と代助が言った。

 「好いにおいですこと」と三千代はひるがえるようにほころびた大きなはなびらをながめていたが、それから目を放して代助に移した時、ぽうと頰を薄赤くした。

 「あの時分のことを考えると」と半分言ってやめた。

 「覚えていますか」

 「覚えていますわ」

 「あなたは派手なはんえりをかけて、銀杏いちようがえしにっていましたね」

 「だって、東京へ来たてだったんですもの。じきやめてしまったわ」

 「このあいだ百合の花を持って来てくださった時も、銀杏返しじゃなかったですか」

 「あら、気がついて。あれは、あの時ぎりなのよ」

 「あの時はあんなまげに結いたくなったんですか」

 「ええ、気まぐれにちょいと結ってみたかったの」

 「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」

 「そう」と三千代は恥ずかしそうにうけがった。

 三千代が清水町にいたころ、代助と心安く口をきくようになってからのことだが、はじめて国から出て来た当時の髪のふうを代助からほめられたことがあった。その時三千代は笑っていたが、それを聞いたあとでも、けっして銀杏返しには結わなかった。二人は今もこのことをよく記憶していた。けれども双方とも口へ出してはなにも語らなかった。

 三千代の兄というのはむしろかつたつな気性で、かけへだてのないつきあいぶりから、友だちにはひどく愛されていた。ことに代助はその親友であった。この兄は時分が豁達であるだけに、妹のおとなしいのをかわいがっていた。国から連れて来て、いっしょにうちを持ったのも、妹を教育しなければならないという義務の念からではなくて、まったく妹の未来に対する情合いと、現在自分のそばに引きつけておきたい欲望とからであった。彼は三千代を呼ぶ前、すでに代助に向かってその旨を打ち明けたことがあった。その時代助は普通の青年のように、多大の好奇心をもってこの計画を迎えた。

 三千代が来てから後、兄と代助とはますます親しくなった。どっちが友情の歩を進めたかは、代助自身にもわからなかった。兄が死んだあとで、当時を振り返ってみるごとに、代助はこの親密のうちに一種の意味を認めないわけにゆかなかった。兄は死ぬ時までそれを明言しなかった。代助もあえて何事も語らなかった。かくして、相互の思わくは、相互の間の秘密として葬られてしまった。兄はぞんしようちゆうにこの意味をひそかに三千代にもらしたことがあるかどうか、そこは代助も知らなかった。代助はただ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得ただけであった。

 代助はそのころから趣味の人として、三千代の兄に臨んでいた。三千代の兄はその方面において、普通以上の感受性を持っていなかった。深い話になると、正直にわからないと自白して、よけいな議論を避けた。どこからかarbiterアービターelegantiarumエレガンシアルムという字を見つけ出してきて、それを代助の異名のように濫用したのは、そのころのことであった。三千代は隣りの部屋で黙って兄と代助の話を聞いていた。しまいにはとうとうarbiter elegantiarumという字を覚えた。ある時その意味を兄に尋ねて、驚かれたことがあった。

 兄は趣味に関する妹の教育を、すべて代助に委任したごとくにみえた。代助を待って啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会をできるだけ与えるようにつとめた。代助も辞退はしなかった。あとから顧みると、みずから進んでその任にあたったと思われるこんせきもあった。三千代はもとより喜んで彼の指導を受けた。三人はかくして、ともえのごとくに回転しつつ、月から月へと進んで行った。有意識か無意識か、巴の輪はめぐるにしたがってしだいにせばまってきた。ついにみつどもえがいっしょに寄って、丸い円になろうとする少し前のところで、こつぜんその一つが欠けたため、残る二つは平衡を失った。

 代助と三千代は五年の昔を心置きなく語り始めた。語るにしたがって、現在の自己が遠のいて、だんだん当時の学生時代に返ってきた。二人の距離はまた元のように近くなった。

 「あの時兄さんが亡くならないで、まだ達者でいたら、今ごろ私はどうしているでしょう」と三千代は、その時を恋しがるように言った。

 「兄さんが達者でいたら、別の人になっているわけですか」

 「別な人にはなりませんわ。あなたは?」

 「僕も同じことです」

 三千代はその時、少したしなめるような調子で、

 「あら噓」と言った。代助は深い目を三千代の上にすえて、

 「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、なおしばらくは目を相手から離さなかった。三千代はたちまち視線をそらした。そうして、なかばひとりごとのように、

 「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と言った。

 三千代の言葉は普通の談話としてはあまりに声が低すぎた。代助は消えて行く影を踏まえるごとくに、すぐその尾を捕えた。

 「違やしません。あなたにはただそう見えるだけです。そう見えたってしかたがないが、それはひがだ」

 代助のほうは通例よりも熱心にはっきりした声で自己を弁護するごとくに言った。三千代の声はますます低かった。

 「僻目でもなんでもよくってよ」

 代助は黙って三千代の様子をうかがった。三千代ははじめから、目を伏せていた。代助にはその長いまつのふるえる様がよく見えた。

 「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけのことをあなたに話したいためにわざわざあなたを呼んだのです」

 代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘いを含んでいなかった。彼の調子はその言葉とともに簡単で素朴であった。むしろ厳粛の域にせまっていた。ただ、それだけのことを語るために、急用として、わざわざ三千代を呼んだところが、玩具おもちやの詩歌に類していた。けれども、三千代はもとより、こういう意味での俗を離れた急用を理解しうる女であった。そのうえ世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、三千代の官能にはなやかな何物をも与えなかったのは、事実であった。三千代がそれにかわいていなかったのも事実であった。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代はふるえる睫毛の間から、涙をほおの上に流した。

 「僕はそれをあなたに承知してもらいたいのです。承知してください」

 三千代はなお泣いた。代助に返事をするどころではなかった。たもとからハンケチを出して顔へ当てた。濃いまゆの一部分と、額とはえぎわだけが代助の目に残った。代助は椅子を三千代の方へすり寄せた。

 「承知してくださるでしょう」と耳のはたで言った。三千代は、まだ顔をおおっていた。しゃくり上げながら、

 「あんまりだわ」と言う声がハンケチの中で聞こえた。それが代助の聴覚を電流のごとくに冒した。代助は自分の告白が遅すぎたということをせつに自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へとつぐ前に打ち明けなければならないはずであった。彼は涙と涙の間をぼつぼつつづる三千代のこの一語を聞くに堪えなかった。

 「僕は三、四年前に、あなたにそう打ち明けなければならなかったのです」と言って、ぜんとして口を閉じた。三千代は急にハンケチを顔から離した。まぶたの赤くなった目を突然代助の上にみはって、

 「打ち明けてくださらなくってもいいから、なぜ」と言いかけて、ちょっとちゆうちよしたが、思い切って、「なぜすててしまったんです」と言うやいなや、またハンケチを顔に当ててまた泣いた。

 「僕が悪い。堪忍してください」

 代助は三千代のくびをとって、ハンケチを顔から離そうとした。三千代はさからおうともしなかった。ハンケチは膝の上に落ちた。三千代はその膝の上を見たまま、かすかな声で、

 「残酷だわ」と言った。小さい口元の肉がふるうように動いた。

 「残酷と言われてもしかたがありません。そのかわり僕はそれだけの罰を受けています」

 三千代は不思議な目をして顔を上げたが、

 「どうして」と聞いた。

 「あなたが結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」

 「だって、それはあなたの御かってじゃありませんか」

 「かってじゃありません。もらおうと思っても、もらえないのです。それから以後、うちのものから何べん結婚を勧められたかわかりません。けれども、みんな断わってしまいました。今度もまた一人断わりました。その結果僕と僕の父との間がどうなるかわかりません。しかしどうなってもかまわない、断わるんです。あなたが僕にふくしゆうしている間は断わらなければならないんです」

 「復讎」と三千代は言った。この二字を恐るるもののごとくに目を働かした。「私はこれでも、嫁に行ってから、こんにちまで一日も早く、あなたが御結婚なさればいいと思わないで暮らしたことはありません」とやや改まった物の言いぶりであった。しかし代助はそれに耳を貸さなかった。

 「いや僕はあなたにどこまでも復讎してもらいたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、あなたを呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実はあなたから復讎されている一部分としか思やしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じことです。しかし僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪を犯すほうが、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、あなたの前にざんすることができれば、それでたくさんなんです。これほどうれしいことはないと思っているんです」

 三千代は涙の中ではじめて笑った。けれどもひとことも口へは出さなかった。代助はなおおのれを語るひまを得た。──

 「僕はいまさらこんなことをあなたに言うのは、残酷だと承知しています。それがあなたに残酷に聞こえれば聞こえるほど僕はあなたに対して成功したも同様になるんだからしかたがない。そのうえ僕はこんな残酷なことを打ち明けなければ、もう生きていることができなくなった。つまりわがままです。だからあやまるんです」

 「残酷ではございません。だからあやまるのはもうよしてちょうだい」

 三千代の調子は、この時急にはっきりした。沈んではいたが、前に比べると非常に落ちついた。しかししばらくしてから、また

 「ただ、もう少し早く言ってくださると」と言いかけて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。──

 「じゃ僕が生涯黙っていたほうが、あなたには幸福だったんですか」

 「そうじゃないのよ」と三千代は力をこめて打ち消した。「私だって、あなたがそう言ってくださらなければ、生きていられなくなったかもしれませんわ」

 今度は代助のほうが微笑した。

 「それじゃかまわないでしょう」

 「かまわないよりありがたいわ。ただ──」

 「ただ平岡にすまないというんでしょう」

 三千代は不安らしくうなずいた。代助はこう聞いた。──

 「三千代さん、正直に言ってごらん。あなたは平岡を愛しているんですか」

 三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色があおくなった。目も口も固くなった。すべてが苦痛の表情であった。代助はまた聞いた。

 「では、平岡はあなたを愛しているんですか」

 三千代はやはりうつ向いていた。代助は思い切った判断を、自分の質問のうえに与えようとして、すでにその言葉が口まで出かかった時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛もほとんど消えていた。涙さえたいていは乾いた。ほおの色はもとより蒼かったが、くちびるはしかとして、動くしきはなかった。そのあいだから、低く重い言葉が、つながらないように、一字ずつ出た。

 「しようがない。覚悟をきめましょう」

 代助は背中から水をかぶったようにふるえた。社会からおい放たるべき二人の魂は、ただ二人むかい合って、互いを穴のあくほどながめていた。そうして、すべてにさからって、互いをいっしょに持ち来たした力を互いとおそれおののいた。

 しばらくすると、三千代は急に物に襲われたように、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかった。ひじをついて額を五指の裏に隠した。二人はこの態度をくずさずに、恋愛の彫刻のごとく、じっとしていた。

 二人はこうじっとしているうちに、五十年をのあたりに縮めたほどの精神の緊張を感じた。そうしてその緊張とともに、二人が相並んで存在しておるという自覚を失わなかった。彼等は愛の刑と愛のたまものとを同時にうけて、同時に双方を切実に味わった。

 しばらくして、三千代はハンケチを取って、涙をきれいにふいたが、静かに、

 「私もう帰ってよ」と言った。代助は、

 「お帰りなさい」と答えた。

 雨は小降りになったが、代助はもとより三千代をひとり返す気はなかった。わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家までついて行くところを、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲がるまで見送っていた。それからゆっくり歩をめぐらしながら、腹の中で、

 「万事終わる」と宣告した。

 雨は夕方やんで、夜に入ったら、雲がしきりに飛んだ。そのうち洗ったような月が出た。代助は光を浴びる庭のぬれを長い間縁側からながめていたが、しまいに穿いて下へ降りた。もとより広い庭でないうえに立木の数が存外多いので、代助の歩くせきはたんとなかった。代助はその真ん中に立って、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、昼間買ったの花を取って来て、自分のまわりにまき散らした。白い花弁が点々として月の光にさえた。あるものは、したやみにほのめいた。代助はなにをするともなくそのあいだにかがんでいた。

 寝る時になってはじめて再び座敷へ上がった。室の中は花のにおいがまだまったく抜けていなかった。

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