一三
四日ほどしてから、代助はまた父の命令で、高木の
プラットフォームで高木は突然代助に向かって、
「どうですこの汽車で、神戸まで遊びに行きませんか」と勧めた。代助はただありがとうと答えただけであった。いよいよ汽車の出るまぎわに、梅子はわざと、窓ぎわに近寄って、とくに令嬢の名を呼んで、
「近い内にまたぜひいらっしゃい」と言った。令嬢は窓のなかで、丁寧に
車に乗ってすぐ牛込へ帰って、それなり書斎へはいって、仰向けに倒れた。門野はちょっとその様子をのぞきに来たが、代助の平生を知っているので、言葉もかけず、
代助は寝ながら、自分の近き未来をどうなるものだろうと考えた。こうして
彼は父と違って、当初からある計画をこしらえて、自然をその計画どおりにしいる古風な人ではなかった。彼は自然をもって人間をこしらえたすべての計画よりも偉大なものと信じていたからである。だから父が、自分の自然にさからって、父の計画どおりをしいるならば、それは、去られた妻が、離縁状を
彼は父と兄と
彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像してみた。そうしてそこに一種の苦痛を認めた。けれども、その苦痛は堪えられない程度のものではなかった。むしろそれから生ずる財源の
もし
彼は寝ながら、いつまでも考えた。けれども、彼の頭はいつまでもどこへも到着することができなかった。彼は自分の寿命をきめる権利を持たぬごとく、自分の未来をもきめえなかった。同時に、自分の寿命に、たいていの見当をつけうるごとく、自分の未来にも多少の影を認めた。そうして、いたずらにその影を
その時代助の脳の活動は、
すると突然
代助はこの時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽くしてしまうまで横になって待っていた。それから起きた。茶の間へ来てみると、自分の膳の上に
代助は風呂場へ行って、頭をぬらしたあと、ひとり茶の間の膳についた。そこで、さみしい食事をすまして、再び書斎にもどったが、久しぶりに今日は少し書見をしようという心組みであった。
かねて読みかけてある洋書を、
代助は今
彼は書物を伏せた。そうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考えた。同時にもう安息することもできなくなったと考えた。彼の苦痛はいつものアンニュイではなかった。なにもするのがものういというのとは違って、なにかしなくてはいられない頭の状態であった。
彼は立ち上がって、茶の間へ来て、たたんである羽織をまた引っかけた。そうして玄関に脱ぎすてた
彼はその晩を赤坂のある待合いで暮らした。そこでおもしろい話を聞いた。ある若くて美しい女が、さる男と関係して、その種を宿したところが、いよいよ子を生む段になって、涙をこぼして悲しがった。あとからその訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情けないからだと答えた。この女は愛をもっぱらにする時機があまり短すぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲ってきたのに、一種の
翌日になって、代助はとうとうまた三千代にあいに行った。その時彼は腹の中で、せんだって置いてきた金のことを、三千代が平岡に話したろうか、話さなかったろうか、もし話したとすればどんな結果を夫婦のうえに生じたろうか、それが気がかりだからという口実をこしらえた。彼はこの気がかりが、自分を
代助は家を出る前に、
平岡の
「また来ました」と言った時、三千代はぬれた手を振って、馳け込むように勝手から上がった。同時に表へ回れと目で合図をした。三千代は自分で
「無用心だから」と言った。今まで日のとおる澄んだ空気の下で、手を動かしていたせいで、頰のところがほてって見えた。それが
「お待ちどおさま」と言って、代助を
代助はまた忙がしいところを、じゃまに来てすまないというような尋常な言い訳を述べながら、この無趣味な庭をながめた。その時三千代をこんな家へ入れておくのは実際気の毒だという気が起こった。三千代は水いじりで
「結構な身分ですね」とひやかした。三千代は自分の荒涼な胸のうちを代助に訴える様子もなかった。黙って、次の間へ立って行った。
「いいでしょう、ね」と代助に謝罪するように言って、すぐまた立って次の間へ行った。そうして、世の中をはばかるように、記念の指環をそこそこに用簞笥にしまって元の座にもどった。代助は指環については何事も語らなかった。庭の方を見て、
「そんなにひまなら、庭の草でも取ったら、どうです」と言った。すると今度は三千代のほうが黙ってしまった。それが、しばらく続いたあとで代助はまた改めて聞いた。
「このあいだのことを平岡君に話したんですか」
三千代は低い声で、
「いいえ」と答えた。
「じゃ、まだ知らないんですか」と聞き返した。
その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、このごろ平岡はついぞ落ちついて宅にいたことがないので、つい話しそびれてまだ知らせずにいるということであった。代助はもとより三千代の説明を噓とは思わなかった。けれども、五分のひまさえあれば夫に話されることを、今日までそれなりにしてあるのは、三千代の腹の中に、なんだか話しにくいあるわだかまりがあるからだと思わずにはいられなかった。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた。けれどもそれはさほどに代助の良心をさすには至らなかった。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡もこの結果に対して明らかに責めをわかたなければならないと思ったからである。
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねてみた。三千代は例によって多くを語ることを好まなかった。しかし平岡の妻に対する仕打ちが結婚当時と変わっているのは明らかであった。代助は夫婦が東京へ帰った当時すでにそれを見抜いた。それから以後改まって
同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、
三千代の
「ひとつ私が平岡君にあって、よく話してみよう」と言った。三千代はさびしい顔をして代助を見た。うまくいけば結構だが、やりそくなえばますます三千代の迷惑になるばかりだとは代助も承知していたので、しいてそうしようとも主張しかねた。三千代はまた立って次の間から一封の書状を持って来た。書状は薄青い状袋へはいっていた。北海道にいる父から三千代へあてたものであった。三千代は状袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。
手紙には向こうの思わしくないことや、物価の高くてくらしにくいことや、親類も縁者もなくて心細いことや、東京の方へ出たいが都合はつくまいかということや、──すべてあわれなことばかり書いてあった。代助は丁寧に手紙を巻き返して、三千代に渡した。その時三千代は目の中に涙をためていた。
三千代の父はかつて多少の財産ととなえられるべき
「あなたはうらやましいのね」とまたたきながら言った。代助はそれを否定する勇気に乏しかった。しばらくしてからまた、
「なんだって、まだ奥さんをおもらいなさらないの」と聞いた。代助はこの問いにも答えることができなかった。
しばらく黙然として三千代の顔を見ているうちに、女の頰から血の色がしだいに退いていって、普通よりは目につくほど
「
表へ出た代助は、ふらふらと一丁ほど歩いた。いいところで切り上げたという意識があるべきはずであるのに、彼の心にはそういう満足がちっともなかった。といって、もっと三千代と対座していて、自然の命ずるがままに、話し尽くして帰ればよかったという後悔もなかった。彼は、あすこで切り上げても、五分十分ののち切り上げても、
「たいへん顔の色が悪いようですね、どうかなさいましたか」と聞いた。代助は
それから二日ほど代助はまったく外出しなかった。三日目の午後、電車に乗って、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡にあって、三千代のために十分話をする決心であった。給仕に名刺を渡して、
「やあ、しばらく」と言って代助の前に立った。代助も相手にそそのかされたように立ち上がった。二人は立ちながらちょっと話をした。ちょうど編集のいそがしい時でゆっくりどうすることもできなかった。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポケットから時計を出して見て、
「失敬だが、もう一時間ほどして来てくれないか」と言った。代助は帽子を取って、また暗い埃だらけの階段をおりた。表へ出ると、それでも涼しい風が吹いた。
代助はあてもなく、そこいらをぶらついた。そうして、いよいよ平岡とあったら、どんなふうに話を切り出そうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与えたいためにほかならなかった。けれども、それがために、かえって平岡の感情を害することがあるかもしれないと思った。代助はその悪結果の極端として、平岡と自分の間に起こりうる破裂をさえ予想した。しかし、その時はどんなぐあいにして、三千代を救おうかという成案はなかった。代助は三千代と相対ずくで、自分ら二人の間をあれ以上にどうかする勇気をもたなかったと同時に、三千代のために、なにかしなくてはいられなくなったのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策というよりも、むしろ情の
裏通りを三、四丁来たところで、平岡が先へ立ってある家にはいった。座敷の軒に
会話は新聞社内の有様から始まった。平岡は忙しいようでかえって楽な商売でいいと言った。その語気には別に負け惜しみの様子も見えなかった。代助は、それは無責任だからだろうとからかった。平岡はまじめになって、弁解をした。そうして、
「なるほどただ筆が達者なだけじゃしようがあるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかった。すると、平岡はこう言った。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれだけでもなかなかおもしろい事実があがっている。ちと、君の
代助は自分の平生の観察から、こんなことを言われて、驚くほどぼんやりしてはいなかった。
「書くのもおもしろいだろう。そのかわり公平に願いたいな」と言った。
「むろん噓は書かないつもりだ」
「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に
平岡はこの時邪気のある笑い方をした。そうして、
「日糖事件だけじゃ物足りないからね」と奥歯に物のはさまったように言った。代助は黙って酒を飲んだ。話はこの調子でだんだんはずみを失うようにみえた。すると平岡は、実業界の内状に関連するとでも思ったものか、なにかの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起こった逸話を代助に
代助はこの話を聞いた時、その実社会に触れている点において、現代的
これも代助の耳には、まじめな響きを与えなかった。
「やっぱり現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡はさっきの批評を繰り返しながら、代助をいどんだ。代助はそうさと笑ったが、この方面にはあまり興味がないのみならず、今日はいつものように普通の世間話をする気でないので、社会主義のことはそれなりにしておいた。さっき平岡の呼ぼうという芸者をむりにやめさしたのもこれがためであった。
「実は君に話したいことがあるんだが」と代助はついに言いだした。すると、平岡は急に様子を変えて、落ちつかない目を代助の上に注いだが、卒然として、
「そりゃ、僕もとうから、どうかするつもりなんだけれども、今のところじゃしかたがない。もう少し待ってくれたまえ。そのかわり君の
「君もだいぶ変わったね」とひややかに言った。
「君の変わったごとく変わっちまった。こうすれちゃしかたがない。だから、もう少し待ってくれたまえ」と答えて、平岡はわざとらしい笑い方をした。
代助は平岡の言語のいかんにかかわらず、自分の言うことだけは言おうときめた。なまじい、借金の催促に来たんじゃないなどと弁明すると、また平岡がその裏を行くのが
「君は近来こういう所へだいぶ
「君のように金回りがよくないから、そう豪遊もできないが、つきあいだからしかたがないよ」と言って、平岡は器用な手つきをして
「よけいなことだが、それで
「うん。まあ、いいかげんにやってるさ」
こう言った平岡は、急に調子を落として、きわめて気のない返事をした。代助はそれぎり食い込めなくなった。やむをえず、
「ふだんは今ごろもう家へ帰っているんだろう。このあいだ僕がたずねた時はだいぶ遅かったようだが」と聞いた。すると、平岡はやはり問題を回避するような語気で、
「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこういう不規則な性質だから、しかたがないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、
「三千代さんは
「なに大丈夫だ。あいつもだいぶ変わったからね」と言って、平岡は代助を見た。代助はその
「そんなことが、あろうはずがない。いくら、変わったって、そりゃただ年を取っただけの変化だ。なるべく帰って三千代さんに安慰を与えてやれ」
「君はそう思うか」と言いさま平岡がぐいと飲んだ。代助は、ただ、
「思うかって、誰だってそう思わざるをえんじゃないか」と半ば口から出まかせに答えた。
「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。だいぶ変わったよ。ああ、だいぶ変わったよ」と平岡はまたぐいと飲んだ。代助は覚えず胸の
「
「だって、僕は家へ帰ってもおもしろくないからしかたがないじゃないか」
「そんなはずはない」
平岡は目をまるくしてまた代助を見た。代助は少し呼吸が
「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金もいる。したがって家の経済もうまくいかなくなる。だんだん家庭がおもしろくなくなるだけじゃないか」
平岡は、白シャツの袖を腕の中途までまくり上げて、
「家庭か。家庭もあまり
この言葉を聞いたとき、代助は平岡がにくくなった。あからさまに自分の腹の中を言うと、そんなに家庭が嫌いなら、嫌いでよし、そのかわり細君をとっちまうぞとはっきり知らせたかった。けれども二人の問答は、そこまでいくには、まだなかなか間があった。代助はもう一ぺんほかの方面から平岡の内部に触れてみた。
「君が東京へ来たてに、僕は君から説教されたね。なにかやれって」
「うん。そうして君の消極な哲学を聞かされて驚いた」
代助は実際平岡が驚いたろうと思った。その時の平岡は、熱病にかかった人間のごとく
「僕のように精神的に敗残した人間は、やむをえず、ああいう消極な意見も出すが。──元来意見があって、人がそれに
「むろん大いにやるつもりだ」
平岡の答えはただこの一句ぎりであった。代助は腹の中で首を傾けた。
「新聞でやるつもりかね」
平岡はちょっと
「新聞にいるうちは、新聞でやるつもりだ」
「大いに要領を得ている。僕だって君の一生涯のことを聞いているんじゃないから、返事はそれでたくさんだ。しかし新聞で君におもしろい活動ができるかね」
「できるつもりだ」と平岡は簡明な挨拶をした。
話はここまで来ても、ただ抽象的に進んだだけであった。代助は言葉のうえでこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届けることはちっともできなかった。代助はなんとなく責任のある政府委員か弁護士を相手にしているような気がした。代助はこの時思い切った政略的なお世辞を言った。それには軍神
代助はここまで述べてみたが、元来がお世辞のうえに、言うことがあまり書生らしいので、自分の内心には多少
「いやありがとう」と言っただけであった。べつだん腹を立てた様子も見えなかったが、ちっとも感激していないのは、この返事でも明らかであった。
代助は少々平岡を低く見すぎたのに恥じ入った。実はこの側から、彼の心を動かして、うまく油ののったところを、中途から転がして、元の家庭へすべりこませるのが、代助の計画であった。代助はこの
その夜代助は平岡とついにぐずぐずでわかれた。会見の結果からいうと、なんのために平岡を新聞社にたずねたのだか、自分にもわからなかった。平岡のほうから見れば、なおさらそうであった。代助は畢竟なにしに新聞社まで出かけて来たのか、帰るまでついに問いつめずにすんでしまった。
代助は翌日になってひとり書斎で、
もし思い切って、三千代を引き合いに出して、自分の考えどおりを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強いことが言えた。もっと平岡をゆすぶることができた。もっと彼の
代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していたことを
代助は昔の人が、頭脳の
ここで彼は
彼は三千代と自分の関係を、天意によって、──彼はそれを天意としか考えられなかった。──発酵させることの社会的危険を承知していた。天意にはかなうが、人の
彼はまた反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従うかわりに、自己の意志に
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