一四
自然の
彼は結婚問題について、まあよく考えてみろと言われて帰ったぎり、いまだに、それを本気に考えるひまを作らなかった。帰った時、まあ今日も
もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで押しつめられたような気持ちがなかったら、代助は父に対してむろんそういう所置を取ったろう。けれども、代助は相手の顔色いかんにかかわらず、手に持った
彼はただ彼の運命に対してのみ
門野は時々書斎へ来た。来るたびに代助はデスクの前にじっとしていた。
「ちっと散歩にでもおいでになったらいかがです。そう御勉強じゃ身体に悪いでしょう」と言ったことが一、二度あった。なるほど顔色がよくなかった。夏向きになったので、門野が湯を毎日わかしてくれた。代助は
飯は依然として、普通のごとく食った。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈託とで、
代助は最後に不決断の自己
縁談を断わるほうは単独にも何べんとなく決定ができた。ただ断わったあと、その反動として、自分をまともに三千代のうえに浴びせかけねばやまぬ必然の勢力が来るにちがいないと考えると、そこに至って、また恐ろしくなった。
代助は父からの催促を心待ちに待っていた。しかし父からはなんのたよりもなかった。三千代にもう一ぺんあおうかと思った。けれども、それほどの勇気も出なかった。
いちばんしまいに、結婚は道徳の形式において、自分と三千代を
こう決心した翌日、代助は久しぶりに髪を刈って髯をそった。
青山へ来てみると、玄関に車が二台ほどあった。供待ちの車夫は
「お父さんはいますか」
嫂は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の目で見た。
「
「そんなこともないだろう」と打ち消した。
「だって、色つやが悪いのよ」と梅子は目を寄せて代助の顔をのぞき込んだ。
「庭のせいだ。青葉が映るんだ」と庭の植込みの方を見たが、「だからあなただって、やっぱり
「私、この二、三日具合がよくないんですもの」
「道理でぽかんとしていると思った。どうかしたんですか。かぜですか」
「なんだか知らないけれど
梅子はこう答えて、すぐ新聞を膝からおろすと、手を鳴らして、小間使いを呼んだ。代助は再び父の在、不在を確かめた。梅子はその問いをもう忘れていた。聞いてみると、玄関にあった車は、父の客の乗って来たものであった。代助は長くかからなければ、客の帰るまで待とうと思った。嫂ははっきりしないから、風呂場へ行って、水で顔をふいて来ると言って立った。下女が好いにおいのする
梅子が涼しい目つきになって風呂場から帰った時、代助は粽の一つを振り子のように振りながら、今度は、
「兄さんはどうしました」と聞いた。梅子はすぐこの陳腐な質問に答える義務がないかのごとく、しばらく
「
「兄さんがどうしましたって」と聞き直した。代助が先の質問を繰り返した時、嫂はもっとも
「どうしましたって、例のごとくですわ」と答えた。
「相変わらず、留守がちですか」
「ええ、ええ、朝も晩もめったに
「ねえさんはそれで
「いまさら改まって、そんなことを聞いたってしかたがないじゃありませんか」と梅子は笑い出した。からかうんだと思ったのか、あんまり小供じみていると思ったのかほとんど取り合う
「世間の夫婦はそれですんでいくものかな」とひとりごとのように言ったが、別に梅子の返事を予期する気でもなかったので、代助は向こうの顔も見ず、ただ畳の上に置いてある新聞に目を落とした。すると梅子はたちまち、
「なんですって」と切り込むように言った。代助の目が、その調子に驚いて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、あなたが奥さんをおもらいなすったら、始終
けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、その謝絶についで起こるべき、三千代と自分の関係にばかり注がれていた。したがって、いくら平生の自分に帰って、梅子の相手になるつもりでも、梅子の予期していない、変わった
「代さん、あなた今日はどうかしているのね」としまいに梅子が言った。代助はもとより嫂の言葉を側面へずらして受ける法をいくらでも心得ていた。しかるに、それをやるのが、軽薄のようで、また
「だって、兄さんが留守がちで、さぞお
「いや、僕の知った女に、そういうのが一人あって、実ははなはだ気の毒だから、ついほかの女の心持ちも聞いてみたくなって、うかがったんで、けっしてひやかしたつもりじゃないんです」
「ほんとうに? そりゃちょいとなんてえかたなの」
「名前は言いにくいんです」
「じゃ、あなたがその
代助は微笑した。
「姉さんも、そう思いますか」
「当たり前ですわ」
「もしその夫が僕の忠告を聞かなかったら、どうします」
「そりゃ、どうもしようがないわ」
「放っておくんですか」
「放っておかなけりゃ、どうなさるの」
「じゃ、その細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでしょうか」
「たいへん理責めなのね。そりゃ旦那の不親切の度合いにもよるでしょう」
「もし、その細君に好きな人があったらどうです」
「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人があるくらいなら、はじめっからそっちへいったら好いじゃありませんか」
代助は黙って考えた。しばらくしてから、姉さんと言った。梅子はその深い調子に驚かされて、改めて代助の顔を見た。代助は同じ調子でなお言った。
「僕は今度の縁談を断わろうと思う」
代助の巻煙草を持った手が少しふるえた。梅子はむしろ表情を失った顔つきをして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に
「僕は今まで結婚問題について、あなたに何べんとなく迷惑をかけたうえに、今度もまた心配してもらっている。僕ももう三十だから、あなたの言うとおり、たいていなところで、お勧めしだいになって好いのですが、少し考えがあるから、この縁談もまあやめにしたい希望です。お父さんにも、兄さんにもすまないが、しかたがない。なにも当人が気に入らないというわけではないが、断わるんです。このあいだお父さんによく考えてみろと言われて、だいぶ考えてみたが、やっぱり断わるほうが好いようだから断わります。実は今日はその用でお父さんにあいに来たんですが、今お客のようだから、ついでと言っては失礼だが、あなたにもお話をしておきます」
梅子は代助の様子がまじめなので、いつものごとくむだ口も入れずに聞いていたが、聞き終わった時、はじめて自分の意見を述べた。それがきわめて簡単な、かつきわめて実際的な短い句であった。
「でも、お父さんはきっとお困りですよ」
「お父さんには僕がじかに話すからかまいません」
「でも、話がもうここまで進んでいるんだから」
「話がどこまで進んでいようと、僕はまだもらいますと言ったことはありません」
「けれどもはっきりもらわないともおっしゃらなかったでしょう」
「それを今言いに来たところです」
代助と梅子は向かい合ったなり、しばらく黙った。
代助のほうでは、もう言うべきことを言い尽くしたような気がした。少なくとも、これより進んで、梅子に自分を説明しようという考えはまるでなかった。梅子は語るべきこと、聞くべきことをたくさん持っていた。ただそれがとっさの間に、前の問答につながり好く、口へ出て来なかったのである。
「貴方の知らない間に、縁談がどれほど進んだのか、私にもよくわからないけれど、誰にしたって、あなたが、そうきっぱりお断わりなさろうとは思いがけないんですもの」と梅子はようやくにして言った。
「なぜです」と代助はひややかに落ちついて聞いた。梅子は
「なぜですって聞いたって、理屈じゃありませんよ」
「理屈でなくってもかまわないから話してください」
「あなたのようにそう何べん断わったって、つまり
「つまり、あなただって、いつか一度は、おくさんをもらうつもりなんでしょう。いやだって、しかたがないじゃありませんか。そういつまでもわがままを言った日には、お父さんにすまないだけですわ。だからね。どうせ誰を持っていっても気に入らないあなたなんだから、つまり誰を持たしたって
代助は落ちついて嫂の言うことをきいていた。梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかった。もし
「あなたのおっしゃるところも、一理あるが、私にも私の考えがあるから、まあ
「そりゃ代さんだって、小供じゃないから、一人前の考えのおありなことはもちろんですわ。私なんぞのいらない差し出口は御迷惑でしょうから、もうなんにも申しますまい。しかしお父さんの身になってごらんなさい。月々の生活費はあなたのいるというだけ今でも出していらっしゃるんだから、つまりあなたは書生時代よりもよけいお父さんの
梅子は少し激したとみえてなおも言いつのろうとしたのを、代助がさえぎった。
「だって、女房を持てばこのうえなおお父さんの厄介にならなくっちゃならないでしょう」
「いいじゃありませんか、お父さんが、そのほうが好いとおっしゃるんだから」
「じゃ、お父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、ぜひ持たせる決心なんですね」
「だって、あなたに好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中さがして歩いたってないんじゃありませんか」
「どうして、それがわかります」
梅子は張りの強い目をすえて、代助を見た。そうして、
「貴方はまるで
「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で言い切った。
代助は今まで
代助は帯の間から時計を出して見た。父の所へ来ている客はなかなか帰りそうにもなかった。空はまたくもってきた。代助はいったん引き上げてまた改めて、父と話をつけに出直すほうが便宜だと考えた。
「僕はまた来ます。出直して来てお父さんにお目にかかるほうが好いでしょう」と立ちにかかった。梅子はそのあいだに回復した。梅子はあくまで人の世話を焼く実意のあるだけに、物を中途で投げることのできない女であった。おさえるように代助を引きとめて、女の名を聞いた。代助はもとより答えなかった。梅子はぜひにとせまった。代助はそれでも応じなかった。すると梅子はなぜその女をもらわないのかと聞き出した。代助は単純にもらえないから、もらわないのだと答えた。梅子はしまいに涙を流した。ひとの尽力を出し抜いたと言って恨んだ。なぜはじめから打ち明けて話さないかと言って責めた。かと思うと、気の毒だと言って同情してくれた。けれども代助は三千代については、ついに何事も語らなかった。梅子はとうとう
「じゃ、あなたからじかにお父さんにお話なさるんですね。それまでは私は黙っていたほうが好いでしょう」と聞いた。代助は黙っていてもらうほうが好いか、話してもらうほうが好いか、自分にもわからなかった。
「そうですね」と
「じゃ、もし話すほうが都合が好さそうだったら話しましょう。もしまたわるいようだったら、なんにも言わずに置くから、あなたがはじめからお話なさい。それがいいでしょう」と梅子は親切に言ってくれた。代助は、
「なにぶんよろしく」と頼んで外へ出た。
歩きながら、自分は今日、みずから進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じことだと、心のうちにつぶやいた。今までは父や嫂を相手に、いいかげんな間隔を取って、柔らかに自我を通して来た。今度はいよいよ本性をあらわさなければ、それを通し切れなくなった。同時に、この方面に向かって、在来の満足を求めうる希望は少なくなった。けれども、まだ逆もどりをする余地はあった。ただ、それにはまた父をごまかす必要が出てくるにちがいなかった。代助は腹の中で今までの
彼はこの次父にあうときは、もう一歩もあとへ引けないように、自分のほうをこしらえておきたかった。それで三千代と会見する前に、また父から呼び出されることを深く恐れた。彼は今日嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与えたのを悔いた。今夜にも話されれば、
約二十分ののち、彼は
しばらくは、どこをどう歩いているか夢中であった。そのあいだ代助の頭には今見た光景ばかりが
「だいぶ遅うがしたな。御飯はもうおすみになりましたか」と聞いた。
代助は飯がほしくなかったので、いらないよしを答えて、門野を追い帰すように、書斎から退けた。が、二、三分立たないうちに、また手を鳴らして呼び出した。
「
「いいえ」
代助は、
「じゃ、よろしい」と言ったぎりであった。門野は物足りなそうに入口に立っていたが、
「先生は、なんですか、お宅へおいでになったんじゃなかったんですか」
「なぜ」と代助はむずかしい顔をした。
「だって、お出かけになるとき、そんなお話でしたから」
代助は門野を相手にするのが
「宅へは行ったさ。──宅から使いが来なければそれで、好いじゃないか」
門野は不得要領に、
「はあそうですか」と言い放して出て行った。代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるということを知っているので、ことによると、帰ったあとからすぐ使いでも寄こしはしまいかと恐れて聞きただしたのであった。門野が
その夜代助は寝ながら、どういう手段で三千代にあおうかという問題を考えた。手紙を車夫に持たせて宅へ呼びにやれば、来ることは来るだろうが、すでに今日嫂との会談がすんだ以上は、明日にも、兄か嫂のために、向こうから襲われないとも限らない。また平岡のうちへ行ってあうことは代助にとって一種の苦痛があった。代助はやむをえず、自分にも三千代にも関係のない所であうよりほかに道はないと思った。
夜半から強く雨が降りだした。
雨は翌日まで晴れなかった。代助は湿っぽい縁側に立って、暗い空模様をながめて、
ひる少し前までは、ぼんやり雨をながめていた。ひる飯をすますやいなや、ゴムのかっぱを引きかけて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話をかけた。
代助は手を打って、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現われた。手紙を受け取りながら、
「たいへん好いにおいですな」と言った。代助は、
「車を持って行って、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけの
代助は、百合の花をながめながら、部屋をおおう強い香の中に、残りなく自己を
「今日はじめて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言った。こう言いえた時、彼は年ごろにない安慰を総身に覚えた。なぜもっと早く帰ることができなかったのかと思った。はじめからなぜ自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見いだした。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水のごとき自然とがあった。そうしてすべてが
やがて、夢からさめた。この一刻の
そのうちに時はだんだん移った。代助はたえず置時計の針を見た。またのぞくように、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空からまっすぐに降っていた。空は前よりもやや暗くなった。重なる雲が一つところで
三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いにはいって来た。
代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられたとおりに腰をかけた。代助はその向こうに席を占めた。二人ははじめて相対した。しかしややしばらくは二人とも、口を開かなかった。
「なにか御用なの」と三千代はようやくにして問うた。代助は、ただ、
「ええ」と言った。二人はそれぎりで、またしばらく雨の音をきいた。
「なにか急な御用なの」と三千代がまた尋ねた。代助はまた、
「ええ」と言った。双方ともいつものように軽くは話しえなかった。代助は酒の力を借りて、おのれを語らなければならないような自分を恥じた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものとかねて覚悟をしていた。けれども、改まって、三千代に対してみると、はじめて、一滴の酒精が恋しくなった。ひそかに次の間へ立って、いつものウィスキーをコップで傾けようかと思ったが、ついにその決心に堪えなかった。彼は青天白日のもとに、尋常の態度で、相手に公言しうることでなければ自己の誠でないと信じたからである。酔いという障壁を築いて、その
「まあ、ゆっくり話しましょう」と言って、巻煙草に火をつけた。三千代の顔は返事を延ばされるたびに悪くなった。
雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨のために、雨の持ち
「さっき表へ出て、あの花を買って来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の目は代助について室の中を一回りした。そのあとで三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。
「兄さんとあなたと清水町にいた時分のことを思い出そうと思って、なるべくたくさん買って来ました」と代助が言った。
「好いにおいですこと」と三千代はひるがえるようにほころびた大きな
「あの時分のことを考えると」と半分言ってやめた。
「覚えていますか」
「覚えていますわ」
「あなたは派手な
「だって、東京へ来たてだったんですもの。じきやめてしまったわ」
「このあいだ百合の花を持って来てくださった時も、銀杏返しじゃなかったですか」
「あら、気がついて。あれは、あの時ぎりなのよ」
「あの時はあんな
「ええ、気まぐれにちょいと結ってみたかったの」
「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」
「そう」と三千代は恥ずかしそうにうけがった。
三千代が清水町にいたころ、代助と心安く口をきくようになってからのことだが、はじめて国から出て来た当時の髪のふうを代助からほめられたことがあった。その時三千代は笑っていたが、それを聞いたあとでも、けっして銀杏返しには結わなかった。二人は今もこのことをよく記憶していた。けれども双方とも口へ出してはなにも語らなかった。
三千代の兄というのはむしろ
三千代が来てから後、兄と代助とはますます親しくなった。どっちが友情の歩を進めたかは、代助自身にもわからなかった。兄が死んだあとで、当時を振り返ってみるごとに、代助はこの親密のうちに一種の意味を認めないわけにゆかなかった。兄は死ぬ時までそれを明言しなかった。代助もあえて何事も語らなかった。かくして、相互の思わくは、相互の間の秘密として葬られてしまった。兄は
代助はそのころから趣味の人として、三千代の兄に臨んでいた。三千代の兄はその方面において、普通以上の感受性を持っていなかった。深い話になると、正直にわからないと自白して、よけいな議論を避けた。どこからか
兄は趣味に関する妹の教育を、すべて代助に委任したごとくにみえた。代助を待って啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会をできるだけ与えるようにつとめた。代助も辞退はしなかった。あとから顧みると、みずから進んでその任にあたったと思われる
代助と三千代は五年の昔を心置きなく語り始めた。語るにしたがって、現在の自己が遠のいて、だんだん当時の学生時代に返ってきた。二人の距離はまた元のように近くなった。
「あの時兄さんが亡くならないで、まだ達者でいたら、今ごろ私はどうしているでしょう」と三千代は、その時を恋しがるように言った。
「兄さんが達者でいたら、別の人になっているわけですか」
「別な人にはなりませんわ。あなたは?」
「僕も同じことです」
三千代はその時、少したしなめるような調子で、
「あら噓」と言った。代助は深い目を三千代の上にすえて、
「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、なおしばらくは目を相手から離さなかった。三千代はたちまち視線をそらした。そうして、なかばひとりごとのように、
「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と言った。
三千代の言葉は普通の談話としてはあまりに声が低すぎた。代助は消えて行く影を踏まえるごとくに、すぐその尾を捕えた。
「違やしません。あなたにはただそう見えるだけです。そう見えたってしかたがないが、それは
代助のほうは通例よりも熱心にはっきりした声で自己を弁護するごとくに言った。三千代の声はますます低かった。
「僻目でもなんでもよくってよ」
代助は黙って三千代の様子をうかがった。三千代ははじめから、目を伏せていた。代助にはその長い
「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけのことをあなたに話したいためにわざわざあなたを呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘い
「僕はそれをあなたに承知してもらいたいのです。承知してください」
三千代はなお泣いた。代助に返事をするどころではなかった。
「承知してくださるでしょう」と耳のはたで言った。三千代は、まだ顔をおおっていた。しゃくり上げながら、
「あんまりだわ」と言う声がハンケチの中で聞こえた。それが代助の聴覚を電流のごとくに冒した。代助は自分の告白が遅すぎたということをせつに自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ
「僕は三、四年前に、あなたにそう打ち明けなければならなかったのです」と言って、
「打ち明けてくださらなくってもいいから、なぜ」と言いかけて、ちょっと
「僕が悪い。堪忍してください」
代助は三千代の
「残酷だわ」と言った。小さい口元の肉がふるうように動いた。
「残酷と言われてもしかたがありません。そのかわり僕はそれだけの罰を受けています」
三千代は不思議な目をして顔を上げたが、
「どうして」と聞いた。
「あなたが結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」
「だって、それはあなたの御かってじゃありませんか」
「かってじゃありません。もらおうと思っても、もらえないのです。それから以後、
「復讎」と三千代は言った。この二字を恐るるもののごとくに目を働かした。「私はこれでも、嫁に行ってから、
「いや僕はあなたにどこまでも復讎してもらいたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、あなたを呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実はあなたから復讎されている一部分としか思やしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じことです。しかし僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪を犯すほうが、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、あなたの前に
三千代は涙の中ではじめて笑った。けれども
「僕はいまさらこんなことをあなたに言うのは、残酷だと承知しています。それがあなたに残酷に聞こえれば聞こえるほど僕はあなたに対して成功したも同様になるんだからしかたがない。そのうえ僕はこんな残酷なことを打ち明けなければ、もう生きていることができなくなった。つまりわがままです。だからあやまるんです」
「残酷ではございません。だからあやまるのはもうよしてちょうだい」
三千代の調子は、この時急にはっきりした。沈んではいたが、前に比べると非常に落ちついた。しかししばらくしてから、また
「ただ、もう少し早く言ってくださると」と言いかけて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。──
「じゃ僕が生涯黙っていたほうが、あなたには幸福だったんですか」
「そうじゃないのよ」と三千代は力をこめて打ち消した。「私だって、あなたがそう言ってくださらなければ、生きていられなくなったかもしれませんわ」
今度は代助のほうが微笑した。
「それじゃかまわないでしょう」
「かまわないよりありがたいわ。ただ──」
「ただ平岡にすまないというんでしょう」
三千代は不安らしくうなずいた。代助はこう聞いた。──
「三千代さん、正直に言ってごらん。あなたは平岡を愛しているんですか」
三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が
「では、平岡はあなたを愛しているんですか」
三千代はやはりうつ向いていた。代助は思い切った判断を、自分の質問のうえに与えようとして、すでにその言葉が口まで出かかった時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛もほとんど消えていた。涙さえたいていは乾いた。
「しようがない。覚悟をきめましょう」
代助は背中から水をかぶったようにふるえた。社会からおい放たるべき二人の魂は、ただ二人むかい合って、互いを穴のあくほどながめていた。そうして、すべてにさからって、互いをいっしょに持ち来たした力を互いとおそれおののいた。
しばらくすると、三千代は急に物に襲われたように、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかった。
二人はこうじっとしているうちに、五十年を
しばらくして、三千代はハンケチを取って、涙をきれいにふいたが、静かに、
「私もう帰ってよ」と言った。代助は、
「お帰りなさい」と答えた。
雨は小降りになったが、代助はもとより三千代をひとり返す気はなかった。わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家までついて行くところを、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲がるまで見送っていた。それからゆっくり歩をめぐらしながら、腹の中で、
「万事終わる」と宣告した。
雨は夕方やんで、夜に入ったら、雲がしきりに飛んだ。そのうち洗ったような月が出た。代助は光を浴びる庭の
寝る時になってはじめて再び座敷へ上がった。室の中は花のにおいがまだまったく抜けていなかった。
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