一三

 四日ほどしてから、代助はまた父の命令で、高木のしゆつたつを新橋まで見送った。その日は眠いところをむりに早く起こされて、寝足らない頭を風に吹かしたせいか、停車ステーシヨンに着くころ、髪の毛の中にかぜを引いたような気がした。待合所にはいるやいなや、梅子から顔色がよくないという注意を受けた。代助はなんにも答えずに、帽子を脱いで、時々ぬれた頭をおさえた。しまいには朝きれいにわけた髪がもじゃもじゃになった。

 プラットフォームで高木は突然代助に向かって、

 「どうですこの汽車で、神戸まで遊びに行きませんか」と勧めた。代助はただありがとうと答えただけであった。いよいよ汽車の出るまぎわに、梅子はわざと、窓ぎわに近寄って、とくに令嬢の名を呼んで、

 「近い内にまたぜひいらっしゃい」と言った。令嬢は窓のなかで、丁寧にしやくしたが、窓の外へはべつだんの言葉も聞こえなかった。汽車を見送って、またかいさつを出たよつたりは、それぎり離れ離れになった。梅子は代助を誘って青山へ連れて行こうとしたが、代助は頭をおさえて応じなかった。

 車に乗ってすぐ牛込へ帰って、それなり書斎へはいって、仰向けに倒れた。門野はちょっとその様子をのぞきに来たが、代助の平生を知っているので、言葉もかけず、に引っかけてある羽織だけをかかえて出て行った。

 代助は寝ながら、自分の近き未来をどうなるものだろうと考えた。こうしてうちっておけば、ぜひとも嫁をもらわなければならなくなる。嫁はもう今までにだいぶ断わっている。このうえ断われば、あいをつかされるか、ほんとうにおこりだされるか、どっちかになるらしい。もし愛想をつかされて、結婚勧誘をこれかぎり断念してもらえれば、それに越したことはないが、おこられるのははなはだ迷惑である。といって、進まぬものをもらいましょうというのはきんだいじんとして鹿ている。代助はこのジレンマの間にていかいした。

 彼は父と違って、当初からある計画をこしらえて、自然をその計画どおりにしいる古風な人ではなかった。彼は自然をもって人間をこしらえたすべての計画よりも偉大なものと信じていたからである。だから父が、自分の自然にさからって、父の計画どおりをしいるならば、それは、去られた妻が、離縁状をたてに夫婦の関係を証拠立てようとすると一般であると考えた。けれども、そんな理屈を、父に向かって述べる気は、まるでなかった。父を理攻めにすることは困難中の困難であった。その困難を冒したところで、代助にとってはなんらの利益もなかった。その結果は父の不興を招くだけで、理由を言わずに結婚を拒絶するのとえらむところはなかった。

 彼は父と兄とあによめの三人のうちで、父の人格にもっとも疑いを置いた。今度の結婚にしても、結婚そのものが必ずしも父のゆいいつの目的ではあるまいとまで推察した。けれども父の本意がどこにあるかは、もとより明らかに知る機会を与えられていなかった。彼は子として、父の心意をかようにすることを、不徳義とは考えなかった。したがって自分だけが、多くの親子のうちで、もっとも不幸なものであるというような考えは少しも起こさなかった。ただこれがため、今日までの程度より以上に、父と自分の間がへだたってきそうなのを不快に感じた。

 彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像してみた。そうしてそこに一種の苦痛を認めた。けれども、その苦痛は堪えられない程度のものではなかった。むしろそれから生ずる財源のぜつのほうが恐ろしかった。

 もし馬鈴薯ポテトーダイヤモンドよりたいせつになったら、人間はもうだめであると、代助は平生から考えていた。こう父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼はいやでも金剛石を放り出して、馬鈴薯にかじりつかなければならない。そうしてそのつぐないには自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君であった。

 彼は寝ながら、いつまでも考えた。けれども、彼の頭はいつまでもどこへも到着することができなかった。彼は自分の寿命をきめる権利を持たぬごとく、自分の未来をもきめえなかった。同時に、自分の寿命に、たいていの見当をつけうるごとく、自分の未来にも多少の影を認めた。そうして、いたずらにその影をそくしようと企てた。

 その時代助の脳の活動は、ゆうやみを驚かすかわほりのような幻像をちらりちらりと生みだすにすぎなかった。そのはばたきの光を追いかけて寝ているうちに、頭がゆかから浮き上がって、ふわふわするように思われてきた。そうして、いつのまにか軽い眠りに陥った。

 すると突然だれか耳のはたで半鐘を打った。代助は火事という意識さえまだ起こらない先に目をさました。けれどもはね起きもせずに寝ていた。彼の夢にこんな音の出るのはほとんど普通であった。ある時はそれが正気に返ったあとまでも響いていた。五、六日前彼は、彼の家の大いに揺れる自覚とともに眠りを破った。その時彼は明らかに、彼の下に動く畳のさまを、肩と腰と背の一部に感じた。彼はまた夢に得た心臓の鼓動を、さめたあとまで持ち伝えることがしばしばあった。そんな場合にはセイントのごとく、胸に手を当てて、目をあけたまま、じっと天井を見つめていた。

 代助はこの時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽くしてしまうまで横になって待っていた。それから起きた。茶の間へ来てみると、自分の膳の上にだれがかけて、ばちのそばにすえてあった。柱時計はもう十二時回っていた。婆さんは、飯をすましたあとと見えて、じよでおはちの上にひじを突いて居眠りをしていた。門野はどこへ行ったか影さえ見えなかった。

 代助は風呂場へ行って、頭をぬらしたあと、ひとり茶の間の膳についた。そこで、さみしい食事をすまして、再び書斎にもどったが、久しぶりに今日は少し書見をしようという心組みであった。

 かねて読みかけてある洋書を、しおりのはさんであるところであけてみると、前後の関係をまるで忘れていた。代助の記憶にとってこういう現象はむしろ珍らしかった。彼は学校生活の時代から一種の読書家であった。卒業の後も、衣食の煩いなしに、購読の利益を適意に収めうる身分を誇りにしていた。一ページも目を通さないで、日を送ることがあると、習慣上なにとなく荒廃の感をもよおした。だからたいていな事故があっても、なるべく都合して、活字に親しんだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領のような気がした。

 代助は今ぼうぜんとして、煙草をくゆらしながら、読みかけたページを二、三枚あとへ繰ってみた。そこにどんな議論があって、それがどう続くのか、頭をこしらえるためにちょっと骨をおった。その努力ははしけからさんばしへ移るほど楽ではなかった。食い違った断面の甲にまごついているものが、急に乙に移るべく余儀なくされたようであった。代助はそれでもしんぼうして、約二時間ほど目をページの上にさらしていた。がしまいにとうとう堪え切れなくなった。彼の読んでいるものは、活字のあつまりとして、ある意味をもって、彼の頭に映ずるにはちがいないが、彼の肉や血に回るしきはいっこう見えなかった。彼はひようのうを隔てて、氷に食いついた時のように物足らなく思った。

 彼は書物を伏せた。そうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考えた。同時にもう安息することもできなくなったと考えた。彼の苦痛はいつものアンニュイではなかった。なにもするのがものういというのとは違って、なにかしなくてはいられない頭の状態であった。

 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、たたんである羽織をまた引っかけた。そうして玄関に脱ぎすてたをはいてけ出すように門を出た。時に四時ごろであった。神楽かぐらざかをおりて、当てもなく、目についた第一の電車に乗った。車掌に行く先を問われたとき、口から出まかせの返事をした。紙入れをあけたら、三千代にやった旅行費の余りが、みつりの深底のほうにまだはいっていた。代助は乗車券を買ったあとで、さつの数を調べてみた。

 彼はその晩を赤坂のある待合いで暮らした。そこでおもしろい話を聞いた。ある若くて美しい女が、さる男と関係して、その種を宿したところが、いよいよ子を生む段になって、涙をこぼして悲しがった。あとからその訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情けないからだと答えた。この女は愛をもっぱらにする時機があまり短すぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲ってきたのに、一種のじようを感じたのであった。それはむろん堅気の女ではなかった。代助は肉の美と、霊の愛にのみおのれをささげて、その他を顧みぬ女の心理状態として、この話をはなはだ興味あるものと思った。

 翌日になって、代助はとうとうまた三千代にあいに行った。その時彼は腹の中で、せんだって置いてきた金のことを、三千代が平岡に話したろうか、話さなかったろうか、もし話したとすればどんな結果を夫婦のうえに生じたろうか、それが気がかりだからという口実をこしらえた。彼はこの気がかりが、自分をって、じっと落ちつかれないように、東西を引っ張り回したあげく、ついに三千代のほうに吹きつけるのだと解釈した。

 代助は家を出る前に、昨夕ゆうべ着た肌着も単衣ひとえもことごとく改めて気を新たにした。外は寒暖計のもりの日をおうてあがるころであった。歩いていると、湿っぽいがかえって待ち遠しいほどさかんに日が照った。代助は昨夕の反動で、この陽気な空気の中に落ちる自分の黒い影が苦になった。広いつばの夏帽をかぶりながら、早く雨季に入ればいいという心持ちがあった。その雨季はもう二、三日の眼前にせまっていた。彼の頭はそれを予報するかのように、どんよりと重かった。

 平岡のうちの前へ来た時は、くもった頭を厚くおおう髪の根元がれていた。代助は家にはいる前にまず帽子を脱いだ。こうには締りがしてあった。物音をめあてに裏へ回ると、三千代は下女と張り物をしていた。物置の横へ立てかけた張り板の中途から、細い首を前へ出して、こごみながら、くちゃくちゃになったものをたんねんに引き伸ばしつつあった手をとめて、代助を見た。ちょっとはなんとも言わなかった。代助も、しばらくはただ立っていた。ようやくにして、

 「また来ました」と言った時、三千代はぬれた手を振って、馳け込むように勝手から上がった。同時に表へ回れと目で合図をした。三千代は自分でくつぬぎへおりて、格子の締りをはずしながら、

 「無用心だから」と言った。今まで日のとおる澄んだ空気の下で、手を動かしていたせいで、頰のところがほてって見えた。それがひたいぎわへきていつものようにあおじろく変わっているあたりに、汗が少しにじみだした。代助は格子の外から、三千代のきわめて薄手な皮膚をながめて、戸のあくのを静かに待った。三千代は、

 「お待ちどおさま」と言って、代助をいざなうように、一足横へのいた。代助は三千代とすれすれになって内へはいった。座敷へ来てみると、平岡の机の前に、紫のとんがちゃんとすえてあった。代助はそれを見た時ちょっといやな心持ちがした。土のれない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しくはえた。

 代助はまた忙がしいところを、じゃまに来てすまないというような尋常な言い訳を述べながら、この無趣味な庭をながめた。その時三千代をこんな家へ入れておくのは実際気の毒だという気が起こった。三千代は水いじりでつまさきの少しふやけた手を膝の上に重ねて、あまり退屈だから張り物をしていたところだと言った。三千代の退屈という意味は、夫が始終外へ出ていて、単調な留守居の時間をりように苦しむということであった。代助はわざと、

 「結構な身分ですね」とひやかした。三千代は自分の荒涼な胸のうちを代助に訴える様子もなかった。黙って、次の間へ立って行った。ようだんの環を響かして、赤いビロードで張ったさい箱を持って出て来た。代助の前へすわって、それをあけた。中には昔代助のやったゆびがちゃんとはいっていた。三千代は、ただ

 「いいでしょう、ね」と代助に謝罪するように言って、すぐまた立って次の間へ行った。そうして、世の中をはばかるように、記念の指環をそこそこに用簞笥にしまって元の座にもどった。代助は指環については何事も語らなかった。庭の方を見て、

 「そんなにひまなら、庭の草でも取ったら、どうです」と言った。すると今度は三千代のほうが黙ってしまった。それが、しばらく続いたあとで代助はまた改めて聞いた。

 「このあいだのことを平岡君に話したんですか」

 三千代は低い声で、

 「いいえ」と答えた。

 「じゃ、まだ知らないんですか」と聞き返した。

 その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、このごろ平岡はついぞ落ちついて宅にいたことがないので、つい話しそびれてまだ知らせずにいるということであった。代助はもとより三千代の説明を噓とは思わなかった。けれども、五分のひまさえあれば夫に話されることを、今日までそれなりにしてあるのは、三千代の腹の中に、なんだか話しにくいあるわだかまりがあるからだと思わずにはいられなかった。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた。けれどもそれはさほどに代助の良心をさすには至らなかった。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡もこの結果に対して明らかに責めをわかたなければならないと思ったからである。

 代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねてみた。三千代は例によって多くを語ることを好まなかった。しかし平岡の妻に対する仕打ちが結婚当時と変わっているのは明らかであった。代助は夫婦が東京へ帰った当時すでにそれを見抜いた。それから以後改まって両人ふたりの腹の中を聞いたことはないが、それが日ごとによくないほうに、速度を加えて進行しつつあるのはほとんど争うべからざる事実とみえた。夫婦の間に、代助という第三者が点ぜられたがために、このかくが起こったとすれば、代助はこの方面に向かって、もっと注意深く働いたかもしれなかった。けれども代助は自己の悟性に訴えて、そうは信ずることができなかった。彼はこの結果の一部分を三千代の病気に帰した。そうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。またその一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡のゆうとうに帰した。また他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡のほうらつから生じた経済事状に帰した。すべてを概括したうえで、平岡はもらうべからざる人をもらい、三千代はとつぐべからざる人に嫁いだのだと解決した。代助は心のうちでいたく自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼のために周旋したことを後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすがために、平岡が妻から離れたとは、どうしても思いえなかった。

 同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、ひつ条件としてつのりつつあることもまた一方ではいなみきれなかった。三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代のあいだがらは、どのくらいの程度まで進んでいたかは、しばらくおくとしても、彼は現在の三千代にはけっして無頓着でいるわけにはゆかなかった。彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は小供をくした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。ただし、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みるほど大胆ではなかった。彼の愛はそう逆上してはいなかった。

 三千代ののあたり、苦しんでいるのは経済問題であった。平岡が自力で給しうるだけの生活費を勝手の方へ回さないことは、三千代のこうふんでたしかであった。代助はこの点だけでもまずどうかしなければなるまいと考えた。それで、

 「ひとつ私が平岡君にあって、よく話してみよう」と言った。三千代はさびしい顔をして代助を見た。うまくいけば結構だが、やりそくなえばますます三千代の迷惑になるばかりだとは代助も承知していたので、しいてそうしようとも主張しかねた。三千代はまた立って次の間から一封の書状を持って来た。書状は薄青い状袋へはいっていた。北海道にいる父から三千代へあてたものであった。三千代は状袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。

 手紙には向こうの思わしくないことや、物価の高くてくらしにくいことや、親類も縁者もなくて心細いことや、東京の方へ出たいが都合はつくまいかということや、──すべてあわれなことばかり書いてあった。代助は丁寧に手紙を巻き返して、三千代に渡した。その時三千代は目の中に涙をためていた。

 三千代の父はかつて多少の財産ととなえられるべきはたの所有者であった。日露戦争の当時、人の勧めに応じて、株に手を出してまったくやりそくなってから、潔よく祖先の地を売り払って、北海道へ渡ったのである。その後の消息は、代助も今この手紙を見せられるまでいっこう知らなかった。親類はあれどもなきがごとしだとは三千代の兄が生きている時分よく代助に語った言葉であった。はたして三千代は、父と平岡ばかりをたよりに生きていた。

 「あなたはうらやましいのね」とまたたきながら言った。代助はそれを否定する勇気に乏しかった。しばらくしてからまた、

 「なんだって、まだ奥さんをおもらいなさらないの」と聞いた。代助はこの問いにも答えることができなかった。

 しばらく黙然として三千代の顔を見ているうちに、女の頰から血の色がしだいに退いていって、普通よりは目につくほどあおじろくなった。その時代助は三千代と差し向かいで、より長くすわっていることの危険に、はじめて気がついた。自然の情合いから流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼らをって、じゆんじようらちを踏み超えさせるのは、今二、三分のうちにあった。代助はもとよりそれより先へ進んでも、なお素知らぬ顔で引き返しうる、会話のほうを心得ていた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうち出てくるなんによの情話が、あまりに露骨で、あまりにほうで、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪しんでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳しえぬ趣味のものと考えていた。したがって彼は自分と三千代との関係を発展させるために、舶来の台詞せりふを用いる意志はごうもなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で十分用が足りたのである。が、そこに、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置にすべり込む危険が潜んでいた。代助はかろうじて、今一歩というきわどいところで、踏みとどまった。帰る時、三千代は玄関まで送ってきて、

 「さむしくっていけないから、また来てちょうだい」と言った。下女はまだ裏で張り物をしていた。

 表へ出た代助は、ふらふらと一丁ほど歩いた。いいところで切り上げたという意識があるべきはずであるのに、彼の心にはそういう満足がちっともなかった。といって、もっと三千代と対座していて、自然の命ずるがままに、話し尽くして帰ればよかったという後悔もなかった。彼は、あすこで切り上げても、五分十分ののち切り上げても、ひつきようは同じことであったと思い出した。自分と三千代との現在の関係は、このまえあった時、すでに発展していたのだと思い出した。いな、そのまえあった時すでに、と思い出した。代助は二人の過去を順次にさかのぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見いださないことはなかった。畢竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、すでに自分に嫁いでいたのも同じことだと考えつめた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼はその重量のために、足がふらついた。家に帰った時、門野が、

 「たいへん顔の色が悪いようですね、どうかなさいましたか」と聞いた。代助はへ行って、あおい額からきれいに汗をふき取った。そうして、長く延びすぎた髪を冷水に浸した。

 それから二日ほど代助はまったく外出しなかった。三日目の午後、電車に乗って、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡にあって、三千代のために十分話をする決心であった。給仕に名刺を渡して、ほこりだらけの受付に待っている間、彼はしばしばたもとからハンケチを出して、鼻をおおうた。やがて、二階の応接間へ案内された。そこは風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭いであった。代助はここで煙草を一本吹かした。編集室と書いた戸口が始終あいて、人が出たりはいったりした。代助のあいにきた平岡もその戸口から現われた。せんだって見た夏服を着て、相変わらずきれいなカラとカフスをかけていた。忙しそうに、

 「やあ、しばらく」と言って代助の前に立った。代助も相手にそそのかされたように立ち上がった。二人は立ちながらちょっと話をした。ちょうど編集のいそがしい時でゆっくりどうすることもできなかった。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポケットから時計を出して見て、

 「失敬だが、もう一時間ほどして来てくれないか」と言った。代助は帽子を取って、また暗い埃だらけの階段をおりた。表へ出ると、それでも涼しい風が吹いた。

 代助はあてもなく、そこいらをぶらついた。そうして、いよいよ平岡とあったら、どんなふうに話を切り出そうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与えたいためにほかならなかった。けれども、それがために、かえって平岡の感情を害することがあるかもしれないと思った。代助はその悪結果の極端として、平岡と自分の間に起こりうる破裂をさえ予想した。しかし、その時はどんなぐあいにして、三千代を救おうかという成案はなかった。代助は三千代と相対ずくで、自分ら二人の間をあれ以上にどうかする勇気をもたなかったと同時に、三千代のために、なにかしなくてはいられなくなったのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策というよりも、むしろ情の旋風つむじにまき込まれた冒険の働きであった。そこに平生の代助と異なる点があらわれていた。けれども、代助自身はそれに気がついていなかった。一時間ののち彼はまた編集室の入口に立った。そうして、平岡といっしょに新聞社の門を出た。

 裏通りを三、四丁来たところで、平岡が先へ立ってある家にはいった。座敷の軒につりしのぶがかかって、狭い庭が水で一面にぬれていた。平岡はうわを脱いで、すぐあぐらをかいた。代助はさほど暑いとも思わなかった。うちわは手にしただけですんだ。

 会話は新聞社内の有様から始まった。平岡は忙しいようでかえって楽な商売でいいと言った。その語気には別に負け惜しみの様子も見えなかった。代助は、それは無責任だからだろうとからかった。平岡はまじめになって、弁解をした。そうして、こんにちの新聞事業ほど競争のはげしくて、機敏な頭を要するものはないというわけを説明した。

 「なるほどただ筆が達者なだけじゃしようがあるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかった。すると、平岡はこう言った。

 「僕は経済方面の係りだが、単にそれだけでもなかなかおもしろい事実があがっている。ちと、君のうちの会社の内幕でも書いてごらんにいれようか」

 代助は自分の平生の観察から、こんなことを言われて、驚くほどぼんやりしてはいなかった。

 「書くのもおもしろいだろう。そのかわり公平に願いたいな」と言った。

 「むろん噓は書かないつもりだ」

 「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体にひつちゆうしてもらいたいという意味だ」

 平岡はこの時邪気のある笑い方をした。そうして、

 「日糖事件だけじゃ物足りないからね」と奥歯に物のはさまったように言った。代助は黙って酒を飲んだ。話はこの調子でだんだんはずみを失うようにみえた。すると平岡は、実業界の内状に関連するとでも思ったものか、なにかの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起こった逸話を代助にふいちようした。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納めるはずになっていた。それを毎日何頭かずつ、納めておいては、夜になると、そっと行ってぬすみ出して来た。そうして、知らぬ顔をして、翌日あくるひ同じ牛をまた納めた。役人は毎日毎日同じ牛を何べんも買っていた。がしまいに気がついて、一ぺん受け取った牛には焼印を押した。ところがそれを知らずに、またぬすみ出した。のみならず、それを平気に翌日連れて行ったので、とうとう露見してしまったのだそうである。

 代助はこの話を聞いた時、その実社会に触れている点において、現代的こつけいの標本だと思った。平岡はそれから、こうとくしゆうすいという社会主義の人を、政府がどんなに恐れているかということを話した。幸徳秋水のいえの前と後ろに巡査が二、三人ずつ昼夜張り番をしている。一時はテントを張って、その中からねらっていた。秋水が外出すると、巡査があとをつける。万一見失いでもしようものなら非常な事件になる。今本郷に現われた、今神田へ来たと、それからそれへと電話がかかって東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人のために月々百円使っている。同じ仲間のあめが、大道であめざいをこしらえていると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、じゃまになってしかたがない。

 これも代助の耳には、まじめな響きを与えなかった。

 「やっぱり現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡はさっきの批評を繰り返しながら、代助をいどんだ。代助はそうさと笑ったが、この方面にはあまり興味がないのみならず、今日はいつものように普通の世間話をする気でないので、社会主義のことはそれなりにしておいた。さっき平岡の呼ぼうという芸者をむりにやめさしたのもこれがためであった。

 「実は君に話したいことがあるんだが」と代助はついに言いだした。すると、平岡は急に様子を変えて、落ちつかない目を代助の上に注いだが、卒然として、

 「そりゃ、僕もとうから、どうかするつもりなんだけれども、今のところじゃしかたがない。もう少し待ってくれたまえ。そのかわり君のにいさんやおとつさんのことも、こうして書かずにいるんだから」と代助にはひような返事をした。代助は鹿鹿しいというより、むしろ一種のぞうを感じた。

 「君もだいぶ変わったね」とひややかに言った。

 「君の変わったごとく変わっちまった。こうすれちゃしかたがない。だから、もう少し待ってくれたまえ」と答えて、平岡はわざとらしい笑い方をした。

 代助は平岡の言語のいかんにかかわらず、自分の言うことだけは言おうときめた。なまじい、借金の催促に来たんじゃないなどと弁明すると、また平岡がその裏を行くのがしやくだから、向こうのかんちがいは、疳違いでかまわないとしておいて、こっちはこっちの歩を進める態度に出た。けれども第一に困ったのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴えによって知ったと切り出しては、三千代に迷惑がかかるかもしれない。といって、問題がそこに触れなければ、忠告も助言もまったく無益である。代助はしかたなしにかいした。

 「君は近来こういう所へだいぶひんぱんに出はいりをするとみえて、家のものとは、みんなおなじみだね」

 「君のように金回りがよくないから、そう豪遊もできないが、つきあいだからしかたがないよ」と言って、平岡は器用な手つきをして猪口ちよくを口へつけた。

 「よけいなことだが、それでうちのほうの経済は、収支つぐなうのかい」と代助は思い切って猛進した。

 「うん。まあ、いいかげんにやってるさ」

 こう言った平岡は、急に調子を落として、きわめて気のない返事をした。代助はそれぎり食い込めなくなった。やむをえず、

 「ふだんは今ごろもう家へ帰っているんだろう。このあいだ僕がたずねた時はだいぶ遅かったようだが」と聞いた。すると、平岡はやはり問題を回避するような語気で、

 「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこういう不規則な性質だから、しかたがないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、あいまいに言った。

 「三千代さんはさむしいだろう」

 「なに大丈夫だ。あいつもだいぶ変わったからね」と言って、平岡は代助を見た。代助はそのひとみの内にあやしい恐れを感じた。ことによると、この夫婦の関係は元にもどせないと思った。もしこの夫婦が自然のおのききりにかれるとすると、自分の運命は取り帰しのつかない未来を目の前に控えている。夫婦が離れれば離れるほど、自分と三千代はそれだけ接近しなければならないからである。代助は即座の衝動のごとくに言った。──

 「そんなことが、あろうはずがない。いくら、変わったって、そりゃただ年を取っただけの変化だ。なるべく帰って三千代さんに安慰を与えてやれ」

 「君はそう思うか」と言いさま平岡がぐいと飲んだ。代助は、ただ、

 「思うかって、誰だってそう思わざるをえんじゃないか」と半ば口から出まかせに答えた。

 「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。だいぶ変わったよ。ああ、だいぶ変わったよ」と平岡はまたぐいと飲んだ。代助は覚えず胸のどうを感じた。

 「おんなじだ、僕の見るところではまったくおんなじだ。少しも変わっていやしない」

 「だって、僕は家へ帰ってもおもしろくないからしかたがないじゃないか」

 「そんなはずはない」

 平岡は目をまるくしてまた代助を見た。代助は少し呼吸がせまった。けれども、罪あるものが雷火に打たれたような気はまったくなかった。彼は平生にも似ず論理に合わないことをただ衝動的に言った。しかしそれは目の前にいる平岡のためだとかたく信じて疑わなかった。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それをたよりに、自分を三千代からながく振り放そうとする最後の試みを、半ば無意識的にやっただけであった。自分と三千代の関係を、平岡から隠すための、さくとは毫も考えていなかった。代助は平岡に対して、さほど不信な言動をあえてするには、あまりに高尚であると、優に自己を評価していた。しばらくしてから、代助はまた平生の調子に帰った。

 「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金もいる。したがって家の経済もうまくいかなくなる。だんだん家庭がおもしろくなくなるだけじゃないか」

 平岡は、白シャツの袖を腕の中途までまくり上げて、

 「家庭か。家庭もあまりくださったものじゃない。家庭を重く見るのは、君のようなどくしんものに限るようだね」と言った。

 この言葉を聞いたとき、代助は平岡がにくくなった。あからさまに自分の腹の中を言うと、そんなに家庭が嫌いなら、嫌いでよし、そのかわり細君をとっちまうぞとはっきり知らせたかった。けれども二人の問答は、そこまでいくには、まだなかなか間があった。代助はもう一ぺんほかの方面から平岡の内部に触れてみた。

 「君が東京へ来たてに、僕は君から説教されたね。なにかやれって」

 「うん。そうして君の消極な哲学を聞かされて驚いた」

 代助は実際平岡が驚いたろうと思った。その時の平岡は、熱病にかかった人間のごとくアクシヨンにかわいていた。彼はアクシヨンの結果として、富をこいねがっていたか、もしくは名誉、もしくは権勢をこいねがっていたか。それでなければ、活動としてのアクシヨンそのものを求めていたか。それは代助にもわからなかった。

 「僕のように精神的に敗残した人間は、やむをえず、ああいう消極な意見も出すが。──元来意見があって、人がそれにのつとるのじゃない。人があって、その人に適したような意見が出てくるのだから、僕の説は僕に通用するだけだ。けっして君の身の上を、あの説で、どうしようのこうしようのというわけじゃない。僕はあの時の君の意気に敬服している。君はあの時自分で言ったごとく、まったく活動の人だ。ぜひとも活動してもらいたい」

 「むろん大いにやるつもりだ」

 平岡の答えはただこの一句ぎりであった。代助は腹の中で首を傾けた。

 「新聞でやるつもりかね」

 平岡はちょっとちゆうちよした。が、やがて、はっきり言い放った。──

 「新聞にいるうちは、新聞でやるつもりだ」

 「大いに要領を得ている。僕だって君の一生涯のことを聞いているんじゃないから、返事はそれでたくさんだ。しかし新聞で君におもしろい活動ができるかね」

 「できるつもりだ」と平岡は簡明な挨拶をした。

 話はここまで来ても、ただ抽象的に進んだだけであった。代助は言葉のうえでこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届けることはちっともできなかった。代助はなんとなく責任のある政府委員か弁護士を相手にしているような気がした。代助はこの時思い切った政略的なお世辞を言った。それには軍神ひろ中佐の例が出てきた。広瀬中佐は日露戦争のときに、へいそくたいに加わってたおれたため、当時の人から偶像アイドルされて、とうとう軍神とまであがめられた。けれども、四、五年後の今日に至ってみると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものもほとんどなくなってしまった。ヒーローのはやりすたりはこれほど急激なものである。というのは、多くの場合において、ヒーローとはその時代にきわめてたいせつな人ということで、名前だけは偉そうだけれでも、本来ははなはだ実際的なものである。だからその大切な時機を通り越すと、世間はその資格をだんだん奪いにかかる。ロシアと戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だろうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐もまったくの凡人にすぎない。世間は隣人に対して現金であるごとく、英雄に対しても現金である。だから、こういう偶像アイドルにもまた常に新陳代謝や生存競争が行なわれている。そういうわけで、代助は英雄なぞにかつがれたいりようけんはさらにない。が、もしここに野心がありのある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になったほうが長持ちがする。新聞はその方面の代表的事業である。

 代助はここまで述べてみたが、元来がお世辞のうえに、言うことがあまり書生らしいので、自分の内心には多少こつけいに取れるくらい、気がのらなかった。平岡はその返事に、

 「いやありがとう」と言っただけであった。べつだん腹を立てた様子も見えなかったが、ちっとも感激していないのは、この返事でも明らかであった。

 代助は少々平岡を低く見すぎたのに恥じ入った。実はこの側から、彼の心を動かして、うまく油ののったところを、中途から転がして、元の家庭へすべりこませるのが、代助の計画であった。代助はこのえんで、またもっとも困難の方法のしゆつたつてんから、ほど遠からぬところで、てつしてしまった。

 その夜代助は平岡とついにぐずぐずでわかれた。会見の結果からいうと、なんのために平岡を新聞社にたずねたのだか、自分にもわからなかった。平岡のほうから見れば、なおさらそうであった。代助は畢竟なにしに新聞社まで出かけて来たのか、帰るまでついに問いつめずにすんでしまった。

 代助は翌日になってひとり書斎で、昨夕ゆうべのありさまを何べんとなく頭の中で繰り返した。二時間もいっしょに話しているうちに、自分が平岡に対して、比較的まじめであったのは、三千代を弁護した時だけであった。けれどもそのまじめは、単に動機のまじめで、口にした言葉はやはりいいかげんな出まかせにすぎなかった。厳酷に言えば、うそばかりと言ってもよかった。自分でまじめだと信じていた動機でさえ、畢竟は自分の未来を救う手段である。平岡から見れば、もとよりしんなものとはいえなかった。まして、その他の談話に至ると、はじめから、平岡を現在の立場から、自分の望むところへ落とし込もうと、たくらんでかかった、打算的なものであった。したがって平岡をどうすることもできなかった。

 もし思い切って、三千代を引き合いに出して、自分の考えどおりを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強いことが言えた。もっと平岡をゆすぶることができた。もっと彼のはいにはいることができた。にちがいない。そのかわりやりそこなえば、三千代に迷惑がかかってくる。平岡とけんになる。かもしれない。

 代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していたことをなく思った。もしこういう態度で平岡に当たりながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡にゆだねておけないほどの不安があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顔に犯していたといわなければならない。

 代助は昔の人が、頭脳のめいりような所から、実は利己本位の立場におりながら、みずからは固く人のためと信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果ついに相手を、自分の思うとおりに動かしえたのをうらやましく思った。自分の頭が、そのくらいのぼんやりさかげんであったら、昨夕ゆうべの会談にも、もう少し感激して、都合のいい効果を収めることができたかもしれない。彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと言われていた。彼のかいぼうによると、事実はこうであった。──人間は熱誠をもって当たってしかるべきほどに、高尚な、しんな、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠をてらって、おのれを高くする山師にすぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とはいえまいが、よりよく人間を解剖した結果にはほかならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味してみて、そのあまりに、ずるくって、ふまじめで、たいていは虚偽を含んでいるのを知っているから、ついに熱誠な勢力をもってそれを遂行する気になれなかったのである。と、彼は断然信じていた。

 ここで彼はいつのジレンマに達した。彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずるとおり発展させるか、または全然その反対にいでて、なにも知らぬ昔に返るか、どっちかにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた。その他のあらゆる中途はんの方法は、いつわりに始まって、偽に終わるよりほかに道はない。ことごとく社会的に安全であって、ことごとく自己に対して無能無力である。と考えた。

 彼は三千代と自分の関係を、天意によって、──彼はそれを天意としか考えられなかった。──発酵させることの社会的危険を承知していた。天意にはかなうが、人のおきてにそむく恋は、その恋の主の死によって、はじめて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えずりつぜんとした。

 彼はまた反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従うかわりに、自己の意志にじゆんずる人にならなければすまなかった。彼はその手段として、父やあによめから勧められていた結婚に思い至った。そうして、この結婚をうけがうことが、すべての関係を新たにするものと考えた。

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